レモラ、ブラムSS

『眠り姫に蟹を買う』


ぶる、と身震いして目が覚める。
空調のよく効いた夏の朝、カーテン越しの強い日差しはそれだけで十二分に、今がもう本来目覚めるべき時刻であることを物語っていた。

今日の調査業務は夕方からである。身体に残ったままの心地よいけだるさを無理に振り払う必要はなかった。このまま惰眠をむさぼろうと寝返りを打ちながら、気づく。布団が無い。冷房の冷たい空気は、半裸の痩せぎすな中年男にはあまりにも毒だった。
薄く目を開け、見回せば案の定、布団のすべてを巻き取ったイカが眠っていた。肌布団にタオルケットまで巻き込み、イカ形態のゲソがはみ出ている様子は、新人の作った不細工なトルティーヤのようである。あとついでに言うと、この巻き物は男の足元に、寝台に対して真横を向いて転がっていた。

「……ちょっと、レモラ、布団を」
やや不満げにこぼしながら、ブラムはまだ剥がしやすそうだった方のタオルケットをぐいぐいと引っ張る。塊の中からは、むー……というくぐもった鳴き声が漏れてくる。

レモラのこの寝相の悪さを、ブラムが知ったのはごく最近である。昔、肉体関係にあったときは周囲の目もあって朝まで共に過ごすことは無かった。また先日までの、同棲と言う名の監視期間中は、レモラも気を張っていたのかもしれない、自分がパソコンに向かう背後で身じろぎもしていなかったのだ。

それが、恋人として共寝するようになった今ではこの有様である。彼女が心を許してくれた証拠だろうかと、ブラムは嬉しく思いながらも、やはりこの度を超えた縦横無尽さには頭を抱えるばかりであった。

と、眼下にはみ出していたゲソがちゅるん!と勢いよく引っ込んだと思ったが早いか、
「ンっ!」
と声がひとつした。
その瞬間、彼女は布団ごとイカロールで跳ね、きりもみ回転したのち、雪だるまの一段目のような塊となって着地した。突然のことに驚いて固まっているブラムを尻目に、やがてさっきよりやや大きな寝息が団子の中心部から聞こえるようになった。

(……これで4連敗か)

完全に戦意喪失したブラムはため息一つ分だけ途方に暮れてから、身支度のために寝室を後にした。

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階下のキッチンへ降り、ケトルを火にかけながら、古い果物がまだあったろうかとブラムはカゴのふたを開ける。
「ん」
カゴは空だった。レモラがいつの間にか食べたのだろう。腐らせていなかったことに安堵して、隣のパンストッカーを開ける。
「……ん?」
ブラムの表情が少し曇る。こちらも空だったのだ。まさか、と嫌な予感がする。
シンク上の戸棚からシリアルの缶を取り出すが、中からは何の音もしない。眉間にしわを寄せ、そのまま戻し、無駄だと分かっていながら念のためにと冷蔵庫を開ける。が、そこは案の定、もぬけの殻であった。

ブラムは大きくため息をつく。ひとより燃費の悪い彼にとって空腹が続くのはかなりつらい、食事の調達に行かなければならないのは明白だった、が。
部屋の端の姿見……これはレモラが置いたものなのだが……それを横目でちらと見る。外出自体がわずらわしいわけではない。頭のタコアシ、それが彼にとっては問題だった。
彼が外出を渋っている理由は、赤紫色の領土を下から征服してしまっている、眠り姫の明るい青紫色だった。

彼らの種族は、肌を重ねると互いのインクが相手へ移ってしまう性質がある。すなわち、昨夜お楽しみだったかが一目でわかってしまうのである。ただしほとんどのインクリングたちは、彼らの享楽的で自己中心的な性質から、他人がどう思おうとどうでもいいといった具合であった。
しかし、ブラムはひとより繊細な男である。そういう面があるからこそ、探偵業で実績を積み上げていると言ってもいいのだが、日常生活ではわずらわしい部分でもある。彼は何か気になりだすと意識を離すことが難しいのだ。

以前、レモラのインク移りが残るまま外出したところを噂好きの近隣住民に目撃されたこと。あれが良くなかった。

すなわち、探偵業などというドラマ仕立てな生業の、愛想の悪いやもめの中年男性が、突然若い美人の女性を住居に住まわせたかと思えば、その女性のインクが染みたタコアシをぶら下げて歩いていた、これを目撃されたのである。話のタネにならないわけがなかった。

ただし、噂好きとは肝が据わっていないからこそ噂好きなのである、本人に真相を直撃などという暴挙に出ることはなかった。
とはいえ、はた目から見て限りなく間違いない状況、あの探偵が若い女性と恋人関係であるらしいという噂は瞬く間に近隣住民のあずかり知るところとなり、彼らはブラムへ無遠慮な好奇の目や、無駄に温かい目を向けるようになったわけである。ブラムがこれを気にしないわけがなく、この現状に全身を搔きむしりたくなるような感情を持っていた。

話を戻そう、つまり彼はレモラのインクが染みた今の状態で人前に出たくないのである。量が多少であれば、抜く手段はある。ゲソに不純物が染み込んだ時に使う医薬品を使えば、完全には無理だが気にならない程度に戻すことはできる。
ただ、今朝のこれはその薬剤で賄えるレベルではなかった。そもそも半日外出しないはずだったからこそ、明け方近くまで心置きなく、こうなったのである。ブラムは顔一面に苦悶を浮かべながら上着を着つつ、キッチン脇の勝手口を開錠する。

その時ふと、壁際に積まれた不燃ごみの袋に目が留まった。
レモラが気まぐれに参加した日雇いバイトでもらってきて、誰も使わないままでいた、金属製の潜水士メットが、そこにはあった。

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太陽が上がり始めたお昼時、この地区では昼食用のスナックを売る屋台やキッチンカーが点々と並ぶ。そのうちのひとつ、背の高い藁帽子にソンブレロを着たクラゲの屋台へ、男がひとり歩み寄る。

彼はタコツボメットを被っていた。

「やあ店主」
「オ?オゥ、タンテイノニイチャンカ! ドウシタソノツラ、ケンカカ? ボコボコニヤラレタカ?」
「いや、なかよしですよ」

クラゲ店主の頭上には大量の「???」が浮かぶが、ブラムはいつもの調子でメニュー表を指さす。

「カニのスープ1つと、フカヒレまん3つと、五目焼きそば2つ、あと点心を4つずつと、……あ、桃まんも4つください」
「ホーイ! チマキハ?」
「ちまきはいりません」
ブラムは即答する。しかし店主は注文されたものを次々とパックに詰めながら、不満げに食い下がる。

「エエー、イツモカッテクジャン?」
「あなたが押しつけてんですよ、いつも」
「ウマイノニ?」
「美味しいですけど」

「イラネーノ?」
「いりませんから」
「ホントニ?」
「はい」
「コウカイシマセンネ?」
「はい」

「カニ、メッチャィツマッテルトコ、イレテヤンゾ?」

と、門前払いのその口を止め、ブラムの目がメットの奥で泳ぐ。やや長い逡巡ののち、彼は結局チマキ分を上乗せした金額を支払い、店主から受け取った惣菜を手提げに詰めて帰っていった。

その背を、ホントカニスキダヨナーと思いながら、店主は見送った。


ちなみにタコツボメットの色がゲソインクに合わせて変色する仕様であることにブラムが気づくのは、この後帰宅してからである。

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頭に伝わるくすぐったさに、レモラは喉の奥から小さく声を漏らす。
身体の芯が静かにくすぶりだすのを、手近にある布団にしがみつきながら誤魔化していたが、やがてその布団は自分勝手に動き出して、空いた隙間から涼しい空気が流れ込んでくる。

「レモラ」
声の方へ反射的に顔を向けるが、まぶたが重くて開かない。眩しさと冷気から逃れようとよじった肩に温かい感触が触れてくる。やがてその手は顎の下をゆるゆると撫で上げてきて、くすぐったいだけではないその熱にまた声が漏れ出ていく。

「ぁ、ん、だめ……もうむり……」

「カニ買ってきましたよ」

ぴく、とレモラの動きが止まる。
「いつもの中華屋の、殻のままのやつ」
喉元に這わせていた手をするりと退かせ、ブラムは呼びかけた。
ゆっくりと寝返りを打ってこちらを向いたレモラは、羞恥か不満か判断に困る表情をしていた。

「はいおはよう」
「……」
思いがけず覗いた彼女のかわいらしい部分に、ブラムは満足げに微笑みながらその頭を軽く撫でていた。レモラはそれを振り払うように勢いよく身体を起こし、少しだけバツが悪そうに下着を着なおし始める。
「……ごはんならそう言ってくださいよ」
「ん、何だと思ったんです?」
からかうように笑いながら立ち上がる横顔めがけて枕が飛ぶ。

「うっさい、エロタコ」

ブラムは顔で枕を受け止めて、やはり柔らかく笑いながら、それを優しくベッドの上へ投げ返す。
「冷めないうちに降りてきてくださいよ」
聞き分けのない子供を諌めるように告げてから、次弾が飛ぶ寸前で彼はドアの向こうへ滑りこんで行った。

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階下のキッチンへ降りたレモラは、その光景に一瞬面食らう。
ほんの数分前に先に降りて行ったブラムはちょうど焼きそばを食べ終わるところだったが、すでに空になった同じ容器が脇に転がっている。そしてまだ手つかずではあるが、おそらくもう四半刻もあれは彼の胃袋に収まってしまうのだろう、色とりどりの焼売と蒸し餃子、春巻き、大根餅、揚げ海老、そして大きめの中華まんの山という大軍勢がテーブルを占拠していた。
レモラに買ってきたというカニのスープの容器だけ、仲間はずれのように少し離れて置いてあるが、起きたばかりの彼女には眼下のこの光景だけで胸焼けを覚えそうだった。

「うーーわ……なんか、いつもより多くないですか……?」
「えっ、それは……もうお昼ですし」
不意に話しかけられたせいか、意外な指摘だったせいか、ブラムは少し驚いた様子で返事をしながら、今しがた平らげた焼きそばのパックと点心の群れを乗せた大皿を交換していた。レモラはそれにただ、はあ、と返すのが精一杯で、これ以上追求する気力もなく向かいの椅子に座った。

ふと、いつもの手提げに何かまだ入っていることに気づく。何となく気になったレモラが中を見ると、見慣れた蓮の葉ぐるみのチマキが3つ入っていた。

「あ、また買ってる。ほんとにここのチマキ好きですよね」

ぴた、と春巻きを口に運んでいた手が止まる。箸を置き、水を飲んでから、ブラムは一つ息をする。
「だから、別に好きじゃないですって。あそこの店主しつこいんですよ、押し売りが」
「んふふ、まーたお店のひとのせいにしてる。そんなに苦手なら行かなきゃいいのに」
軽口を言いながら笑うレモラに、む、とブラムは表情を険しくする。

「きみ、僕はそのカニのためにわざわざ……」
文句を言おうとブラムが顔を上げると、そこには殻つきのカニを手掴みで、焼き菓子のようにバリバリと咀嚼する、レモラの笑顔があった。
「んーーー、最高」
「……」
「ん、ん。……あっ、それ海老、頭ください、後で」

ブラムは小さく息をついて、薄く口角を上げながら大皿の海老の方をレモラへとぐるりと回す。

「チマキも食べます?」
「いらなーい」
「……」

ブラムは少しだけ、チマキ入りの手提げに恨めしそうな目線を向けてから、もう何の文句も言えなくなった口でフカヒレまんを頬張っていた。



『眠り姫に蟹を買う』おわり
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