青赤コントロール

 長々とした身の上話を終えて、後ろのソファからはなんの気配も感じられなくなった。
 出会ってから今朝までの女との会話から、「自分が蒸発したのはよその女と心中したから」という共通認識が当時、店で働く全員にあったと考えられるのは確かだった。彼女の会話の内容もそれに裏付けされていた。
 それがなぜ今になってわざわざ、当事者としての僕の言い分を聞こうという気になったのか。とりあえずはすべて事実通りのことを話した、……襲ってきた女性の身の上について以外、ではあるが。喋っていて、あまりにも自己弁護としては都合のいい話だと、はたから聞いても思う。これを彼女がどう受け取るかはわからない。店では調子のいい嘘ばかりで何人も、“ビビ”ですらも騙してきた身だ、信じてほしいと言う権利などない。

 ただこれまで数日間、彼女と寝食を共にして思うことはある。彼女は“誰”なのか、もっと希望的なことを言ってしまえば、……実は彼女こそ、そうなのではないか。
 それこそあまりにも、自分に都合のいい願望だった。当初から感じていた、彼女が気を緩めている時の仕草や口調、選ぶ言葉などが、あまりにも自分の覚えている“ビビ”と引っかかる。自分と一緒にいた時の“ビビ”は、精一杯に大人を演じて僕の望むように振る舞おうとしていた。それも愛らしかったのだが、自分が惹かれていたのは、自分のいないところでごく普通の少女らしく、仲のいい嬢仲間と一喜一憂したり、失敗や理不尽に晒されて隠れて泣いたりという、そういう健気な一面でもあった。だからこそ、別れを告げた時の彼女は痛々しかった。表情はもう思い出せないものの、理解のある女性として一方的な別れに涙もこぼさず、待っていると頷いた彼女。そのこぼれ落ちそうな瞳が直視できずに夢中で掻き抱いたあの日を、今でも鮮明に覚えている。

 ……もし、もし後ろで眠る女性が“そう”で、自分は別人だと嘘を月続ける理由が、自分への憎しみであるならば。そうでなくとも、どちらにしろ、自分とこれ以上関わることを彼女が拒絶しているのであれば。自分のこの身勝手な願望は、願望のままで終わらせるべきなのだろう。もしくは彼女の怒りによってなら、この虚ろな生を終わらせてしまってもいいと、そんな無責任な考えも何度か頭をよぎっていた。

 それにしても、そうだとするならなぜ今、彼女は“ブラム”の失踪について知ろうとしたのか?

 しかし、些細なことに期待を膨らませたところで、このクラゲ事件に一定の決着がもうすぐつく以上、彼女に自分がこれ以上関わる権利も、必要もないのだ。
 ゆっくり椅子を回して振り向いても、彼女はもう眠っているのか、微動だにしない布の塊があるのみだった。

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 背後の物音で目が覚める。昨夜はパソコンに向かいながら、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。画面端の時計はもう朝とは言えない時刻を示していて、閉めたカーテンからは真っ白い光が差し込んでいる。後ろを振り向くと、ブランケットを被ったままの女がゆっくり起き上がっているところだった。むくみがひどいのか、少し腫れぼったい顔をしている。これまでで一番調子の悪そうな顔をしていた。
「……あまり眠れませんでしたか」
 気遣いか皮肉か微妙に判断に困る言葉に、女は返事をすることなく、うつむいて頭を掻きむしっていた。彼女を気遣うべきか考えあぐねて、朝食を買ってきますが何か食べたいものは?と外に出る準備をしながら探偵は聞いてみた。
 食事に関して彼女からはこれまで、なんでもいい、としか言われたことはなかった。しかし今朝は違っていた。
「……かに」
「え?」
「カニが食べたい。殻付きの」

 およそ朝食とは思えない豪勢なそれを持って、探偵は部屋に飛び込んできた。少し離れたところにあった屋台に大きく切ったカニの入ったスープがあるのをなんとか見つけ出したが、一緒にチマキも買えと言って譲らない店主のクラゲとしばらく口論になり、結局負け、パソコンの部屋がある事務所の2階へ急いでかけ戻ってきた頃には20分程度は経っていた。
 こんなに時間がかかるとは思わなかった。いつ自死するかわからない女をひとりにさせすぎたことに焦る探偵は、部屋のソファの上で女が突っ伏しているのを見つけて、くそ、と歯噛みしながら彼女の耳元に声をかける。
「レモラさん!?」
 突然の大声にびくっと女は身体を揺らし、出発する前よりももっとひどい表情で探偵を睨みつけた。
「……うっさい」
「あ、ああ……すみません、てっきり」
 ふすー、と不機嫌そうに鼻から大きく息を吐く彼女の様子に、申し訳なく思いながらも安堵し、乱暴に机に置いたカニ入りのスープが盛大にこぼれていることに気がついた。
「カニ、買ってきましたから食べててください。ちょっと下から拭くものを持ってきます」
 まだぼんやりとした表情の彼女を置いて、探偵は階下へ急ぐ。彼女の自死を防ぐのが第一目的であるのに、それをおろそかにしてしまったことに自責の念を感じたが、同時に、彼女が死を選ばずにいたことがなんとはなしに嬉しく感じられた。

 彼女が、生き延びてくれればいい。ふと、そういった感情が芽生えていることに気づく。不思議だった。なぜ、彼女の中に“ビビ”との共通点を、必死になって探そうとしている自分がいるのか。よりにもよって自分を殺そうとした人物を、元上司の指示とはいえ、なぜ自宅に招き入れてもいいと思ったのか。
 “ビビ”を失って、これまで数々の女性をたぶらかしてきたのが嘘のように、そういった色恋には食指が動かなくなっていた。……あの日、自分の左目に凶器を突き立てた女性のこともある、自分の欲望のままに若い女性たちの人生を食い荒らしていった自分に、人からの愛を享受する資格などもうないと、無自覚にそう思っていたのかもしれない。
 それなのに彼女、“レモラ”に関しては、彼女が“ビビ”ならばいいのにと、そう願ってやまない自分がいる。現に彼女はこの数日、クラゲのにくに対して執着心を一度も見せていない。あんなものがなくとも、他にその胸の穴を埋める何かが……仕事でも、怒りでもいい、そう言ったものが、彼女に生まれてくれればいい。……それでいて、もし叶うのであれば、その一部として自分が入り込む余地があってくれればと。そう自分が望んでいることを、男は自覚し始めていた。

 自分でも少し気恥ずかしくなるような、そんな高揚感とともに台拭きと手拭きを持って部屋に戻った探偵は、自分の目を疑った。女は片手にスープの器を持ち、もう片方の手で持っているカニを、……おおよそ食用ではない種類の堅い殻を、バリバリと豪快な音を立てながら食べていたのである。みる間に咀嚼され、飲み下されていくそれを、探偵は一瞬見間違いかと思ったが、当然のようにもう一つ口に運ぼうとする彼女を見て、我に帰る。
「レモラさん……?」
 あ、と大口を開けた状態でこちらを見た女は、最初は寝ぼけまなこでこちらを見上げるだけだったが、探偵の表情を見てその目はみるみるうちに見開かれ、その表情には一気に焦りの色が浮かんでいた。
「あ、いや、……これはですね、その」
 しどろもどろの彼女の様子に、探偵は固まっていた。

 彼はこの光景に見覚えがあった。

 女はなんとか取り繕おうと、これまでの生活で見せたことのない笑顔を浮かべながら弁明する。
「や、いやー、寝ぼけちゃってたみたい。あは、は、あるでしょう? あの、」

「「食べられる殻のと間違えちゃって」」

 ほぼ同時に、両者が同じ言葉を発していた。女の顔は薄ら笑いを浮かべたままで完全に硬直した。
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