青赤コントロール

 自分がもう、どうなっても構わないとは長年思っていたが、こんなことになるなんて聞いてない。何が悪くてこうなってしまったのか。自分は今、自身の最大の汚点であるクラゲ食への依存が、ある団体に露呈してしまい、監視下に置くという名目で男と同居させられている。この男が本当に厄介で、一度彼が夜にうたた寝を始めたのを見計らって自死しようとした時も、気づけば音もなく背後にいてそれを阻止されてしまった。一体いつ休息しているのかと思ったが、午後に団体の施設で私が尋問を受けている間に眠っているらしい。安心しな、とニタニタ笑いながらあの女に教えられた時は、その背丈をもう一段縮めてやろうかと思った。
 ともあれ、ここ数日間の自分の一日は、探偵の昔話に付き合いながらクラゲ事件の情報をまとめて、クラゲ事件の関係組織についての尋問を数時間受けて、夜パソコンに向かう探偵のかたわらで睡眠をとって、ということの繰り返しだった。
 もっと過酷なスケジュールならこれまであったはずだった。それでもこの数日が私の心を酷くさいなみ続けるのは、この、一日中私を監視し続ける男こそが、まだ幼かった私の純情を踏みにじった相手だと確信が持ててしまったからだった。

 別の嬢として彼の記憶の答え合わせに付き合うたび、惚気のような、彼がいかに“ビビ”を大切に思っていたのかを聞かされ続ける。恋人同士だと信じていたあの頃でさえ、いつものらりくらりと、私にその感情の奥底を曝け出すことはなかった彼が、今もどれだけ“ビビ”を忘れられないか、忘れてもなお、取り戻したいと思っているか。あの頃は見せたこともない真剣な表情で、時にうっすらと照れの色を滲ませながら、彼は“ビビ”への想いを打ち明ける。それを殴ってやりたいような、大声で泣き喚いてしまいたいような、耳の奥で内臓が軋む音を聞きながら、それでも私には、いたって無関心な様子で相槌を打つことしか許されていなかった。
 これは恋慕ではない、彼にもう一度愛してほしいわけではない。そう頭で思いながら、大昔に出かけた先で無くしてしまったぬいぐるみを想うような、どうしようもない虚しさが、私にまとわりついていた。

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 この日はこれまでよりも特に長い尋問が終わって、簡単に食事や身支度を済ませた後、もはや定位置となったパソコン脇のソファに秒で滑り込んでいった。これまでの情報整理により組織の全容が大まかに明るみにでたことで、近々団体としても大きく動く予定であると、帰り際にアレイナは言っていた。ここまで真面目に答えてくれるとはな、といつも通り嫌な笑みを浮かべながら、探偵には聞こえないタイミングで、「まだ生きる気があるなら、うちは歓迎するぞ」と彼女は耳打ちした。誰がこんな女に、と真っ先に嫌悪感を覚えたが、今思えば、あれは一種の悔しさのようであったとも思う。クラゲ食を暴露されれば死ぬしかないと思っていた自分が、この地獄のような世界と比べてどれだけ浅はかで矮小だったのかを、尊大な彼女の態度は自分に示しているようだった。
 そう、もうすぐここから解放される。幼い自分がずっと捨てられなかった、気づかないうちに深く心に巣食っていた初恋という呪いから、ようやく解放される。寂しくないといえば嘘になる。それでも、彼の求める“ビビ”という幻想が、この目の前の醜い殺人鬼と結びつかないままでいてほしいと、女は誰よりも願うようになっていた。

 ソファの上のブランケットで丸まる目線の先、コーヒーのいい香りと共に入ってきた彼は、こちらを一瞥もしないまま椅子に腰掛け、パソコンを叩き始める。ここに来た当初、気が緩む隙を見つけようと鋭く睨みつけていたその背中の、パチパチと軽快な音を響かせて揺れるのを、今となってはぼんやりと見つめているだけだった。

「……イエローさん」
 はい?、と短く返事を返す声に、一瞬息が詰まってから、女は一息に吐き出した。
「あなたがまだ“ブラム”だった最後の時に、何があったか教えてくれません?」

 キーボードを叩く音が止まって、探偵は大きく息をつきながら、ぎい、と背もたれに寄りかかった。……自分はどうしてこんなことを?、と女自身も少し戸惑いながら、手元のブランケットを少し引き寄せて顔を埋めた。

「……ビビとは、2年くらい関係を持っていました」
 コーヒーのカップを手に取りながら、こちらに目を向けずに、探偵は語り出す。
 ウォーターシェイドの、特に店長の横暴には彼もとっくに嫌気がさしており、店の元締めと敵対する団体に内通する、つまり敵側に店そのものと内部情報を売ることで脱却する計画をずっと立てていたこと。その時には、“ビビ”も連れていくつもりだったこと。もちろん、敵側に利用されるだけされて死ぬ危険もあった、だから直前までは、“ビビ”に危害が及ばないように別れを告げたこと。いつか迎えにいくと、本気でそう告げたこと。
「そうして、あちらが動くのも秒読みかと言うときに、手紙で呼び出されたんですよ。あの用水路のほとりへ」
 探偵の語る口は止まることはなく、コーヒーカップの湯気はもうとっくに上らなくなっていた。
 未明に指定の場所へ行くと、1人の女性が待っていた。その女性に名を名乗ると、それで十分だとでも言うように、隠し持った刃物で左目を深々と突き刺されたという。激痛で意識を失った隙に、その女性は男を道連れに用水路に身を投げたようだった。

 ブランケットから覗かせた女の表情は、驚愕で固まっていた。誰もが直接目撃したわけでもない、ただ、“ブラムが若い他店の嬢と身を投げた”という噂。当人の語るその実像は、ずっと信じてきたそれとはあまりにも違って見えた。
「身を投げたらしい、と言うのは、まあ僕が気がついた時には水の中で、すぐ隣にその女性も浮かんでいたから、なんですが」
 もう飲まれない冷め切ったコーヒーを置いて、話を続けながら、彼はキーボードを叩くのを再開する。

 その後、点検用の通路に這い上がることができた彼は、そこを縄張りにしていたドブさらいの集団に発見され、そこの元締めであった団体……アレイナの元で収容、保護され、現在に至るといった具合だった。彼が構成員として信頼を得るまでには、またある程度の年月を要し、“ビビ”について独自に動けるようになった頃には件の強盗事件が起きた後だったのである。
彼女の身を案じて自分から遠ざけた結果、すべてが手遅れとなったのだ。
「荒れましたね、当時は。何度も死のうと思いましたが、その度にアレイナさんや他の仲間にタコ殴りにされましたね。誰も、僕が死のうとするのを許してはくれなかった」
 パチリパチリと、先ほどよりゆっくりなペースでキーを叩きながら、それでもしっかりとした口調で彼は回想する。苦笑しながら、挙げ句の果てにあのひと、団員のほとんどがいる前で僕のこと勘当したんですよ、と続けた彼は、当時のその不名誉な処遇が、元上司からの派手なはなむけであったと理解しているようだった。
「おかげで今は破格に安い報酬で、素性もしれない女性の面倒を見させられたりしているわけです」
 それだけ言って、しばらくすると、彼のキーボードを叩く音はだんだんと元のペースに戻っていった。

 何か声をかけるでもなく、女は頭からブランケットを被って丸まっていた。
 都合がいい。やっぱりすべてが彼に都合のいい話だった。彼を信じたくない、それなのに、どうして涙が止まらないのか。

 聞けば聞くほど、ここにいる私は、もう“ビビ”ではないのだと思い知らされる。ここで布切れを被って転がっているのは、もう振り向かない男の愛を求めて、ぐちゃぐちゃと知的生命のにくを咀嚼し続けてきた、醜い殺人鬼だ。その絶望感が否応なしに突きつけてくるのは、これまでの道化のような自分の愚かさと、そのために奪ってきた他人の人生への取り返しのつかない罪悪感。
 そして何よりも、私がまだ彼を、彼をどうしようもなく愛しているのだという、あまりにも残酷な現実だった。ずっと見ないようにしてきた、記憶の中の彼を憎むことで誤魔化し続けてきたこの恋慕という名の怪物は、彼の独白を聞いてより激しく、この長年のツケを耳を揃えて払えと責め立ててくるのだった。
 それでも、もう少しだから。クラゲ人身売買の黒幕へ、近々侵攻を始めていくという今。その組織さえ潰れてくれれば、この生活も終わる。彼の目の届かないところへ抜け出すことができる。だからもう少し……。もう少し、なんなのか。もう少しで消えてしまえるから、忘れてほしいのか、……もう少し彼のそばにいたいのか。それすらも、わからなくなっていた。
 なんでもいいから、どうか、もうぜんぶ早く終わりにしてほしいと、その思いだけがつのっていた。
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