青赤コントロール

 今回の調査で、クラゲ失踪事件あらためクラゲ人身売買事件を探るにあたり、その内部に近しい関係者の協力を得るに至ったことは本当に喜ばしい。しかもその人物が、自分の探し求めている尋ねびとに関しても有力な情報を持つ存在であったことは、まさに奇跡と言っていいだろう。
「じゃあ案内よろしく、イエローさん」
「……もう、ブラムでいいですよ」
「……よろしく、イエローさん」
 サングラスとベレー帽に大きめのコートも羽織って、いかにも不機嫌そうな態度で隣に立つ女。レモラと名乗ったこの女性と、自分はしばらく寝食を共にすることになった。男女が一つ屋根の下で暮らすといえば関係各所が色めき立ちそうなものだが、彼らのうんざりとした顔には艶めいたものなど寸部も無い。少し陰ってきた西陽が目に痛かった。

 先程までいた施設までの道がわからないよう、目隠しをした彼女を乗せて入念に回りくどいドライブを終えた後、自分たち2人を道端に降ろして団体の車は走り去っていった。どこか遠くで遊ぶ子どもの笑い声を聞きながら、じゃあ行きましょう、と手を差し出してみると、彼女はそっぽを向いたまま自分との距離を保ったまま歩き始めた。

 と、不意に彼女の持つ端末が音を立てる。“業者”からの支給品ではない方のそれは、自分の監視下でなら使わせていいだろうと、会話の転送装置を組み込んで女に返したものだ。彼女がそれを手に、ちらと目配せをしてきたのを見て、探偵は軽く頷いてみせた。
「お疲れ様でーす☆ なんですかー?」
 茶目っ気のある声色で電話に出た女とは対照的に、電話口の相手はおかんむりのようだった。若い男性のようである、この距離からでも聞こえる声量で、これまで一切連絡がなかったことに激怒している様子だった。彼女は慣れた手で通話音を下げてから、のらりくらりとした返答をする。
「やだー、そんなに怒んないでくださいよー。ちょっと今立て込んじゃってて、しばらく行けそうにないんですぅ。ごめんなさーいママ☆ あとはよろしくー」
 一層勢いの増した罵声を尻目に、彼女はそのまま電話を切った。手短に操作をして、ぽい、と端末を投げてよこす。
「職場からでした。着拒にしたので、もういいですよ」
 宙を舞う端末を右手で受け止めてから、探偵は女に向き直る。
「持っていてもいいんですよ?」
「いえ、後はもう、連絡なんか入ってこないはずだから」
 いいの、と彼女は無感情に言い放つ。それはどこか、彼女の強がりのようにも聞こえたが、探偵はそのまま端末をポケットにしまって歩き出した。

 事務所裏の勝手口の鍵を開けて、中に入る。後ろの彼女に殺されかけてから意識が戻るまで丸一日かかったらしいのだが、ここに帰ってくるのはもう何ヶ月かぶりのように思える。ただ、入ってすぐにある狭いキッチンの、出かける前に半分残しておいた果物が目に入ったのをきっかけに、探偵の思考はしっかりと彼の日常に戻ってきた。
「……とりあえずコーヒーでも淹れましょうか。ああ、鍵は閉めておいてください」
 ごくごく自然な流れで言う探偵に、女は眉間に皺を寄せながら後ろ手に勝手口を締める。
「この状況で、よくそんな呑気なことできますね」
「そうは言っても、もういっそ普段通りにするのが一番いいと思いませんか」
「それは……」
 抗議しかけて、その抗議が何にもならないのを悟ってか、彼女は大きくため息をつきながら帽子とサングラスを外し、壁によりかかった。それを横目に、ふ、と薄く笑ってから、探偵は水入りのケトルを火にかけた。

「心配しなくても、僕は同意もなしに女性を襲ったりはしませんよ。きみは暗がりで男を襲うひとなんでしょうが」
「……あなた、自分を殺そうとしたやつなんかと暮らそうなんて、正気じゃないでしょ」
「きみが言いますか」
 かたやクラゲを貪り食ってきた殺人鬼、かたやそれに殺されかけた末、自宅に招き入れる探偵。冗談のような皮肉を叩き合いながら、彼ら自身、今後どうなって行くかなど見当もついていかなった。ただ、探偵の方はとりあえずすべてを脇に置いて、彼の日常に彼女を組み込むことから始めようと考えているようだった。
「あのひと、……アレイナさんは、あんななりですが勘の鋭いひとです。伊達や酔狂でこんなことにはしませんよ」
 この状況の元凶ともいえる、あの背の低い女性のケラケラ笑う顔が浮かんだのか、壁にもたれる女は腕を組みながらより一層眉間に皺を寄せていた。

 シューシューと小さく鳴り出したケトルを聞いて、頭上の棚からコーヒーの袋を取り出して口を開く。先週封を切ったばかりのその香りも、この手詰まりのような空気をどうにかする力は持っていないようだった。
 フィルターをぺり、と開きながら、探偵は横目に壁際の女を見る。鉄格子越しに話をしていた時よりもだいぶ自然体でいるように見える彼女は、だんだんと色の濃くなってきた夕陽の中でどこか遠くを見つめていた。
 彼女はあの店……ウォーターシェイドに在籍したのは自分が店から離れてしまった後のことだと言っていたが、ちょっとした仕草の端々や、それこそあの部屋で気絶する寸前に自分の名を呼んだあの切なげにも聞こえた声は、反芻するたび自分のこめかみのあたりにピリ、と引っかかる。“ビビ”ではないとしても、彼女とはどこかで会ったことが?、などと考えを巡らせながら、若い頃使い古したナンパの典型文しか浮かんでこない自分に落胆していた。

 黙々と作業をして淹れ終わったコーヒーを、小さめのカップに注いでいく。
「砂糖とかは?」
「……何も」
 短く答えた彼女の方へ、シンクの端にカップを置く。少し身を乗り出してカップに手を伸ばす彼女の、長く薄いゲソが一瞬、夕陽の中で静かにきらめいていた。自分の分も注ぎ終わって、黒々としたそれを少しずつすすってみれば、ここ2日間で溜まっていた腹の中の重たいものが、大きなため息になって一気に口から流れ出ていった。
 はあ、とそれに続いて息を漏らした女は、目線の遠いまま探偵にたずねる。
「で? 働けって言われたけど、私は何をしたら?」
「ああ……まあ午後は尋問に行ってもらいますから、朝のうちに情報の整理と……、それから……」
 コーヒーで思い出された疲労感から、探偵の思考は若干緩んでいた。
「……一週間分くらい洗濯物が溜まってるので、それもお願いできませんか」
「サイテー」
 シンクに叩き返されたカップが、カァンと甲高い悲鳴をあげた。
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