青赤コントロール

「顔が、思い出せない?」

 探偵の独白を聞かされた女は、そう呟いた。はた目からはただの問いかけに聞こえるそれは、女自身が、混乱する自分を落ち着かせようと、精一杯に出した声だった。

 探偵は忌々しげに、その左目があったであろう場所にこびりついたケロイド傷に手で触れてみせる。
「そう、なぜか……。実は、なくした記憶はそんなに多いわけではないんです。ほとんど覚えているんですが……、当時関わっていた人物の、そのうち数人だけ、顔や声色が思い出せないんです。
その中に、僕の探している女性も含まれている」
「……そんな」
 そんな都合のいい、と暴れ出そうな彼への罵倒を、すんでのところで喉の奥に閉じ込める。あまりにも都合のいいことを言う、この男は昔からそうだ。あの18歳の誕生日に、いつか迎えにいくと甘い言葉で私を絡め取り、捨てて、挙げ句の果てにもっと若い女と心中した男。私が、どれだけ、どれだけあなたを、あの時。
 とうの昔に忘れたはずの痛みが、女の全身を駆け巡っていく。探す? 私を? 勝手に他の女と死んだのと一緒に、私から全てを奪っていったあなたが? その隙間を埋めたくて、あのぶよぶよと気持ちの悪いにくを咀嚼し続けたこれまでの、元凶とも言えるあなたが?
 記憶喪失なんて言い分も、本当かどうか疑わしい。いかにも惨めったらしく、懺悔するように頭を垂れる目の前の男の姿は、女の神経を逆撫でしていくばかりだった。いいでしょう、そうまで言うなら、私にも考えがある。

「……同情はしませんよ。あの店で、あなたが嬢のほとんどと関係していたこと、あなたが蒸発した後もずっと根に持っていた子は多かったですから」
 鉄格子越しに、女はゆっくりと足を組む。さっきまでの尋問とは打って変わって、ともすれば尊大に、女は見下ろしている。探偵はゆっくりと顔を上げて、執念に燃える右目を向けた。
「……ではやはり、あなたは」
「ええ、あの店にいましたよ、リスティっていう源氏名で」
 この名は、あの強盗騒ぎの直前に入店してきた歳の近い別の嬢のものだ。
「ただ申し訳ないですけど、ビビさんのことは何も知らないんです。あの強盗事件は本当にひどかったから、他のひとたちもどうなったか」
 くるくると指で遊ぶゲソを見ながら、女はこれまでの無気力な様子が嘘だったように、はっきりとした言葉で突き放した。

 あなたがそんなにも昔の私を追い求めるなら、永遠に辿り着けなくしてあげる。女を何人も捨ててきたあなたにお似合いだわ。私はもうあなたなんかと関わりたくない、この尋問が終わったら、どうにか道具を揃えて自死してしまおう。そうすれば……。

「つまりきみは、強盗事件が起きた時に店にいたんですか!?」

 急に飛んできた強い語気に、女は思わず顔を向けた。鉄格子ギリギリまで身を乗り出し、大きく見開かれたその右目は、かつてないほどにギラギラとした熱をこちらに注いでいる。後ろに控えていた依頼人は、おい、と少し慌てて探偵の肩を引き、どかっと椅子に押し込んだ。
 女も、終始穏やかに話していた彼の、血気迫る様子に思わず身を引いていた。ここまで食いつくとは思わなかった、当たり障りのない情報だけ撒いて、それで終わりにしてしまおうと思ったのに。女は内心、この男に復讐できるという高揚感から、とんでもない悪手を打ってしまったのではと、口元が少し引きつるのを感じていた。

 と、男の勢いに女が怯えたように見えたのか、探偵の背から顔を出した依頼人の女性は困ったように笑った。
「や、や、すまんすまん。普段はこんなんじゃあないんだよこいつ。あたしもびっくりだわ」
 ぺちぺちと男の頭を叩きながら、依頼人の女性は努めて明るい口調でいった。
「まあ見ての通り、この件に関してはこれだけ本気ってことよ。許してやってくんね?
今までさあ、まじでお姫様の手がかりゼロだったんだわ。“殺人鬼の手も借りたい”状況なの。わかる?」
 殺人鬼、とあからさまな単語をぶつけながら、依頼人は女に同意を求める。女はそれを軽く睨みながら、足を組み直しつつ、応戦する。
「ええ本当に、クラゲを食べてるバケモノを捕まえて、水先案内させようだなんてどうかしてる」
「ッハ、あたしもそう思う。クラゲの腕ぇキレーに加工して顔にぶら下げてるやつなんか、関わりたくもねえや」
 女の皮肉に、依頼人も笑う。む、と小さく唸る声が男からしたが、そんなものには構わず依頼人は言葉を続ける。
「でもま、乗らない手はないんだな、これが。あんたにはクラゲの人身売買についてもっと話してもらわにゃいかん。その片手間にな、昔馴染みの職場について、思い出話に花ぁ咲かせてくださいよってだけのことよ」
 こつんこつんと、肘で男の頭をこづきながら、依頼人の女性はケラケラと笑っていた。探偵はなにやら不服そうな顔で明後日の方を向いたままだった。女はこの状況に、いつの間にかすっかり毒気を抜かれていた。

 女の雰囲気が軟化したのを見計らってか、依頼人の女性は探偵の肩に肘をついてから、言った。
「お前今日にでも死ぬ気だろ」
 探偵と女の視線が一瞬で集まり、その先で依頼人は嫌味ったらしく笑った。
「そらそうだろー、そんな“この世の全てがどうでもいい”みたいな顔しやがってよ。少なくとも、クラゲに関わる組織の話はしてもらわんと困るのよ?
 まだ死ぬな。洗いざらい吐いてから死ね」
 鉄格子の向こうで面白くなさそうに睨む女を、依頼人は鼻で笑って見せた。
「お、そういう顔できんじゃん。いいねえー恨め恨め、この世に執着しな。その分だけこっちの仕事が進む」
 つーわけでだ、と一言置いて、依頼人は探偵の肩をぽんと叩いた。

「お前、これからこいつの事務所で働きな、住み込みで」

 は?、と、2人は完全に固まっていた。依頼人は探偵の左腕をぺしぺしと叩きながら言う。
「お前、こいつに何したか覚えてねえかー?腕に神経毒打ったんだぞ? 解毒はできたけど、まだ満足に動くわけじゃねえ。
 利き手じゃねえけどさあー、これからこの事件を詰めようって時によおー、ほんと困るんだわあー、まじで」
 だから責任を取れ、という言い分である。女より先に、探偵から抗議の声が上がる。
「アレイナさん、このひとを殺人鬼だと言った口で、僕の居住スペースに彼女を置けというんですか?」
「おう、使ってねえソファとかあったろ。だいじょぶだってー、カメラの映像見たけどちゃんと応戦できてたぞお前。へーきヘーき」
 辟易した様子の探偵を軽くあしらいながら、それによ、と、アレイナと呼ばれた女性は続ける。
「こいつ、お前を殺す気はもうねえって。腕っぷしの話もあるが、言ったろ?“死ぬ気”だって。勘のいいやつがずっと見張ってねえと簡単に死なれちまうんだよ、こういうやつには。もし襲ったきたとしても、そりゃカウンターで殺されるのを狙ったやつだ。多分な」
 多分、という言葉を無責任に放り投げながら、その目は女を鋭く射抜いていた。目元がひきつるのを感じながら、女は挑むようにその目を睨み続けている。その視線を、ケッと短く嘲り笑ってから、依頼人は探偵の顔を覗き込む。
「イエロー、うちの面子込みにして考えても、お前が適任なんだわ。報酬ははずむから、まあ、よろしくやってくれや」
 探偵は観念したように深くため息をついて、顔を上げると、その先にあった嫌悪感にまみれた視線と目が合った。
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