青赤コントロール

 妙だ、と探偵は思った。
 今回の依頼はクラゲの集団失踪事件の調査、組織的な犯行と見られるそれの、拠点の一つと思わしき住所への潜入のはずだった。彼は今、やや古ぼけたアパートの2階、三つあるうちの真ん中のドアに向かい、ピッキングツールで鍵開けを完了させたところである。

 探偵と一言で言っても、彼が手がけるのは探し物や身辺調査といったよくあるイメージのものだけではない。やや犯罪に足を突っ込んだ調査や、そういった手段も取りうるのが、むしろ彼の本業である。
クラゲの集団失踪は、言ってしまえば昔からよくある類の失踪案件で、特別ニュースで取り上げられるようなセンセーショナルさは含んでいない。それでも、彼の第一顧客からわざわざ依頼が舞い込んできたのは、この失踪が特定の組織の資金調達手段……つまり、クラゲの人身売買に大きく関わる可能性が、長年の裏取り調査でほぼ確定したと連絡があったからだった。そして、その組織と関わりが深いと見られる人物、居住所、拠点をあらかた絞り、今彼が解錠した部屋は″商品″そのものの搬入出拠点として浮かんだ場所の一つである。

 さて、妙だ、と彼が思ったのはまず、本当にこのアパートが?、という違和感だった。ここは人通りが少ない立地とはいえ、付近に学校もあることから夜になってもひとの目は多い。物流履歴の調査結果などから限りなく黒であることは確かなのだが、ここをわざわざ、大掛かりな荷物になりかねない商品の出し入れに選ぶのか? ついでに言えば下見の頃から、勘というか、後ろ暗い案件に関係する場所特有のきな臭い雰囲気もほとんど感じられなかった。勿論それでも、ということは大いに考えられるので、こうして足を運んでいるのだが。
 そして加えて、今、ピッキング実行のために、学生の通りが少ない正午前、白昼堂々ドアの前に数分居座ったわけだが、人目が一切感じられない。組織の重要な拠点であるならば見張りがいてもおかしくはないのだが、気味が悪いくらいに何もない、何もないのだ。何かの罠だったのかもしれないと苦々しく思いながら、それでも、目の前の鍵は開いてしまった。彼はただ腹を決めて、躊躇なくそこに滑り込んでいくだけだった。

 鍵が締まらないように細工をしてからドアを閉め、足元を見れば、探偵の嫌な予感は増大した。この部屋の借主は男性のインクリングということだったのだが、玄関には女物のハイヒールがところ狭しと並んでいたのだ。単なる取引の中継地点にわざわざこんなものを、出入りの邪魔になるレベルで大量に置くはずがない。例えようのない居心地の悪さにうんざりしながら、足跡が残らないよう靴の上にカバーを履き、部屋の中へと踏み込んでいく。
 厚いカーテンで閉ざされているこの空間は、一人暮らしに丁度いい程度の家具が置かれてはいるが、どこか冷え冷えとして生活感の感じられない部屋だった。一見めぼしいものは見当たらない、何かあるなら奥の部屋だろうと踏んで進み、探偵は扉を開く。開けた隙間から、青白い光が漏れ出てくる。異様な様子に一瞬手が止まるが、一度軽く深呼吸してから、ゆっくりと扉を押し開けた。

 部屋の中央には業務用の冷蔵庫が鎮座していた。
 横長の、天板を開けるタイプの冷蔵庫。その側面には大小2本のナイフがマグネットラックで張り付いていた。
 これを目前にして、探偵はようやく、そうか、と腑に落ちたような、諦めたような気持ちになった。物流履歴が嘘をついていたわけではなかった。″商品″は、確かにここへ運び込まれていたのだろう。
 冷蔵庫から視線を外してみれば、いかにも万年床だといった様子の布団が一式と、その布団から手が伸びる範囲に生活用品が点々と置かれている。ここが家主の生活拠点のようだった。クローゼットや化粧台、青白い光を放っている数台の同じ家電……おそらく空気清浄機だろうか? そういった家具からも何か手がかりは出てくるかもしれないが、まず彼が調べるべきは冷蔵庫だった。9割黒だと分かった、残りの1割も塗りつぶすために、冷蔵庫の取手に手をかける。

 と、探偵に悪寒が走る。
 背後になにかいる。

 直感から反射的に体を反らせた彼の、左の上腕に激痛が走る。ギ、と口の端から歪んだ声が漏れた。冷蔵庫の前から飛び退き、部屋の出入り口の方へ身を翻すと、こちらへ手を伸ばしながら突っ込んでくる人影が眼前に迫る。線が細い、女だ。差し向けられる鋭利な物体を裏手でかわし、バランスを崩したところを組み伏せる。得物を取り落としてもなお敵意をあらわにもがく女を、激痛に耐えながら両腕で締め上げ、やがて女は力なくうなだれた。
 息を切らせながら痛む左腕を見やると、何か注射器のようなものが外れかかっていた。急いで引き抜き、できるかぎり傷口からインクを絞りだす。しまった……とひとりごちて女の方を見やると、まだ意識を手ばなしたわけではないのか、うめき声を漏らしながらみじろぎしている。

「お願いだから、そのまま寝ていてくださいね……」

 聞こえるかどうか、という細い声で女を制止しつつ、隠蔽の協力を仰ぐために今回の依頼団体へ連絡を取り始める。
 それと同時に、探偵の制止の言葉に反応するように、うごめいていた女の身体がぴたりと止まった。そしてゆっくりとこちらに顔を起こし、薄く開かれた口から声が漏れた。

「ブラム、さん……?」

 見開かれた女の目が、蛍火のように揺れながら探偵を捉える。女はそのまますぐ、ガクリと床に突っ伏した。

 探偵は端末を操作する手が止まったまま、呆然と、倒れた女を見ていることしかできなかった。
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