短い話
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「あいつ、邪魔だなぁ」
勘ちゃんがそう言い出したらもうおしまいだ。暴走機関車のごとく、走り出したらもう誰にも止められない。しかも勘ちゃんは、平静を装いつつもその裏で確実に相手を破滅させるような、静に見せかけた動のキレ方をするのでなおさらタチが悪かった。
「か、勘ちゃん」
ゴクリと生唾を飲み込んで、何を考えているのか分からない横顔をじっと見上げた。勘ちゃんてば、いつもはあんなにヘラヘラしてるくせに今は一ミリも笑ってないね。やばいやばい。マジギレじゃんか。
どうしたら止められるもんかとトップギアで脳みそをフル回転させる私に、勘ちゃんは、温度のない声で問いかけた。
「三木だってあいつ、いやだよね」
「…」
やじゃないよ!
君と一緒にしないでほしい。
▽
兵助が町の娘に恋をした、という話は人伝てに聞いてたので知っていた。
あの堅物が、生真面目が、と大げさに話す三郎が主に情報源だったけれども、どこか辟易した様子で語る三郎に比べて私は結構いい話じゃんと思っていた。朗報じゃないのかな。生涯豆腐にしか愛を注ぐことはないと思ってたあの豆腐小僧が、まさか生身の人間に恋をするなんて。そりゃ最初は信じられなかったけど、本当ならいいなぁと思っていた。
こんなこと潮江先輩に言ったら大目玉を食らっちゃうんだろうけど、忍者だって恋をする。していいと思う。情緒も育つし、手っ取り早く情操も豊かになるし。私はくのたまだけど、もう卒業した先輩で商屋の男と恋に落ちた人がいて、その人は在学中にこっそり交際を始めていた。本人は内緒にしていたつもりだろうけど私たちの中では有名な話だ。結局、価値観の相違とかなんとか、そんな感じの理由でひっそり破局していたけれど、独り身になった先輩はなんだか前より雰囲気がしっとりしていて、一つステージを上に進めた感じがあった。
だから結末がどうなろうと悪いことではないと思う。って、そう言う私に三郎は複雑そうだ。
「そう上手くいくもんかね…」
ははぁ。さては、置いてかれた気がして寂しいんじゃないの。って言ったら心底嫌そうな顔でデコピンされた。照れ屋さんめ。当たらずとも遠からずってとこだろうか。
それから少し経ったある日の放課後、くのたまと忍たまの敷地を隔てる中庭の辺りを歩いていたら、人気のないところで兵助と勘ちゃんの姿を見かけた。紺色の装束が二つ、妙にくっついてる様が目について、なんだか声をかけるのが躊躇われて遠巻きで眺めることにしたんだけれど、なにやら空気がちょっと不穏だ。口論一歩手前って感じ。いつもより饒舌な様子の兵助と、そんな兵助に剣呑な様子を見せる勘ちゃん。喧嘩かな。珍しいけど無い話じゃない。仲の良い同室の二人だって意見が食い違うことはあるし、大抵はその日のうちに仲直りしているから、今回もそうなるだろうと思って特に何もせずその場を去った。断片的に聞こえてきたセリフが少し頭に残ったけど考えすぎだろうと思ってた。「あの子はそんなんじゃ…」「兵助ばっかり…」「そんなの決めつけ…」「騙されて…」この時、ちゃんと話を聞いておけばよかったのかな。今更後悔したってもう遅かった。
良くないことというのは重なるもので、ちょうどその日は六年生が実地演習で留守にしていて、竹谷くんも山に虫取りに出かけていて、雷蔵と三郎なんか二人連れ立って里を三つほど越えた向こうまで学園長のお使いに行ってしまっていた。いつもならそれもいいんだけど、全然いいんだけど、今日ばっかりは勘弁してほしかったな。
「へ、へーすけ…」
「三木…」
どこか寒々しい部屋の中、たっぷり涙をためた兵助の視線がこちらに向いて私は思わずぎくりとした。五年い組の二人の部屋だ。兵助の体が影になって、奥にいる勘ちゃんの表情は見えなかった。
忍たまと同じくくのたまの六年生も演習で留守にしていたので、私が所属する委員会活動も休みになって、特にやることもないので5年の長屋に遊びに来たら兵助が部屋で泣いていた。おとなしい子供みたいにぐすぐすと泣いてる兵助に、私は、開口一番なんて言ってあげたら良かったのかな。留守の目立つ長屋で、残ってる者同士遊びに行こうよ、と言いかけた口は思いがけないその光景に上手く対応できなくて、戸惑った声音で名前を呼ぶしかできなかった。
「ど、どうしたの、兵助。なんで泣いてるの」
「あの女のせいだよ」
勘ちゃんの声だ。いっそいつも通りの声音に、理由はないけどぞぞっとした。直感的に「やっば」と思った。兵助はうんともすんとも言わずにただしゃくり上げながら泣いていて、勘ちゃんがその肩を撫でる手つきだけがこの物々しい雰囲気の中で浮いて見えるほど優しかった。
「やだな、あいつ」
あの女とか、あいつとか、勘ちゃんが言うその相手が兵助の恋する人だってことはなんとなく察しがついた。あの日の不穏な二人の会話が一瞬でフラッシュバックして、あれからまた何かが起きて良くないもつれ方をしていることまでも想像がついた。元々好感を持っていなかった相手に兵助が泣かされたとあれば、勘ちゃんが黙って見過ごすわけが無い。いつも明るくて、陽気で、快活に笑う勘ちゃんが、その心の内に虎を飼ってることなんて五年も付き合えば誰でも知ってることだった。
「あいつ、邪魔だなぁ」
だから勘ちゃんがそんな風にあけすけに物を言うってことは、その虎がもう辛抱たまらなくなって駆け出してしまったってことで、そうなったらもうおしまいだ。
勘ちゃんがすすり泣く兵助の背中を強く押して、バランスを崩したその体を慌てて抱き留めた。私に向かって兵助を突き飛ばした勘ちゃんの表情は限りなくいつも通りに近かったけれど、何かを決めてしまったような顔つきなのが気にかかる。
「か、勘ちゃん」
「兵助のこと見てて。慰めてやって。三木ならいいよ」
チューまでなら許す。
なんて本気か冗談か分からないようなことを言いながら庭先に降りる勘ちゃんをなんとか止めなければいけないと思ったけど、兵助がわんわん声をあげて泣き出してしまって、自分より上背のある体を受け止めながらなんとか宥めた。く、苦しい。ぎゅうぎゅう抱きついてくる兵助の肩越しに遠ざかる勘ちゃんの背中が見える。
やばい、やばいよ。
やばいってこれは。
竹谷くんも、雷蔵も、三郎も、上級生もいないんだよ。それって勘ちゃんを止められる人間が今ここに私しかいないってことだ。でも縋り付いてくる兵助を突き放すなんてそんな無情なことできるわけない。そういうのも分かっててやってるんだよな勘ちゃんは。
片腕で兵助をあやしながら、なんとか勘ちゃんを止めようと手を伸ばした。
「ちょ、っと待っ——」
ストン、と軽い音がした。
「え、」
思わず言葉を切って息を呑んだ。
ワンテンポ遅れて恐る恐る振り向くと、右頬を掠めて通り抜けたクナイが背後の壁にピンと揺れながら刺さっている。冷や汗がつうと額を伝った。
は……外れた。
っていうか、外された。
もちろんわざと外したんだろうけど、私に向かってこんなもの投げるなんて、勘ちゃんてば相当キレてる!!
「か、勘ちゃん、」
「三木、邪魔しないでよ。そこにいて」
「む、無理だよそれは。勘ちゃん、今行ったらやばいって!」
「うるさいな。その口ふさいであげようか」
「いいよ、ふさいでいいから戻ってきてよ」
「ばーか」
最後にこちらを振り向いた勘ちゃんは、それだけ言い残すとあっという間に行ってしまった。勘ちゃんはチャラチャラしたように見えてその実かなり有能な男なので、見失ったらもう追いつけない。そもそも私は相手がどんな子で、どこにいるのかも知らないのだ。こうなったらもう彼を止める手立てなんてない。絶対ここで引き留めなきゃいけなかったのに!
「ど、どうしよう…勘ちゃん、殺しちゃったりして…! やばい全然あり得る」
「ぐすっ、三木… 三木…」
「えっ、ちょ、待って待って待って」
大粒の涙をぽろぽろこぼしながら擦り寄ってくる兵助の背中を慌てて抱きとめた。濡れたまつげに縁取られた、透明な視線が降ってくる。「三木、」そう呟いた兵助の唇が、目尻や、まぶたや、頬にまで落ちてくるので、背中を撫でながら気の済むまで好きにさせた。
ああ、もう。何があったかは知らないけど、そんな顔されたらほっとけない。兵助、失恋しちゃったのかなぁ。こっぴどくフラれたり、二股かけられたりしたのかもしれない。兵助がこんなに泣くなんてよっぽどのことだ。かわいそうに。私はまだ恋なんてしたことないけど、分からないなりに兵助の力になってあげたいと思った。だから勘ちゃんの気持ちはよく分かるよ。分かるけど、ただ問題なのはやり方と度合いであって、常識的なふりして絶対踏まなきゃいけないブレーキを踏まない選択をできる勘ちゃんは、そこんところがよく分かってない。いや、むしろ、分かっててやってるのかも…。
今の勘ちゃんに、どうか一ミリでも理性が残っていますように。一縷の望みにかけてこいねがいながら、しばらく兵助の抱き枕に徹してあげた。
「ただいま!」
「いい笑顔だ…」
どっちだ。やり切ったのか踏みとどまったのか。どっちなんだ勘右衛門。
行きとは違って揚々と帰ってきた勘ちゃんを固唾を呑んで出迎えた。あれから一刻ほど経って、すっかり泣き疲れた兵助は私の膝ですうすう眠っている。しんと静まり返った長屋で一人、勘ちゃんの帰りを待つことしかできなかった私の気持ちをちょっとは考えてみてほしいよ。
「そ、それで?」
「え? 何が?」
「何がじゃないよ!」
やったのかやってないのか、それだけははっきり教えてほしいのに、すっとぼけたふりをする勘ちゃんに焦れったい気持ちになる。どうか殺ってないって言ってよ勘ちゃん! 多少のオイタは目をつむるから、もう、殺してなければそれだけでセーフだって思うから。せめてそのラインだけは越えないでいてほしい。
「やってないよ」
私の真正面にしゃがみ込んで、寝ている兵助の頬をつんつん突っつく勘ちゃんのその言葉に、私はやっと安堵の息をつくことができた。楽しそうに兵助にちょっかいを出す勘ちゃんの顔を見ていると、そもそもこんな屈託のない男にそんな非道なことできるわけがなかったのかも、なんて気にすらなってしまうから不思議だ。全然そんなことはないんだけれども。勘ちゃんはやれる男だ。
「ちょっとお灸を据えてきただけ」
「そっかぁ…」
いいかぁ…それなら…。いいかな?
詳細を聞いたらツッコミどころを見つけてしまうような気がしたから、それ以上は何も言わなかった。殺してないだけで御の字。セーフ。万々歳。勘ちゃんの理性ありがとう!
そんな私を見て、勘ちゃんはどこか不満げだ。
「聞かないの? 詳しいこと」
「別にいいかな…」
「ふーん」
「聞いてほしいの?」
「うん。聞いて?」
両手で頬杖をつきながらこちらを窺ってくる勘ちゃんは、すっかり明るくて可愛いいつもの勘ちゃんに戻っていて、だからよっぽどのことをしてきたんだってこと、聞かなくたって分かる。あれだけのブチギレがすっかり発散してしまうほどのことをしてきたんだね。心の中で身も知らない相手に合掌した。せめて命あっての物種だと思ってくれてるといいな。
「勘ちゃん、一体何してきたの?」
「もう兵助に近付かないでってお願いしただけだよ。兵助のこと誑かした奴相手に、俺、それだけで済ませてあげたの。偉い?」
「えっ、それだけ?」
「うん。お願いしただけ。丹念にね」
「丹念に…」
「そう。ねえ、偉い?」
ブチギレバーサーカーと化した勘ちゃんが一体どんな方法で兵助を傷つけた相手に“お願い”をしてきたのか、大体察することができたので、えらいえらいって半ば思考停止で褒めてあげた。殺してないからセーフ、殺してないからセーフだ。大事なことなので自分に二回念押しした。
「俺、ちゃんと我慢したんだけど」
「うん」
「三木も約束守ってよ」
「約束?」
「うん」
「約束ってなに?」
「だからさ…」
音も無く勘ちゃんの顔が間近に迫って、ぴったり唇が重なった。それがあんまり自然な流れだったから、咄嗟になんの反応もできなかったのは忍者のたまごとしてどうなんだろうか。
うなじの辺りから大きな手のひらが後頭部を抑え上げて、そのままたっぷり数十秒は下唇を食んでくる勘ちゃんにとにかくびっくりしてしまって、しばらくされるがままになった。離れた後も目を瞬いて見上げたら、勘ちゃんはそんな私に不服そうに「もう」なんて可愛らしく唇を尖らせた。えっ、何が「もう」なの? 全然分からないんだけど。勘ちゃんは分からない私の方がおかしいって態度でこっちを見てる。
「勘ちゃん、今のなに?」
「何って、三木がふさいでいいって言ったんじゃん。忘れたわけ?」
「えっ、言ったかなそんなこと…」
言った。言ってたな。思い出した。
「でしょ? 三木ってば忘れっぽいんだから」
もう一回、って再び唇を合わせてくる勘ちゃんに、何か変だなとは思ったけど、言っちゃったもんはしょうがないので好きにさせた。勘ちゃんはたまに、こういう、よく分からないことをするんだけど、別になんてことないことばっかりなのでまあいいかと思うのである。実際約束を守れたのは偉いことだし、勘ちゃんがしたいって言うならこのくらい好きにさせてあげよう、とそう思った。口の中に入り込んできた舌は生暖かくて、なんだか変な感じがした。
無知を逆手に攻める人。
2021.3.23