短い話
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※「風の少年」の続き
僕のことどう思ってる? って、言いかけてやめた。もう何度目かの逡巡だった。
冬の夜はこういうことが多くて嫌だ。空気が冷たくて、体だけじゃなく心までそら寒くなるせいか、言わなくていいことを言ってしまいそうになる。今まで我慢できてたことが、途端に難しいことのように思えてしまうのだ。
薄っぺらい毛布の中で、ひとり丸まってどうにか眠りにつくのに耐えられていた頃の僕なら、きっとこんなことでは悩まなかった。あの日、マキが僕をベッドの中に引っ張り込んだ時から、どうにも堪え性がなくなってしまったように思えてならない。
「マキ。…もう寝たの」
すぐ隣で寝息を立てる彼に確かめるように問いかけた。本当に聞きたいことは聞けないくせに、こんなどうでもいいことなら口に出せる僕はやっぱり臆病か。
真夜中の暗い部屋の中で、マキの澄ましたような寝顔が月明かりに照らされている。その輪郭をぼんやり眺めながら、僕は、返事がないことに少しだけ落胆した。マキは寝つきがいいからどうせ寝ているだろうとは思ったけど、なんだか置いてかれたような気がして寂しい。やっぱり僕が隣にいようがいまいがマキには関係なくて、ただベッドが狭くなっても怒らないでいてくれるということが、彼の優しさなのかもしれない。
心地よい温度の中でぴったり寄り添う。あの日のキスといい、寝ている彼に対してつい遠慮を無くしてしまうのは僕の悪い癖だった。マキは普段何を考えているのかよく分からないところがあるから、起きている彼にどう接していいのか迷ってしまうことがあったし、知らず知らずのうちに彼の意に沿わないことをして嫌われることが怖かった。
「……僕、帰ってきたよ」
君のところへ。
そうこぼすように呟いて背中を丸めた。
ホグワーツでの夢のような一年間を終えて、この地獄のような家に帰ってくることができたのは、マキがここにいたからだ。
一年ぶりに会うマキにちゃんとその気持ちを伝えようと、帰りの汽車に揺られていた時から心を決めていたのに、当のマキは帰ってきた僕を見て特に驚いた様子もなく、「ああ、おかえり」なんてまるで昨日ぶりにでも会ったようなあっけらかんとしたトーンで言うものだから、僕は出鼻を挫かれてしまって、おずおずと頷くことしかできなかった。
会いたかったのは僕だけで、マキはそうでもなかったのか。
正直なところ、この一年、……折に触れてはマキのことを思い出してしまっていたこの一年の中で、僕にとって彼がどれだけ大きい存在かと言うことを、いやというほど自覚した。
ここは僕の帰る家ではないけど。
僕の帰るところにはマキがいて欲しい。
この感情にどう名前を付けたものか、今ここに至っても分からなくて、その夜、空が白むまでうんうん唸っていた。
「最近ずっと考えごとしてるよね」
「え」
「言ってみなよ」
それとも、僕には到底言えないようなこと?
ある日の朝、マキがそんなことを言い出して、僕はそっと息を飲んだ。
ホグワーツから帰ってきてからずっと、僕はマキと一緒のベッドで寝ている。一年ぶりのダーズリー邸はやっぱり居心地が悪く、おじさんやおばさんが僕を毛嫌いする様は変わらなかったし、ダドリーも悪辣ないじめっ子からまるで成長していない。ただ、魔法を扱う僕を気味悪がったおじさんは僕に二階の一室を分け与えた。本当にいやいや、しょうがなくといった風に。元はダドリーのおもちゃ部屋だったそこはマキの部屋の隣に位置していて、誰にも気付かれずに素早く彼の部屋を訪れることができるな、とあてがわれた瞬間そんなことを考えた。
そんな思いが高じたせいか。階段下の物置よりは広いだけの、埃っぽく閉ざされたその部屋で、どうしても一人で眠る気になれなくて、僕はその夜勇気を出してマキの部屋の扉を叩いた。
扉を開けたマキは僕を見下ろすと意外そうな顔をして、それからちょっとだけ考える素振りを見せたあと、何も言わずに毛布を被って寝てしまった。もしや無視されたのか、とその時僕は傷ついてしまったんだけれど、ベッドに半分空けられたスペースを見ておそるおそる隣に潜り込んだ。マキはそれを咎めることも、追い出すこともせず当たり前みたいに寝入っている。
きっと、こんな夜更けにやってきた僕を見て、マキは一年前のことを思い出したんだろう。何か用? とでも言いかけて、そういえば一緒に寝たこともあったな、今日もそうするつもりで来たんだな、とそんなふうに思い当たったんだろう。
……彼にとっては思い出さないといけないようなことだったのかな。僕はあの温もりを一瞬たりとも忘れたことなんてなかったのに。
それでも拒まれなかったことが嬉しくて、ちょっと図々しくなることに決めた。夜になるたびにマキのベッドに潜り込んだ。夜は特に冷え込む冬だ。二人分の体温が心地良かった。ちょっとした湯たんぽの代わりだと思っているのか、マキはやっぱり何も言わずに黙って僕を迎え入れた。時折、寝ぼけたマキに抱きしめられるようなことがあって、僕はその度にドキドキした。
そんな夜を何度か過ごして、そうして迎えた朝に、これだ。
「な、なんのこと…」
思わずしらばっくれてしまったけど、マキは何も言わなかった。僕が白状するのを待ってるみたいだ。
朝、目を覚ますと目の前がマキのシャツで埋まっていた。胸元に顔を埋めていることに気付いて、ドギマギしながら目線をあげると、頬杖をついたマキが僕をじっと見下ろしていて、思わず声を上げそうになったけれどもなんとか頑張って飲み込んだ。マキはいつもの笑っても怒ってもないような涼しげな顔で、そんな僕の動揺なんか気にも留めてないようだった。
「おはよう」
「お、おはよう…」
ずっと見てたの、って尋ねた声は寝起きらしく掠れてしまった。
いつもは大概僕の方が先に起きて、まだ寝ているマキをベッドに残して自室に戻るのが常だった。キッチンで朝食の卵を焼き始める頃に寝巻きのままのマキが降りてきて、示し合わせたわけでもないのに、さも一緒になんて寝てなかったようなそっけない顔でおはようって言うのが常だったはずだ。
それがどうして今日に限って。
“最近ずっと考えごとしてるよね”……唐突なマキのその言葉に、思わずしらばっくれてしまったのは悪手だっただろうか。うろたえる僕の次の言葉を待ち続けるマキの視線にもちょっと怯んだ。
考えてることなんてあるに決まってる。それを君に伝える勇気がないから悩んでるのに。
マキが僕のことをどう思ってるのか。マキにとって僕は一体なんなのか。
今ここで聞いたっていいんだ、本当は。
「…」
「なに、どうしたの」
それでも聞くことができないのは、ただの弟だと言い切られるのが怖いからだ。
なんとなく確信があった。マキはきっと僕のことを、なんの誇張もなく、ただの弟だと思ってる。だから本当の家族みたいに、ダドリーを相手にするように接するし、おじさんやおばさんみたいに蔑ろにしたりしない。そんなマキのことを僕はずっと変な人だと思っていたけど、同時に救われているとも感じてた。でも、今の僕は、なんとなくその関係が嫌だと思う。
ただの家族じゃ嫌なんだ。僕がマキを思うのと同じくらい、マキも僕のことを思ってほしいと願うのは、やっぱりわがままなんだろうか。
「教えてくれないんだ?」
「…」
「別に、言いたくないならいいけど」
「え、よ、よくない…!」
いいわけない! 咄嗟に裾を掴んでぶんぶんと首を横に振った。いけない。また同じ轍を踏んでしまうところだった。マキは深追いなんかしないんだ。僕が一度すっとぼけてしまえば、それ以上は踏み込んでこないってことちゃんと知ってたはずなのに。
「マキはさ…」
「なに」
「…」
「なんだよ」
「僕のことどう思ってるの」
だから僕の方から踏み込むしかなかった。心臓がバクバクといやな音を立てた。思い切って見上げたら、少しだけ眉をひそめて透かすように目を覗き込まれて、距離が近くてどきっとする。寝ている彼が横にいるのは慣れても、こうして意識がある状態で目線を合わせるとやっぱり忙しない気持ちになった。
「そんなことで悩んでたの?」
「…」
「ふぅん」
「…」
「変わってないね、君は」
呆れられた……ってわけじゃなさそうだった。マキの両手が僕の髪をぐしゃぐしゃに混ぜるのをぼけっとしながら受け入れた。降りてくる視線がちょっとだけ柔らかい気がして、無性に叫び出したい気持ちになる。なんだ、なんなんだその顔は?
「良かった」
ぱっと離れた手に名残惜しさを感じながら、マキの発言の意図を探った。良かった、ってどういうことだ。僕が悩んでることなんかマキにとってはどうでもいいようなことだって、それくらいはちゃんと分かってたけど、だからってそんなふうに言われるのは腑に落ちない。
「良かったって、何が?」
「ん?」
「何が良かったの?」
「いや、てっきり」
「…」
「例の学校で嫌なことでもあったのかと思ってたから」
違うんでしょ。だから良かった。
虚を突かれた、というのはまさしくこういうことを言うのだと思う。
ホグワーツでの暮らしはまさに夢のような毎日で、この家から離れて生まれて初めての友達と過ごせた時間は僕にとっての救いだった。そりゃ、嫌なこともあったけど、得られたものに比べたらちっぽけなことだ。
でも、そんなことマキには一言も言ってなかった。離れていた一年間のことを、僕はこの家の誰にも言わなかった。だって聞かれなかったし、言ったってそっけない反応をされるのがオチだろうと思ったから。
だからそんな勘違いをしたのか、マキは。夜になるたびに無言でベッドに潜り込んでくる僕のことを、彼なりに考えて、黙って今日まで受け入れてくれてたのか。
なんだかもう、どうしようもないような気持ちになって、たまらなくなってマキの胸に飛び込んだ。勢いのついた僕の体を受け止めきれずに、マキは背中から床に落っこちた。
「いだっ」
頭をしこたま打ちつけたマキの体に引っ付いてぎゅうぎゅう抱きしめた。ずるい。ずるいよ、マキ。いつも風のように掴みどころがなくて、優しいのか優しくないのかも分からないふりして、そのくせそんなこと言うのはずるいと思う。マキが僕のことを考えてくれてたのが嬉しくて、自分ひとり悩んでいたことなんて途端にくだらなく思えてきた。ただの兄としての目線でもいいよ。マキは今のままでもいい。今はそれだけで充分じゃないか。
これからマキとどうこうなろうと思ったら、僕がそれなりの行動をすればいいだけだ。
「ハリー、重いんだけど…」
「マキ」
「あ?」
「僕と一緒にいて」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げるなんて珍しい。それが僕のせいだってことにすら高揚した。
「一緒にいるじゃん。変なの」分かってないマキは不可解そうにそう言って、なだめるみたいに背中を撫でた。落ち着くどころか胸がどんどん締め付けられる。この手のひらも体温も、僕だけのものになったらいいのにな、と思ったら、それしか考えられなくなった。
▽
「マキ、あなた、最近夜中に出かけなくなったわね」
「そうかな」
「いい傾向じゃないか。夜遊びは程々にしておきなさい」
「そうするよ」
ある日の朝食の席でおばさんやおじさんにそう言われたマキが、顔色ひとつ変えずにやり過ごしているのをバレないようにキッチンから窺った。おばさんの言うように、僕が夜中に部屋を訪れるようになってからマキはガールフレンドとの逢瀬をやめた。それについて申し訳ないなと思ったのは最初のうちだけで、今では死んでも行かせるもんかとすら思っている。
「いつもどこ行ってたんだよ」
「おまえは知らなくていいところ」
「マキ! 坊やに妙なこと吹き込まないでちょうだい」
「はいはい」
涼しい顔でトーストをかじるマキは決して言わないだろうけど、きっと僕のためにこの家に留まってくれている。マキのやり口はもう大体分かってた。僕が衝動的なタックルをかましたあの日、結局僕のことをどう思っているのかという問いには答えてくれなかったけど、それからも依然としてベッドのスペースを半分空けておいてくれた。それが彼なりの優しさだってことは僕にも分かる。
「あなたが真面目になってくれて嬉しいわ」
「真面目ね…」
おばさんの言葉にマキはおざなりな返事をして、明後日の方に目線をやった。マキと僕の二人だけの秘密があることが、なんだか異様に嬉しかった。
▽
そういえば、そろそろマキの誕生日が近い。一年前と同じように、注文するケーキはダドリーのワガママが通ったし、おばさんがこしらえる予定で書き出したレシピはダドリーの好物ばかりが揃っていた。マキは自分の誕生日やお祝い事には淡白だったから、毎年のことながら気にも留めていないようだ。でも、そういえば、僕だってマキの好物を一つも知らない。欲しいものとか、やって欲しいことも何も知らないことに気付いて、少し寂しい気持ちになった。
「何かして欲しいことはある?」
「なに、急に」
夕食の片付けを終えて、いつものようにベッドに潜り込んだら珍しくマキがまだ起きていたので勇気を出して聞いてみた。いつもいつも貰ってばかりだし、今年こそ僕から何か渡せないかとずっと考えていたんだけれども、ついに何も思いつかなくてとうとう誕生日前日になってしまった。急に切り出した僕にマキは目を瞬いて、あー…と少しだけ考える素振りを見せた。
「もしかして誕生日だから?」
「…うん」
「いらないよ、そんなの。僕だって君にあげたことないじゃん」
そんなの嘘だ。言葉にしていないだけで、マキから貰ったものなんてたくさんある。
マキは、多分、人に恩を着せるのが嫌いなんだと思う。だから家族として当たり前のことをしてるだけだと言う。でも、おじさんもおばさんも、ダドリーだって僕には何もしてくれないんだから、普通じゃないのはどう考えたってマキの方だ。
「して欲しいことね…」
じっと見上げる僕に折れたマキが、伏し目になって呟いた。枕を抱え込んで顎を乗せる仕草がいやに幼くて、僕の前で気を抜いた姿を見せてくれてるのかなと思うとドキドキする。
「なんでもいいの」
「う、うん。僕にできることなら」
「じゃあ、こっち来て」
隣を示すようにポンポンとベッドを軽く叩かれて、予想外のお願いにそっと息を飲んだ。マキの方から僕を呼ぶなんて、もしかして初めてじゃないだろうか。困惑したままおずおずと隣に座ったら、もっと近くと腕を引かれた。肩をぐっと押されて、ベッドに二人並んで寝転んだ。僕はもうマキにほぼ抱き込まれるような形で、心臓の音が聞こえるくらいの密着具合に一瞬で頭が沸騰したけど、マキの心音は一定のリズムを保って、まるで穏やかなままだった。なんか悔しい。僕の心臓はもう爆発寸前だ。
「な、何…?」
「寒いから。今日だけ僕の湯たんぽになってよ」
それじゃいつもと変わらないじゃないか! そう声を上げようとした僕を牽制するみたいに、ぐっと頭を抱き込まれて、うなじのあたりに指がかかるともう何も言えなくなってしまった。
寝ぼけて意識のないマキに抱き寄せられるのと、はっきりとした意思でこんなことされるのとじゃまるで意味が違ってくる。マキの人より低めの体温が、じんわりと僕の熱と混ざり合った。僕の気持ちを分かっててこんなことをしてるのかな。多分分かってないと思う。心臓がバクバク波打っているのがバレるのは恥ずかしい気持ちもあったけど、そんな遠慮なんて何の意味もないってことを僕はもう知っている。だから自分からマキの背中に腕を回して、ぎゅっと強く抱きついた。
マキのばか。あとで後悔したらいいよ。きっともう何もかもが遅いんだから。僕は自分の気持ちを誤魔化すのをやめにしたし、ただの弟だって思われてることに納得なんかできるわけない。僕をそんな風にしたのはマキの方だ。
ちょっとでも僕の思いが伝わればいいと、マキの体をきつくきつく抱きしめた。
「ハリー、苦しいんだけど…」
「我慢して」
「誕生日なのに…?」
時計の針は十二時を回っていた。おめでとう、と呟いたら、返事の代わりに軽く背中を撫でられた。
誕生日おめでとう、マキ。君がこの家にいてくれて良かった。って、心の中でそう付け加えた。いつか面と向かって言えたらいいな。きっとマキは呆れたように、大げさだねって言うんだろう。
そんなことを考えながら夜を明かしたら寝過ごした。心臓がやかましくてなかなかすぐに寝付けなかったのだ。
「ハリー!」おばさんのつんざくような声に強制的に目が覚めて、跳ねるように飛び起きた。手元に時計はないけど、なんとなく体感で朝食の時間を過ぎていることだけは分かる。慌ててベッドから飛び出そうとしたら、強い力で引き戻された。ベッドに仰向けに押し付けられて、あっと声を上げそうになったところを手で口を塞がれた。驚いて見上げたら、シィ、ってマキが至近距離で囁いてくる。間に手のひらが無ければ、きっと唇同士が触れてるだろうってくらいに近い。毛布に覆い隠された中で、マキに押し倒されてる状況に混乱した。なんだ、なんだこれ。
(静かに)
目だけでそう伝えたマキが、扉の方を横目で見やった。一拍置いて、遠慮のないノック音がくぐもって聞こえてきた。ドアノブがガチャリと回って、蝶番が軋む音がする。おばさんだ。
「おはようマキ。ねえ、ハリーを見てない?」
「おはよう。見てないけど」
「ああもう、まったく、朝食の準備もしないでどこに行ったのかしら!」
「さあね。ゴミ捨てにでも行ったんじゃない。今日は確か回収の日だろ」
「ああ、そうね…。… マキ、あなたもいい加減に起きなさい。ダドリー坊やはもう席に着いてるわよ」
「分かったよ。すぐ行く」
扉が閉まった。身を固くしながら、トントンと階段を降りていく音に耳をすましていたら、口元を覆う手のひらがそっと離れていった。毛布をうまく使って僕をおばさんから隠したマキが、「おはよう」って言いながら二の腕を取って体を起こしてくれる。
「…ごめん。ありがと」
「何が?」
なんてことない顔ですっとぼけるマキに胸の奥がざわついた。何がってことがあるか。また忙しない気持ちになる。そんな僕に構わずさっさと部屋を出て行こうとするマキに、慌てて寝巻きの裾を掴んで引き留めた。
「ま、待って」
「えっ、なに」
「えっと…」
「…先に君が下に行く?」
一緒に行かない方がいいんでしょ、という言葉に、それはそうだけど…と口ごもる。さっきはマキが咄嗟にごまかしてくれて助かった。それはそう。それはそうなんだけれども、なんだか名残惜しくて、行ってほしくないと思ってしまった。
このベッドから下りて一歩部屋を出てしまえば、昨夜のことなんてまるで無かったように、いつもの二人に戻ってしまう。それがどうしようもなく嫌だと思った。
「…僕に行って欲しくないわけ」
マキはたまに確信を突いてくるから困る。
平然とした顔でそんなことを言われて、思わず言葉に詰まってしまった。
「…」
「違うの?」
「……違わない」
ふるふると首を横に振った。呆れられるかな、と思ったけどマキはただ意外そうな顔をするだけだった。
そんなわがまま言ったってどうしようもないのは分かってる。分かってるけど理屈じゃないんだ、もう。マキは風のように掴みどころがない人で、色んなことを柳に風と受け流してしまう。そんなマキを捕まえようと思ったら、手段なんて選んでられないと思った。言いたいことは言うしかない。
「マキ」
「なに」
「僕、君が好きだ」
だから一緒にいて欲しい。今だけじゃなくて、これから先、僕が帰る場所にいて欲しい。
皺が寄るのにも構わずに、裾を掴む手に力を込めた。マキの視線は真っ直ぐ僕に落ちてきて、驚くでも茶化すでもなく、いつもみたいに平然としてる。その読めない表情に胸の内が破裂しそうになるのを感じながら、唇を引き結んで返ってくる言葉を待った。
今日ここに至るまで、僕はマキに色んなものを貰ってきた。思い出も、優しさも、その全てが僕にとって必要なものだったけど、今はただ君が欲しい。大げさなんかじゃなくそう思った。
まるで審判を待つような時間が過ぎて、それが長いのか短かったのかすら僕にはよく分からない。緊張で目眩がしそうだ。そんな折に、ふとマキの指が顎にかかって、くいと上向きにされた。鼻先がくっつくくらい近い距離で、真っ直ぐ覗き込まれると喉が鳴った。マキの顔は涼やかで、やっぱり綺麗だ、と思う。
「僕のこと好きなの?」
「…うん」
「ふぅん」
「あの、マキ…僕は…」
「好きにしたら」
え、と思わず声が漏れた。不意を突かれて、無意識のうちに出た声だ。そんな動揺ごと飲み込むみたいに、マキが浅く唇を重ねた。触れるだけの軽いキスに、僕は、一瞬何が起きたのか分からなかった。まつげの先がまぶたをくすぐって、伏せた瞳に奪われる。マキが離れていっても、僕は放心したまま、しばらく見上げることしかできなかった。
そんな僕に、なんてことない顔でマキが言う。
「好きにしたらいいんじゃない」
「…え…」
「君の自由だよ。やりたいようにしたら」
「え、あの、」
「じゃ、先に行ってるから」
なん、なんだそれ。なんだそれ!
去り際に前髪を混ぜるように撫でられて、その手つきの柔らかさと、さっさと部屋を出て行こうとするマキに信じられない気持ちでいっぱいになる。好きにしていいって、なんだ。好きにしていいのか僕は。君のことを。それって一体どういうことなんだ。マキも僕のことを好き、って、そういうことなんだろうか。
僕の気持ちに応えてくれるってことなのか、それともマキのことだから、風の吹くまま流れるままに、流れに身を委ねているだけなのか。
ありえる。マキは優しいのか優しくないのか、すごく不明瞭な奴なのだ。
ドアノブに手をかけるマキの後ろ姿を、なんの言葉もかけられずにぼうっと眺めた。今更心臓が走り出して、そっちをなだめるので精一杯だ。
ガチ、と、鳴るはずのない音がやけに響いた。
「えっ」
「…」
「…」
「…」
「…開かないんだけど」
マキが不可解そうにこちらを振り向いた。
僕は咄嗟に両手を挙げて無実をアピールしたけど、我ながら厳しい主張だった。
杖がなくても魔法が使えることは、一年前の動物園で経験済みだ。
「ご、ごめん…」
「…」
「だって、好きにしたらって言うから…」
「…」
「つい…」
「…」
セルフ出られない部屋。
2021.3.20
僕のことどう思ってる? って、言いかけてやめた。もう何度目かの逡巡だった。
冬の夜はこういうことが多くて嫌だ。空気が冷たくて、体だけじゃなく心までそら寒くなるせいか、言わなくていいことを言ってしまいそうになる。今まで我慢できてたことが、途端に難しいことのように思えてしまうのだ。
薄っぺらい毛布の中で、ひとり丸まってどうにか眠りにつくのに耐えられていた頃の僕なら、きっとこんなことでは悩まなかった。あの日、マキが僕をベッドの中に引っ張り込んだ時から、どうにも堪え性がなくなってしまったように思えてならない。
「マキ。…もう寝たの」
すぐ隣で寝息を立てる彼に確かめるように問いかけた。本当に聞きたいことは聞けないくせに、こんなどうでもいいことなら口に出せる僕はやっぱり臆病か。
真夜中の暗い部屋の中で、マキの澄ましたような寝顔が月明かりに照らされている。その輪郭をぼんやり眺めながら、僕は、返事がないことに少しだけ落胆した。マキは寝つきがいいからどうせ寝ているだろうとは思ったけど、なんだか置いてかれたような気がして寂しい。やっぱり僕が隣にいようがいまいがマキには関係なくて、ただベッドが狭くなっても怒らないでいてくれるということが、彼の優しさなのかもしれない。
心地よい温度の中でぴったり寄り添う。あの日のキスといい、寝ている彼に対してつい遠慮を無くしてしまうのは僕の悪い癖だった。マキは普段何を考えているのかよく分からないところがあるから、起きている彼にどう接していいのか迷ってしまうことがあったし、知らず知らずのうちに彼の意に沿わないことをして嫌われることが怖かった。
「……僕、帰ってきたよ」
君のところへ。
そうこぼすように呟いて背中を丸めた。
ホグワーツでの夢のような一年間を終えて、この地獄のような家に帰ってくることができたのは、マキがここにいたからだ。
一年ぶりに会うマキにちゃんとその気持ちを伝えようと、帰りの汽車に揺られていた時から心を決めていたのに、当のマキは帰ってきた僕を見て特に驚いた様子もなく、「ああ、おかえり」なんてまるで昨日ぶりにでも会ったようなあっけらかんとしたトーンで言うものだから、僕は出鼻を挫かれてしまって、おずおずと頷くことしかできなかった。
会いたかったのは僕だけで、マキはそうでもなかったのか。
正直なところ、この一年、……折に触れてはマキのことを思い出してしまっていたこの一年の中で、僕にとって彼がどれだけ大きい存在かと言うことを、いやというほど自覚した。
ここは僕の帰る家ではないけど。
僕の帰るところにはマキがいて欲しい。
この感情にどう名前を付けたものか、今ここに至っても分からなくて、その夜、空が白むまでうんうん唸っていた。
「最近ずっと考えごとしてるよね」
「え」
「言ってみなよ」
それとも、僕には到底言えないようなこと?
ある日の朝、マキがそんなことを言い出して、僕はそっと息を飲んだ。
ホグワーツから帰ってきてからずっと、僕はマキと一緒のベッドで寝ている。一年ぶりのダーズリー邸はやっぱり居心地が悪く、おじさんやおばさんが僕を毛嫌いする様は変わらなかったし、ダドリーも悪辣ないじめっ子からまるで成長していない。ただ、魔法を扱う僕を気味悪がったおじさんは僕に二階の一室を分け与えた。本当にいやいや、しょうがなくといった風に。元はダドリーのおもちゃ部屋だったそこはマキの部屋の隣に位置していて、誰にも気付かれずに素早く彼の部屋を訪れることができるな、とあてがわれた瞬間そんなことを考えた。
そんな思いが高じたせいか。階段下の物置よりは広いだけの、埃っぽく閉ざされたその部屋で、どうしても一人で眠る気になれなくて、僕はその夜勇気を出してマキの部屋の扉を叩いた。
扉を開けたマキは僕を見下ろすと意外そうな顔をして、それからちょっとだけ考える素振りを見せたあと、何も言わずに毛布を被って寝てしまった。もしや無視されたのか、とその時僕は傷ついてしまったんだけれど、ベッドに半分空けられたスペースを見ておそるおそる隣に潜り込んだ。マキはそれを咎めることも、追い出すこともせず当たり前みたいに寝入っている。
きっと、こんな夜更けにやってきた僕を見て、マキは一年前のことを思い出したんだろう。何か用? とでも言いかけて、そういえば一緒に寝たこともあったな、今日もそうするつもりで来たんだな、とそんなふうに思い当たったんだろう。
……彼にとっては思い出さないといけないようなことだったのかな。僕はあの温もりを一瞬たりとも忘れたことなんてなかったのに。
それでも拒まれなかったことが嬉しくて、ちょっと図々しくなることに決めた。夜になるたびにマキのベッドに潜り込んだ。夜は特に冷え込む冬だ。二人分の体温が心地良かった。ちょっとした湯たんぽの代わりだと思っているのか、マキはやっぱり何も言わずに黙って僕を迎え入れた。時折、寝ぼけたマキに抱きしめられるようなことがあって、僕はその度にドキドキした。
そんな夜を何度か過ごして、そうして迎えた朝に、これだ。
「な、なんのこと…」
思わずしらばっくれてしまったけど、マキは何も言わなかった。僕が白状するのを待ってるみたいだ。
朝、目を覚ますと目の前がマキのシャツで埋まっていた。胸元に顔を埋めていることに気付いて、ドギマギしながら目線をあげると、頬杖をついたマキが僕をじっと見下ろしていて、思わず声を上げそうになったけれどもなんとか頑張って飲み込んだ。マキはいつもの笑っても怒ってもないような涼しげな顔で、そんな僕の動揺なんか気にも留めてないようだった。
「おはよう」
「お、おはよう…」
ずっと見てたの、って尋ねた声は寝起きらしく掠れてしまった。
いつもは大概僕の方が先に起きて、まだ寝ているマキをベッドに残して自室に戻るのが常だった。キッチンで朝食の卵を焼き始める頃に寝巻きのままのマキが降りてきて、示し合わせたわけでもないのに、さも一緒になんて寝てなかったようなそっけない顔でおはようって言うのが常だったはずだ。
それがどうして今日に限って。
“最近ずっと考えごとしてるよね”……唐突なマキのその言葉に、思わずしらばっくれてしまったのは悪手だっただろうか。うろたえる僕の次の言葉を待ち続けるマキの視線にもちょっと怯んだ。
考えてることなんてあるに決まってる。それを君に伝える勇気がないから悩んでるのに。
マキが僕のことをどう思ってるのか。マキにとって僕は一体なんなのか。
今ここで聞いたっていいんだ、本当は。
「…」
「なに、どうしたの」
それでも聞くことができないのは、ただの弟だと言い切られるのが怖いからだ。
なんとなく確信があった。マキはきっと僕のことを、なんの誇張もなく、ただの弟だと思ってる。だから本当の家族みたいに、ダドリーを相手にするように接するし、おじさんやおばさんみたいに蔑ろにしたりしない。そんなマキのことを僕はずっと変な人だと思っていたけど、同時に救われているとも感じてた。でも、今の僕は、なんとなくその関係が嫌だと思う。
ただの家族じゃ嫌なんだ。僕がマキを思うのと同じくらい、マキも僕のことを思ってほしいと願うのは、やっぱりわがままなんだろうか。
「教えてくれないんだ?」
「…」
「別に、言いたくないならいいけど」
「え、よ、よくない…!」
いいわけない! 咄嗟に裾を掴んでぶんぶんと首を横に振った。いけない。また同じ轍を踏んでしまうところだった。マキは深追いなんかしないんだ。僕が一度すっとぼけてしまえば、それ以上は踏み込んでこないってことちゃんと知ってたはずなのに。
「マキはさ…」
「なに」
「…」
「なんだよ」
「僕のことどう思ってるの」
だから僕の方から踏み込むしかなかった。心臓がバクバクといやな音を立てた。思い切って見上げたら、少しだけ眉をひそめて透かすように目を覗き込まれて、距離が近くてどきっとする。寝ている彼が横にいるのは慣れても、こうして意識がある状態で目線を合わせるとやっぱり忙しない気持ちになった。
「そんなことで悩んでたの?」
「…」
「ふぅん」
「…」
「変わってないね、君は」
呆れられた……ってわけじゃなさそうだった。マキの両手が僕の髪をぐしゃぐしゃに混ぜるのをぼけっとしながら受け入れた。降りてくる視線がちょっとだけ柔らかい気がして、無性に叫び出したい気持ちになる。なんだ、なんなんだその顔は?
「良かった」
ぱっと離れた手に名残惜しさを感じながら、マキの発言の意図を探った。良かった、ってどういうことだ。僕が悩んでることなんかマキにとってはどうでもいいようなことだって、それくらいはちゃんと分かってたけど、だからってそんなふうに言われるのは腑に落ちない。
「良かったって、何が?」
「ん?」
「何が良かったの?」
「いや、てっきり」
「…」
「例の学校で嫌なことでもあったのかと思ってたから」
違うんでしょ。だから良かった。
虚を突かれた、というのはまさしくこういうことを言うのだと思う。
ホグワーツでの暮らしはまさに夢のような毎日で、この家から離れて生まれて初めての友達と過ごせた時間は僕にとっての救いだった。そりゃ、嫌なこともあったけど、得られたものに比べたらちっぽけなことだ。
でも、そんなことマキには一言も言ってなかった。離れていた一年間のことを、僕はこの家の誰にも言わなかった。だって聞かれなかったし、言ったってそっけない反応をされるのがオチだろうと思ったから。
だからそんな勘違いをしたのか、マキは。夜になるたびに無言でベッドに潜り込んでくる僕のことを、彼なりに考えて、黙って今日まで受け入れてくれてたのか。
なんだかもう、どうしようもないような気持ちになって、たまらなくなってマキの胸に飛び込んだ。勢いのついた僕の体を受け止めきれずに、マキは背中から床に落っこちた。
「いだっ」
頭をしこたま打ちつけたマキの体に引っ付いてぎゅうぎゅう抱きしめた。ずるい。ずるいよ、マキ。いつも風のように掴みどころがなくて、優しいのか優しくないのかも分からないふりして、そのくせそんなこと言うのはずるいと思う。マキが僕のことを考えてくれてたのが嬉しくて、自分ひとり悩んでいたことなんて途端にくだらなく思えてきた。ただの兄としての目線でもいいよ。マキは今のままでもいい。今はそれだけで充分じゃないか。
これからマキとどうこうなろうと思ったら、僕がそれなりの行動をすればいいだけだ。
「ハリー、重いんだけど…」
「マキ」
「あ?」
「僕と一緒にいて」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げるなんて珍しい。それが僕のせいだってことにすら高揚した。
「一緒にいるじゃん。変なの」分かってないマキは不可解そうにそう言って、なだめるみたいに背中を撫でた。落ち着くどころか胸がどんどん締め付けられる。この手のひらも体温も、僕だけのものになったらいいのにな、と思ったら、それしか考えられなくなった。
▽
「マキ、あなた、最近夜中に出かけなくなったわね」
「そうかな」
「いい傾向じゃないか。夜遊びは程々にしておきなさい」
「そうするよ」
ある日の朝食の席でおばさんやおじさんにそう言われたマキが、顔色ひとつ変えずにやり過ごしているのをバレないようにキッチンから窺った。おばさんの言うように、僕が夜中に部屋を訪れるようになってからマキはガールフレンドとの逢瀬をやめた。それについて申し訳ないなと思ったのは最初のうちだけで、今では死んでも行かせるもんかとすら思っている。
「いつもどこ行ってたんだよ」
「おまえは知らなくていいところ」
「マキ! 坊やに妙なこと吹き込まないでちょうだい」
「はいはい」
涼しい顔でトーストをかじるマキは決して言わないだろうけど、きっと僕のためにこの家に留まってくれている。マキのやり口はもう大体分かってた。僕が衝動的なタックルをかましたあの日、結局僕のことをどう思っているのかという問いには答えてくれなかったけど、それからも依然としてベッドのスペースを半分空けておいてくれた。それが彼なりの優しさだってことは僕にも分かる。
「あなたが真面目になってくれて嬉しいわ」
「真面目ね…」
おばさんの言葉にマキはおざなりな返事をして、明後日の方に目線をやった。マキと僕の二人だけの秘密があることが、なんだか異様に嬉しかった。
▽
そういえば、そろそろマキの誕生日が近い。一年前と同じように、注文するケーキはダドリーのワガママが通ったし、おばさんがこしらえる予定で書き出したレシピはダドリーの好物ばかりが揃っていた。マキは自分の誕生日やお祝い事には淡白だったから、毎年のことながら気にも留めていないようだ。でも、そういえば、僕だってマキの好物を一つも知らない。欲しいものとか、やって欲しいことも何も知らないことに気付いて、少し寂しい気持ちになった。
「何かして欲しいことはある?」
「なに、急に」
夕食の片付けを終えて、いつものようにベッドに潜り込んだら珍しくマキがまだ起きていたので勇気を出して聞いてみた。いつもいつも貰ってばかりだし、今年こそ僕から何か渡せないかとずっと考えていたんだけれども、ついに何も思いつかなくてとうとう誕生日前日になってしまった。急に切り出した僕にマキは目を瞬いて、あー…と少しだけ考える素振りを見せた。
「もしかして誕生日だから?」
「…うん」
「いらないよ、そんなの。僕だって君にあげたことないじゃん」
そんなの嘘だ。言葉にしていないだけで、マキから貰ったものなんてたくさんある。
マキは、多分、人に恩を着せるのが嫌いなんだと思う。だから家族として当たり前のことをしてるだけだと言う。でも、おじさんもおばさんも、ダドリーだって僕には何もしてくれないんだから、普通じゃないのはどう考えたってマキの方だ。
「して欲しいことね…」
じっと見上げる僕に折れたマキが、伏し目になって呟いた。枕を抱え込んで顎を乗せる仕草がいやに幼くて、僕の前で気を抜いた姿を見せてくれてるのかなと思うとドキドキする。
「なんでもいいの」
「う、うん。僕にできることなら」
「じゃあ、こっち来て」
隣を示すようにポンポンとベッドを軽く叩かれて、予想外のお願いにそっと息を飲んだ。マキの方から僕を呼ぶなんて、もしかして初めてじゃないだろうか。困惑したままおずおずと隣に座ったら、もっと近くと腕を引かれた。肩をぐっと押されて、ベッドに二人並んで寝転んだ。僕はもうマキにほぼ抱き込まれるような形で、心臓の音が聞こえるくらいの密着具合に一瞬で頭が沸騰したけど、マキの心音は一定のリズムを保って、まるで穏やかなままだった。なんか悔しい。僕の心臓はもう爆発寸前だ。
「な、何…?」
「寒いから。今日だけ僕の湯たんぽになってよ」
それじゃいつもと変わらないじゃないか! そう声を上げようとした僕を牽制するみたいに、ぐっと頭を抱き込まれて、うなじのあたりに指がかかるともう何も言えなくなってしまった。
寝ぼけて意識のないマキに抱き寄せられるのと、はっきりとした意思でこんなことされるのとじゃまるで意味が違ってくる。マキの人より低めの体温が、じんわりと僕の熱と混ざり合った。僕の気持ちを分かっててこんなことをしてるのかな。多分分かってないと思う。心臓がバクバク波打っているのがバレるのは恥ずかしい気持ちもあったけど、そんな遠慮なんて何の意味もないってことを僕はもう知っている。だから自分からマキの背中に腕を回して、ぎゅっと強く抱きついた。
マキのばか。あとで後悔したらいいよ。きっともう何もかもが遅いんだから。僕は自分の気持ちを誤魔化すのをやめにしたし、ただの弟だって思われてることに納得なんかできるわけない。僕をそんな風にしたのはマキの方だ。
ちょっとでも僕の思いが伝わればいいと、マキの体をきつくきつく抱きしめた。
「ハリー、苦しいんだけど…」
「我慢して」
「誕生日なのに…?」
時計の針は十二時を回っていた。おめでとう、と呟いたら、返事の代わりに軽く背中を撫でられた。
誕生日おめでとう、マキ。君がこの家にいてくれて良かった。って、心の中でそう付け加えた。いつか面と向かって言えたらいいな。きっとマキは呆れたように、大げさだねって言うんだろう。
そんなことを考えながら夜を明かしたら寝過ごした。心臓がやかましくてなかなかすぐに寝付けなかったのだ。
「ハリー!」おばさんのつんざくような声に強制的に目が覚めて、跳ねるように飛び起きた。手元に時計はないけど、なんとなく体感で朝食の時間を過ぎていることだけは分かる。慌ててベッドから飛び出そうとしたら、強い力で引き戻された。ベッドに仰向けに押し付けられて、あっと声を上げそうになったところを手で口を塞がれた。驚いて見上げたら、シィ、ってマキが至近距離で囁いてくる。間に手のひらが無ければ、きっと唇同士が触れてるだろうってくらいに近い。毛布に覆い隠された中で、マキに押し倒されてる状況に混乱した。なんだ、なんだこれ。
(静かに)
目だけでそう伝えたマキが、扉の方を横目で見やった。一拍置いて、遠慮のないノック音がくぐもって聞こえてきた。ドアノブがガチャリと回って、蝶番が軋む音がする。おばさんだ。
「おはようマキ。ねえ、ハリーを見てない?」
「おはよう。見てないけど」
「ああもう、まったく、朝食の準備もしないでどこに行ったのかしら!」
「さあね。ゴミ捨てにでも行ったんじゃない。今日は確か回収の日だろ」
「ああ、そうね…。… マキ、あなたもいい加減に起きなさい。ダドリー坊やはもう席に着いてるわよ」
「分かったよ。すぐ行く」
扉が閉まった。身を固くしながら、トントンと階段を降りていく音に耳をすましていたら、口元を覆う手のひらがそっと離れていった。毛布をうまく使って僕をおばさんから隠したマキが、「おはよう」って言いながら二の腕を取って体を起こしてくれる。
「…ごめん。ありがと」
「何が?」
なんてことない顔ですっとぼけるマキに胸の奥がざわついた。何がってことがあるか。また忙しない気持ちになる。そんな僕に構わずさっさと部屋を出て行こうとするマキに、慌てて寝巻きの裾を掴んで引き留めた。
「ま、待って」
「えっ、なに」
「えっと…」
「…先に君が下に行く?」
一緒に行かない方がいいんでしょ、という言葉に、それはそうだけど…と口ごもる。さっきはマキが咄嗟にごまかしてくれて助かった。それはそう。それはそうなんだけれども、なんだか名残惜しくて、行ってほしくないと思ってしまった。
このベッドから下りて一歩部屋を出てしまえば、昨夜のことなんてまるで無かったように、いつもの二人に戻ってしまう。それがどうしようもなく嫌だと思った。
「…僕に行って欲しくないわけ」
マキはたまに確信を突いてくるから困る。
平然とした顔でそんなことを言われて、思わず言葉に詰まってしまった。
「…」
「違うの?」
「……違わない」
ふるふると首を横に振った。呆れられるかな、と思ったけどマキはただ意外そうな顔をするだけだった。
そんなわがまま言ったってどうしようもないのは分かってる。分かってるけど理屈じゃないんだ、もう。マキは風のように掴みどころがない人で、色んなことを柳に風と受け流してしまう。そんなマキを捕まえようと思ったら、手段なんて選んでられないと思った。言いたいことは言うしかない。
「マキ」
「なに」
「僕、君が好きだ」
だから一緒にいて欲しい。今だけじゃなくて、これから先、僕が帰る場所にいて欲しい。
皺が寄るのにも構わずに、裾を掴む手に力を込めた。マキの視線は真っ直ぐ僕に落ちてきて、驚くでも茶化すでもなく、いつもみたいに平然としてる。その読めない表情に胸の内が破裂しそうになるのを感じながら、唇を引き結んで返ってくる言葉を待った。
今日ここに至るまで、僕はマキに色んなものを貰ってきた。思い出も、優しさも、その全てが僕にとって必要なものだったけど、今はただ君が欲しい。大げさなんかじゃなくそう思った。
まるで審判を待つような時間が過ぎて、それが長いのか短かったのかすら僕にはよく分からない。緊張で目眩がしそうだ。そんな折に、ふとマキの指が顎にかかって、くいと上向きにされた。鼻先がくっつくくらい近い距離で、真っ直ぐ覗き込まれると喉が鳴った。マキの顔は涼やかで、やっぱり綺麗だ、と思う。
「僕のこと好きなの?」
「…うん」
「ふぅん」
「あの、マキ…僕は…」
「好きにしたら」
え、と思わず声が漏れた。不意を突かれて、無意識のうちに出た声だ。そんな動揺ごと飲み込むみたいに、マキが浅く唇を重ねた。触れるだけの軽いキスに、僕は、一瞬何が起きたのか分からなかった。まつげの先がまぶたをくすぐって、伏せた瞳に奪われる。マキが離れていっても、僕は放心したまま、しばらく見上げることしかできなかった。
そんな僕に、なんてことない顔でマキが言う。
「好きにしたらいいんじゃない」
「…え…」
「君の自由だよ。やりたいようにしたら」
「え、あの、」
「じゃ、先に行ってるから」
なん、なんだそれ。なんだそれ!
去り際に前髪を混ぜるように撫でられて、その手つきの柔らかさと、さっさと部屋を出て行こうとするマキに信じられない気持ちでいっぱいになる。好きにしていいって、なんだ。好きにしていいのか僕は。君のことを。それって一体どういうことなんだ。マキも僕のことを好き、って、そういうことなんだろうか。
僕の気持ちに応えてくれるってことなのか、それともマキのことだから、風の吹くまま流れるままに、流れに身を委ねているだけなのか。
ありえる。マキは優しいのか優しくないのか、すごく不明瞭な奴なのだ。
ドアノブに手をかけるマキの後ろ姿を、なんの言葉もかけられずにぼうっと眺めた。今更心臓が走り出して、そっちをなだめるので精一杯だ。
ガチ、と、鳴るはずのない音がやけに響いた。
「えっ」
「…」
「…」
「…」
「…開かないんだけど」
マキが不可解そうにこちらを振り向いた。
僕は咄嗟に両手を挙げて無実をアピールしたけど、我ながら厳しい主張だった。
杖がなくても魔法が使えることは、一年前の動物園で経験済みだ。
「ご、ごめん…」
「…」
「だって、好きにしたらって言うから…」
「…」
「つい…」
「…」
セルフ出られない部屋。
2021.3.20