短い話
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※監督生
ねえ、聞いてますか?
そう、そうです。あなたですよ。他に誰がいるって言うんです。今、このラウンジには僕とあなたしかいないじゃないですか。まったく。感謝してくださいよ。なんたって僕が、この僕が、わざわざ人払いをしてやったんですから。金の卵を産むわけでもないあなたのために、金を落とす客をこのラウンジから追い払って、二人きりになれる場を用意してやったんですよ。
そうするに相応しいだけの対価を、あなたからいただけると嬉しいんですけどね…。
先日。
あなた、僕のことを尾けていたそうじゃないですか。
僕はそのとき、あなたがそんなことをしていたなんてまったく気付いていなかったんですよ。迂闊でしたね。僕としたことが…。いえ、本当はなんとなく気配くらいは感じていました。正しくは、気にもとめていなかったと言うべきですか。なにせ、背後から狙われることは日常茶飯事なものですから。海のような慈悲深さを持つ僕らの施しに、なんと逆恨みなどしてくるマヌケな連中が陸にはやたらといるもので…。不意を突いて僕らをのしてやろうとする輩の多いこと多いこと。まったく、この僕にそんな算段が通用するわけないじゃないですか? あの双子だってバカじゃありません。無礼には無礼で返すのが礼儀ですよ。返り討ちにあってすごすご帰っていく背中のみっともないことといったら! …ねえ、あなたはそんなクチではありませんよね。あの単細胞どもと同じように、まさか僕を懲らしめてやろうと、そんなことを思ってつけ狙っていたわけではないですよね?
ねえ、聞いてますか。
あの日フロイドが言っていました。
あなた、僕に伝えたいことがあったんじゃないかって。だから後を尾けていたんじゃないですか。柱の影から伺いながら、タイミングを見計らっていたのではないですか。僕はほとんどジェイドやフロイドと一緒にいましたから、あの二人が側にいると都合の悪かったあなたは、今か今かと僕が一人になる機会を待ち続けて、そのうち諦めて帰ってしまったんでしょう。まったく、それならそうとさっさと僕だけを呼び出してくれたらよかったのに…。ええ、そうは思いましたけど、分かってますよ。きっとそう出来ない事情があったんですよね。
今日はその事情とやらも含めて、あなたが僕に何を伝えようとしているのか、洗いざらい話してもらうために来てもらったんですよ。
……あの、ちゃんと聞いてます? あなたの話をしているんですよ、僕は。
はあ、聞いてますけど…。
先輩、そういえば、お身体の具合はどうですか。なんだか体調があまり優れないと聞きましたけど。こないだすれ違ったときに青い顔をされていたのが気になって、そうしたらジェイド先輩がきっと過労だろうって教えてくれました。
寮長のお仕事だけでも大変なのに、その上ラウンジの経営までされているんですから、先輩の仕事量ってきっと私の想像以上ですよね…。いくらキャパシティの大きい先輩といえども、いつか倒れちゃうじゃないかって、私ちょっと心配なんです。
というのもですね、このあいだ初めて知ったんですけど、この世界にも魔剤というものがあるんですってね。カフェイン飲料って言うんですか。こっちでいうところのモンスターとかレッドブルとか……、あの、そういうものに翼を授けてもらいすぎると、結局ガタが来るんですよね。疲労をツケてしまっているというか。先輩が働き者なのはよく分かってますけど、酷使していいものと悪いものって、やっぱりあると思うなぁ…。
…あの、聞いてました?
僕の体調のことなんかどうでもいいんですよ。あなたが僕のことを…その、心配していた…というのは、結構なことですけどね。でも話の筋が違うでしょう。僕は、あなたが僕のことを尾けていた理由を聞きたいんですよ。あの双子がいるところでは話せない何かがあるから、あんなふうにこちらを窺っていたんじゃないんですか? 違うと言うなら、一体他に、どんな理由があったというんでしょう…。
しかし、そのモンスター…やら何やらは知りませんけど、似たようなものならイデアさんもよく限界を超えた顔でグビグビ飲んでいますね。ああ、彼にそれを教えてもらったんですか。なるほど。まあ僕が飲んでいるのはあんな甘ったるいものではないですが、効能としては似たようなものでしょうか。赤マムシの頭、サソリの尾、蟻の胴体、馬の心臓なんかを煮込んで作った特別製です。効き目はやはり雲泥の差……え? ミンミン…? 何ですかそれは。ミンミンダハ? 知りませんね。そちらの世界の言葉ですか?
……体にいいか悪いかはともかく、脳の稼働時間が増えることは確かですよ。時は金なりとはよく言ったもので。まったくこの言葉は金言ですね。
ああ、もう、何の話をしているんですか。違いますよ。僕はあなたの話が聞きたいのに…。なんであの日僕を尾けていたのか、その理由です。ねえ、ちゃんと聞いてますか?
はあ、聞いてますけど…。
その、実をいいますと私、あの日は先輩に用事があったわけじゃないんです。すみません。その日の朝、フロイド先輩にあるものを取られちゃって。それをなんとか取り返せないかと機会を窺っていたのです。取られたものというのが、その……今つまびらかに言えるようなものではないんですが……。
ええと、つまり、先輩の後を尾けていたわけじゃなく、フロイド先輩の隙を狙ってたんですよ。当然フロイド先輩に隙なんてものは無くて、結局諦めてトボトボ帰ることになったんですけど、その日の夜にオンボロ寮まで来てあっさり返してくれました。一体何がしたかったんでしょうか。フロイド先輩って本当に気まぐれな方ですね。
とはいえ私が先輩の周りで怪しい動きをしていたのは確かです。すみません、不審がらせてしまってたんですね。面目ないです。
……あれ?
先輩、なにやら顔色がよくないような…。あの、聞いてますか?
え、ええ、聞いてますよ。もちろん…。
そ、うですか。そうなんですね。フロイドのやつがとんだご迷惑をおかけしたようで。あいつはいつも僕にも予測できないことをやるんですよ。監督生さんのことは多少なりとも気に入っているようですから、悪意で何かすることはないと思いますが。しかし、そう、そうですか。フロイドにね…。……あの、その取られたものというのは……。…そうですか、教えられない…と。べ、別に、確認のために聞いてみただけです。気にしないでください。フロイドが度を超えたオイタをしていたら少々叱ってやらねばなりませんので、その度合いをはかるために聞いてみただけで…。…はあ…。
ともかく、ちゃんと返してもらえたのなら結構です。あなたも遠慮ばかりしてないで、言いたいときはきっぱり言ってもいいんですよ。それで逆上するような奴ではないですから。…多分。まあ、なんでそんなことをしたのか、僕から事情を聞いておくこともできますが。
あ、いえ、わざわざ聞いてもらわなくても…。
大丈夫ですよ。ちゃんと返してもらえましたから。フロイド先輩にはいろいろちょっかいかけられますけど、それでも根っこは優しいんですよね。この短い付き合いでもなんとなく分かります。
このあいだジェイド先輩と一緒に山登りに行ったんですけど、私、途中でコケて全身泥んこになっちゃって。寮に帰ったらフロイド先輩に爆笑しながらホースの水ぶっかけられました。遠慮がないんですよ、あの人。でも失敗しちゃった時って、いっそあんな風に笑い飛ばしてもらった方が助かるんですよね。ジェイド先輩は呆れたような顔をしていましたけど…。結局ホースで水の掛け合いになって、三人ともずぶ濡れになっちゃって、楽しかったなぁ。
あんな子供みたいな遊びしたの久々で、いい気分転換になりました。先輩、このときの話ってお二人から聞いてますか?
……いえ。聞いてません。
ジェイドと山に行ったというのも初耳です。あいつの山遊びに付き合うなんて、あなたも随分な物好きですね。……え? ああ、自分から頼んで同行した……。そうですか。楽しめたようで何よりですよ。僕はそういったことにはとんと興味が無いものですから。三人楽しく遊んで結構なことですね…。…。
はぁ? 別にいじけてなんかいませんが。はぁ? あのですね、僕はただ寮長として、あの二人を監督する責任が…。…。なんなんですその目は。生ぬるい目で見るのやめていただいていいですかね。
ああ、もう…。くそ。こんなはずじゃなかったんですが……。
いえ、こちらの話です。気にしないでください。僕の取り越し苦労だったようで、お時間取らせてすみませんでした。どうぞ、オンボロ寮にお帰りください。もうあなたに聞きたいことはありませんから。
いいえ、先輩。まだあるはずですよ。
▽
「は?」
「先輩、最初に言ったじゃないですか」
まるで不意をつかれたような顔つきのアズール先輩を、後ろ手で手を組みながらじっと見上げた。緊張で震える指先をごまかすみたいに軽く握ったら驚くくらい冷えてておかしかった。
今日、この場に呼ばれて、先輩と対峙してからずっとこうだ。おかしいな、私ってこんなに緊張しいだったっけ。二人きりのシチュエーションにこんなにもそわそわしてしまうのは、それだけ今この場面が正念場ってことなのかな。それでも表面上はさらりとした態度を頑張って取り繕っていたから、先輩にはバレてないといいんだけど。
「言ったって、何をです」
「私が先輩に何を伝えようとしてるのか…って、最初そう仰ったじゃないですか」
「ええ、尋ねました。でもそれは僕の勘違いで、目的はフロイドの…」
「いいえ、先輩。それは、“なぜ先輩を尾けていたのか”に対する答えです」
目からウロコ…は出ないか。さすがにね。いくら人魚といったってそれはない。そもそも先輩はタコさんの人魚で、吸盤はあれどウロコはないのだ。それでも、まさに目からウロコが落ちたような反応で、レンズの奥の長いまつげがぱしぱしと瞬いた。
先輩に伝えたいこと、あります。どうしても伝えたいことが。でもあの日先輩を尾けていたというのは誤解だったから、それは違うと先に弁解をしただけなのです。
「だから、私、最初の質問にはまだ答えてません」
「そう…ですか。なら、もう一度聞きますが」
「…」
「あなたが伝えたかったこととはなんですか」
「先輩、お身体の具合はどうですか」
「は?」
またそれですか、と言外に伝わる視線が私の瞳を貫いた。大事なことですよ。先輩、お身体の具合はどうですか。無理をしていませんか。黒魔術もどきのエナジードリンクをがぶのみして、イデアさんのこと限界顔なんて呼べないくらい青い顔して、たまに水を掛け合って気分転換をすることもない先輩のことが、私、とても心配なんです。
「だからちょっとでもリラックスしていただきたいな…と思って…」
「え」
「これ、受け取ってください」
後ろ手に隠していたものをなるべく落ち着いた態度で先輩の前に差し出した。出せた。出せたよ。ようやく差し出すことができたそれに視線を注がれる今の時間がとても怖い。ああ、どうか、受け取ってくれますように…。
「これは」
「香り袋、です」
先輩の手のひらに小さな巾着袋を乗せて、またおずおずと手を引っ込めた。
「学園の、向こうの山に咲いてる花の香りにリラックス効果があるって、ジェイド先輩に教えてもらって」
「もしかして、二人でそれを摘みに?」
「案内してもらっちゃいました。ジェイド先輩って山のヌシ…」
「…このタコの刺繍は」
「先輩のものっていう印がほしくて…でも私不器用で、変なエイリアンにしかならなくて…。フロイド先輩に爆笑されました」
「もしかして、フロイドに取られたものというのは」
「これです。夜、返しに来てくれたついでに刺繍直すの手伝ってもらっちゃいました。フロイド先輩って意外と器用…」
「…」
「タコには見えますよね? ね?」
タコどころかエイリアンどころかスライム一歩手前じゃん!! とぐうの音も出ない指摘を飛ばしてきたフロイド先輩のサポートの甲斐あってか、かろうじてヘタウマに見えるタコの刺繍を先輩の白い指が撫でた。喜んでくれたかな。迷惑じゃないかな。押し付けがましくないだろうか。
先輩の表情を見るのが恥ずかしくて、その拙い刺繍にじっと視線を注ぐことしかできなくなった。先輩の言葉を待つ間、依然として柔らかく撫でるその指先に、紫色のタコも赤くなってしまいそうだ。
「……あなたが、作ってくれたんですね」
「は、はい」
「僕のために」
「そうです」
「どうして?」
「どうしてって…」
撫でる。指が。タコを。
でも刺繍のタコは赤くならないし口もきかない。だから代わりに私の方が赤くなったし、私が言葉を紡ぐしかない。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。
「好きな人には、元気でいてほしいから…」
口の中がカラカラになった。うわあ、言っちゃった。言った途端に水分が飛んだ。アズール先輩、好きです。どうか息災であってほしい。私にできることなんてこんな小さなことだけど、少しだっていいんです。貴方の支えになりたいです。かしこ。
しばらく目を瞬いて固まっていた先輩が、やがてずるずるとその場にしゃがみこんだ。両手で優しく祈るように香り袋を握るその手に隠れて、表情は窺えない。私はせめて背筋を伸ばして、まるで判決でも待つ気持ちではやる心臓をどうにかなだめた。やりきった。やりきって偉い。悔いはないよ。もしフラれたら思いっきり笑い飛ばしてあげる、と優しいのか優しくないのかよく分からないフロイド先輩の言葉が脳裏をよぎった。成功したらジェイド先輩がキノコごはんでお祝いしてくれるって。絶対にそっちがいいなぁ…。
でも、しゃがみこんだままうんともすんとも言わない先輩がまるでうなだれているようにも見えて、もしかして望み薄なのかもしれない、と胸が痛んだ。
でも、いいよ。それでもいい。やりきったんだから悔いはないじゃん。
「め、迷惑でしたら回収します」
「は?」
「…」
「バカですかあなたは」
ば、バカ! 先輩にバカって言われてしまった。
はあ、と小さく息を吐いた先輩が、やっとそのお顔を上げてくれた。目の前に香り袋を掲げて、照れくさそうにむにむにといじる先輩の目元が赤く染まっているのを見て、あれって思った。
あれっ。これは、もしかして。
「…充分過ぎる対価をいただいてしまいましたね」
最初に言ってましたね、そんなこと。
どうやら先輩のお眼鏡にかなったらしい。私は嬉しくて嬉しくて、その場にへたり込んでしまった。
タコも赤くなるほどに。
2021.03.16
ねえ、聞いてますか?
そう、そうです。あなたですよ。他に誰がいるって言うんです。今、このラウンジには僕とあなたしかいないじゃないですか。まったく。感謝してくださいよ。なんたって僕が、この僕が、わざわざ人払いをしてやったんですから。金の卵を産むわけでもないあなたのために、金を落とす客をこのラウンジから追い払って、二人きりになれる場を用意してやったんですよ。
そうするに相応しいだけの対価を、あなたからいただけると嬉しいんですけどね…。
先日。
あなた、僕のことを尾けていたそうじゃないですか。
僕はそのとき、あなたがそんなことをしていたなんてまったく気付いていなかったんですよ。迂闊でしたね。僕としたことが…。いえ、本当はなんとなく気配くらいは感じていました。正しくは、気にもとめていなかったと言うべきですか。なにせ、背後から狙われることは日常茶飯事なものですから。海のような慈悲深さを持つ僕らの施しに、なんと逆恨みなどしてくるマヌケな連中が陸にはやたらといるもので…。不意を突いて僕らをのしてやろうとする輩の多いこと多いこと。まったく、この僕にそんな算段が通用するわけないじゃないですか? あの双子だってバカじゃありません。無礼には無礼で返すのが礼儀ですよ。返り討ちにあってすごすご帰っていく背中のみっともないことといったら! …ねえ、あなたはそんなクチではありませんよね。あの単細胞どもと同じように、まさか僕を懲らしめてやろうと、そんなことを思ってつけ狙っていたわけではないですよね?
ねえ、聞いてますか。
あの日フロイドが言っていました。
あなた、僕に伝えたいことがあったんじゃないかって。だから後を尾けていたんじゃないですか。柱の影から伺いながら、タイミングを見計らっていたのではないですか。僕はほとんどジェイドやフロイドと一緒にいましたから、あの二人が側にいると都合の悪かったあなたは、今か今かと僕が一人になる機会を待ち続けて、そのうち諦めて帰ってしまったんでしょう。まったく、それならそうとさっさと僕だけを呼び出してくれたらよかったのに…。ええ、そうは思いましたけど、分かってますよ。きっとそう出来ない事情があったんですよね。
今日はその事情とやらも含めて、あなたが僕に何を伝えようとしているのか、洗いざらい話してもらうために来てもらったんですよ。
……あの、ちゃんと聞いてます? あなたの話をしているんですよ、僕は。
はあ、聞いてますけど…。
先輩、そういえば、お身体の具合はどうですか。なんだか体調があまり優れないと聞きましたけど。こないだすれ違ったときに青い顔をされていたのが気になって、そうしたらジェイド先輩がきっと過労だろうって教えてくれました。
寮長のお仕事だけでも大変なのに、その上ラウンジの経営までされているんですから、先輩の仕事量ってきっと私の想像以上ですよね…。いくらキャパシティの大きい先輩といえども、いつか倒れちゃうじゃないかって、私ちょっと心配なんです。
というのもですね、このあいだ初めて知ったんですけど、この世界にも魔剤というものがあるんですってね。カフェイン飲料って言うんですか。こっちでいうところのモンスターとかレッドブルとか……、あの、そういうものに翼を授けてもらいすぎると、結局ガタが来るんですよね。疲労をツケてしまっているというか。先輩が働き者なのはよく分かってますけど、酷使していいものと悪いものって、やっぱりあると思うなぁ…。
…あの、聞いてました?
僕の体調のことなんかどうでもいいんですよ。あなたが僕のことを…その、心配していた…というのは、結構なことですけどね。でも話の筋が違うでしょう。僕は、あなたが僕のことを尾けていた理由を聞きたいんですよ。あの双子がいるところでは話せない何かがあるから、あんなふうにこちらを窺っていたんじゃないんですか? 違うと言うなら、一体他に、どんな理由があったというんでしょう…。
しかし、そのモンスター…やら何やらは知りませんけど、似たようなものならイデアさんもよく限界を超えた顔でグビグビ飲んでいますね。ああ、彼にそれを教えてもらったんですか。なるほど。まあ僕が飲んでいるのはあんな甘ったるいものではないですが、効能としては似たようなものでしょうか。赤マムシの頭、サソリの尾、蟻の胴体、馬の心臓なんかを煮込んで作った特別製です。効き目はやはり雲泥の差……え? ミンミン…? 何ですかそれは。ミンミンダハ? 知りませんね。そちらの世界の言葉ですか?
……体にいいか悪いかはともかく、脳の稼働時間が増えることは確かですよ。時は金なりとはよく言ったもので。まったくこの言葉は金言ですね。
ああ、もう、何の話をしているんですか。違いますよ。僕はあなたの話が聞きたいのに…。なんであの日僕を尾けていたのか、その理由です。ねえ、ちゃんと聞いてますか?
はあ、聞いてますけど…。
その、実をいいますと私、あの日は先輩に用事があったわけじゃないんです。すみません。その日の朝、フロイド先輩にあるものを取られちゃって。それをなんとか取り返せないかと機会を窺っていたのです。取られたものというのが、その……今つまびらかに言えるようなものではないんですが……。
ええと、つまり、先輩の後を尾けていたわけじゃなく、フロイド先輩の隙を狙ってたんですよ。当然フロイド先輩に隙なんてものは無くて、結局諦めてトボトボ帰ることになったんですけど、その日の夜にオンボロ寮まで来てあっさり返してくれました。一体何がしたかったんでしょうか。フロイド先輩って本当に気まぐれな方ですね。
とはいえ私が先輩の周りで怪しい動きをしていたのは確かです。すみません、不審がらせてしまってたんですね。面目ないです。
……あれ?
先輩、なにやら顔色がよくないような…。あの、聞いてますか?
え、ええ、聞いてますよ。もちろん…。
そ、うですか。そうなんですね。フロイドのやつがとんだご迷惑をおかけしたようで。あいつはいつも僕にも予測できないことをやるんですよ。監督生さんのことは多少なりとも気に入っているようですから、悪意で何かすることはないと思いますが。しかし、そう、そうですか。フロイドにね…。……あの、その取られたものというのは……。…そうですか、教えられない…と。べ、別に、確認のために聞いてみただけです。気にしないでください。フロイドが度を超えたオイタをしていたら少々叱ってやらねばなりませんので、その度合いをはかるために聞いてみただけで…。…はあ…。
ともかく、ちゃんと返してもらえたのなら結構です。あなたも遠慮ばかりしてないで、言いたいときはきっぱり言ってもいいんですよ。それで逆上するような奴ではないですから。…多分。まあ、なんでそんなことをしたのか、僕から事情を聞いておくこともできますが。
あ、いえ、わざわざ聞いてもらわなくても…。
大丈夫ですよ。ちゃんと返してもらえましたから。フロイド先輩にはいろいろちょっかいかけられますけど、それでも根っこは優しいんですよね。この短い付き合いでもなんとなく分かります。
このあいだジェイド先輩と一緒に山登りに行ったんですけど、私、途中でコケて全身泥んこになっちゃって。寮に帰ったらフロイド先輩に爆笑しながらホースの水ぶっかけられました。遠慮がないんですよ、あの人。でも失敗しちゃった時って、いっそあんな風に笑い飛ばしてもらった方が助かるんですよね。ジェイド先輩は呆れたような顔をしていましたけど…。結局ホースで水の掛け合いになって、三人ともずぶ濡れになっちゃって、楽しかったなぁ。
あんな子供みたいな遊びしたの久々で、いい気分転換になりました。先輩、このときの話ってお二人から聞いてますか?
……いえ。聞いてません。
ジェイドと山に行ったというのも初耳です。あいつの山遊びに付き合うなんて、あなたも随分な物好きですね。……え? ああ、自分から頼んで同行した……。そうですか。楽しめたようで何よりですよ。僕はそういったことにはとんと興味が無いものですから。三人楽しく遊んで結構なことですね…。…。
はぁ? 別にいじけてなんかいませんが。はぁ? あのですね、僕はただ寮長として、あの二人を監督する責任が…。…。なんなんですその目は。生ぬるい目で見るのやめていただいていいですかね。
ああ、もう…。くそ。こんなはずじゃなかったんですが……。
いえ、こちらの話です。気にしないでください。僕の取り越し苦労だったようで、お時間取らせてすみませんでした。どうぞ、オンボロ寮にお帰りください。もうあなたに聞きたいことはありませんから。
いいえ、先輩。まだあるはずですよ。
▽
「は?」
「先輩、最初に言ったじゃないですか」
まるで不意をつかれたような顔つきのアズール先輩を、後ろ手で手を組みながらじっと見上げた。緊張で震える指先をごまかすみたいに軽く握ったら驚くくらい冷えてておかしかった。
今日、この場に呼ばれて、先輩と対峙してからずっとこうだ。おかしいな、私ってこんなに緊張しいだったっけ。二人きりのシチュエーションにこんなにもそわそわしてしまうのは、それだけ今この場面が正念場ってことなのかな。それでも表面上はさらりとした態度を頑張って取り繕っていたから、先輩にはバレてないといいんだけど。
「言ったって、何をです」
「私が先輩に何を伝えようとしてるのか…って、最初そう仰ったじゃないですか」
「ええ、尋ねました。でもそれは僕の勘違いで、目的はフロイドの…」
「いいえ、先輩。それは、“なぜ先輩を尾けていたのか”に対する答えです」
目からウロコ…は出ないか。さすがにね。いくら人魚といったってそれはない。そもそも先輩はタコさんの人魚で、吸盤はあれどウロコはないのだ。それでも、まさに目からウロコが落ちたような反応で、レンズの奥の長いまつげがぱしぱしと瞬いた。
先輩に伝えたいこと、あります。どうしても伝えたいことが。でもあの日先輩を尾けていたというのは誤解だったから、それは違うと先に弁解をしただけなのです。
「だから、私、最初の質問にはまだ答えてません」
「そう…ですか。なら、もう一度聞きますが」
「…」
「あなたが伝えたかったこととはなんですか」
「先輩、お身体の具合はどうですか」
「は?」
またそれですか、と言外に伝わる視線が私の瞳を貫いた。大事なことですよ。先輩、お身体の具合はどうですか。無理をしていませんか。黒魔術もどきのエナジードリンクをがぶのみして、イデアさんのこと限界顔なんて呼べないくらい青い顔して、たまに水を掛け合って気分転換をすることもない先輩のことが、私、とても心配なんです。
「だからちょっとでもリラックスしていただきたいな…と思って…」
「え」
「これ、受け取ってください」
後ろ手に隠していたものをなるべく落ち着いた態度で先輩の前に差し出した。出せた。出せたよ。ようやく差し出すことができたそれに視線を注がれる今の時間がとても怖い。ああ、どうか、受け取ってくれますように…。
「これは」
「香り袋、です」
先輩の手のひらに小さな巾着袋を乗せて、またおずおずと手を引っ込めた。
「学園の、向こうの山に咲いてる花の香りにリラックス効果があるって、ジェイド先輩に教えてもらって」
「もしかして、二人でそれを摘みに?」
「案内してもらっちゃいました。ジェイド先輩って山のヌシ…」
「…このタコの刺繍は」
「先輩のものっていう印がほしくて…でも私不器用で、変なエイリアンにしかならなくて…。フロイド先輩に爆笑されました」
「もしかして、フロイドに取られたものというのは」
「これです。夜、返しに来てくれたついでに刺繍直すの手伝ってもらっちゃいました。フロイド先輩って意外と器用…」
「…」
「タコには見えますよね? ね?」
タコどころかエイリアンどころかスライム一歩手前じゃん!! とぐうの音も出ない指摘を飛ばしてきたフロイド先輩のサポートの甲斐あってか、かろうじてヘタウマに見えるタコの刺繍を先輩の白い指が撫でた。喜んでくれたかな。迷惑じゃないかな。押し付けがましくないだろうか。
先輩の表情を見るのが恥ずかしくて、その拙い刺繍にじっと視線を注ぐことしかできなくなった。先輩の言葉を待つ間、依然として柔らかく撫でるその指先に、紫色のタコも赤くなってしまいそうだ。
「……あなたが、作ってくれたんですね」
「は、はい」
「僕のために」
「そうです」
「どうして?」
「どうしてって…」
撫でる。指が。タコを。
でも刺繍のタコは赤くならないし口もきかない。だから代わりに私の方が赤くなったし、私が言葉を紡ぐしかない。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。
「好きな人には、元気でいてほしいから…」
口の中がカラカラになった。うわあ、言っちゃった。言った途端に水分が飛んだ。アズール先輩、好きです。どうか息災であってほしい。私にできることなんてこんな小さなことだけど、少しだっていいんです。貴方の支えになりたいです。かしこ。
しばらく目を瞬いて固まっていた先輩が、やがてずるずるとその場にしゃがみこんだ。両手で優しく祈るように香り袋を握るその手に隠れて、表情は窺えない。私はせめて背筋を伸ばして、まるで判決でも待つ気持ちではやる心臓をどうにかなだめた。やりきった。やりきって偉い。悔いはないよ。もしフラれたら思いっきり笑い飛ばしてあげる、と優しいのか優しくないのかよく分からないフロイド先輩の言葉が脳裏をよぎった。成功したらジェイド先輩がキノコごはんでお祝いしてくれるって。絶対にそっちがいいなぁ…。
でも、しゃがみこんだままうんともすんとも言わない先輩がまるでうなだれているようにも見えて、もしかして望み薄なのかもしれない、と胸が痛んだ。
でも、いいよ。それでもいい。やりきったんだから悔いはないじゃん。
「め、迷惑でしたら回収します」
「は?」
「…」
「バカですかあなたは」
ば、バカ! 先輩にバカって言われてしまった。
はあ、と小さく息を吐いた先輩が、やっとそのお顔を上げてくれた。目の前に香り袋を掲げて、照れくさそうにむにむにといじる先輩の目元が赤く染まっているのを見て、あれって思った。
あれっ。これは、もしかして。
「…充分過ぎる対価をいただいてしまいましたね」
最初に言ってましたね、そんなこと。
どうやら先輩のお眼鏡にかなったらしい。私は嬉しくて嬉しくて、その場にへたり込んでしまった。
タコも赤くなるほどに。
2021.03.16