短い話
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※逆トリ
「アンタ、ここで何してんの」
「…」
八重田に初めて声をかけられたその時、俺は正直困っていた。もうめちゃくちゃ困っていた。辺りにはしんしんと雪が降って、冷たい北海道の空気が骨身に沁みた。もうすっかり慣れたはずのその寒気の中で、風景だけがまったく見覚えのないもので、端的に言うと俺は迷子になっていた。
アシリパさんが俺からはぐれたのか。
俺がアシリパさんからはぐれたのか。
多分、後者なんだと思う。頭が良くてしっかり者で、俺より山に詳しいアシリパさんがそうそう迷子になるとは思えない。もし仮にそうだとしても、それならここにアホの白石と尾形のバカもいなきゃおかしいわけで、俺がこうして一人ぽつねんとしているということは、迷子になったのはどう考えても俺の方だった。
「お兄さん、聞いてんの」
そもそも山じゃねえし。どこだここ。
そうやって知らない場所で立ち尽くしていたところに奴が現れた。妙に通る声が印象的だったのを覚えている。
今にして思えば、この時出会ったのが八重田で本当に良かったと思う。でもその時の俺は突然現れた制服姿の男に警戒心がバリ立ちで、逃げるか戦うかの決断を脳内で迫られた。すわ軍関係者か、とひそかに身構えながら対峙したが、相手が何者なのか分からない。見覚えのない制服だった。
「あんたは?」
「見て分かるだろ。おまわりさんだよ」
「おまわりさん」
「分かんない? 警察」
警察ゥ? と首を捻る俺を見て相手も鏡合わせのように怪訝な顔をした。そりゃ、警察もおまわりも知ってるけど。なんか、俺の知ってる警察と違う。
「もう一度聞くけど、お兄さん、こんなとこで何してんの」
「別に…。あんた本当に警官か?」
「そうだよ。夜も遅いし、早く家に帰りなよ」
「…」
「…」
「ほんとに警官?」
「疑り深ぁ」
どうやら俺が杉元佐一だと知って声をかけてきたわけではないらしい。ついに警察にまで追われる身になったかと一瞬焦ったが、よくよく考えると第七師団以外に狙われる理由もないから、まあ当然っちゃ当然か…。黒い手帳を見せながら「八重田マキ巡査」と名乗った男は、自転車に跨ったまま器用に頬杖をついた。
「アンタの名前も聞いておこうか。身分証ある?」
「ねぇよ、そんなもん。……あのさ、ここってどこ? 俺、小樽の山ん中にいたはずなんだけど」
「小樽は小樽だけど山なんかないよ。ここはただの空き地」
「はあ?」
素っ頓狂な声が出た。俺はいつのまにか下山していたのか。改めて辺りを見渡すと、なんか、見覚えがないどころの話ではなく……。
「お兄さん、もしかして迷子なわけ?」
男がそう言って、俺はぎこちなく頷いた。自分がどこに立っているのかも分からない今、頼れるのはこいつしかいないと思った。
▽初日
「で、どこから来たんだっけ?」
右も左も分からない俺を自宅へと連れ帰った八重田は、翌朝になって改めてそう尋ねた。
正直、ここに連れられる道中もこの家に着いてからも、何もかもが面食らうことばかりで、一晩経った今でも現実味が無くふわふわしている。もしかして俺、狐にでも化かされてるんじゃないのか。昨日からずっと…。
見たこともない街並み、夜でも一瞬で明るくなる部屋、無限にお湯の湧き出る風呂、快適すぎる便所。その全てが俺の知らないもので、途中から驚くのも疲れたほどだった。
「小樽の山。北側の、中腹辺りにいたはずなんだけど」
「ざっくりしてんなぁ」
机に広げた地図に視線を落とした八重田が、くるくると鉛筆を回しながら首をかしげた。対面で同じように地図を見ている俺には、そこに書かれていることの意味がよく分からない。ただ、今いるのはここ、と鉛筆の先で指されたのは小樽の中でも海岸線に程近い場所で、山岳地からかなり離れているのは地図の縮尺から見ても明らかだった。はぐれたというには説明のつかない距離だ。
「山で一体何してたの」
「別に…。ていうか、すごいなこれ。こんなに詳細な地図初めて見たよ」
「そんなことにも驚くわけ?」
昨晩、あらゆるものに衝撃を受けている俺を見て「浦島太郎みたいだな」とよく分からないことを言った八重田はもはや感心するような目で俺を見た。俺からすればおかしいのはそっちだし、驚くなって方が無理じゃないかと思うんだけど。でも、八重田は変わっているのは俺の方だと言う。
やっぱ俺、夢でも見てんのかな。だとしたらストゥでもなんでも使っていいから今すぐ叩き起こしてほしい。
「今日は非番だから付き合うけど、やっぱ交番で話聞いた方が早いと思うね」
「いや、それは…」
昨日もそう言われて交番に連れられそうになったのを、頑として断ったためにこうして家に泊めてもらうことになったのだ。警察の厄介になるのはまずい。話を大きくして鶴見の耳にでも入ったら事だ。
難色を示す俺を見て、八重田はそれ以上追求しなかった。この若い巡査はそれなりに融通の利くタイプらしい。
「事情があるなら聞かないけど」
「うん…」
「だからってこのままほっぽり出すわけにもいかないな」
「ええ…」
「身分証ないし、住所も言わないし。連絡手段も持ってないんだろ、アンタ」
「…」
「参るね」
そう言いながらも、頬杖をつく八重田の横顔があまり困ってるようには見えなくて、ついつい俺も毒気を抜かれた。
「…なら、なんで手ぇ貸してくれんの?」
「おまわりさんだから」
この町のね、と言う声はあっさりしたものだった。
もう一度あの空き地に行ってみたくて八重田に案内してもらった。家からしばらく歩いたところにあるその場所は、昨夜は暗くてよく分からなかったがどう見てもただの空き地でしかない。三辺を塀で囲まれ、道に面した辺には黄色いロープが張られている。どこにも山につながる道は見当たらなくて、早速行き詰まってしまった。
「なんで俺こんなところにいたんだろ…」
「自分でも分かんないの」
「全っ然分からん…」
気付いたらここに立っていた、という表現が正しい。
「つーか、外に出て改めて思ったけど、やっぱ変だよここ。珍しい車がバンバン走ってるし、見たことない建物ばっかだし、人の様子も変だし」
「…」
「ぶっちゃけ今借りてる服も変」
町中でその格好は目立つからと、言われるがままに渡された服がこれまた奇妙で、どう考えてもこっちの方が変わってると思うんだけど…。
「パーカー、着たことないの?」
「ぱーかー」
「俺の服でアンタが着れそうなの、それしかなかったんだよ。不満?」
「いや、いいんだけどさ…別に…」
ぱーかーってなんだ。分からないことだらけで混乱してきた。一体ここはどこで、俺はどうしてここにいて、アシリパさんはどこにいるのか。どうやって合流したらいいのか皆目見当もつかない。
空き地をぼんやり眺める俺をしばらく見守っていた八重田が、そのうち諦めたような目で俺を見た。
「本格的な迷子ってわけね」
「……そうみたい」
夢なら早く覚めてくれ。
▽二日目
あの空き地で再三現実を確かめた後、また八重田の家に厄介になった。翌朝、二晩も泊めてもらったお礼を述べる俺に、八重田はあっさりしたものだ。「一日も二日も変わらないから」そう言いながらやかんでお湯を沸かす後ろ姿を見ながら、変わった男だと思った。
「狭いボロアパートで悪いね」
「いや、助かるよ。一人で住んでんの?」
「そう。だから気兼ねしなくていいよ」
「ありがとう。…これは?」
「湯」
「湯」
湯気を立てるマグカップを俺に手渡す八重田は、初めて会った時と同じ制服に身を包んでいた。
「今日はこれから仕事だから付き合えないけど、外出てきなよ。もしかしたら探してる人が見つかるかもしれないし」
「そうかな」
「いい町だよ、ここは」
自分もお湯をすすりながら、窓の外を眺める八重田につられて俺も外の景色を見やった。朝日に包まれる世界はやっぱり見覚えのないものだったけど、確かにじっとしているよりはマシだろう。
「南に行くと商店街がある。みんないい人だから色々聞いて回ったら」
「そうするよ」
「じゃ、これここの鍵」
「…」
警官にしては不用心すぎないか、と思ったけど「この家に盗むようなものなんて無いから」と見透かされたように言われて黙って鍵を受け取った。これもまた見覚えのない形だ。
「あるとしてもテレビくらいか。にしたって、今時こんな箱みたいなブラウン管、盗ってく奴がいるとも思えないな」
「てれび?」
「テレビも知らない? このリモコンの赤いボタン、押してみて」
「これ? これが何…」
「…」
「おっ…?」
「…」
「うわ! 箱の中に人がいる!!」
「テンプレみたいなこと言うんだな」
八重田が感心したように言った。テンプレってなんだ。
その日の夜、真っ暗な部屋の中で、俺はこれまでのことを思い返していた。八重田に言われた通りに町に出てみたけど、アシリパさんらしき人は見つからなかったし、道行く人に尋ねてみても誰も見た覚えはないと言う。収穫のないままとぼとぼ帰ってきた俺は、一体、何をしているんだろう。アシリパさん、今頃心配してるかな。あのバカ二人と上手く進めているだろうか。アシリパさんの足を引っ張ってなきゃいいが。
「うわ、暗っ」
網走で合流する道を取るか、と考えていたところにパッと視界が明るくなった。突然のことで目がしぱしぱする。薄々とまぶたを開くと、八重田がネクタイを緩めながら俺を見下ろしていた。
「いるなら電気くらいつけなよ。帰ってないかと思った」
「…」
「なに?」
「おかえり」
「ただいま」
あっさりそう返されて、なんだか胸のあたりがムズムズした。留守中に俺が盗みを働いたとはちっとも疑ってない様子で、いや当然そんなことはしてないんだけど、部屋の中をあらためもせずに「腹減ってる?」なんて聞いてくる八重田に拍子抜けした。ネクタイを襟首から引き抜きながら、対面に腰を下ろした八重田はそんな俺を見て怪訝そうな顔になる。
「なんだよ」
「別に…」
とんだ甘ちゃんか、それともただの変わり者か。少なくとも今まで会ったことのない類いの男だ。
「探し人は見つかったの」
「いや…」
「そう。残念だな」
「明日、山の方まで行ってみようかと思うんだけど」
「いいんじゃないの。車には気をつけて。暗くなる前に帰ってきなよ」
なんだか親が子に言い聞かせるような物言いだ。あのさ、俺は別に手のかかる子供でもなんでもないんだけど?
わざわざ鉄の塊に轢かれるようなことしねぇよ。って言ったら探るように覗き込まれた。なんだよ、その目は。
「そんなこと言って、昨日信号無視して轢かれかけてたじゃん」
「そ、それはさぁ…シンゴウキなんて知らなかったし…。なに? あの光る棒」
「必要だから光ってんだよ。ちゃんと覚えて。青だったらどうすんだっけ?」
「渡る」
「赤なら?」
「止まるんだろ。昨日聞いたよ」
「そう、合ってる。偉いね」
まただ。なんだこれ。このムズムズする感覚はなんなんだ。にこりともせずにそんなことを言う八重田にまた胸の内が騒がしくなった。つーか、俺、明日もここに帰ってきていいんだ…。当たり前みたいにそう言われて、正直助かった。他に行くあてもないし、八重田が帰ってきたら頭を下げてお願いしようと思っていたのだ。もしや、それを分かっていて先手を打たれたのか? …。
目の前の男が何を考えているのか、俺にはよく分からないけど、ただ、愛想の割に面倒見がいいお人好しってことはなんとなく分かってきた。
「人に絡まれたら俺の名前出していいから。小さい町だから俺のことは皆知ってる。警官の知り合いにおイタする奴はそういないだろ」
「あんたの名前?」
「そう。覚えてる?」
「…八重田だろ。八重田マキ」
「そうだよ。よろしく」
よろしくってなんだ。何をよろしくされたんだ。
▽三日目
翌朝、八重田が仕事に出ていくのを見送った後、昨日と同じように町に出た。宣言通り町から一番近い山に来てみたけど、得られたものは何も無い。でも、何となく分かっていたような気がする。そこに俺の望んだ光景は無いってことが。むしろ何もないことを確かめに来たようなものだ。立ち入り禁止の看板が立てられた山のふもとに立った時、俺は、薄々感じていた事実をついに実感することになった。
俺の知ってる小樽じゃない。
だっておかしいだろ。見たこともないものも、知らないことも多すぎる。どう考えても俺の知らない町だった。本格的に狐に化かされてしまったのか。夢うつつで見ている幻か。それとも、現実の俺は第七師団との戦いで瀕死の重傷を負っていて、生死の境でありもしない空想を体験でもしているのか…。
「何も見つからなかったよ」
「そう」
その日の晩、帰ってきた八重田に開口一番そう伝えたのは、誰かに聞いてもらわないとやってられなかったからだ。机にうな垂れる俺の前にしゃがみこんだ八重田が、もう一度聞くけど、と警官の顔をしてみせた。
「交番で調書取らせる気は?」
「…ない」
「だろうな」
分かりきったような返事が妙にこそばゆい。なんだよそれ。警官ならもっと強引に身柄を引っ張ってくんじゃねぇの、普通。俺みたいなのを何日も匿ってていいのかよ。
突っ伏したままじっと見上げていると、応えるみたいに雑に頭を撫でられた。犬か、俺は。奴なりの労わりみたいなものだろうか。ぼさぼさになった髪を整える気にもならなくて、上着を肩から落としながら寝室へ向かう八重田の後ろ姿をただ黙って眺めていた。
「あんまり気を落とすなよ。まだ町中全部見て回ったわけじゃないんだろ」
「そりゃそうだけどさ…」
「気の済むまで探したらいい」
暗に好きなだけここにいてもいい、と言われた気になったのは気のせいか。寝室から飛んでくる声は普段と変わらず淡々としている。どんな顔して言ってるのか気になって、こっそり様子を覗きに行ったら部屋着に着替えた八重田と鉢合わせした。入り口で通せんぼするみたいに立っている俺を、訝しげに見つめ返す視線がなぜだか胸に柔く刺さった。
「なに?」
「…別に…」
変な奴、と言いながら横を通り抜けていく八重田に妙な気分が加速する。変なのはどっちだ。俺か?
俺がおかしくなってるのか。
▽五日目
「米炊くのを忘れてた」
「おお…?」
「今日の夕飯、どうしようか」
なんとここに来てからというもの、俺は毎日白米を食べていた。ピカピカの白飯だ。普段料理をしないらしい八重田は、茹でただけの野菜や鶏肉をおかずに出しては「貧乏飯で悪いね」なんて言うけど、俺からしてみれば充分なご馳走だと思う。まあ味の方は……アシリパさんが恋しくなる、とだけ言っておきたい。
「なにか食えるもの獲ってこようか?」
「獲る…? いや、大丈夫」
言いながら、八重田はテレビの電源を点けて(中に人が入ってるわけではないことを教えてもらった。じゃあこれは何が見えてるんだよ…)そのまま台所に立った。
「俺が手伝うことある?」
「ないよ。テレビでも見てて」
そう言われても、箱の中の男はゲイノウニュースがなんだとかキョウノカワセシジョウがどうだとか、俺には理解できない話をしていて、それなら八重田の作業を横で見ていた方がいい。
「見ててもいいかな」
「お好きにどうぞ」
「…今日さぁ」
「うん」
「商店街に行ったら知らないおばちゃん達にすげー絡まれたんだけど」
「怖かった?」
「ちょっと…」
「新顔には構いたくなるんだよ。この町、お節介な人が多いから」
「だろうね…」
その筆頭がこいつだろ。湯気が立ち上る鍋に視線を落とす、そのつんとした横顔をこっそり観察した。隣に立つ俺の方を見向きもしないで、淡々と話す距離感が無性に心地よく感じる。
「そのうち慣れるよ」
慣れるまでこの世界に長居するなんてまっぴらごめんだ。早くアシリパさんの元に戻らなきゃいけない。なのに、その言葉に嬉しくなってしまうのはなぜなんだ。ここに来てからというもの、俺は自分が何を考えているのか分からなくなることが増えた気がする。…乱されてんのかな、この男に。にっちもさっちも行かない現状の中で、最初に手を差し伸べてくれた男に感じるものが、恩以外の何かであるはずはないんだけど…。
出会ってからずっと、にこりともしない八重田の、笑った顔が見てみたいと思うのはやっぱりおかしいんだろうか。
鍋の中身がどんぶりにうつると、湯気と一緒に濃い醤油の匂いが立ち込めて、俺はハッとしてかぶりを振った。滅多なこと考えるなよ。馬鹿馬鹿しい。
「これ、南京そば?」
「ただのインスタントラーメンだけど。そういう言い方もすんのかな」
「らーめん…」
「もしかして食えない? こういうの」
「いや、食えるよ」
「一応味見してみたら」
「え」
「口開けて」
スープを掬ったレンゲを差し出されて、一瞬まごついてしまったのは、アシリパさんを思い出してしまったからか、それとも…。
肩と肩が触れる距離で、固まる俺を見上げた八重田は、俺の反応で初めて違和感に気づいた様子で、ちょっと思案するように片眉を上げた。
「あー…」
「…」
「…さすがにこれは分かるか」
スープの飲み方も分からないと思われてるのか、俺は。
子供扱いがすぎるだろ、と文句をつけようと思ったけど何故だか言葉が出てこない。
面倒見が良すぎんじゃねえの、こいつ。
「お、明日晴れるってさ」
レンゲを俺に渡してあっさり離れていった八重田は、もう何事もなかったような顔でテレビの中の人間の話に相槌を打っている。何を動揺してんだ、俺は…。くそっ。
ラーメンとやらは美味かった。
▽八日目
夢なら覚めろと思い続けてはや一週間、さすがにこの不可思議な町にも少し慣れた。家でくすぶっててもしょうがないし、一縷の望みにかけて外を出歩くようにしていると、大体決まった面子が声をかけてくるようになった。
「あらっ杉元さん。今日もいい男ねぇ」
「おばちゃん、今日も元気だな」
肉屋の威勢のいいおばちゃんにももう慣れたもんだ。八重田の言う通り、この商店街にはお節介だけど親切な人が多い。人を探してることを伝えてからなにかと気にかけてくれて、今日もそれらしい人は見かけなかったと教えてくれた。
「杉元さん、こないだはありがとうね。助かっちゃった」
「全然いいよ。力仕事は得意なんだ。運ぶ物があったらいつでも言って」
「若いっていいわねぇ…。優しいし力持ちだし、娘の彼氏に欲しいくらい」
「こんな傷持ち、娘さんが嫌がるだろ?」
「野性味があって素敵よぉ。…あら、八重田くん!」
キュッ、とタイヤが擦れる音がして、振り返ると八重田が帽子のツバを握って軽く一礼していた。自転車を引く姿を初日ぶりに見た。
「こんにちはキヨ子さん」
「巡回ね。ご苦労さま」
「八重田…」
「よう。奇遇だな」
隣に並んで目が合った。こうして職務中の八重田に会うのはこれで二度目か。なんだか妙な感覚になる。当たり前だけど、ちゃんと警官してるんだな、こいつ。家にいる時とまったく変わらない態度でいるのは八重田がこの町に馴染んでいる証拠だろうか。
「あらなに、二人は知り合い?」
「俺の同居人」
「あらっ」
なんてことない顔でそう言う八重田に、俺はちょっとだけドキッとした。そうか。俺って、こいつの同居人なんだ。肉屋のおばちゃんも八重田の言葉に目を瞬いて、俺たち二人を見比べる目が心なしか嬉々として見える。
「じゃ、杉元さんは八重田くんの仲良しさんだったのね?」
「そうだよ。俺の連れ。よろしくしてね」
「いいわねぇ、若い男の子が二人で。眼福だわ」
「本当? どっちがキヨ子さんの好みかな」
「やだ! 悩ませるようなこと言わないで!」
おばちゃんはなぜだか楽しそうだ。そんなの選べないわと言いつつ嬉しそうな顔で悩んでいる。
「いやいや、さっき娘の彼氏にしたいって言ってたじゃん。八重田より俺だろ?」
「俺も前に同じこと言われたけどね」
「えっ、おばちゃん…」
「だってどっちもかっこいいんだもの〜」
「おばちゃ〜ん」
「悪女だな、キヨ子さん」
こんな風に軽口を叩く八重田を俺は初めて見た気がする。相変わらず愛想笑いはしないくせに、冗談は言うのか。おばちゃんもおばちゃんで、そんな八重田との会話を楽しんでいるようだった。
「そろそろ職務に戻らないと」そう言って自転車に跨る八重田に、おばちゃんがまた顔を見せに来てねと手を振った。年上殺しだな、こいつ。
「あ、杉元」
去り際、八重田が俺の方を振り向いてそう言った。なんだよ、と返事をしてからアレ? と思う。
「牛乳買っといて。1本」
「え」
「よろしく」
どうやって、と言いかけて、念のためにと渡されていた財布がポケットに入っているのを思い出した。返事も聞かずに去っていった八重田は、50メートルほど先で八百屋のおじさんに捕まっていた。牛乳、ってどこで買うもんなんだ。
「おつかい頼まれちゃったわね」
おばちゃんがウフフと笑ってそう言った。
そういや、あいつに名前を呼ばれたのって初めてだな。
▽十五日目
「え、お前、どうしたのそれ」
「あ? …これ?」
その日帰ってきた八重田の頬に、朝にはなかった大きなガーゼが貼られていた。この信じられないくらい平和な町で、八重田が怪我をして帰ってきたのなんて初めてじゃないか? 驚いて全身を見ると、妙に生傷が増えている気がする。
「喧嘩の仲裁に入ったら引っかかれた」
「…大丈夫なの?」
「いつものことだし平気だろ。あの夫婦、いつも喧嘩するけど、そのあともっと仲良くなるから」
そっちじゃねえよ、バカ。
俺は、結構、八重田の顔が好きだ。淡々として、読めなくて、一見冷たく見えるけど投げやりではないところが好きだ。そっけなくてつんとした横顔はそんな八重田に合ってると思う。傷が残るのは、なんか…嫌だな。
「…痕にならないといいな」
「ああ、これ? どうだろうな」
「…」
「別にいいよ。これくらいの傷」
「…もったいないだろ。せっかく綺麗な顔してんのに」
「は?」
口が滑った。言わなくていいことを言ってしまった。それは向こうにとっても思いがけない言葉だったらしく、呆気に取られないまでも少し驚く八重田に慌てて「深い意味なんかねえよ」と念押しした。半分、自分に言い聞かせてるようなものだった。
「…まあ、別に、そうなったらなったで」
「…」
「お揃いってことでいいんじゃないの」
八重田の指が俺の頬に触れた。傷のあたりをなぞられる。それがあんまり出し抜けで、俺は咄嗟になんの反応もできなくて、ただされるがままになった。返事のない俺を見て、八重田が思い当たったように手を離した。
「あ、ごめん。痛いか」
「…い、や、全然…」
なぜか心臓の方が痛い。なんだ。なんなんだこれ。
その後、幸か不幸か八重田の傷は綺麗に治った。
▽二十三日目
今日は遅くなる、と出がけに言っていたとおり、その日八重田が帰ってきたのは日も跨ぐような深夜だった。先に寝てていいと言われたけどなんとなくそんな気にはなれなくて、八百屋のおっちゃんに貰った知恵の輪を解きながら奴の帰りを待っていた。別に、寂しいとか、おやすみって言いたいとか、そんな殊勝な理由じゃなく、ただ家主より先に休むのはどうかと思っただけだ。それだけだ。本当に。
「…ん?」
「…」
「八重田?」
ふと、物音がして顔を上げた。八重田が帰ってきた音だ。が、なにやら様子がおかしい。ただいまも言わずに、玄関ドアにもたれながら俯いているのを見て思わず立ち上がった。帽子のツバに隠れて表情は見えないけど、どう見ても変だ。俺の呼びかけには答えないまま、だるそうな手つきで手招きされた。言われなくても駆け寄るだろ、普通。知恵の輪をほっぽり出して近寄って、肩に手を触れたらなんだか体が熱い気がした。
「おい、一体どうし…」
思わず言葉を切ったのは仕方ないことだ。ぽす、と軽い音を立てて、八重田が俺に向かって倒れ込んだ。筋肉が一瞬硬直した、ような気がする。肩口に額を寄せられて、八重田の柔らかい髪が俺の首筋をくすぐった。な、んだ、この状況…。
「お、おい…」
「動くな」
地を這うような低音が響いた。俺の胸に体を預けたまま、微動だにしない八重田が発した声だと、ワンテンポ遅れて気が付いた。
「今動いたら、出る」
「出…」
何を、とは聞くまい。八重田がまとう酒の匂いで全て悟った。
「…飲みすぎたのか? 酒、弱いの?」
「飲まされたんだよ。町内会の飲み会で…」
グロッキー状態の八重田を居間に敷いた布団に転がして、冷たい水を飲ませてやった。いつも八重田は隣の寝室で寝てるけど、今日は俺が使っている来客用の布団に引きずっておいた。少しでもトイレに近い方がいいかと思って。しばらく額に手を乗せたまま気怠げに唸っていた八重田は、そのうち少し落ち着いたようで、「悪い」と俺を見上げて呟いた。
「外から部屋の電気が点いてんの見えて、気が緩んだ」
「…別にいいよ。たまたま起きてただけだし」
「そう…」
「あんま無茶な飲み方すんなよ。相当弱いんじゃないの?」
「若い男の義務みたいなもんでね…」
酒を飲むのも仕事のうちだと言う。そんなもんかね。警官ってのも難儀な仕事だ。もう一度コップに水を汲んで渡したら手の上から重ねるように握られて、思いがけない人肌に狼狽したのをなんとかごまかして平静を装った。こいつ…急に距離が近くて心臓に悪いんだよな…。
「な、なんだよ」
「アンタがいて助かった」
「……そうかよ」
「ついでにもう一つ迷惑かけていいか」
「は?」
「吐きそう…」
「待て待て待て待て」
待て!!
慌てて八重田を抱えてトイレの中に突っ込んだ。いつも一人でどうしてるんだ、この男。結局、胃の中全部空っぽになるまで奴のグロッキーに付き合ったが、途中で俺も睡魔に襲われて、気付いたら一緒の布団で眠っていた。雀のチュンチュン鳴く声と朝の光が差し込む中で、目の前に八重田の顔があって、たっぷり5秒は考えてから跳ね起きた。
「……うわっ!」
「大声出すなバカ…」
いつもより口の悪い八重田の腕が伸びてきて、肩を押されて再び布団の上に倒れこんだ。もう片方の手で額を抑えながら、眉根を寄せる表情が新鮮で訳もなくドキドキした。ていうか、なんだ、この状況。
「完っ全に二日酔い…頭いったぁ…」
「あ、あの…? 八重田サン?」
「もうちょっと寝ようよ。まだ朝だろ」
「…仕事は?」
「非番」
なんで俺まで、とは言わなかった。弱った八重田が物珍しかったからか、誘われたことが素直に嬉しかっからか、それとも、今までで一番近い距離感が名残惜しかったせいか。
「…なあ」
「なに」
「今度俺とも酒飲んでよ」
「喧嘩売ってんの…」
横目で睨まれたけどちっとも怖くなかった。だってこんな表情するところ、初めて見た。もっと俺の知らない一面を見てみたいと思う。酔った八重田を介抱するのも、実はあんまり嫌じゃなかった。どころか、頼られたようでちょっと嬉しかったりもして…。なんか、俺、どんどん歪んできてないか?
「今酒の話はするな」
そう言いながらも嫌とは言わない八重田にまた心をくすぐられて、バレない程度に身を寄せた。目と鼻の先に八重田の顔がある。二日酔いがもっと長引けばいい、と無意識のうちに願っていた。
▽???日目
「いい知らせと悪い知らせがあるんだけど」
まだ日も高いうちに帰ってきた八重田が、帰宅早々そんなことを言い出した。その時ちょうど風呂掃除をしていた俺は、泡だらけのスポンジを持ったまま奴を出迎えた。こんな時間に帰ってくるなんて珍しい。
「どうしたんだよ。まだ仕事中だろ?」
「いや…。いいから、どっちから聞きたい?」
「え、じゃあ、悪い知らせ」
「ハンコ屋のヨネさんが入院した」
「え!? 大丈夫なの?」
ヨネさんというのは七十も後半のバアさんで、たまに通りがかると決まって黒飴をくれる気のいい人だ。
「軽い捻挫だけど大事をとって入院するらしい。大したことはないってさ」
「そうか…早く良くなるといいな」
それで、と八重田が目線だけで後ろを伺った。どうやら本題はこっちのようだ。その時初めて、俺は八重田が何かを背負っていることに気が付いた。背中から白いモコモコが見え隠れしてる。八重田の顔ばかり見てて気付かなかった。
「多分、そうだと思うんだけど」
そう言って姿勢をずらして、背負っている何かを俺に見せた。瞬間、手から滑り抜けた泡まみれのスポンジが水音をたてて床に落っこちたけど、八重田は何も言わなかった
「……アシリパさん!!」
泡がつくのにも構わずにその小さな体を抱え上げてぎゅうぎゅう抱きしめた。アシリパさん、アシリパさんだ! なぜかのんきに寝ているアシリパさんは、俺が抱きしめてもまったく目を覚ます気配はなく、むにゃむにゃ言いながらよだれを垂らしている。この図太い感じ、間違いなくアシリパさんだ!
「あの空き地で見つけたよ。お前が探してる人に似てたから、交番に寄らずに連れてきたんだけど」
「…」
「正解だったな」
なんてことない顔で言う八重田に、俺は内心驚いた。この町にすっかり慣れてしまった俺は、あの空き地がこの町のはずれにあって、人通りなんかほとんどないことをもう既に知っていた。わざわざ巡回ルートに入れるような場所じゃない。じゃあ、なんで八重田は、アシリパさんを見つけられたんだ。
「……もしかして、見に行ってたのか? あれからずっと?」
「そうだけど…」
「な、なんで」
「おまわりさんだから」
この町のね。
いつか聞いたようなセリフを淡々と述べる八重田に、ついに感極まって抱きついた。好きだ、と思った。この感情が親愛によるものか、もっと違う意味を含んでいるのか、自分でも分からなかったけど、ただたまらなくなって抱きついた。挟まれたアシリパさんが「ぐぇ」と顔をしかめたけど一向に起きる気配はない。どんだけねぼすけなんだい、アシリパさん。
「…重い」
「あ、ごめん」
慌てて体を離した。我ながら大胆なことをしてしまった。八重田はまるで動揺した様子もなく、ズレた帽子の向きなんかを直している。ドキドキしているのは俺だけか。くそ、道のりは遠いな。
「…しかし、人生で二度も人を拾うことになるとは思わなかったな」
諦めの境地に至ったような顔で八重田が言った。
拾われたのがお前で良かったよと言ったら、この男はどんな顔をするだろうか。
八重田:テルマエロマエを見ていたおかげで初日に色々察したおまわりさん。下戸。
杉元:八重田と二人で後に商店街のアイドルとなる。コミュ強。
アシリパさん:まだ現状が分かってない。どこだここ。
2021.3.1
「アンタ、ここで何してんの」
「…」
八重田に初めて声をかけられたその時、俺は正直困っていた。もうめちゃくちゃ困っていた。辺りにはしんしんと雪が降って、冷たい北海道の空気が骨身に沁みた。もうすっかり慣れたはずのその寒気の中で、風景だけがまったく見覚えのないもので、端的に言うと俺は迷子になっていた。
アシリパさんが俺からはぐれたのか。
俺がアシリパさんからはぐれたのか。
多分、後者なんだと思う。頭が良くてしっかり者で、俺より山に詳しいアシリパさんがそうそう迷子になるとは思えない。もし仮にそうだとしても、それならここにアホの白石と尾形のバカもいなきゃおかしいわけで、俺がこうして一人ぽつねんとしているということは、迷子になったのはどう考えても俺の方だった。
「お兄さん、聞いてんの」
そもそも山じゃねえし。どこだここ。
そうやって知らない場所で立ち尽くしていたところに奴が現れた。妙に通る声が印象的だったのを覚えている。
今にして思えば、この時出会ったのが八重田で本当に良かったと思う。でもその時の俺は突然現れた制服姿の男に警戒心がバリ立ちで、逃げるか戦うかの決断を脳内で迫られた。すわ軍関係者か、とひそかに身構えながら対峙したが、相手が何者なのか分からない。見覚えのない制服だった。
「あんたは?」
「見て分かるだろ。おまわりさんだよ」
「おまわりさん」
「分かんない? 警察」
警察ゥ? と首を捻る俺を見て相手も鏡合わせのように怪訝な顔をした。そりゃ、警察もおまわりも知ってるけど。なんか、俺の知ってる警察と違う。
「もう一度聞くけど、お兄さん、こんなとこで何してんの」
「別に…。あんた本当に警官か?」
「そうだよ。夜も遅いし、早く家に帰りなよ」
「…」
「…」
「ほんとに警官?」
「疑り深ぁ」
どうやら俺が杉元佐一だと知って声をかけてきたわけではないらしい。ついに警察にまで追われる身になったかと一瞬焦ったが、よくよく考えると第七師団以外に狙われる理由もないから、まあ当然っちゃ当然か…。黒い手帳を見せながら「八重田マキ巡査」と名乗った男は、自転車に跨ったまま器用に頬杖をついた。
「アンタの名前も聞いておこうか。身分証ある?」
「ねぇよ、そんなもん。……あのさ、ここってどこ? 俺、小樽の山ん中にいたはずなんだけど」
「小樽は小樽だけど山なんかないよ。ここはただの空き地」
「はあ?」
素っ頓狂な声が出た。俺はいつのまにか下山していたのか。改めて辺りを見渡すと、なんか、見覚えがないどころの話ではなく……。
「お兄さん、もしかして迷子なわけ?」
男がそう言って、俺はぎこちなく頷いた。自分がどこに立っているのかも分からない今、頼れるのはこいつしかいないと思った。
▽初日
「で、どこから来たんだっけ?」
右も左も分からない俺を自宅へと連れ帰った八重田は、翌朝になって改めてそう尋ねた。
正直、ここに連れられる道中もこの家に着いてからも、何もかもが面食らうことばかりで、一晩経った今でも現実味が無くふわふわしている。もしかして俺、狐にでも化かされてるんじゃないのか。昨日からずっと…。
見たこともない街並み、夜でも一瞬で明るくなる部屋、無限にお湯の湧き出る風呂、快適すぎる便所。その全てが俺の知らないもので、途中から驚くのも疲れたほどだった。
「小樽の山。北側の、中腹辺りにいたはずなんだけど」
「ざっくりしてんなぁ」
机に広げた地図に視線を落とした八重田が、くるくると鉛筆を回しながら首をかしげた。対面で同じように地図を見ている俺には、そこに書かれていることの意味がよく分からない。ただ、今いるのはここ、と鉛筆の先で指されたのは小樽の中でも海岸線に程近い場所で、山岳地からかなり離れているのは地図の縮尺から見ても明らかだった。はぐれたというには説明のつかない距離だ。
「山で一体何してたの」
「別に…。ていうか、すごいなこれ。こんなに詳細な地図初めて見たよ」
「そんなことにも驚くわけ?」
昨晩、あらゆるものに衝撃を受けている俺を見て「浦島太郎みたいだな」とよく分からないことを言った八重田はもはや感心するような目で俺を見た。俺からすればおかしいのはそっちだし、驚くなって方が無理じゃないかと思うんだけど。でも、八重田は変わっているのは俺の方だと言う。
やっぱ俺、夢でも見てんのかな。だとしたらストゥでもなんでも使っていいから今すぐ叩き起こしてほしい。
「今日は非番だから付き合うけど、やっぱ交番で話聞いた方が早いと思うね」
「いや、それは…」
昨日もそう言われて交番に連れられそうになったのを、頑として断ったためにこうして家に泊めてもらうことになったのだ。警察の厄介になるのはまずい。話を大きくして鶴見の耳にでも入ったら事だ。
難色を示す俺を見て、八重田はそれ以上追求しなかった。この若い巡査はそれなりに融通の利くタイプらしい。
「事情があるなら聞かないけど」
「うん…」
「だからってこのままほっぽり出すわけにもいかないな」
「ええ…」
「身分証ないし、住所も言わないし。連絡手段も持ってないんだろ、アンタ」
「…」
「参るね」
そう言いながらも、頬杖をつく八重田の横顔があまり困ってるようには見えなくて、ついつい俺も毒気を抜かれた。
「…なら、なんで手ぇ貸してくれんの?」
「おまわりさんだから」
この町のね、と言う声はあっさりしたものだった。
もう一度あの空き地に行ってみたくて八重田に案内してもらった。家からしばらく歩いたところにあるその場所は、昨夜は暗くてよく分からなかったがどう見てもただの空き地でしかない。三辺を塀で囲まれ、道に面した辺には黄色いロープが張られている。どこにも山につながる道は見当たらなくて、早速行き詰まってしまった。
「なんで俺こんなところにいたんだろ…」
「自分でも分かんないの」
「全っ然分からん…」
気付いたらここに立っていた、という表現が正しい。
「つーか、外に出て改めて思ったけど、やっぱ変だよここ。珍しい車がバンバン走ってるし、見たことない建物ばっかだし、人の様子も変だし」
「…」
「ぶっちゃけ今借りてる服も変」
町中でその格好は目立つからと、言われるがままに渡された服がこれまた奇妙で、どう考えてもこっちの方が変わってると思うんだけど…。
「パーカー、着たことないの?」
「ぱーかー」
「俺の服でアンタが着れそうなの、それしかなかったんだよ。不満?」
「いや、いいんだけどさ…別に…」
ぱーかーってなんだ。分からないことだらけで混乱してきた。一体ここはどこで、俺はどうしてここにいて、アシリパさんはどこにいるのか。どうやって合流したらいいのか皆目見当もつかない。
空き地をぼんやり眺める俺をしばらく見守っていた八重田が、そのうち諦めたような目で俺を見た。
「本格的な迷子ってわけね」
「……そうみたい」
夢なら早く覚めてくれ。
▽二日目
あの空き地で再三現実を確かめた後、また八重田の家に厄介になった。翌朝、二晩も泊めてもらったお礼を述べる俺に、八重田はあっさりしたものだ。「一日も二日も変わらないから」そう言いながらやかんでお湯を沸かす後ろ姿を見ながら、変わった男だと思った。
「狭いボロアパートで悪いね」
「いや、助かるよ。一人で住んでんの?」
「そう。だから気兼ねしなくていいよ」
「ありがとう。…これは?」
「湯」
「湯」
湯気を立てるマグカップを俺に手渡す八重田は、初めて会った時と同じ制服に身を包んでいた。
「今日はこれから仕事だから付き合えないけど、外出てきなよ。もしかしたら探してる人が見つかるかもしれないし」
「そうかな」
「いい町だよ、ここは」
自分もお湯をすすりながら、窓の外を眺める八重田につられて俺も外の景色を見やった。朝日に包まれる世界はやっぱり見覚えのないものだったけど、確かにじっとしているよりはマシだろう。
「南に行くと商店街がある。みんないい人だから色々聞いて回ったら」
「そうするよ」
「じゃ、これここの鍵」
「…」
警官にしては不用心すぎないか、と思ったけど「この家に盗むようなものなんて無いから」と見透かされたように言われて黙って鍵を受け取った。これもまた見覚えのない形だ。
「あるとしてもテレビくらいか。にしたって、今時こんな箱みたいなブラウン管、盗ってく奴がいるとも思えないな」
「てれび?」
「テレビも知らない? このリモコンの赤いボタン、押してみて」
「これ? これが何…」
「…」
「おっ…?」
「…」
「うわ! 箱の中に人がいる!!」
「テンプレみたいなこと言うんだな」
八重田が感心したように言った。テンプレってなんだ。
その日の夜、真っ暗な部屋の中で、俺はこれまでのことを思い返していた。八重田に言われた通りに町に出てみたけど、アシリパさんらしき人は見つからなかったし、道行く人に尋ねてみても誰も見た覚えはないと言う。収穫のないままとぼとぼ帰ってきた俺は、一体、何をしているんだろう。アシリパさん、今頃心配してるかな。あのバカ二人と上手く進めているだろうか。アシリパさんの足を引っ張ってなきゃいいが。
「うわ、暗っ」
網走で合流する道を取るか、と考えていたところにパッと視界が明るくなった。突然のことで目がしぱしぱする。薄々とまぶたを開くと、八重田がネクタイを緩めながら俺を見下ろしていた。
「いるなら電気くらいつけなよ。帰ってないかと思った」
「…」
「なに?」
「おかえり」
「ただいま」
あっさりそう返されて、なんだか胸のあたりがムズムズした。留守中に俺が盗みを働いたとはちっとも疑ってない様子で、いや当然そんなことはしてないんだけど、部屋の中をあらためもせずに「腹減ってる?」なんて聞いてくる八重田に拍子抜けした。ネクタイを襟首から引き抜きながら、対面に腰を下ろした八重田はそんな俺を見て怪訝そうな顔になる。
「なんだよ」
「別に…」
とんだ甘ちゃんか、それともただの変わり者か。少なくとも今まで会ったことのない類いの男だ。
「探し人は見つかったの」
「いや…」
「そう。残念だな」
「明日、山の方まで行ってみようかと思うんだけど」
「いいんじゃないの。車には気をつけて。暗くなる前に帰ってきなよ」
なんだか親が子に言い聞かせるような物言いだ。あのさ、俺は別に手のかかる子供でもなんでもないんだけど?
わざわざ鉄の塊に轢かれるようなことしねぇよ。って言ったら探るように覗き込まれた。なんだよ、その目は。
「そんなこと言って、昨日信号無視して轢かれかけてたじゃん」
「そ、それはさぁ…シンゴウキなんて知らなかったし…。なに? あの光る棒」
「必要だから光ってんだよ。ちゃんと覚えて。青だったらどうすんだっけ?」
「渡る」
「赤なら?」
「止まるんだろ。昨日聞いたよ」
「そう、合ってる。偉いね」
まただ。なんだこれ。このムズムズする感覚はなんなんだ。にこりともせずにそんなことを言う八重田にまた胸の内が騒がしくなった。つーか、俺、明日もここに帰ってきていいんだ…。当たり前みたいにそう言われて、正直助かった。他に行くあてもないし、八重田が帰ってきたら頭を下げてお願いしようと思っていたのだ。もしや、それを分かっていて先手を打たれたのか? …。
目の前の男が何を考えているのか、俺にはよく分からないけど、ただ、愛想の割に面倒見がいいお人好しってことはなんとなく分かってきた。
「人に絡まれたら俺の名前出していいから。小さい町だから俺のことは皆知ってる。警官の知り合いにおイタする奴はそういないだろ」
「あんたの名前?」
「そう。覚えてる?」
「…八重田だろ。八重田マキ」
「そうだよ。よろしく」
よろしくってなんだ。何をよろしくされたんだ。
▽三日目
翌朝、八重田が仕事に出ていくのを見送った後、昨日と同じように町に出た。宣言通り町から一番近い山に来てみたけど、得られたものは何も無い。でも、何となく分かっていたような気がする。そこに俺の望んだ光景は無いってことが。むしろ何もないことを確かめに来たようなものだ。立ち入り禁止の看板が立てられた山のふもとに立った時、俺は、薄々感じていた事実をついに実感することになった。
俺の知ってる小樽じゃない。
だっておかしいだろ。見たこともないものも、知らないことも多すぎる。どう考えても俺の知らない町だった。本格的に狐に化かされてしまったのか。夢うつつで見ている幻か。それとも、現実の俺は第七師団との戦いで瀕死の重傷を負っていて、生死の境でありもしない空想を体験でもしているのか…。
「何も見つからなかったよ」
「そう」
その日の晩、帰ってきた八重田に開口一番そう伝えたのは、誰かに聞いてもらわないとやってられなかったからだ。机にうな垂れる俺の前にしゃがみこんだ八重田が、もう一度聞くけど、と警官の顔をしてみせた。
「交番で調書取らせる気は?」
「…ない」
「だろうな」
分かりきったような返事が妙にこそばゆい。なんだよそれ。警官ならもっと強引に身柄を引っ張ってくんじゃねぇの、普通。俺みたいなのを何日も匿ってていいのかよ。
突っ伏したままじっと見上げていると、応えるみたいに雑に頭を撫でられた。犬か、俺は。奴なりの労わりみたいなものだろうか。ぼさぼさになった髪を整える気にもならなくて、上着を肩から落としながら寝室へ向かう八重田の後ろ姿をただ黙って眺めていた。
「あんまり気を落とすなよ。まだ町中全部見て回ったわけじゃないんだろ」
「そりゃそうだけどさ…」
「気の済むまで探したらいい」
暗に好きなだけここにいてもいい、と言われた気になったのは気のせいか。寝室から飛んでくる声は普段と変わらず淡々としている。どんな顔して言ってるのか気になって、こっそり様子を覗きに行ったら部屋着に着替えた八重田と鉢合わせした。入り口で通せんぼするみたいに立っている俺を、訝しげに見つめ返す視線がなぜだか胸に柔く刺さった。
「なに?」
「…別に…」
変な奴、と言いながら横を通り抜けていく八重田に妙な気分が加速する。変なのはどっちだ。俺か?
俺がおかしくなってるのか。
▽五日目
「米炊くのを忘れてた」
「おお…?」
「今日の夕飯、どうしようか」
なんとここに来てからというもの、俺は毎日白米を食べていた。ピカピカの白飯だ。普段料理をしないらしい八重田は、茹でただけの野菜や鶏肉をおかずに出しては「貧乏飯で悪いね」なんて言うけど、俺からしてみれば充分なご馳走だと思う。まあ味の方は……アシリパさんが恋しくなる、とだけ言っておきたい。
「なにか食えるもの獲ってこようか?」
「獲る…? いや、大丈夫」
言いながら、八重田はテレビの電源を点けて(中に人が入ってるわけではないことを教えてもらった。じゃあこれは何が見えてるんだよ…)そのまま台所に立った。
「俺が手伝うことある?」
「ないよ。テレビでも見てて」
そう言われても、箱の中の男はゲイノウニュースがなんだとかキョウノカワセシジョウがどうだとか、俺には理解できない話をしていて、それなら八重田の作業を横で見ていた方がいい。
「見ててもいいかな」
「お好きにどうぞ」
「…今日さぁ」
「うん」
「商店街に行ったら知らないおばちゃん達にすげー絡まれたんだけど」
「怖かった?」
「ちょっと…」
「新顔には構いたくなるんだよ。この町、お節介な人が多いから」
「だろうね…」
その筆頭がこいつだろ。湯気が立ち上る鍋に視線を落とす、そのつんとした横顔をこっそり観察した。隣に立つ俺の方を見向きもしないで、淡々と話す距離感が無性に心地よく感じる。
「そのうち慣れるよ」
慣れるまでこの世界に長居するなんてまっぴらごめんだ。早くアシリパさんの元に戻らなきゃいけない。なのに、その言葉に嬉しくなってしまうのはなぜなんだ。ここに来てからというもの、俺は自分が何を考えているのか分からなくなることが増えた気がする。…乱されてんのかな、この男に。にっちもさっちも行かない現状の中で、最初に手を差し伸べてくれた男に感じるものが、恩以外の何かであるはずはないんだけど…。
出会ってからずっと、にこりともしない八重田の、笑った顔が見てみたいと思うのはやっぱりおかしいんだろうか。
鍋の中身がどんぶりにうつると、湯気と一緒に濃い醤油の匂いが立ち込めて、俺はハッとしてかぶりを振った。滅多なこと考えるなよ。馬鹿馬鹿しい。
「これ、南京そば?」
「ただのインスタントラーメンだけど。そういう言い方もすんのかな」
「らーめん…」
「もしかして食えない? こういうの」
「いや、食えるよ」
「一応味見してみたら」
「え」
「口開けて」
スープを掬ったレンゲを差し出されて、一瞬まごついてしまったのは、アシリパさんを思い出してしまったからか、それとも…。
肩と肩が触れる距離で、固まる俺を見上げた八重田は、俺の反応で初めて違和感に気づいた様子で、ちょっと思案するように片眉を上げた。
「あー…」
「…」
「…さすがにこれは分かるか」
スープの飲み方も分からないと思われてるのか、俺は。
子供扱いがすぎるだろ、と文句をつけようと思ったけど何故だか言葉が出てこない。
面倒見が良すぎんじゃねえの、こいつ。
「お、明日晴れるってさ」
レンゲを俺に渡してあっさり離れていった八重田は、もう何事もなかったような顔でテレビの中の人間の話に相槌を打っている。何を動揺してんだ、俺は…。くそっ。
ラーメンとやらは美味かった。
▽八日目
夢なら覚めろと思い続けてはや一週間、さすがにこの不可思議な町にも少し慣れた。家でくすぶっててもしょうがないし、一縷の望みにかけて外を出歩くようにしていると、大体決まった面子が声をかけてくるようになった。
「あらっ杉元さん。今日もいい男ねぇ」
「おばちゃん、今日も元気だな」
肉屋の威勢のいいおばちゃんにももう慣れたもんだ。八重田の言う通り、この商店街にはお節介だけど親切な人が多い。人を探してることを伝えてからなにかと気にかけてくれて、今日もそれらしい人は見かけなかったと教えてくれた。
「杉元さん、こないだはありがとうね。助かっちゃった」
「全然いいよ。力仕事は得意なんだ。運ぶ物があったらいつでも言って」
「若いっていいわねぇ…。優しいし力持ちだし、娘の彼氏に欲しいくらい」
「こんな傷持ち、娘さんが嫌がるだろ?」
「野性味があって素敵よぉ。…あら、八重田くん!」
キュッ、とタイヤが擦れる音がして、振り返ると八重田が帽子のツバを握って軽く一礼していた。自転車を引く姿を初日ぶりに見た。
「こんにちはキヨ子さん」
「巡回ね。ご苦労さま」
「八重田…」
「よう。奇遇だな」
隣に並んで目が合った。こうして職務中の八重田に会うのはこれで二度目か。なんだか妙な感覚になる。当たり前だけど、ちゃんと警官してるんだな、こいつ。家にいる時とまったく変わらない態度でいるのは八重田がこの町に馴染んでいる証拠だろうか。
「あらなに、二人は知り合い?」
「俺の同居人」
「あらっ」
なんてことない顔でそう言う八重田に、俺はちょっとだけドキッとした。そうか。俺って、こいつの同居人なんだ。肉屋のおばちゃんも八重田の言葉に目を瞬いて、俺たち二人を見比べる目が心なしか嬉々として見える。
「じゃ、杉元さんは八重田くんの仲良しさんだったのね?」
「そうだよ。俺の連れ。よろしくしてね」
「いいわねぇ、若い男の子が二人で。眼福だわ」
「本当? どっちがキヨ子さんの好みかな」
「やだ! 悩ませるようなこと言わないで!」
おばちゃんはなぜだか楽しそうだ。そんなの選べないわと言いつつ嬉しそうな顔で悩んでいる。
「いやいや、さっき娘の彼氏にしたいって言ってたじゃん。八重田より俺だろ?」
「俺も前に同じこと言われたけどね」
「えっ、おばちゃん…」
「だってどっちもかっこいいんだもの〜」
「おばちゃ〜ん」
「悪女だな、キヨ子さん」
こんな風に軽口を叩く八重田を俺は初めて見た気がする。相変わらず愛想笑いはしないくせに、冗談は言うのか。おばちゃんもおばちゃんで、そんな八重田との会話を楽しんでいるようだった。
「そろそろ職務に戻らないと」そう言って自転車に跨る八重田に、おばちゃんがまた顔を見せに来てねと手を振った。年上殺しだな、こいつ。
「あ、杉元」
去り際、八重田が俺の方を振り向いてそう言った。なんだよ、と返事をしてからアレ? と思う。
「牛乳買っといて。1本」
「え」
「よろしく」
どうやって、と言いかけて、念のためにと渡されていた財布がポケットに入っているのを思い出した。返事も聞かずに去っていった八重田は、50メートルほど先で八百屋のおじさんに捕まっていた。牛乳、ってどこで買うもんなんだ。
「おつかい頼まれちゃったわね」
おばちゃんがウフフと笑ってそう言った。
そういや、あいつに名前を呼ばれたのって初めてだな。
▽十五日目
「え、お前、どうしたのそれ」
「あ? …これ?」
その日帰ってきた八重田の頬に、朝にはなかった大きなガーゼが貼られていた。この信じられないくらい平和な町で、八重田が怪我をして帰ってきたのなんて初めてじゃないか? 驚いて全身を見ると、妙に生傷が増えている気がする。
「喧嘩の仲裁に入ったら引っかかれた」
「…大丈夫なの?」
「いつものことだし平気だろ。あの夫婦、いつも喧嘩するけど、そのあともっと仲良くなるから」
そっちじゃねえよ、バカ。
俺は、結構、八重田の顔が好きだ。淡々として、読めなくて、一見冷たく見えるけど投げやりではないところが好きだ。そっけなくてつんとした横顔はそんな八重田に合ってると思う。傷が残るのは、なんか…嫌だな。
「…痕にならないといいな」
「ああ、これ? どうだろうな」
「…」
「別にいいよ。これくらいの傷」
「…もったいないだろ。せっかく綺麗な顔してんのに」
「は?」
口が滑った。言わなくていいことを言ってしまった。それは向こうにとっても思いがけない言葉だったらしく、呆気に取られないまでも少し驚く八重田に慌てて「深い意味なんかねえよ」と念押しした。半分、自分に言い聞かせてるようなものだった。
「…まあ、別に、そうなったらなったで」
「…」
「お揃いってことでいいんじゃないの」
八重田の指が俺の頬に触れた。傷のあたりをなぞられる。それがあんまり出し抜けで、俺は咄嗟になんの反応もできなくて、ただされるがままになった。返事のない俺を見て、八重田が思い当たったように手を離した。
「あ、ごめん。痛いか」
「…い、や、全然…」
なぜか心臓の方が痛い。なんだ。なんなんだこれ。
その後、幸か不幸か八重田の傷は綺麗に治った。
▽二十三日目
今日は遅くなる、と出がけに言っていたとおり、その日八重田が帰ってきたのは日も跨ぐような深夜だった。先に寝てていいと言われたけどなんとなくそんな気にはなれなくて、八百屋のおっちゃんに貰った知恵の輪を解きながら奴の帰りを待っていた。別に、寂しいとか、おやすみって言いたいとか、そんな殊勝な理由じゃなく、ただ家主より先に休むのはどうかと思っただけだ。それだけだ。本当に。
「…ん?」
「…」
「八重田?」
ふと、物音がして顔を上げた。八重田が帰ってきた音だ。が、なにやら様子がおかしい。ただいまも言わずに、玄関ドアにもたれながら俯いているのを見て思わず立ち上がった。帽子のツバに隠れて表情は見えないけど、どう見ても変だ。俺の呼びかけには答えないまま、だるそうな手つきで手招きされた。言われなくても駆け寄るだろ、普通。知恵の輪をほっぽり出して近寄って、肩に手を触れたらなんだか体が熱い気がした。
「おい、一体どうし…」
思わず言葉を切ったのは仕方ないことだ。ぽす、と軽い音を立てて、八重田が俺に向かって倒れ込んだ。筋肉が一瞬硬直した、ような気がする。肩口に額を寄せられて、八重田の柔らかい髪が俺の首筋をくすぐった。な、んだ、この状況…。
「お、おい…」
「動くな」
地を這うような低音が響いた。俺の胸に体を預けたまま、微動だにしない八重田が発した声だと、ワンテンポ遅れて気が付いた。
「今動いたら、出る」
「出…」
何を、とは聞くまい。八重田がまとう酒の匂いで全て悟った。
「…飲みすぎたのか? 酒、弱いの?」
「飲まされたんだよ。町内会の飲み会で…」
グロッキー状態の八重田を居間に敷いた布団に転がして、冷たい水を飲ませてやった。いつも八重田は隣の寝室で寝てるけど、今日は俺が使っている来客用の布団に引きずっておいた。少しでもトイレに近い方がいいかと思って。しばらく額に手を乗せたまま気怠げに唸っていた八重田は、そのうち少し落ち着いたようで、「悪い」と俺を見上げて呟いた。
「外から部屋の電気が点いてんの見えて、気が緩んだ」
「…別にいいよ。たまたま起きてただけだし」
「そう…」
「あんま無茶な飲み方すんなよ。相当弱いんじゃないの?」
「若い男の義務みたいなもんでね…」
酒を飲むのも仕事のうちだと言う。そんなもんかね。警官ってのも難儀な仕事だ。もう一度コップに水を汲んで渡したら手の上から重ねるように握られて、思いがけない人肌に狼狽したのをなんとかごまかして平静を装った。こいつ…急に距離が近くて心臓に悪いんだよな…。
「な、なんだよ」
「アンタがいて助かった」
「……そうかよ」
「ついでにもう一つ迷惑かけていいか」
「は?」
「吐きそう…」
「待て待て待て待て」
待て!!
慌てて八重田を抱えてトイレの中に突っ込んだ。いつも一人でどうしてるんだ、この男。結局、胃の中全部空っぽになるまで奴のグロッキーに付き合ったが、途中で俺も睡魔に襲われて、気付いたら一緒の布団で眠っていた。雀のチュンチュン鳴く声と朝の光が差し込む中で、目の前に八重田の顔があって、たっぷり5秒は考えてから跳ね起きた。
「……うわっ!」
「大声出すなバカ…」
いつもより口の悪い八重田の腕が伸びてきて、肩を押されて再び布団の上に倒れこんだ。もう片方の手で額を抑えながら、眉根を寄せる表情が新鮮で訳もなくドキドキした。ていうか、なんだ、この状況。
「完っ全に二日酔い…頭いったぁ…」
「あ、あの…? 八重田サン?」
「もうちょっと寝ようよ。まだ朝だろ」
「…仕事は?」
「非番」
なんで俺まで、とは言わなかった。弱った八重田が物珍しかったからか、誘われたことが素直に嬉しかっからか、それとも、今までで一番近い距離感が名残惜しかったせいか。
「…なあ」
「なに」
「今度俺とも酒飲んでよ」
「喧嘩売ってんの…」
横目で睨まれたけどちっとも怖くなかった。だってこんな表情するところ、初めて見た。もっと俺の知らない一面を見てみたいと思う。酔った八重田を介抱するのも、実はあんまり嫌じゃなかった。どころか、頼られたようでちょっと嬉しかったりもして…。なんか、俺、どんどん歪んできてないか?
「今酒の話はするな」
そう言いながらも嫌とは言わない八重田にまた心をくすぐられて、バレない程度に身を寄せた。目と鼻の先に八重田の顔がある。二日酔いがもっと長引けばいい、と無意識のうちに願っていた。
▽???日目
「いい知らせと悪い知らせがあるんだけど」
まだ日も高いうちに帰ってきた八重田が、帰宅早々そんなことを言い出した。その時ちょうど風呂掃除をしていた俺は、泡だらけのスポンジを持ったまま奴を出迎えた。こんな時間に帰ってくるなんて珍しい。
「どうしたんだよ。まだ仕事中だろ?」
「いや…。いいから、どっちから聞きたい?」
「え、じゃあ、悪い知らせ」
「ハンコ屋のヨネさんが入院した」
「え!? 大丈夫なの?」
ヨネさんというのは七十も後半のバアさんで、たまに通りがかると決まって黒飴をくれる気のいい人だ。
「軽い捻挫だけど大事をとって入院するらしい。大したことはないってさ」
「そうか…早く良くなるといいな」
それで、と八重田が目線だけで後ろを伺った。どうやら本題はこっちのようだ。その時初めて、俺は八重田が何かを背負っていることに気が付いた。背中から白いモコモコが見え隠れしてる。八重田の顔ばかり見てて気付かなかった。
「多分、そうだと思うんだけど」
そう言って姿勢をずらして、背負っている何かを俺に見せた。瞬間、手から滑り抜けた泡まみれのスポンジが水音をたてて床に落っこちたけど、八重田は何も言わなかった
「……アシリパさん!!」
泡がつくのにも構わずにその小さな体を抱え上げてぎゅうぎゅう抱きしめた。アシリパさん、アシリパさんだ! なぜかのんきに寝ているアシリパさんは、俺が抱きしめてもまったく目を覚ます気配はなく、むにゃむにゃ言いながらよだれを垂らしている。この図太い感じ、間違いなくアシリパさんだ!
「あの空き地で見つけたよ。お前が探してる人に似てたから、交番に寄らずに連れてきたんだけど」
「…」
「正解だったな」
なんてことない顔で言う八重田に、俺は内心驚いた。この町にすっかり慣れてしまった俺は、あの空き地がこの町のはずれにあって、人通りなんかほとんどないことをもう既に知っていた。わざわざ巡回ルートに入れるような場所じゃない。じゃあ、なんで八重田は、アシリパさんを見つけられたんだ。
「……もしかして、見に行ってたのか? あれからずっと?」
「そうだけど…」
「な、なんで」
「おまわりさんだから」
この町のね。
いつか聞いたようなセリフを淡々と述べる八重田に、ついに感極まって抱きついた。好きだ、と思った。この感情が親愛によるものか、もっと違う意味を含んでいるのか、自分でも分からなかったけど、ただたまらなくなって抱きついた。挟まれたアシリパさんが「ぐぇ」と顔をしかめたけど一向に起きる気配はない。どんだけねぼすけなんだい、アシリパさん。
「…重い」
「あ、ごめん」
慌てて体を離した。我ながら大胆なことをしてしまった。八重田はまるで動揺した様子もなく、ズレた帽子の向きなんかを直している。ドキドキしているのは俺だけか。くそ、道のりは遠いな。
「…しかし、人生で二度も人を拾うことになるとは思わなかったな」
諦めの境地に至ったような顔で八重田が言った。
拾われたのがお前で良かったよと言ったら、この男はどんな顔をするだろうか。
八重田:テルマエロマエを見ていたおかげで初日に色々察したおまわりさん。下戸。
杉元:八重田と二人で後に商店街のアイドルとなる。コミュ強。
アシリパさん:まだ現状が分かってない。どこだここ。
2021.3.1