短い話
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
※付き合ってる
「アズールくん♡」
「なっ、なっなっななな、なんっ、なんですかっ」
にこやかに話しかけてきたマキの、その思いがけない語尾に動揺して、持っていた書類が手から滝のように滑り落ちた。おやまあ、なんて言いながら扇状に散らばった書類を拾い上げるジェイドとケラケラ笑い転げるフロイドに挟まれて、マキは眉をハの字に下げて困ったフリをしてみせた。放課後の寮長室、普段は僕が呼びつけないと顔すら出さないマキが、突然現れたあげくにそんな呼び方をしてくるものだから、驚くなって方に無理がある。
「そんな反応されると傷ついちゃうな…」
「嘘をつくな嘘をっ」
マキがこんなことで傷つくわけないのは僕が一番よく知っている。一体何年の付き合いだと思っているんだ。現にさして傷ついた様子もなく平然と歩み寄ってきたマキが、僕に向かって手を伸ばした。指が頬に触れて、目を合わせるように促される。思いがけず近い距離に息を詰まらせる僕に、マキはなんてことない顔で笑ってみせた。な、なんだその顔!
「アズールくん」
「だ、だから、なんなんですかその呼び方…」
「誕生日おめでとう」
「……は?」
我ながら気の抜けた声が出た。
確かに今日は僕の誕生日で、例年のこととはいえマキから祝ってもらえるのはやぶさかではないし、むしろ嬉しいくらいだけど、その呼び方がやけに引っかかる。
「せっかく誕生日なんだし、君の喜ぶことしてあげようと思って」
「は、はあ?」
「前に、もっと早く付き合いたかったって言ってたじゃん?」
「アズール、貴方そんなこと言ったんですか?」
「タコちゃん純情〜」
「うるっさい!!」
「だから昔を再現しつつ、イチャイチャしてみようかと思ったんだけど…。だめ?」
「だ、駄目…というか…」
「嬉しいけどさぁ、トラウマも思い出しちゃうんだよねぇ〜?」
ケラケラ笑っていたフロイドが、一転、ニヤニヤ笑いで僕の肩にもたれてきたのでジロリと睨むと「それ当たりってことぉ?」とたじろぐ様子もなくヘラヘラしている。僕の表情で正誤判定をするな。実際それが当たらずといえども遠からずという刺さり具合なのが始末が悪い。
マキは昔からその人当たりの良さに反して淡白な人付き合いをする男で、この学園に入学して初めてベッドを共にして晴れて付き合えるようになるまで、僕はずっと彼の特別にはなれないんだと思っていた。それが実は、マキもずっと僕のことが好きだったというから、それならもっと早く言ってくれよと思ったんだ。僕がどれだけマキのことを思って悶々とした夜を過ごしていたか。あの暗い海の底で、名前も顔も知らないような女達へのねじ切れるような嫉妬心を抱えながら、それでも平気なふりをしていた過去の僕がただただ可哀想になってしまって、つい、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですかと尋ねてしまった。
マキはそれを覚えていて、今、こうして過去の焼き直しをしてくれるらしい。それは僕としても、願っても無い…というか、その内容うんぬんより、マキが僕のことを考えてくれているのが何より嬉しいと思う。だって僕は、いつだってマキには僕のことだけを考えていてほしいから。でも同時に「アズールくん」と呼ばれていた頃の青い自意識もふつふつと呼び起こされてきて、それはフロイドの言う通り、トラウマというやつだった。
マキがぱちくりと目を瞬いてフロイドを見上げた。
「何? トラウマって」
「マキのことがだぁい好きなくせに僕全然興味ないですってフリして影でうじうじしてた陰キャタコちゃんの、悲しい思い出のこと」
「フロイド、いくら本当のことだからってはっきり言ってはいけませんよ」
「殺すぞお前ら…」
「アズール、そんなかわいいことしてたの?」
アハハと笑うマキを睨みつけてもどこ吹く風だ。
「ごめんね。アズールくん」……くそ、そんな声で僕を呼ぶな。目を細めて笑うマキにうなじのあたりを撫でられると、もう何も言えなくなってしまって、せめてもの抵抗だとジト目でマキを睨みながら、それでもされるがままになった。きっと耳まで赤くなってしまっている僕を見て、白けた目をしたフロイドがジェイドの肩に手を回してため息をついた。
「終わったら呼んで」
「うん」
何も言わないジェイドを半ば無理やり引きずって部屋を出て行ったフロイドの言葉に、マキは振り返らなかった。僕から視線を外さずに返事をするマキにますますたじろいでしまうのは、この男が、僕だけを特別に扱うさまに慣れていないからだ。いつも一緒にいることが多い三人の中で、マキが僕だけを選ぶような行動をするなんて昔じゃ考えられないことだった。ちゃんと恋人扱いされたことが嬉しくて、二人きりになった部屋の中で、僕の方から身を寄せた。ネクタイを引っ張って肩口に額を寄せると、優しい手つきで背中を撫でられる。遠慮がちにしか触れられない僕の杞憂を拭うように、腰に回った腕にぎゅっと抱きしめられた。ああ、くそ…ずるいな、本当に。
「じゃあ、アズール。……くん」
「…」
「何からやり直そうか」
……一瞬設定忘れたな、こいつ。
▽
「何をしたら喜んでくれる?」
「…僕は…」
こうして僕のことだけ見ててくれたらそれでいい、と口走りそうになった言葉を飲み込んで、躊躇いがちにマキを見上げた。いつも人の気持ちを察して動く気遣い屋が、こうもストレートに何をしてほしいのか聞いてくるあたり、求められているのは僕の本音だ。
「本当に、何でもいいんですか」
「うん。いいよ」
「…」
それなら、と言いかけて口ごもる。フロイドの奴、改めて言い得て妙な言い回しをしやがって。トラウマ、という言葉は、遠からずどころか、実は的のど真ん中にぶっ刺さっていた。痛いところを突いていた。あの過去は、正真正銘、紛れもなく僕のトラウマだ。
でもマキが何でもしてくれるというなら、過去をやり直してくれるというなら、僕のしてほしいことは、……知りたいことは一つしかなかった。
「僕にも、やらせてもらえますか」
「うん。何を?」
「かつての貴方のお相手」
「…」
それは、と言いさしたマキが何かを考えるような仕草をした。僕は唇を噛み締めながらそんなマキをじっと見上げた。
昔、あの暗い海の底で、マキは色んな女と夜を過ごした。僕のあずかり知らぬところで、さも何でもないような顔で、色んな女の相手をしていた。この学園に入る前の話だ。小遣い稼ぎに配達のバイトに明け暮れていたマキは、配達先の客たちと、誘われるがままにベッドを共にした。僕には、未だにそれが我慢ならない。その頃から僕のことが好きだったというなら、そんなお誘いなんか全部無視して、素直に僕のことだけ求めてくれたらよかったのに。
招かれた家の中で、閉め切られたカーテンの中で、マキが一体何をして、何をされていたのか、全部教えてほしいと思う。
マキは少しだけ、困ったように笑った。
「えーと……セックスしたいってこと?」
「…」
「じゃ、ないよね…。分かってるよ」
ギンと睨みつけた僕を宥めるようにうなじを撫でながら、うーん、と小さくひとりごちた。僕の体を離したマキは、そのまま、ベッドに歩み寄って腰を下ろした。隣をぽんぽんと叩かれて、僕も彼に並んで座る。自然と間合いを詰められて、キスされるのかと思って身構えた。けど、マキは、僕の膝の上にごろんと寝転んだ。
「……膝枕、ですか」
「昔から、タイミングが良くてさぁ」
問いかけには答えずに、膝に頭を乗せたまま僕を見上げてマキは言った。マキに膝枕なんかしたことがない僕は、この状況にドキドキしながらも平然としたふりで次の言葉を待った。髪を撫でてみたいと思ったけど、我慢して聞いていた。
「ちょうど寂しかったり、話し相手がほしいときに僕が家を訪ねることが多かったみたいで、よくお茶に誘ってもらえたんだよ。話し相手になってくれない?って」
「……それで膝枕までさせてあげたんですか」
「人肌恋しい人も多くて」
「セックスも?」
「…」
日の光の入らない陰鬱な海の底で、やけに爽やかに笑うマキは、しかも大抵のお願いを断らない。踏み込まない距離感で親身に話を聞いてくれて、話を聞いてもらったら今度は手を握って欲しくなって、手が触れたら今度は抱きしめて欲しくなって、甘えた分だけ甘やかしてみたくなる、その心理がなんと僕には理解できた。僕にも覚えがあるから分かる。僕自身、マキにそうやって絆されてきたからだ。
「セックスもしたけど」言葉を選ぶように考えるそぶりで、マキは続けた。
「それだけだよ。向こうは僕のこと好きなわけでもなんでもなくて、ただ僕が、都合のいい相手だったってだけ…」
「…」
「だから、わざわざ君が、同じようなことする必要ないんだけど」
それがお願いならいいよ、と言ってマキは僕を見上げた。見も知らない女達のお願いをどうしてそこまで聞いてあげる必要があったのか、僕にはまるで理解できないけど、でもマキはそういう奴だった。来るもの拒まず去る者追わずを地で行く男だ。そんなマキが今は僕の膝の上で、僕だけを見ていて、あの頃とは違うと暗に言う。それだけで僕は、どうしようもなく満たされた気になった。
でも。
「…でも、やっぱり僕は、あの頃の貴方にも未練があります」
「…」
「貴方の相手をした連中、全員、殺してやりたいと思う」
「好きにしたら…って言ってあげたいけどね…」
困ったように笑うマキに、分かってますよと半ば拗ねた気持ちで返した。分かってる。そんなことしてもスッキリするのは僕だけで、マキを困らせるだけだってことくらい。ちゃんと分かってる。だから今の今まで、思うだけに留めていた。
分かってるよ。本当に殺さなくちゃいけなかったのは、マキを一晩の相手に選んだ連中じゃなくて、いつまでも僕の心にのさばっている行き場のない嫉妬心の方だ。
「僕だって、こんなふうに貴方に膝枕して、せ…セックスもしたいって、ずっと思ってたのに…」
「…」
「ずるいんですよ。何もかも」
もうこの際だと、溜め込んでいた言葉を吐き出した。これはあの頃の、マキに好きだと伝えることもできず、そのくせプライドばっかり高くて、諦めることもできずに健全な友達のふりをしていた、あの頃の僕の言葉だ。
マキはしばらく黙って、じっとこちらを見上げていた。
「アズール」
「……なんですか」
「かわいい」
「あ!?」
からかわないでください、と言いかけた僕の後頭部に手が添えられて、ぐっと引き寄せられた。唇が重なって、やがて軽いリップ音が漏れる。下から掬い上げるようなキスをしたマキは、僕の目を覗き込みながら笑ってみせた。な、んだその顔…。
「そういうところ、かわいい」
「は、」
「アズールくんの、意地っ張りで素直になれないとこ」
体を起こしたマキが、僕の肩をくんと押した。ベッドにやすやすと倒れ込んだ僕に乗り上げて、今度はマキに見下ろされる。たじろいだ僕を制するみたいに、唇に人差し指が押し当てられた。指の腹が唇をなぞるともう何も言えなくなって、心臓がうるさくなるのを感じながら、ただ黙ってマキを見上げることしかできない。
「目的のために努力ができるとこも好き」
「…」
「諦めの悪いところも、頼るのが下手なところも好きだよ」
「…」
「僕のことを呼ぶ声も好き。わざとそっけない態度とるところも」
「…」
「聡明で、計算高くて、自分でものを考えることができるのに、そのくせどこか抜けてるところも、全部かわいい」
「あ、の」
「一緒にいて楽しいと思う」
「も、もういいですから…!」
「だめ」
マキの瞳がぐっと迫って、レンズ越しにまっすぐ目が合った。前髪がかかるほど近い距離で、アズールくん、と呼ぶ声が思いのほか真剣だったこと、さっきまで笑っていたマキが、今度は全然笑っていなかったこと、そのどれもに息が詰まって、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「あの頃の僕が君のことどう思ってたか、ちゃんと聞いて」
……マキの真顔って、どうして、こんなにも……。
食べられそうなほど近くであけすけな愛の言葉を囁くマキに、とうとう何も考えられなくなる。真っ赤になりながらマキの制服の裾を握りしめて、こんこんと落ちてくる幸せに耐えた。ずるい、本当に、この男はずるすぎる。
「アズールくん」
自分でも理由の分からない涙がにじむ僕の目尻を拭って、マキがことさら優しくそう呼んだ。なんだか、出会って間もない頃のマキに見つめられてるような錯覚に心がまどろんで、微笑まれると胸が高鳴った。
「好きだよ。僕と付き合って」
茶番だ。
そう自分でも分かっていながら、それでもゆっくりと頷いた。そのときぽろりとこぼれた涙は、きっとあの頃の僕が流した嬉し涙に違いない。
「なげぇよ!!」ってケーキと唐揚げ抱えた双子が乱入してくるまでセット。誕生日おめでとうございます。
2021.2.24
「アズールくん♡」
「なっ、なっなっななな、なんっ、なんですかっ」
にこやかに話しかけてきたマキの、その思いがけない語尾に動揺して、持っていた書類が手から滝のように滑り落ちた。おやまあ、なんて言いながら扇状に散らばった書類を拾い上げるジェイドとケラケラ笑い転げるフロイドに挟まれて、マキは眉をハの字に下げて困ったフリをしてみせた。放課後の寮長室、普段は僕が呼びつけないと顔すら出さないマキが、突然現れたあげくにそんな呼び方をしてくるものだから、驚くなって方に無理がある。
「そんな反応されると傷ついちゃうな…」
「嘘をつくな嘘をっ」
マキがこんなことで傷つくわけないのは僕が一番よく知っている。一体何年の付き合いだと思っているんだ。現にさして傷ついた様子もなく平然と歩み寄ってきたマキが、僕に向かって手を伸ばした。指が頬に触れて、目を合わせるように促される。思いがけず近い距離に息を詰まらせる僕に、マキはなんてことない顔で笑ってみせた。な、なんだその顔!
「アズールくん」
「だ、だから、なんなんですかその呼び方…」
「誕生日おめでとう」
「……は?」
我ながら気の抜けた声が出た。
確かに今日は僕の誕生日で、例年のこととはいえマキから祝ってもらえるのはやぶさかではないし、むしろ嬉しいくらいだけど、その呼び方がやけに引っかかる。
「せっかく誕生日なんだし、君の喜ぶことしてあげようと思って」
「は、はあ?」
「前に、もっと早く付き合いたかったって言ってたじゃん?」
「アズール、貴方そんなこと言ったんですか?」
「タコちゃん純情〜」
「うるっさい!!」
「だから昔を再現しつつ、イチャイチャしてみようかと思ったんだけど…。だめ?」
「だ、駄目…というか…」
「嬉しいけどさぁ、トラウマも思い出しちゃうんだよねぇ〜?」
ケラケラ笑っていたフロイドが、一転、ニヤニヤ笑いで僕の肩にもたれてきたのでジロリと睨むと「それ当たりってことぉ?」とたじろぐ様子もなくヘラヘラしている。僕の表情で正誤判定をするな。実際それが当たらずといえども遠からずという刺さり具合なのが始末が悪い。
マキは昔からその人当たりの良さに反して淡白な人付き合いをする男で、この学園に入学して初めてベッドを共にして晴れて付き合えるようになるまで、僕はずっと彼の特別にはなれないんだと思っていた。それが実は、マキもずっと僕のことが好きだったというから、それならもっと早く言ってくれよと思ったんだ。僕がどれだけマキのことを思って悶々とした夜を過ごしていたか。あの暗い海の底で、名前も顔も知らないような女達へのねじ切れるような嫉妬心を抱えながら、それでも平気なふりをしていた過去の僕がただただ可哀想になってしまって、つい、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですかと尋ねてしまった。
マキはそれを覚えていて、今、こうして過去の焼き直しをしてくれるらしい。それは僕としても、願っても無い…というか、その内容うんぬんより、マキが僕のことを考えてくれているのが何より嬉しいと思う。だって僕は、いつだってマキには僕のことだけを考えていてほしいから。でも同時に「アズールくん」と呼ばれていた頃の青い自意識もふつふつと呼び起こされてきて、それはフロイドの言う通り、トラウマというやつだった。
マキがぱちくりと目を瞬いてフロイドを見上げた。
「何? トラウマって」
「マキのことがだぁい好きなくせに僕全然興味ないですってフリして影でうじうじしてた陰キャタコちゃんの、悲しい思い出のこと」
「フロイド、いくら本当のことだからってはっきり言ってはいけませんよ」
「殺すぞお前ら…」
「アズール、そんなかわいいことしてたの?」
アハハと笑うマキを睨みつけてもどこ吹く風だ。
「ごめんね。アズールくん」……くそ、そんな声で僕を呼ぶな。目を細めて笑うマキにうなじのあたりを撫でられると、もう何も言えなくなってしまって、せめてもの抵抗だとジト目でマキを睨みながら、それでもされるがままになった。きっと耳まで赤くなってしまっている僕を見て、白けた目をしたフロイドがジェイドの肩に手を回してため息をついた。
「終わったら呼んで」
「うん」
何も言わないジェイドを半ば無理やり引きずって部屋を出て行ったフロイドの言葉に、マキは振り返らなかった。僕から視線を外さずに返事をするマキにますますたじろいでしまうのは、この男が、僕だけを特別に扱うさまに慣れていないからだ。いつも一緒にいることが多い三人の中で、マキが僕だけを選ぶような行動をするなんて昔じゃ考えられないことだった。ちゃんと恋人扱いされたことが嬉しくて、二人きりになった部屋の中で、僕の方から身を寄せた。ネクタイを引っ張って肩口に額を寄せると、優しい手つきで背中を撫でられる。遠慮がちにしか触れられない僕の杞憂を拭うように、腰に回った腕にぎゅっと抱きしめられた。ああ、くそ…ずるいな、本当に。
「じゃあ、アズール。……くん」
「…」
「何からやり直そうか」
……一瞬設定忘れたな、こいつ。
▽
「何をしたら喜んでくれる?」
「…僕は…」
こうして僕のことだけ見ててくれたらそれでいい、と口走りそうになった言葉を飲み込んで、躊躇いがちにマキを見上げた。いつも人の気持ちを察して動く気遣い屋が、こうもストレートに何をしてほしいのか聞いてくるあたり、求められているのは僕の本音だ。
「本当に、何でもいいんですか」
「うん。いいよ」
「…」
それなら、と言いかけて口ごもる。フロイドの奴、改めて言い得て妙な言い回しをしやがって。トラウマ、という言葉は、遠からずどころか、実は的のど真ん中にぶっ刺さっていた。痛いところを突いていた。あの過去は、正真正銘、紛れもなく僕のトラウマだ。
でもマキが何でもしてくれるというなら、過去をやり直してくれるというなら、僕のしてほしいことは、……知りたいことは一つしかなかった。
「僕にも、やらせてもらえますか」
「うん。何を?」
「かつての貴方のお相手」
「…」
それは、と言いさしたマキが何かを考えるような仕草をした。僕は唇を噛み締めながらそんなマキをじっと見上げた。
昔、あの暗い海の底で、マキは色んな女と夜を過ごした。僕のあずかり知らぬところで、さも何でもないような顔で、色んな女の相手をしていた。この学園に入る前の話だ。小遣い稼ぎに配達のバイトに明け暮れていたマキは、配達先の客たちと、誘われるがままにベッドを共にした。僕には、未だにそれが我慢ならない。その頃から僕のことが好きだったというなら、そんなお誘いなんか全部無視して、素直に僕のことだけ求めてくれたらよかったのに。
招かれた家の中で、閉め切られたカーテンの中で、マキが一体何をして、何をされていたのか、全部教えてほしいと思う。
マキは少しだけ、困ったように笑った。
「えーと……セックスしたいってこと?」
「…」
「じゃ、ないよね…。分かってるよ」
ギンと睨みつけた僕を宥めるようにうなじを撫でながら、うーん、と小さくひとりごちた。僕の体を離したマキは、そのまま、ベッドに歩み寄って腰を下ろした。隣をぽんぽんと叩かれて、僕も彼に並んで座る。自然と間合いを詰められて、キスされるのかと思って身構えた。けど、マキは、僕の膝の上にごろんと寝転んだ。
「……膝枕、ですか」
「昔から、タイミングが良くてさぁ」
問いかけには答えずに、膝に頭を乗せたまま僕を見上げてマキは言った。マキに膝枕なんかしたことがない僕は、この状況にドキドキしながらも平然としたふりで次の言葉を待った。髪を撫でてみたいと思ったけど、我慢して聞いていた。
「ちょうど寂しかったり、話し相手がほしいときに僕が家を訪ねることが多かったみたいで、よくお茶に誘ってもらえたんだよ。話し相手になってくれない?って」
「……それで膝枕までさせてあげたんですか」
「人肌恋しい人も多くて」
「セックスも?」
「…」
日の光の入らない陰鬱な海の底で、やけに爽やかに笑うマキは、しかも大抵のお願いを断らない。踏み込まない距離感で親身に話を聞いてくれて、話を聞いてもらったら今度は手を握って欲しくなって、手が触れたら今度は抱きしめて欲しくなって、甘えた分だけ甘やかしてみたくなる、その心理がなんと僕には理解できた。僕にも覚えがあるから分かる。僕自身、マキにそうやって絆されてきたからだ。
「セックスもしたけど」言葉を選ぶように考えるそぶりで、マキは続けた。
「それだけだよ。向こうは僕のこと好きなわけでもなんでもなくて、ただ僕が、都合のいい相手だったってだけ…」
「…」
「だから、わざわざ君が、同じようなことする必要ないんだけど」
それがお願いならいいよ、と言ってマキは僕を見上げた。見も知らない女達のお願いをどうしてそこまで聞いてあげる必要があったのか、僕にはまるで理解できないけど、でもマキはそういう奴だった。来るもの拒まず去る者追わずを地で行く男だ。そんなマキが今は僕の膝の上で、僕だけを見ていて、あの頃とは違うと暗に言う。それだけで僕は、どうしようもなく満たされた気になった。
でも。
「…でも、やっぱり僕は、あの頃の貴方にも未練があります」
「…」
「貴方の相手をした連中、全員、殺してやりたいと思う」
「好きにしたら…って言ってあげたいけどね…」
困ったように笑うマキに、分かってますよと半ば拗ねた気持ちで返した。分かってる。そんなことしてもスッキリするのは僕だけで、マキを困らせるだけだってことくらい。ちゃんと分かってる。だから今の今まで、思うだけに留めていた。
分かってるよ。本当に殺さなくちゃいけなかったのは、マキを一晩の相手に選んだ連中じゃなくて、いつまでも僕の心にのさばっている行き場のない嫉妬心の方だ。
「僕だって、こんなふうに貴方に膝枕して、せ…セックスもしたいって、ずっと思ってたのに…」
「…」
「ずるいんですよ。何もかも」
もうこの際だと、溜め込んでいた言葉を吐き出した。これはあの頃の、マキに好きだと伝えることもできず、そのくせプライドばっかり高くて、諦めることもできずに健全な友達のふりをしていた、あの頃の僕の言葉だ。
マキはしばらく黙って、じっとこちらを見上げていた。
「アズール」
「……なんですか」
「かわいい」
「あ!?」
からかわないでください、と言いかけた僕の後頭部に手が添えられて、ぐっと引き寄せられた。唇が重なって、やがて軽いリップ音が漏れる。下から掬い上げるようなキスをしたマキは、僕の目を覗き込みながら笑ってみせた。な、んだその顔…。
「そういうところ、かわいい」
「は、」
「アズールくんの、意地っ張りで素直になれないとこ」
体を起こしたマキが、僕の肩をくんと押した。ベッドにやすやすと倒れ込んだ僕に乗り上げて、今度はマキに見下ろされる。たじろいだ僕を制するみたいに、唇に人差し指が押し当てられた。指の腹が唇をなぞるともう何も言えなくなって、心臓がうるさくなるのを感じながら、ただ黙ってマキを見上げることしかできない。
「目的のために努力ができるとこも好き」
「…」
「諦めの悪いところも、頼るのが下手なところも好きだよ」
「…」
「僕のことを呼ぶ声も好き。わざとそっけない態度とるところも」
「…」
「聡明で、計算高くて、自分でものを考えることができるのに、そのくせどこか抜けてるところも、全部かわいい」
「あ、の」
「一緒にいて楽しいと思う」
「も、もういいですから…!」
「だめ」
マキの瞳がぐっと迫って、レンズ越しにまっすぐ目が合った。前髪がかかるほど近い距離で、アズールくん、と呼ぶ声が思いのほか真剣だったこと、さっきまで笑っていたマキが、今度は全然笑っていなかったこと、そのどれもに息が詰まって、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「あの頃の僕が君のことどう思ってたか、ちゃんと聞いて」
……マキの真顔って、どうして、こんなにも……。
食べられそうなほど近くであけすけな愛の言葉を囁くマキに、とうとう何も考えられなくなる。真っ赤になりながらマキの制服の裾を握りしめて、こんこんと落ちてくる幸せに耐えた。ずるい、本当に、この男はずるすぎる。
「アズールくん」
自分でも理由の分からない涙がにじむ僕の目尻を拭って、マキがことさら優しくそう呼んだ。なんだか、出会って間もない頃のマキに見つめられてるような錯覚に心がまどろんで、微笑まれると胸が高鳴った。
「好きだよ。僕と付き合って」
茶番だ。
そう自分でも分かっていながら、それでもゆっくりと頷いた。そのときぽろりとこぼれた涙は、きっとあの頃の僕が流した嬉し涙に違いない。
「なげぇよ!!」ってケーキと唐揚げ抱えた双子が乱入してくるまでセット。誕生日おめでとうございます。
2021.2.24