短い話
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※転生現パロ
「鯉登さんって何でも持ってるんですね。すごいなぁ」
「…」
「何坪? 何平方メートル? 何ヘクタール? 分かんないですけど、ほんとに広いですねぇ」
「…」
「子供の頃行ってた市民プールより大きいかも。本当に使っちゃっていいんですか?」
「…」
「ねえ? 鯉登さん?」
「…」
「あの…? もしもし?」
「…」
「えっ…」
「…」
「嘘でしょ…?」
「…」
返事がない。ただのしかばねでもないのに。
「白石さん、ヘルプ! 鯉登さんにガン無視されてる!」
「鯉登ちゃんはトゥーシャイシャイボーイだからね…」
「小室哲哉?」
「三木ちゃんの水着姿に照れちゃってんだね!」
「その割にはガン見なんですけど…?」
「む、ムッツリボーイだね…?」
白石さんと揃って小首を傾げた。それでもなお、鯉登さんから返事はない。
先程から穴が開くどころかこちらが燃え尽きそうなほどの熱視線を無言で向けてくる鯉登さんは、その多少残念な部分を補って余りあるほどのお金持ちである。
鯉登邸の豪華絢爛なプールで人目を気にせず遊び放題しようよ!との白石さんの誘いに乗って、こうして杉元さん達と一緒に金曜の仕事終わりにお邪魔させてもらった……んだけれど、着替えてからの鯉登さんの挙動があまりにも不審でちょっと怖い。目は合うのに話しかけても返事がないのだ。おかしい。さっき門から迎え入れてくれたときはいつも通りの傲岸不遜な態度だったけど、ちゃんとお話しはできてたのに。
「この暇人どもめが!」なんて言いながらパツパツに膨らんだスイカのビーチボールを小脇に抱えてルンルンだったくせに…なんで急にあからさまな無視を…?
「えっ、ほんとに何? 私、おかしなカッコしてるかな」
「…」
「この水着、アシリパさんに選んでもらったんだけどな…。変ですか?」
「えーかわいいよ? 俺だーいすき!」
「白石さん…」
「紐ビキニ、ちょっとキケンでいいよね〜」
「白石さん…?」
そこは別にどうでもいいんですが…。
「紐よりも、柄がね、アシリパさんとお揃いだったんです。今日一緒に着たかったな…」
「ま、夜遅いからねぇ。来られなくて残念だけど」
「今度の休みに海でも行こうよ。アシリパさんも一緒にさ」
「あ、杉元さん」
「今日は今日で楽しむとして…。白石、準備体操付き合ってくんない?」
「エッ、ヤダ……超ヤダ……」
ウキウキで現れた杉元さんにヘッドロックを決められ、抵抗むなしくプールサイドまで引きずられていった白石さんにやわやわと手を振った。白石さんは軟体生物なので杉元さんのマッシヴボディに圧殺されない稀有な存在なのだった。心ゆくまで準備体操を楽しんでほしい。
根っからの体育会系である杉元さんはこの広いプールで自由に遊べるのが相当に嬉しいみたいで、入る前から気合十分といった風だ。
さて。
「月島さん。お手伝いします」
「ん。ああ」
今年の夏は日が沈んでなお蒸し暑い。
スワンボートにまさかの肺呼吸で空気を入れている月島さんの隣に腰を下ろして、私もペシャンコのドリンクホルダーに息を吹き込んだ。私がグラス用の小さな浮き輪を膨らませている間に、月島さんは人一人乗れるようなボートをパンパンに成長させてしまうんだから、驚異の肺活量である。うーん、恐れ入る。作ったはしからプールへと投げ入れていく力技にもちょっとビビる。月島さんて、妙なところで雑だよね…。無事着水したスワンボートには準備体操を終えた白石さんが飛びついた。
「浮き輪、これ、一体いくつあるんですか?」
作っても作っても減ってる気がしない。
「鯉登さんが浮かれて買った分だけある」
「たくさんってことですか」
「そういうことだな」
「は〜、がんばろ…」
「……今日は」
「んむ、」
「尾形は来ないのか」
「え、ああ、尾形さん。そうなんです。仕事の都合でどうしても来られないらしくて」
「そうか」
「…」
「心労の種が減って助かるな」
「月島さん…」
かわいそう。シンプルにかわいそう。
何の因果か、100年経ってなお鯉登さんのお目付役ポジションに収まっている月島さんの、日頃の苦労を思って心の中で合掌した。宿命ってやつなのかな…。奪い合う刺青も争う理由もないはずなのに、なぜか今世でもいがみ合う尾形さんと鯉登さん(と、時々杉元さん)のストッパー役にならざるを得ない月島さんは、強めの胃薬を常用しているともっぱらの噂だった。せめて今日くらい、と思って「うんと羽を伸ばしましょうね」って言ったら「うん」って返ってきた。おお、リラックスしてる…。
「……あの、ところで」
「なんだ」
「鯉登さんは一体どうしたんですか」
「あの人は…」
頭を抱えてうろうろと動き回る鯉登さんを見て、月島さんは眉間に刻んだシワを深くした。
「おそらく、浮かれている」
「う、浮かれて…!?」
まさかの言葉に思いがけずギョッとする。
そ、そうなの? 本当に…?
「だいぶ挙動不審ですけど…」
「浮かれてる。間違いなく浮かれている。よほど今日が楽しみだったんだな」
プーッと貝殻型の浮き輪を膨らませつつ頷く月島さんの力強さに、そういうものですか、と首を傾げつつ相槌を打った。そうなのかな。本当かなぁ…。
そういえば、このプール、今年初めて使うとかなんとか言ってたっけか。こんなに立派なお屋敷で、不自由のない財産と豪華な設備があったって使わなくては無意味なものだと、言い捨てるようにこぼしていた鯉登さんの言葉は、もしかして寂しさから来てたりするのかな。
杉元さんも白石さんも、もちろん私も、鯉登さんと仲が良いとは到底言えないようなただの因縁から来る間柄だけど、反面、遠慮せずに付き合える気安さや気楽さを、鯉登さんなりに感じてくれていたのかも。
「遊びといえば接待ゴルフや社交界で、なんだかんだ気を張っている人だから、こういう、素でいられる場は貴重なんじゃないか」
「あれが……鯉登さんの素……?」
相変わらず隅っこで右往左往している。あれが素の鯉登さん…。
「鴨の水掻きってやつだな」
「ちょっと違うと思う…」
けど、そう言われて放っておけるほど薄情にはできてない。手持ちの浮き輪を片付けてから、鯉登家のお手伝いさんが事前に用意しておいてくれたカクテルを二つ手に取って、夜の帳の中でうだうだと身悶えしている背中に声をかけた。
「鯉登さん」
「キエッ」
ひえっみたいに言うな。
「あ…」
「どうしたんですか。変ですよ、さっきから」
「別に、いつも通りだが?」
「な、なぜそんなバレバレの嘘を…?」
背後に水しぶきの音と杉元さん達のはしゃぐ声を受けながら、やはりどこか挙動不審な鯉登さんの表情を伺う。さっきまであんなにガンを飛ばしていた鯉登さんは、打って変わって忙しなく視線を彷徨わせた。
「あの、何か言いたいことがおありなのでは」
「…」
「なんでも聞きますよ。私でよければ」
「貴様…」
「(貴様…) はい」
「に、」
「に?」
「に、に、にあ、」
「にあ?」
「似合っ……………」
「…」
「……………ている」
「…」
「と、思った」
「…」
「それだけだ! かっ勘違いするなよ!!」
「あ…ありがとうございます…」
それを伝えたくて今の今までタメてたんですか、と聞けば「言葉を選んでいただけだ」とそっぽを向かれた。うーん、そっかぁ。難儀だなぁ…。改めて鯉登さんをまじまじと見上げて、その端正な横顔をとっくり眺めた。
なんていうか……白石さんみたいに、呼吸でもするような軽さで褒め言葉を口に出せる人もいれば、たった一言を伝えるためにあちこち右往左往して心を決めなければならない鯉登さんのような人もいるんだな。世の中って広い。
「鯉登さんって、意外と不器用ですよね」
「なんだそれは。馬鹿にしているのか?」
「いえ、かわいいなと思って」
「あ?」
「…」
「おい、なめるなよ」
「…」
「貴様の方がかわいいと言っただろうが」
「え、すみません…」
怖っ…。怖いよ。怒りの方向性が独特すぎて怖い。似合ってるとは言われたけどかわいいとは言われてないんだけどな…。ていうか、なんで今のは真顔で言えるんですか。怒られながら褒められることなんてそうそうないので、私も反省したらいいのか喜べばいいのか分からない。なんて不思議な人なんだ。
とりあえず曖昧に謝ると、眉間にしわを寄せつつも今度は目を合わせてくれた。
「えと、鯉登さんもよくお似合いですよ」
「……本当か?」
「はい」
「そ、そうか」
「ananの表紙とか飾ってそうで」
「あんあん?」
いつも月島さんと並ぶことが多いせいか普段はあまり目立たないけど、鯉登さんも鯉登さんでなかなか鍛え抜かれた肉体をお持ちなので、こうも露わにされると私の目にはちょっと眩しい。背中にクズリの引っかき跡とかまだ残ってたりするのかな、なんてぼんやり考えていると、プールの方から一段派手な水音と白石さんの悲鳴が飛んできた。どうやら月島さんも加わってガチめの水中バレーが始まったようだった。
「…騒がしい奴らめ」
そう呟く鯉登さんの横顔は、なんだかちょっと嬉しそうに見える。良かったですね、なんて生意気言ったら怒られるかな。でも今日の鯉登さんはやけに人間味があるっていうか、親近感すら湧くような身近さで、100年前からずっとスープが冷めない程度の距離を保ってきた私としても、今日はもう少しだけこの人のことが知りたいなと思った。
「鯉登さん」
「あ?」
「飲みませんか? 一緒に」
ずっと手に持っていたグラスを片方差し出して見上げると、鯉登さんは少し驚いたように言葉を詰まらせた。自分は焼酎しか飲まないくせに、こうして甘いカクテルなんかを用意してくれてる鯉登さんって結構いじらしい人だよね。
「……ふん。仕方ないな。付き合ってやる」
「素直じゃないよね…」
いかにも渋々といったていで手を伸ばした鯉登さんが、あ、と小さく呟いた。
「え、」
目線がグラスの奥に動いて、つられて胸元に目をやった私も思わず声が出た。やばい、と思ったときにはもう褐色の手が私の胸を鷲掴んでいて、あまりに突然のことでワアとすら言えなかった私と、おそらく反射的に行動した鯉登さんとの間に奇妙な沈黙が流れた。
「さ、すが鯉登さん、ナイス反射神経…」
「あっ、ああああアホかっ!」
だらりと垂れ下がったビキニの首紐が遅れて鯉登さんの手の甲にパラリとかかったのを見て、思わず笑ってしまったら怒られた。す、すみません。いやあ、でも、ほんとにすごいよ鯉登さん。いつのまにか結び目が緩んでしまっていたみたいで、あやうくポロリの悲劇をすんでのところで防いでくれた鯉登さんの脅威の動体視力に乾杯したい。
真っ赤になったまま固まってしまった鯉登さんと同じく、私も結構動揺しているみたいで、どうしましょうね…? なんて他人事みたいな声が出た。鯉登さんにどうもこうも言えるわけないのに。すみません…。なんてものを揉ませてるんだと思うけど両手に持ったグラスの置き場もなくて、自分でもどうしようもない状況に申し訳なくて、おそるおそる見上げると目が合った。
「鯉登さん、ごめんなさい…」
「……い、いいから、落とせ。割れても構わん」
「えっでもでもでもこのグラス絶対高いですよね? 無理!」
「言ってる場合か!!」
金銭感覚の違いがモロに出てしまってちょっと泣けた。鯉登さんの安いは私の高いだし、鯉登さんの高いは私の想像をはるかに超えた激高だし、パンピーの私に鯉登家のグラスを叩き割る勇気なんてあるわけない。両手合わせてウン万円、それどころかウン十万円だってありえるのに。私のおっぱいと引き換えにそんな代償払えますかって目をぐるぐるさせて言ったら鯉登さんもテンパったまま当たり前だろうが!って返してきてちょっとキュンとした。
「あ、分かった、鯉登さん、ゆっくり座りましょう。そしたら私、グラス置けるから…」
「そ、そうか。そうだな」
「そーっとですよ、そーっと…」
「…」
「…」
「…」
「もっ、揉んでないぞ今のは!! ちょっと力が入っただけだ! 」
「わ、分かってますよぉ…」
ゆっくり膝をついて、柔らかい芝生の上にそっとグラスを置いた。カクテルの冷たさになった指で紐を取ると鯉登さんの手にも触れて、少し身じろぎしたようだけど今度は何も言わなかった。胸を人に預けながら首裏で結ぶ格好がただ恥ずかしくて、なるべく手早く紐を通した。多少つたない蝶々結びができて、やっと人心地がつくと、二人ではーっと息を吐いた。壊れ物を置くみたいにそっと指を離した鯉登さんは、やがて、ジロリと私を睨みつけて立ち上がった。
「絶対についてくるな」
そう言い残して屋敷の方に消えていった。よく分からなかったけど、分かりました、とだけ返しておいた。戻ってきたらちゃんと謝ろう。
ぺたんと座り込んだまま、残されたカクテルをちょびっと飲んで喉元を冷やっこいのが流れると、やっと落ち着いたような気がする。鯉登さんには本当に申し訳ないことしたな。念のためもう一度固く結び直して、背中の結び目も確認した。よしよし。もう大丈夫。
「三木ちゃ〜ん! 何してんの遊ぼうよ〜!」
しばらく飲みながら夜空を見上げて夏の大三角を探していたら、ふと白石さんの底抜けに明るい声が飛んできて、水しぶきの音とかも一気に耳に入ってきた。そうだよね。遊びに来たんだもんね、今日は。
手招きされるままに近寄った私に、浮き輪だらけのプールの中から手を差し伸べてくれた杉元さんが、そういえば、って辺りを見回した
「鯉登は? どこにもいないけど」
「あ、鯉登さんならさっき…」
言いながら屋敷の方へ視線を向けると、ちょうど鯉登さんがこちらへ戻ってくるのが見えた。ズンズン突き進んでくる鯉登さんはスピードを落とすことなく私の方にまっすぐ歩いてきて、その形相も込みでなんだか異様な剣幕に見える。えっ何。
「え、え、何何何」
「怖い怖い怖い鯉登ちゃん怖いよ! 何!?」
白石さんがキャア!なんて私より可愛い声を出すのにもお構いなしで、ぎゅっと眉根を寄せた鯉登さんが歩いてきた勢いのまま、持っていたもので私をくるんだ。ジャッと音を立ててジッパーを勢いよく閉められて、それがだぼだぼのパーカーだったことにようやく気付いた。
「着ていろ」
ぶすくれた顔でそう言われて、はあ、なんて曖昧な返事を返すとまたジロリと睨まれた。慌てて頷くとフンってそっぽを向かれたけど、鯉登さん、やっぱ、優しいよね…。あんな失態を犯した手前、嫌ですとは言えるわけもなく、もぞもぞと腕を袖に通した。この手触りのよさ、もしかして鯉登さんの私服かな。絶対汚さないようにしよう…。
「え〜なんでぇ? プール入れないじゃん!」
「黙れ」
白石さんのブーイングを一蹴した鯉登さんは、その後あんまり目を合わせてくれなかった。杉元さんが不審がって色々つっついたけど、結局、頑なに理由を言わないので、水中プロレスが始まって巻き添えを食らった白石さんがボコボコにされた。私と月島さんは浮き輪に並んで乗りながら観戦していた。
「平和だな」
「そう……ですかね?」
そうかも。
途中、鯉登さんにパーカーのお礼を言ったら「別に、ついでに持ってきただけだ」と言われて、何のついでだろうと思って聞いてみたら、とうとう返事すら返してくれなくなった。なんで。
抜いてた。
2021.1.20
「鯉登さんって何でも持ってるんですね。すごいなぁ」
「…」
「何坪? 何平方メートル? 何ヘクタール? 分かんないですけど、ほんとに広いですねぇ」
「…」
「子供の頃行ってた市民プールより大きいかも。本当に使っちゃっていいんですか?」
「…」
「ねえ? 鯉登さん?」
「…」
「あの…? もしもし?」
「…」
「えっ…」
「…」
「嘘でしょ…?」
「…」
返事がない。ただのしかばねでもないのに。
「白石さん、ヘルプ! 鯉登さんにガン無視されてる!」
「鯉登ちゃんはトゥーシャイシャイボーイだからね…」
「小室哲哉?」
「三木ちゃんの水着姿に照れちゃってんだね!」
「その割にはガン見なんですけど…?」
「む、ムッツリボーイだね…?」
白石さんと揃って小首を傾げた。それでもなお、鯉登さんから返事はない。
先程から穴が開くどころかこちらが燃え尽きそうなほどの熱視線を無言で向けてくる鯉登さんは、その多少残念な部分を補って余りあるほどのお金持ちである。
鯉登邸の豪華絢爛なプールで人目を気にせず遊び放題しようよ!との白石さんの誘いに乗って、こうして杉元さん達と一緒に金曜の仕事終わりにお邪魔させてもらった……んだけれど、着替えてからの鯉登さんの挙動があまりにも不審でちょっと怖い。目は合うのに話しかけても返事がないのだ。おかしい。さっき門から迎え入れてくれたときはいつも通りの傲岸不遜な態度だったけど、ちゃんとお話しはできてたのに。
「この暇人どもめが!」なんて言いながらパツパツに膨らんだスイカのビーチボールを小脇に抱えてルンルンだったくせに…なんで急にあからさまな無視を…?
「えっ、ほんとに何? 私、おかしなカッコしてるかな」
「…」
「この水着、アシリパさんに選んでもらったんだけどな…。変ですか?」
「えーかわいいよ? 俺だーいすき!」
「白石さん…」
「紐ビキニ、ちょっとキケンでいいよね〜」
「白石さん…?」
そこは別にどうでもいいんですが…。
「紐よりも、柄がね、アシリパさんとお揃いだったんです。今日一緒に着たかったな…」
「ま、夜遅いからねぇ。来られなくて残念だけど」
「今度の休みに海でも行こうよ。アシリパさんも一緒にさ」
「あ、杉元さん」
「今日は今日で楽しむとして…。白石、準備体操付き合ってくんない?」
「エッ、ヤダ……超ヤダ……」
ウキウキで現れた杉元さんにヘッドロックを決められ、抵抗むなしくプールサイドまで引きずられていった白石さんにやわやわと手を振った。白石さんは軟体生物なので杉元さんのマッシヴボディに圧殺されない稀有な存在なのだった。心ゆくまで準備体操を楽しんでほしい。
根っからの体育会系である杉元さんはこの広いプールで自由に遊べるのが相当に嬉しいみたいで、入る前から気合十分といった風だ。
さて。
「月島さん。お手伝いします」
「ん。ああ」
今年の夏は日が沈んでなお蒸し暑い。
スワンボートにまさかの肺呼吸で空気を入れている月島さんの隣に腰を下ろして、私もペシャンコのドリンクホルダーに息を吹き込んだ。私がグラス用の小さな浮き輪を膨らませている間に、月島さんは人一人乗れるようなボートをパンパンに成長させてしまうんだから、驚異の肺活量である。うーん、恐れ入る。作ったはしからプールへと投げ入れていく力技にもちょっとビビる。月島さんて、妙なところで雑だよね…。無事着水したスワンボートには準備体操を終えた白石さんが飛びついた。
「浮き輪、これ、一体いくつあるんですか?」
作っても作っても減ってる気がしない。
「鯉登さんが浮かれて買った分だけある」
「たくさんってことですか」
「そういうことだな」
「は〜、がんばろ…」
「……今日は」
「んむ、」
「尾形は来ないのか」
「え、ああ、尾形さん。そうなんです。仕事の都合でどうしても来られないらしくて」
「そうか」
「…」
「心労の種が減って助かるな」
「月島さん…」
かわいそう。シンプルにかわいそう。
何の因果か、100年経ってなお鯉登さんのお目付役ポジションに収まっている月島さんの、日頃の苦労を思って心の中で合掌した。宿命ってやつなのかな…。奪い合う刺青も争う理由もないはずなのに、なぜか今世でもいがみ合う尾形さんと鯉登さん(と、時々杉元さん)のストッパー役にならざるを得ない月島さんは、強めの胃薬を常用しているともっぱらの噂だった。せめて今日くらい、と思って「うんと羽を伸ばしましょうね」って言ったら「うん」って返ってきた。おお、リラックスしてる…。
「……あの、ところで」
「なんだ」
「鯉登さんは一体どうしたんですか」
「あの人は…」
頭を抱えてうろうろと動き回る鯉登さんを見て、月島さんは眉間に刻んだシワを深くした。
「おそらく、浮かれている」
「う、浮かれて…!?」
まさかの言葉に思いがけずギョッとする。
そ、そうなの? 本当に…?
「だいぶ挙動不審ですけど…」
「浮かれてる。間違いなく浮かれている。よほど今日が楽しみだったんだな」
プーッと貝殻型の浮き輪を膨らませつつ頷く月島さんの力強さに、そういうものですか、と首を傾げつつ相槌を打った。そうなのかな。本当かなぁ…。
そういえば、このプール、今年初めて使うとかなんとか言ってたっけか。こんなに立派なお屋敷で、不自由のない財産と豪華な設備があったって使わなくては無意味なものだと、言い捨てるようにこぼしていた鯉登さんの言葉は、もしかして寂しさから来てたりするのかな。
杉元さんも白石さんも、もちろん私も、鯉登さんと仲が良いとは到底言えないようなただの因縁から来る間柄だけど、反面、遠慮せずに付き合える気安さや気楽さを、鯉登さんなりに感じてくれていたのかも。
「遊びといえば接待ゴルフや社交界で、なんだかんだ気を張っている人だから、こういう、素でいられる場は貴重なんじゃないか」
「あれが……鯉登さんの素……?」
相変わらず隅っこで右往左往している。あれが素の鯉登さん…。
「鴨の水掻きってやつだな」
「ちょっと違うと思う…」
けど、そう言われて放っておけるほど薄情にはできてない。手持ちの浮き輪を片付けてから、鯉登家のお手伝いさんが事前に用意しておいてくれたカクテルを二つ手に取って、夜の帳の中でうだうだと身悶えしている背中に声をかけた。
「鯉登さん」
「キエッ」
ひえっみたいに言うな。
「あ…」
「どうしたんですか。変ですよ、さっきから」
「別に、いつも通りだが?」
「な、なぜそんなバレバレの嘘を…?」
背後に水しぶきの音と杉元さん達のはしゃぐ声を受けながら、やはりどこか挙動不審な鯉登さんの表情を伺う。さっきまであんなにガンを飛ばしていた鯉登さんは、打って変わって忙しなく視線を彷徨わせた。
「あの、何か言いたいことがおありなのでは」
「…」
「なんでも聞きますよ。私でよければ」
「貴様…」
「(貴様…) はい」
「に、」
「に?」
「に、に、にあ、」
「にあ?」
「似合っ……………」
「…」
「……………ている」
「…」
「と、思った」
「…」
「それだけだ! かっ勘違いするなよ!!」
「あ…ありがとうございます…」
それを伝えたくて今の今までタメてたんですか、と聞けば「言葉を選んでいただけだ」とそっぽを向かれた。うーん、そっかぁ。難儀だなぁ…。改めて鯉登さんをまじまじと見上げて、その端正な横顔をとっくり眺めた。
なんていうか……白石さんみたいに、呼吸でもするような軽さで褒め言葉を口に出せる人もいれば、たった一言を伝えるためにあちこち右往左往して心を決めなければならない鯉登さんのような人もいるんだな。世の中って広い。
「鯉登さんって、意外と不器用ですよね」
「なんだそれは。馬鹿にしているのか?」
「いえ、かわいいなと思って」
「あ?」
「…」
「おい、なめるなよ」
「…」
「貴様の方がかわいいと言っただろうが」
「え、すみません…」
怖っ…。怖いよ。怒りの方向性が独特すぎて怖い。似合ってるとは言われたけどかわいいとは言われてないんだけどな…。ていうか、なんで今のは真顔で言えるんですか。怒られながら褒められることなんてそうそうないので、私も反省したらいいのか喜べばいいのか分からない。なんて不思議な人なんだ。
とりあえず曖昧に謝ると、眉間にしわを寄せつつも今度は目を合わせてくれた。
「えと、鯉登さんもよくお似合いですよ」
「……本当か?」
「はい」
「そ、そうか」
「ananの表紙とか飾ってそうで」
「あんあん?」
いつも月島さんと並ぶことが多いせいか普段はあまり目立たないけど、鯉登さんも鯉登さんでなかなか鍛え抜かれた肉体をお持ちなので、こうも露わにされると私の目にはちょっと眩しい。背中にクズリの引っかき跡とかまだ残ってたりするのかな、なんてぼんやり考えていると、プールの方から一段派手な水音と白石さんの悲鳴が飛んできた。どうやら月島さんも加わってガチめの水中バレーが始まったようだった。
「…騒がしい奴らめ」
そう呟く鯉登さんの横顔は、なんだかちょっと嬉しそうに見える。良かったですね、なんて生意気言ったら怒られるかな。でも今日の鯉登さんはやけに人間味があるっていうか、親近感すら湧くような身近さで、100年前からずっとスープが冷めない程度の距離を保ってきた私としても、今日はもう少しだけこの人のことが知りたいなと思った。
「鯉登さん」
「あ?」
「飲みませんか? 一緒に」
ずっと手に持っていたグラスを片方差し出して見上げると、鯉登さんは少し驚いたように言葉を詰まらせた。自分は焼酎しか飲まないくせに、こうして甘いカクテルなんかを用意してくれてる鯉登さんって結構いじらしい人だよね。
「……ふん。仕方ないな。付き合ってやる」
「素直じゃないよね…」
いかにも渋々といったていで手を伸ばした鯉登さんが、あ、と小さく呟いた。
「え、」
目線がグラスの奥に動いて、つられて胸元に目をやった私も思わず声が出た。やばい、と思ったときにはもう褐色の手が私の胸を鷲掴んでいて、あまりに突然のことでワアとすら言えなかった私と、おそらく反射的に行動した鯉登さんとの間に奇妙な沈黙が流れた。
「さ、すが鯉登さん、ナイス反射神経…」
「あっ、ああああアホかっ!」
だらりと垂れ下がったビキニの首紐が遅れて鯉登さんの手の甲にパラリとかかったのを見て、思わず笑ってしまったら怒られた。す、すみません。いやあ、でも、ほんとにすごいよ鯉登さん。いつのまにか結び目が緩んでしまっていたみたいで、あやうくポロリの悲劇をすんでのところで防いでくれた鯉登さんの脅威の動体視力に乾杯したい。
真っ赤になったまま固まってしまった鯉登さんと同じく、私も結構動揺しているみたいで、どうしましょうね…? なんて他人事みたいな声が出た。鯉登さんにどうもこうも言えるわけないのに。すみません…。なんてものを揉ませてるんだと思うけど両手に持ったグラスの置き場もなくて、自分でもどうしようもない状況に申し訳なくて、おそるおそる見上げると目が合った。
「鯉登さん、ごめんなさい…」
「……い、いいから、落とせ。割れても構わん」
「えっでもでもでもこのグラス絶対高いですよね? 無理!」
「言ってる場合か!!」
金銭感覚の違いがモロに出てしまってちょっと泣けた。鯉登さんの安いは私の高いだし、鯉登さんの高いは私の想像をはるかに超えた激高だし、パンピーの私に鯉登家のグラスを叩き割る勇気なんてあるわけない。両手合わせてウン万円、それどころかウン十万円だってありえるのに。私のおっぱいと引き換えにそんな代償払えますかって目をぐるぐるさせて言ったら鯉登さんもテンパったまま当たり前だろうが!って返してきてちょっとキュンとした。
「あ、分かった、鯉登さん、ゆっくり座りましょう。そしたら私、グラス置けるから…」
「そ、そうか。そうだな」
「そーっとですよ、そーっと…」
「…」
「…」
「…」
「もっ、揉んでないぞ今のは!! ちょっと力が入っただけだ! 」
「わ、分かってますよぉ…」
ゆっくり膝をついて、柔らかい芝生の上にそっとグラスを置いた。カクテルの冷たさになった指で紐を取ると鯉登さんの手にも触れて、少し身じろぎしたようだけど今度は何も言わなかった。胸を人に預けながら首裏で結ぶ格好がただ恥ずかしくて、なるべく手早く紐を通した。多少つたない蝶々結びができて、やっと人心地がつくと、二人ではーっと息を吐いた。壊れ物を置くみたいにそっと指を離した鯉登さんは、やがて、ジロリと私を睨みつけて立ち上がった。
「絶対についてくるな」
そう言い残して屋敷の方に消えていった。よく分からなかったけど、分かりました、とだけ返しておいた。戻ってきたらちゃんと謝ろう。
ぺたんと座り込んだまま、残されたカクテルをちょびっと飲んで喉元を冷やっこいのが流れると、やっと落ち着いたような気がする。鯉登さんには本当に申し訳ないことしたな。念のためもう一度固く結び直して、背中の結び目も確認した。よしよし。もう大丈夫。
「三木ちゃ〜ん! 何してんの遊ぼうよ〜!」
しばらく飲みながら夜空を見上げて夏の大三角を探していたら、ふと白石さんの底抜けに明るい声が飛んできて、水しぶきの音とかも一気に耳に入ってきた。そうだよね。遊びに来たんだもんね、今日は。
手招きされるままに近寄った私に、浮き輪だらけのプールの中から手を差し伸べてくれた杉元さんが、そういえば、って辺りを見回した
「鯉登は? どこにもいないけど」
「あ、鯉登さんならさっき…」
言いながら屋敷の方へ視線を向けると、ちょうど鯉登さんがこちらへ戻ってくるのが見えた。ズンズン突き進んでくる鯉登さんはスピードを落とすことなく私の方にまっすぐ歩いてきて、その形相も込みでなんだか異様な剣幕に見える。えっ何。
「え、え、何何何」
「怖い怖い怖い鯉登ちゃん怖いよ! 何!?」
白石さんがキャア!なんて私より可愛い声を出すのにもお構いなしで、ぎゅっと眉根を寄せた鯉登さんが歩いてきた勢いのまま、持っていたもので私をくるんだ。ジャッと音を立ててジッパーを勢いよく閉められて、それがだぼだぼのパーカーだったことにようやく気付いた。
「着ていろ」
ぶすくれた顔でそう言われて、はあ、なんて曖昧な返事を返すとまたジロリと睨まれた。慌てて頷くとフンってそっぽを向かれたけど、鯉登さん、やっぱ、優しいよね…。あんな失態を犯した手前、嫌ですとは言えるわけもなく、もぞもぞと腕を袖に通した。この手触りのよさ、もしかして鯉登さんの私服かな。絶対汚さないようにしよう…。
「え〜なんでぇ? プール入れないじゃん!」
「黙れ」
白石さんのブーイングを一蹴した鯉登さんは、その後あんまり目を合わせてくれなかった。杉元さんが不審がって色々つっついたけど、結局、頑なに理由を言わないので、水中プロレスが始まって巻き添えを食らった白石さんがボコボコにされた。私と月島さんは浮き輪に並んで乗りながら観戦していた。
「平和だな」
「そう……ですかね?」
そうかも。
途中、鯉登さんにパーカーのお礼を言ったら「別に、ついでに持ってきただけだ」と言われて、何のついでだろうと思って聞いてみたら、とうとう返事すら返してくれなくなった。なんで。
抜いてた。
2021.1.20