短い話
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※「賢者の石」冒頭
「ぅわぷ」
強い風に吹かれて飛んできた何かに視界を覆われて、マキは立ち止まった。
散歩から帰って、玄関のドアを開けた瞬間のことである。
「……え、何?」
「あ、」
玄関先で立ち止まったマキの姿を見て、ハリーは、ダーズリーに羽交い締めにされたまま小さく声を上げた。手紙を掴もうともがいていた手が一瞬止まる。やがてマキの目元を覆っていた手紙がひらりと落ちて、ごうごうと舞い上がる手紙の渦の中に混ざり合った。「えっ、本当に何?」視界が開けたマキが、目の前の摩訶不思議を見てもう一度言った。でも、誰も何も答えられない。誰も彼も、何もかもが分からないので当然だった。やがて開きっぱなしの玄関から手紙が新たに雪崩のように降り注ぎ始めたので、ダーズリー一家は揃って悲鳴をあげた。
惨状をしばらく眺めていたマキは、とりあえず、平静でいることを選んだ。
「ひとまず、ただいま」
「いいからさっさとドアを閉めろ!!」
渦の中心で、ダーズリーが叫んだ。
マキは、生まれてから今日に至るまで、色んなものを貰ってきた。大抵は風に運ばれてきたものだ。
小さい頃、親に連れられて行った遊園地で、どこからか飛んできた風船を折角だからと家に持ち帰ったことがあるし、公園の砂場で遊んでいた時に、滑り台のてっぺんから飛ばされてきた紙飛行機がきっかけで友達ができたこともある。また、学校の帰り道、風に乗ってきた甘い匂いに気付いて立ち止まると、優しいお姉さんがマキを家に招いて焼きたてのアップルパイをご馳走してくれたこともあった。風に乗ってゆっくりと舞う黄色いイチョウの葉はマフラーを準備する頃合いを教えてくれたし、春が近付き、新緑の青っぽい香りが風に混じりだすとそろそろマフラーの仕舞い時かなと気付くことができた。
風はもっと正体のないものを彼に運んでくることもあって、例えば、隣のクラスのあの子がマキにぞっこんらしいと風のたよりで聞いて、へぇそうなんだと興味本位で近付いてみたら初めてのガールフレンドができた。それ以来、マキはそういう相手には事欠かない。
風が運んできたものを、マキは全部素直に受け取ってきた。
運命みたいなものだろうなと思っていた。
「あなたは風のように掴み所がないわね」と女の子に当てこするように言われたこともあったが、それはまさしく的を射た意見だった。文字通り、風任せに生きてきたようなマキなので、「僕のことをよく分かってるね」と素直な気持ちで返した。涼しげな顔でそう笑いかけられると、皮肉を言ったはずの女の子もなんと悪い気はしなくなって、それ以上は何も言えなくなるのだった。そういう意味で、マキは喧嘩知らずだった。
四つ下の弟を中心に回る家庭にいてもなお、マキはどこ吹く風で好きなように過ごした。
「マキ、ねえ、来週のあなたの誕生日ケーキをね、ダドリーに選ばせてあげようと思うんだけど」
「いいよ。別に」
「バタークリームのでっかいの!ストロベリージャムがたっぷり挟んであるやつじゃないとやだ!」
「好きにしていいってば」
「おお、ダドリー坊や、お前は本当に食いしん坊さんだなぁ。よしよし、パパがとびきりのケーキを買ってくるからね」
「もう、任せるよ」
ダーズリー夫妻が弟のダドリーを溺愛しても、マキは特に気にしなかった。それはもうそういうものだと思っていたから、嫌悪感も何もない。夫婦もそんなマキを邪険にはしなかったし、手のかからない兄くらいに思っていた。ダドリーが彼の誕生日ケーキの大半を食べ尽くしたって、兄ならかわいい弟のために我慢するべきだと考えていたし、実際マキもそんなことでは怒らない。
「ハリー。これ、君の分」
ただ、夫婦とは違って、マキはもう一人の弟も同じように扱った。
「……僕の?」
「そう」
「どうして?」
「え?」
「どうして、僕にくれるの?」
ある年のマキの誕生日、ハリーは差し出された一切れのケーキを見て、ついに長年の疑問を口にした。
ダーズリー家の居候として、半ば虐げられるような生活をしていたハリーは、自分の誕生日を祝ってもらったことがない。ましてや、他の家族の誕生日だって、ハリーにはケーキを切り分けてもらえなかった。いやしんぼのダドリーがほとんど食べ尽くしてしまうので、残り物を貰えることもそうそうない。
でも、マキは、たまにこういうことをする。
「どうしてって、何が?」
「……だって、これ、君の分だ」
二人きりのリビングで、ハリーはおそるおそるマキを見上げた。夫婦とダドリーはそれぞれの自室で既に寝静まっていて、下には晩餐の洗い物を命じられたハリーと、まだ起きているマキだけが残っていた。
「君の誕生日ケーキなのに、どうして僕にくれるの?」
ハリーがそう尋ねると、マキは妙な顔をした。
「いらないなら置いておいて。明日ダドリーにあげるから」
「そ、ういうことじゃなくて…」
「好きにしていいよ。じゃ、おやすみ」
手にケーキの皿を握らされて、ハリーは一瞬うろたえた。普段、誰かと手が触れ合うことなんかほとんど無いのだ。そして促すように背中を軽く押されて、戸惑ったように振り仰いだ。
「おやすみって、僕、まだ寝れない…」
「どうして?」
「だって、まだ洗い物が残ってる」
また、マキは妙な顔をした。腕まくりをしながら不思議そうにハリーを見下ろした。見下ろされるハリーは、またどぎまぎとした心地になる。四つ歳上のこの男を見るたび、本当にダドリーの兄なのかと疑問に思う。自分だって、従兄弟のわりにダドリーには似てないけど、マキは兄弟なのに全然似てない。
「僕の誕生日のごちそうなんだから、後片付けも僕がするよ」
「…」
「ハリーはほとんど食べてないんだから、さっさと寝たらいいんじゃない」
「……マキだって。ダドリーがほとんど全部食べたのに」
「まあ、確かに。なら今日のこれはあの子が片付けるべきかな」
シンクに積み上がった食器を眺めながら、まあいいや、と呟くようにマキが言ったので、ハリーもそれ以上は何も言わなかった。はちみつ漬けの砂糖菓子よりも甘ったるく育てられたダドリーに、そんなことをさせられるとはそもそも思ってない。でも、片付けを押し付けたら怒られるのは彼相手だって同じはずだ。夫婦はマキを溺愛してはいないけど、ハリーに対する手厳しさは過分にある。
「母さんには言わないよ」
見透かしたようにマキが言った。そんなこと、マキがするなんて思ってない。言い訳めいた気持ちで言い募ろうとしたハリーは、シンクに流れる水音に気圧されて口をつぐんだ。静かなリビングで、食器が触れる音がやけに響いた。マキの目線は既に手元のスポンジの泡立ちに注がれていたので、ハリーはもう何も言えなくなって、ケーキの皿を握りしめたまま、黙って階段下の自室に戻った。
「…」
……また、ありがとうって言えなかった。
豆電球の灯りの下で、ぼってりとしたバタークリームケーキをしばらく眺めた。
マキはたまにこういうことをするけど、それが優しいのか優しくないのか、ハリーにはよく分からなかった。おじさんやおばさんの厳しい仕打ちから庇ってくれるわけでもなければ、ことさらに親身になって話しかけてくれるわけでもない。でも、マキはハリーのことを使用人のようには扱わなかったし、いないものにはしなかった。ダドリーを相手にするように、兄として接してきた。乱暴者のダドリーとその仲間がハリーをいじめている場面に遭遇すると、ダドリーの首根っこを掴まえてたしなめてくれた。そのことを夫婦に告げ口されて怒られても、マキはハリーの名前は出さなかったし、その後ハリーに恩を着せるようなこともしなかった。何事もなかったような、そ知らぬ顔で横を通り過ぎていくので、ハリーはそのたびに混乱した。
「やっぱり、変な人だ…」
なのに話しかけられるたび、妙に心が踊るのは、優しさに飢えているからなのだろうか。
バタークリームをひとくち掬って、舐めた。染みるほどに甘くて、ハリーは頭を抱えた。
▽
ダーズリー夫妻の愛情をたっぷり注がれて、蝶よ花よと育てられているダドリーとは対照的に、マキは放任的に自由に育った。あまり目をかけられていないとも言えるし、のびのび育てられているとも言える。彼の気性にはそれが合っていたし、マキ本人も満足していた。
「マキ、昨日の放課後、どこにいた?」
「彼女の家」
「またか」
なので、こういう奔放さは彼の性根と育ちに起因するところが大きい。
「親がうるさく言わないから」
自分に割く時間をすべてダドリーにかけている両親のことを思いながら、マキは学友にそう言った。ある意味信用されていることを分かっているから、羽目を外しすぎることはしない。ただガールフレンドの誘いには適度に乗って、風の吹くままに過ごしていた。
「それもいいけどさ。昔みたいに、たまには俺とも遊んでみない?」
「いいよ。もちろん」
かつて一緒に紙飛行機を飛ばし合った友人は、マキと見つめ合ってニヤリと笑った。マキは友情も大事にするタチだった。
「ハリー、ちょっと」
「え…」
ある日、マキにそう話しかけられて、ハリーはオーブンを磨く手を止めた。
「これ、あげる」
そう言って差し出された紙飛行機に、困惑して目を瞬いた。ハリーに合わせてしゃがみこんだマキと視線が絡んで、まるでキッチンに隠れて二人で内緒話でもしているような気になって、またもハリーはどきどきした。
「昨日教えてもらったんだけど、この紙飛行機、びっくりするくらい飛ぶんだよ」
「そう、なんだ」
「だからあげる」
やけに真面目な顔で話すマキに困惑する反面、浮き上がるような気持ちで紙飛行機を受け取った。このそわそわする気分は、一体なんだろう。定規で折ったような、几帳面な性格が滲む紙飛行機を手に乗せながら、ハリーは昔のことを思い出した。
もっと幼い頃、マキからダドリーと一緒に紙飛行機の折り方を教えてもらったことがあった。街のガキ大将だったダドリーとは違って、ハリーには友達がいなかったから、階段下のあの狭い部屋で壁に向かって投げてばかりいたけど、出来上がった紙飛行機を眺めるだけで少し気が晴れて、ずっと枕元に飾っていた。マキは覚えていないだろうけど、ハリーにとっては数少ない思い出の一つだ。
「懐かしいね。前にも同じ奴に紙飛行機の折り方教えてもらって、それもよく飛んでさ。君らにも付き合わせたっけ」
そう思い返すように言われて、ハリーはふと顔を上げた。
「え…」
「君は覚えてないか」
昔のことだから、となんてことない顔で笑うマキに、ハリーは口をまごつかせた。言え。言ってしまえ。覚えてるよって。言ってしまえば会話は続くんだ。
意を決するように、生唾を飲み込んだ。
「マキ、僕…」
「あー! マキがハリーに何かあげてる!!」
つんざくような大声が、二人の上から降ってきた。出かかった言葉が喉奥を転がり落ちて、ハリーは軽くむせた。カウンターに身を乗り上げたダドリーが、むかっ腹を立てていることを隠そうともせずにわめいている。「こら、騒ぐなよ」マキは平然とした顔で立ち上がって、ダドリーのおでこを軽く弾いた。一瞬ムッとした利かん気なダドリーも、兄には何度か凹まされたことがあるので、噛み付くことはせずにじっと睨むにとどめた。
「ほら。君の分もあるよ」
「早く! ちょうだい!」
紙飛行機を受け取ってしばらくはためつすがめつ眺めていたダドリーは、やがてぽいっと投げ出してしまった。ハリーはあっと声をあげた。
「こんなのつまんない! ラジコンの方がもっとずーっと飛ぶのに」
「お前はわがままに育ったねぇ」
呆れたように言うマキは、それでも意に介した様子はない。甘やかされて育ったこの弟にとって物足りないおもちゃであることは承知の上だ。
「このシンプルな造形がいいんだろ。 ロマンがあるじゃん」
「マキがまたよく分かんないこと言ってる!」
「生意気な坊っちゃんだな、まったく」
悪態をつきながらご自慢のラジコンヘリを抱えて外に飛び出していくダドリーを見送って、マキは放り出された紙飛行機を拾い上げた。軽く投げると、それはリビングの端まで綺麗な放物線を描いて、テレビの裏に吸い込まれるように落ちた。
「……ほんとだ。よく飛ぶね」
「でしょ」
振り向いて笑うマキはいつもより屈託がない気がして、それがほんの少しだけ新鮮だった。
「君は可愛げがあるね」
そう言って軽く頭を撫でられた。雷のような衝撃がハリーを襲ったことに、マキはまるで気付かなかった。紙飛行機を拾い上げたアリがリビングから出て行っても、ハリーはしばらくオーブンの前から動けなかった。
▽
階段下の小さな部屋は、このダーズリー邸におけるハリーの唯一の居場所だった。
元は物置だった埃っぽい一室で、窮屈そうにおさまった棚の隅っこに、空気が抜けてしぼんだ風船が置かれている。
ハリーは別にそれを飾っているわけでも、意図して残しているわけでもなかったけど、なんとなく、掃除のたびに捨てるかどうかを悩んで、そしてなんとなく、そこに置いておく選択をしていたのだった。理由なんかないけど、そうした方がいいような気がしてそうしていた。
この部屋には、そういうものがたくさんある。
捨てても何も困らないけど、無くなってしまうとまずいような、この居心地の悪い空間ですら自分の居場所じゃなくなってしまうような、そら恐ろしい空想にせっつかれて、ハリーはその棚の乱雑さを許すことにしていた。
その風船の隣に、今日、マキに貰った紙飛行機を置いた。
ハリーはしばらくそれを眺めたあと、かぶりを振って布団にもぐった。横になった後も、しばらくうんうんと唸っていた。
▽
しんと静まり返った夜更けに、ハリーは喉の渇きを覚えて目を覚ました。
幸運なことに扉には鍵がかかっていなかったので、階上の夫婦を起こさないようにゆっくりと部屋を抜け出した。ハリーの部屋の扉には外側からかんぬき錠がかかっていて、たまに閉じ込められることがあった。
こんな夜中にうるさくしては折檻されるに決まってる。ゆっくりと忍び足で、キッチンの流しに向かった。コップに汲んだ水を煽って息をつくと、かすかに人の気配を感じた。一瞬身じろぎしたものの咎める声が飛んでくることはなかったので、そっと胸を撫で下ろす。ハリーは眼鏡をずらして、ごしごしと目をこすった。暗闇に目が慣れて月明かりでもリビングの様子が分かるようになってくると、ソファのシルエットが歪に膨らんでいることに気が付いた。近寄ると、規則的な寝息が聞こえてくる。
「あ。マキ…」
ソファに寝転んで、マキが毛布にくるまって眠っていた。
時たま、マキは夜遅くに家に帰ってくることがあった。彼に無頓着な両親はそれについて朝食の席で軽いお小言を言うくらいで、あまり深く咎めたりはしない。マキも節度を守った夜遊びを心得ていた。
夜遅くに帰ったマキは、二階の自室に戻るのが面倒なのか、もしくは階段下で眠るハリーを気遣っているのか、こうやって一階のリビングで寝てしまうことが何度かあった。確信はないけれど、なんとなく、ハリーは後者だと思っている。
「…」
なんとなく、寝顔をしばらく眺めていた。
こんなにまじまじとマキの顔を観察したことなんてない。ソファの背もたれに腕を組んで、顎を乗せてぼんやりと伏せたまつげの長さなどを眺めた。普段、起きている時ですら交わす言葉も二言三言で、ハリーから話しかけることなんか滅多にない。だから、この間みたいにマキから声をかけられたとき、ハリーはちょっと緊張していたんだと思う。そのせいであんなにどきどきしたし、無性に悩ましい気持ちになったのだ。マキに見下ろされると妙に忙しないのはそのせいだ。こうして寝入っているマキになら、遠慮せずに視線を向けることができた。
「変な人…」
思ったことだって口に出せる。
ふと手を伸ばして、額にかかる前髪をそっと払った。少し待ってみても、マキが目を覚ます様子はない。ハリーはそのまま、頬のあたりを指の背でそっと撫でた。このまま鼻をつまんだら、マキはきっと起きるだろうか…。ハリーの中で悪戯心が小さく顔を出した。いつも何を考えているか分からない、風のように掴み所のないマキの、無防備な姿はハリーに妙な冒険心を抱かせた。
……綺麗な顔をしていると思う。
身を乗り出して、真上から彼を見下ろした。いつもの捉えどころのない表情とは違って、どこかあどけない面持ちに、不思議と喉が鳴った。なんだか、誘われるような心地だった。
気がつくと、唇を落としていた。
数秒か、数十秒か、それとも一弾指ほどの時間しか経ってないのか分からない。ふと、マキが身じろぎをして、ハリーは弾かれたように顔を上げた。心臓がやにわに音を立てて、途端に冷や汗が流れた。ハリーは、すぐに踵を返して自分の部屋に駆け込んだ。頭まで布団をかぶりながら、どうしてこの部屋には内側から鍵がかけられないんだろうと思った。
どうか、どうか、マキが眠ったままでいてほしい。
自分でもどうしてあんなことをしてしまったのか分からないまま、ハリーは一晩中不安に包まれてじっとしていた。
翌朝、夫人にいつものように叩き起こされたハリーは、寝起きのふりをしながらのろのろとリビングに向かった。結局昨日の夜はうつらうつらとしかできなくて、睡眠不足の頭も体も気だるく感じる。
「ハリー! さっさと卵をお皿に並べて」
「はい、おばさん…」
どやされながら、そっとリビングに目をやった。マキはいつもみたいにトーストをくわえながら、ダーズリーが読む新聞の裏面をとっくり眺めていた。
「マキ、何かいいニュースはある?」
「この面には見当たらないね」
「ああ、そう…」
「政治欄はどうかな。ダドリー、そっちのページ読んで」
「やだね! マキのバーカ」
「な、生意気〜…」
「こら、マキ! 坊やになんてこと言うの」
ふと、ハリーは昨日置きっ放しにしていたコップのことを思い出した。水を飲んで、シンクに置いたままにしてしまっていた。はっと振り向くと、コップは食器棚の定位置にきちんとおさまっている。
朝、おばさんが見つけて片付けたのだろうか。それとも、昨日の夜、マキはあの時点で起きていて…。
おそるおそる、リビングに視線を戻した。タイミング悪く、マキと正面から目が合った。
「!」
慌てて視線を逸らしてから後悔した。こんなに分かりやすい態度を取ってどうする。でも、やったあとではもう遅い。
ハリーはフライパンの焦げを取るのに集中するふりをしながら、俯いてその場をやり過ごした。
▽
「ねえ」
「ん?」
「キスってどういう時にするもの?」
その日、マキが突然そんなことを言い出したので、紙飛行機を折っていた友人は驚いて顔を上げた。
「何? その質問。どういう風の吹き回し?」
「さあ…」
その手の相談なんか一度もしてこなかった優男の言葉に、友人は紙を山折りする手を止めずに首を傾げた。
頬杖をついて、マキもうーんと唸る。明後日の方を見ながら、自問するみたいに呟いた。
「なんだろうね…」
とうとう、マキにも読めない風が吹いたのだ。
▽
しばらくの間ハリーは戦々恐々としてマキを避けた。
とはいえ、元々二人の間には会話なんてあまりなかったし、ダーズリー家の人々はハリーに絶え間なく雑用を押し付けたので、それらをこなすことに集中した。マキもそんなハリーを気に留めた様子はなく、いつもみたいに気ままに過ごした。
そのうちハリーの危機感もちょっと薄れて、またこっそりとマキの姿を盗み見るようになった。それでも決して目が合わないように、雑用にまぎれて、ひそかに視線を向けるにとどめた。
「あ、」
「あ?」
だから、こうして二人が真正面から顔を合わせたのは、実に数週間ぶりだった。
「ハリー。まだ起きてたの」
「…」
「早く寝たら」
「そ、そっちこそ」
例によって、夜遅くに帰ってきたマキとリビングで鉢合わせした。ハリーはダーズリー夫人に言いつけられたクロスのシミ抜きが終わらなくて、キッチンの小さなペンダントライトの灯りの下で、お湯を張ったシンクに手を突っ込んでいた。
「赤ワイン?」
隣に立ったマキがハリーの手元を覗き込んだ。さっさと二階に上がってくれたらいいのに。そうは思いつつも久々に話しかけられたことが嬉しくて、ハリーはごまかすみたいになるべくそっけなく頷いた。
「父さんがこぼしたんだね。いいよ、ほっとけば」
「そんな…」
そんなことしたら、明日の朝ダーズリーに叱られる。
とは、ハリーは言わなかった。マキの手口はもう大体分かっていた。どうせ、ハリーが寝た後に自分が片付けるつもりだ。それならそうとはっきり言ってくれたらいいのに、マキはそんなことおくびにも出さないし、言ったってすっとぼけるだけなので、ハリーにもお礼の言いようがない。
「良い子は寝る時間だよ」
まるで自分は違うみたいにそんなことを言う。
この家に良い子なんているもんかな、とハリーは思った。いじめっ子のダドリーも、夜遊びばかりするマキも、そんなマキに後ろめたいことをしたハリーだって良い子だとは言えなかった。そもそもマキに雑用を押し付けるつもりなんてなかったハリーは、クロスの染みに集中するふりで言った。「別に、」シンクに波が立つ音と、柱時計の秒針の音がやけにうるさく聞こえる。「僕、まだ眠くないから」
だから君こそさっさと寝て、と言外に匂わせた。
マキはちょっとだけ黙り込んだ。
「そう」
「…」
「じゃあ、今日はおやすみのキスはいらない?」
思わず手を止めた。まるで、冷や水でもひっかけられたような心地になった。
さっと青くなったハリーに対して、マキはただの世間話でも振ったような平然さでカウンターにもたれている。おそるおそる視線を上げたハリーには信じられない。なんだこの人、って、今までにもう何回思っただろうか。
ごくりと生唾を飲み込んで、やっとのことで声を振り絞った。
「お、」
「お?」
「怒らないの…」
てっきり、怒られるとばかり思っていた。なんならなじられるとすら思っていた。嫌われるんじゃないかとビクビクしていた。でもこわごわと見つめる先のマキは怒った様子もなくて、ハリーは判決を言い渡されるような気持ちで唇を舐めた。口の中がカラカラだ。
「怒る? なんで僕が」
「なんでって…」
「怒ってほしいの?」
そう言われて、ハリーはぶんぶんと顔を横に振った。そんなわけない。マキが怒ってないなら、それが何よりの救いだった。でも、じゃあ、どうして怒らないの。なんて、聞いてみてもいいものだろうか。何が悪手で、何が妙手かが分からない。ハリーは少しだけ迷って、思い切って尋ねてみた。マキは一瞬不思議そうな顔をした。
「だって、怒るようなことじゃないから」
「…」
「君が僕にキスしたのは、君の問題でしょ」
「…」
言われて、ハリーはちょっと怪訝な顔つきになった。もしや突き放されたのかと思って身構えたが、マキはやけに真面目な顔をしている。なんだこの人、ともう一度強く思った。
「マキは、なんとも思わなかったってこと?」
どうしてか、食い下がるようなことを言ってしまう。
「マキにとっては、僕がやったことなんて、取るに足らないようなことだった?」
その質問はなんだか自分の首を絞めているような気がしたけど、ハリーは言わずにはいられなかった。興味深そうな様子で顔を覗き込まれて、きゅっと唇を引き結んだ。
「なんだか、君の方が怒ってるみたいだけど」
「別に、そんなこと」
「寝てる僕にキスしたのはハリーなんだから、だったらそれは、君の問題でしょ」
「…」
「だから…」
マキはそこで言葉を切った。伏せたまつげが間近に迫って、ふと、ハリーの唇になんだか柔らかいものが触れた。すぐに離れたその感触は、たった一瞬だったけれど、あの夜のことを思い出させた。
「こうしたら、二人の問題になるね」
固まるハリーを見て、マキは笑った。今まで見たことのない、涼しげな笑みだった。
そのまま至近距離で見つめ合いながら、マキはシンクに手を突っ込んで栓を抜いた。おやすみ、と呟いて、二階へと消えていくまで、ハリーは信じられない気持ちでいっぱいだった。
もし彼が水を抜かなければ、きっとハリーは朝までそこで手をふやかしていたに違いなかった。
▽
ある日、マキが学校から帰ると、通りの看板に一羽のフクロウがとまっていた。街中ではなかなか見かけない姿を物珍しく思って、「どこから来たの」と尋ねてみた。当然フクロウは答えなかったし、なんならツンとしてそっぽを向いているようだった。マキはちょっとだけ傷ついた。
「ただいま」
「あ…」
まだ日が高いうちに帰ってきたマキを見て、玄関先でダーズリーの革靴を磨いていたハリーは驚いたように顔を上げた。見下ろすマキと目が合って、どきっとする。
「なに?」
「別に…。おかえりなさい」
「ただいま。母さんは?」
「さっきダドリーと買い物に出かけた」
「そう。じゃあきっとしばらくは帰ってこないね」
どうせパーラーにでも寄って、たらふく美味しいものを食べさせて帰ってくるだろうと予想した。置いていかれるのはよくあることだ。
「おじさんも」手のひらで持て余すように靴墨を転がしながら、ハリーが言った。「今日は遅くなるって」
「ああ、会議があるんだっけ」
「…」
「つまり、夕飯は自分で適当にしろってことね」
「…」
「中華のデリバリーでいい?」
「えっ」
思わず顔を上げたハリーに、怪訝な顔つきになる。
「えっ、何?」
「いや、あの」
「もしかして、僕に作れって言ってる?」
「違うよ! そうじゃなくて、ただ、えっと…」
「なに、言ってよ。今夜は二人だけなんだから、食べたいものがあるなら言えば」
でも出前の方が安パイだよ、とマキは付け加えた。確かに、彼が料理をしているところなんか見たことがない。きっとハリーの方が綺麗に卵を焼けるだろうと思った。でもハリーが引っかかったのはそんなことじゃなくて、ただ、マキがハリーと一緒に夕飯を食べるつもりでいることに驚いたのだった。てっきりいつもみたいに夜遊びに出かけて、自分は朝食用のシリアルで済ませることになると思っていたから、びっくりしてしまったのだ。
「えと、二人で食べるの…?」
「二人しかいないんだから、そうなるんじゃない」
そんな当たり前のことを聞いてどうするの、とでも言いたげだ。
「よく分からないけど、デリバリーでいいんだね?」
「うん……うん。僕、なんでもいいよ」
マキとなら、と続けて出そうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
「良かった。キッチンをめちゃくちゃにしなくて済む」
冗談か本気か分からないトーンで言うので、ハリーは思わず笑った。
「本気だよ」
すかさずマキがそう言った。
実際、彼の料理の腕は壊滅的だった。
夕食を食べ終わってもダーズリー達はまだ帰ってこない。
いつもなら食事の後片付けが済んだらさっさと部屋へと戻されるハリーも、今日ばかりはリビングのソファで温かい紅茶を楽しんだ。当然マキは咎めないし、告げ口だってしない。それが分かっているから、ハリーは安心してゆったりした時間を過ごした。ただ、それでもどこか落ち着かない気持ちでいる。
「そういえば、この間のこと」
「!」
ソファにもたれて垂れ流しのテレビを眺めていたマキが、ふと思い出したように口を開いた。
「こ、この間って…」
あの夜のことを指しているのはハリーにだって分かる。でもあまりにも突然だった。それまでマキは画面の中のフットボールの試合運びにかまけていて、いつその話をしようかとソワソワしていたのはハリーの方だ。食事中も、食後の紅茶を淹れている間も、どう言い出そうかとタイミングを見計らってソワソワしていた。それなのに。
思いがけず先手を打たれて、動揺したままカップを握りしめた。
「この間のことが、何?」
すっとぼけるつもりなんてなかったのに、どうしてか勝手に口が回る。
「何って…」
その返事が意外だったのか、マキが画面から目を離してハリーに視線をやった。その様子に、ますますそ知らぬ顔をしてしまう。
…僕が慌てふためくとでも思っていたんだろうか。
いや、実際、ハリーは内心大慌てだったけれど、落ち着き払ったマキを目の前にするとなんだか自分ばかりが振り回されているような気がして、それがちょっと癪だった。だから冷静なふりなんかしてしまった。見抜かれていたらどうしよう。じっと注がれる視線に耐えながら、ハリーはハラハラした。自分で悩みの種を増やしてどうする。
「ふーん…」
まじまじと見られて、息がつまりそうになる。
「まあ、いいけど」
やがてそう言い残して、マキが席を立った。あ、と思ってももう遅く、ハリーの手から空になったカップを取り上げたマキはそのまま流しで洗い物を始めてしまった。僕の仕事だ、と立ち上がりかけたハリーを目で制して。
「どうせ三人でレイトショーでも観に行ってるだろうから、今日は好きなだけ夜更かししたら」
片付けを終えて、濡れた手をタオルで拭いながらマキは柱時計を見上げた。「僕はもう寝る」
もう、言い出すなら今しかないのに。二人きりで話ができる、折角のチャンスだったのに。どうしてあんな意地を張ってしまったんだろう。後悔するハリーをよそに、マキはさっきの会話なんてすっかり忘れてしまったような顔でいる。
「おやすみ」
去り際になんてことない手つきで頭を撫でられて、後悔が確信に変わった。
「……待、って、マキ!」
風が吹いたのかもしれない。
開いていたはずの扉が勢いよく閉まって、リビングを出ようとしていたマキはしこたま顔を打ち付けた。
「…!?」
「いっ……たぁ」
訳もわからず呻いた。突然のことに目を白黒させたのはハリーも同じだ。家の中で風なんか吹くわけない。それでもこの機を逃してたまるかと、不思議そうに額を撫でさするマキの背中に飛びついた。
「えっ、ハリー?」
「マキ、まだ、まだ寝ないで」
「え、」
「まだ、ここにいて。お願い」
お願いだからここにいてほしい。一緒にいて、どうか話を聞いてほしい。振り返って、マキの視線がしがみつくハリーのつむじに落ちた。返ってきたのは非情な言葉だ。
「なんで。やだよ」
胸が痛んだ。死にそうなほどにきつく。
この11年間、マキが何を考えているのかハリーにはまるで読めなかったし、彼が優しいのか優しくないのか、それすらも分からなかった。でもこの時ばかりは心から思う。優しくない。全然、優しくない。全身が凍りついたように固まった。
なのに、どうしてか離せない。
胸元に回した腕にぎゅっと力を込めて、肩甲骨のあたりに鼻先を埋めた。指先が震えるのを感じながら返す言葉を必死に探した。思えば、マキに拒絶されたのなんて初めてだ。心臓はバクバクと嫌な音を立てて、ハリーを内から責め立てた。
それでもマキには関係ない。
「眠いし、もう寝るよ」
「…」
「ハリー。離して」
たしなめるみたいに、胸元をきつく握りしめる手に冷たい手が添えられて、ハリーは観念して力を抜いた。穏やかな、でも容赦ない手つきで腕を外されて、ぎゅっと唇を噛み締めた。視線は足元に落っこちたまま、心まで奈落の底に沈んだようだ。
「ほら」
だから、マキに手を取られても、すぐには反応できなかった。
「………え。えっ」
「ほら、行くよ」
腕を引かれてリビングを抜け出した。さっきはマキの行く手を阻んだ扉は今度はすんなりと開いて、簡単に二人を通した。マキがあまりにも自然に階段を上がるから、連れられるハリーもたどたどしく後を追うしかない。
「マキ、待って、どこ行くの」
「僕の部屋」
「な、なんで!?」
「なんでって、寝るから」
「君も一緒に寝よう」そう平然と言われて、ますます訳が分からなくなる。そうして初めて入ったマキの部屋は想像よりずっと質素で、おもちゃや装飾に溢れたダドリーの部屋を想像していたハリーは面食らった。兄弟でこんなにも違うものか。ベッドは多少上等なものに見えたけど、それだってハリーがいつも使っている薄っぺらな布団に比べてそう見えるだけで、極端に物の少ない部屋は隙間風でも吹いてるみたいにうすら寒く感じた。でも、なんだか彼らしいと思える。
さっさとベッドに潜り込んだマキは、入り口で躊躇いがちに佇んだままのハリーに気付いて手招きした。
「何してんの。ドア閉めて、おいで」
「ど、どうして」
「なに?」
「どうして、一緒に寝るの。僕が。君と」
「どうしてって…一緒にいたいんじゃないの?」
「そっ…!」
「違うの?」
「そ、それは…」
「…」
「…」
「…」
「………違わない、けど」
「でしょ」
ほらおいで、と催促されておずおずとベッドに入り込んだ。迎え入れたマキは毛布ですっぽりと二人を包み込んだ。近い。近いし、あったかい。向かい合うと暗がりの中で目が合った。
「僕はもう寝たいし、君は一緒にいたいって言うし、じゃあこうするのが一番なんじゃないの」
「そ、そうかな…」
「いや?」
「えっ、ううん。いやじゃない」
「そ」
「うん。…うん」
「…」
いやじゃないよ、ともう一度呟いた。その後の言葉は恥ずかしくて口には出せなかった。いやじゃない。むしろ、嬉しい。慣れない人肌があまりに心地よくて、ハリーはちょっとだけ泣きそうになった。
「…ねえ、マキ」
「なに」
「なんでキスしたの?」
言ってから、少しだけ後悔した。もっと違う聞き方をすればよかった。ハリーだって、どうしてマキにキスしたのかと聞かれてもきっと答えられない。なぜあんなことをしたのか、自分でも理由が分からないからだ。その点、マキは明朗に答えた。
「君がしてほしそうだったから」
「えっ、それだけ?」
「それだけ」
「そん……そんなの、理由にならないよ」
「なんで?」
「だって、…誕生日のケーキと一緒だ。マキにそんなことする義理はないもの」
「義理ぃ?」
予想外の言葉に、マキは目を細めて聞き返した。ハリーはたじろいだけれど、ぐっとこらえた。ここで引いてしまったらまた元の木阿弥だ。
「君ってさ」
「…」
「よく分かんないこと言うね…」
一方マキは、呆れたような様子でそんなハリーをまじまじ眺めた。
いつもこうだ。誕生日ケーキも、紙飛行機も、どうして与えるのかと不思議がるハリーの方こそおかしいみたいに、マキはいつも首をかしげる。ハリーにはずっとそれが疑問だった。ことダーズリー家において、異質なのはどう考えてもマキの方だ。
「…マキこそ、よく分かんないよ」
誕生日ケーキや、紙飛行機だけじゃない。
他にもたくさん、色んなものを貰ってきたことを、ハリーは自覚している。
「どうしていつも僕にくれるの」
家族で遊園地に行った時、留守番をさせられたハリーに風船を持って帰ってきてくれた。
公園に行くことも許されず、遊び相手のいないハリーに紙飛行機の折り方を教えてくれた。
近所のお姉さんが焼いたアップルパイを包んで部屋まで持ってきてくれた。
冬が近付けばお下がりのマフラーを譲ってくれたし、春が迫ると、部屋のかんぬき錠を外して家の外に出してくれた。家に閉じ込められてばかりいたハリーに、空気に混ざる青さが新緑の香りだと教えてくれた。
その全てがハリーにとって必要なものだった。階段下の小さな部屋で、マキから貰った風船や紙飛行機をいつまでも捨てられずにいたのは、それがハリーにとって数少ない、大切な思い出だったからだ。
マキはちょっとだけ眉根を寄せて、怪訝そうな顔をした。
「なんていうか、買い被りすぎなんじゃない。僕のこと」
「…どうして?」
「全部どうってことないことじゃん。君が深く受け取りすぎ」
「…」
「僕はダドリーと同じように接してるだけだよ。あくまでも」
「マキはダドリーにもキスするの?」
「それはさぁ…しないけど…それは…」
揚げ足を取らないの、とまるで言い含めるようにハリーの頭を抱き込んだ。いきなりのことにびくりと肩を震わせたハリーは、しかし抵抗しなかった。やがておずおずと自分から体を寄せて、ぴったりとマキにくっついた。
「ほら、もうおしまい。寝よう。おやすみ」
「お、おやすみなさい…」
人肌の中で、ハリーはそっと目を閉じた。規則正しい心臓の音と、マキの匂いに安心した。
その夜の夢見が良かったのは、きっとフカフカのベッドのせいだけではないと思う。
▽
マキは、生まれてから今日に至るまで、色んなものを貰ってきた。大抵は風に運ばれてきたものだ。
その日、散歩から帰ったマキはふと家の前で立ち止まった。最近やけにフクロウを見かけるとは思っていたが、今日ばかりはちょっと度を越していた。屋根にも、庭にも、車にも、何十羽ものフクロウがホーホー鳴きわめくでもなく、じっとそこに集っていた。
おかしなことに、そのフクロウたちはダーズリー家に群がるばかりで、他の家にはまるで近付こうとしない。
風に吹かれて飛んできたフクロウの羽を拾い上げたマキは、しばらくその羽をくるくると弄んだ。フクロウ屋敷と化した我が家を見上げて、どうしたもんかなと思案した。一瞬迷って、それでも臆することなく家の中に入っていった。
風の吹くままに生きてきたマキは、臆病風にだけは吹かれたことがないのだ。
「ぅわぷ」
だから家の中がちょっとありえないことになっていても、マキは慌てたりしなかった。「えっ、何?」ただ純粋に驚いた。大量の手紙が宙を舞うその中心で、手紙を掴もうとするハリーをダーズリーが顔を真っ赤にしてふんじばっている。これ以上ないくらいの惨事だ。怯えきった様子でリビングの入り口から顔を出している夫人とダドリーは、入ってきたマキに気付いて早くなんとかしてくれと身振り手振りで伝えた。急かされたって、マキにどうこう出来るわけがない。「いいからさっさとドアを閉めろ!」ダーズリーが叫んだので、後ろ手に扉を閉めた。それでも手紙は投函口から矢のように飛び入ってくる。ダーズリーは絶叫した。
「マキ! どうにかしてちょうだい!」
夫人が縋るように声を張り上げた。ダドリーと肩を寄せ合って、心底怯えているようだった。
「そう言われてもね…」
床を埋め尽くす手紙に足を取られながら、家の奥へと進む。歩きづらくてかなわない。ハリーを取り押さえろ!とダーズリーが叫んだがマキは無視した。一瞥もくれずに横を通っていくマキを、ハリーは見上げることしかできない。
「なに、一体なんなの? これ」
「し、知らないわ、いいから早くなんとかして!」
「無茶言わないでよ」
「マキ!」
「ほっとけば。そのうち収まるんじゃないの…」
がなる母親を横目に、ふと、足元に散らばったうちの一通を拾い上げた。宛先に目を通したマキは一瞬驚いたように目を瞬いて、ハリーの方を振り返った。
風が吹き荒れる中、ようやく二人の視線が絡んだ。
「君宛てじゃん」
「そ、そう。そうなんだ」
マキがなんだか笑っているように見えたので、羽交い締めにされながらもハリーはこくこくと頷いた。そうだ。全部、全部僕のだ。ダーズリーがどれだけ邪魔をしたってその事実は変わらない。皆がハリーの妨害をする中で、ただ一人マキが笑ってくれたことが無性に嬉しくて、もがきながら必死に手を伸ばした。
「マキ! 今すぐ、こいつを、取り押さえろ!」
額に血管を浮かべたダーズリーが何度もそう叫んだけれど、マキは聞かなかった。聞くわけがなかった。
生まれてから今日に至るまで、マキは色んなものを貰ってきた。その大半は風に運ばれてきたものだ。
だからこそ、父親のしていることは無駄なあがきだと分かっていた。風が運んできたものは素直に受け取るしかないことをマキはよく知っている。外野がどれだけ妨害したって、きっとこの謎の手紙はハリーの手に届く運命にあるのだ。
この日、初めてハリーのために風が吹いたことを、マキは心から祝福した。
「ハリー」
「あ、」
「良かったね」
手紙をひらりと落とした。風に乗って、舞い上がる渦の中に混ざり合う。
ハリーに笑いかけると、もう目の前で起きていることに興味なんかない様子で、マキは階段を上っていった。その背中を追いかけるようにダーズリーの怒号が飛んだ。信じられない!と夫人も叫んだし、怯えて声を発せないダドリーもまるで理解できない様子で兄の背中を見上げた。ただハリーだけは、その淡白さを彼らしいと思う。
手紙の中身を読んでくれるわけでも、ダーズリーを引き剥がしてくれるわけでもなく、その場を放置して自分の部屋へと去っていくマキはやっぱり優しくなかったけれど、ハリーにはそれだけで十分だった。
貰ったその一言が、何より嬉しい。
一年後、ホグワーツ帰りのハリーにグイグイこられる。
2020.11.26
「ぅわぷ」
強い風に吹かれて飛んできた何かに視界を覆われて、マキは立ち止まった。
散歩から帰って、玄関のドアを開けた瞬間のことである。
「……え、何?」
「あ、」
玄関先で立ち止まったマキの姿を見て、ハリーは、ダーズリーに羽交い締めにされたまま小さく声を上げた。手紙を掴もうともがいていた手が一瞬止まる。やがてマキの目元を覆っていた手紙がひらりと落ちて、ごうごうと舞い上がる手紙の渦の中に混ざり合った。「えっ、本当に何?」視界が開けたマキが、目の前の摩訶不思議を見てもう一度言った。でも、誰も何も答えられない。誰も彼も、何もかもが分からないので当然だった。やがて開きっぱなしの玄関から手紙が新たに雪崩のように降り注ぎ始めたので、ダーズリー一家は揃って悲鳴をあげた。
惨状をしばらく眺めていたマキは、とりあえず、平静でいることを選んだ。
「ひとまず、ただいま」
「いいからさっさとドアを閉めろ!!」
渦の中心で、ダーズリーが叫んだ。
マキは、生まれてから今日に至るまで、色んなものを貰ってきた。大抵は風に運ばれてきたものだ。
小さい頃、親に連れられて行った遊園地で、どこからか飛んできた風船を折角だからと家に持ち帰ったことがあるし、公園の砂場で遊んでいた時に、滑り台のてっぺんから飛ばされてきた紙飛行機がきっかけで友達ができたこともある。また、学校の帰り道、風に乗ってきた甘い匂いに気付いて立ち止まると、優しいお姉さんがマキを家に招いて焼きたてのアップルパイをご馳走してくれたこともあった。風に乗ってゆっくりと舞う黄色いイチョウの葉はマフラーを準備する頃合いを教えてくれたし、春が近付き、新緑の青っぽい香りが風に混じりだすとそろそろマフラーの仕舞い時かなと気付くことができた。
風はもっと正体のないものを彼に運んでくることもあって、例えば、隣のクラスのあの子がマキにぞっこんらしいと風のたよりで聞いて、へぇそうなんだと興味本位で近付いてみたら初めてのガールフレンドができた。それ以来、マキはそういう相手には事欠かない。
風が運んできたものを、マキは全部素直に受け取ってきた。
運命みたいなものだろうなと思っていた。
「あなたは風のように掴み所がないわね」と女の子に当てこするように言われたこともあったが、それはまさしく的を射た意見だった。文字通り、風任せに生きてきたようなマキなので、「僕のことをよく分かってるね」と素直な気持ちで返した。涼しげな顔でそう笑いかけられると、皮肉を言ったはずの女の子もなんと悪い気はしなくなって、それ以上は何も言えなくなるのだった。そういう意味で、マキは喧嘩知らずだった。
四つ下の弟を中心に回る家庭にいてもなお、マキはどこ吹く風で好きなように過ごした。
「マキ、ねえ、来週のあなたの誕生日ケーキをね、ダドリーに選ばせてあげようと思うんだけど」
「いいよ。別に」
「バタークリームのでっかいの!ストロベリージャムがたっぷり挟んであるやつじゃないとやだ!」
「好きにしていいってば」
「おお、ダドリー坊や、お前は本当に食いしん坊さんだなぁ。よしよし、パパがとびきりのケーキを買ってくるからね」
「もう、任せるよ」
ダーズリー夫妻が弟のダドリーを溺愛しても、マキは特に気にしなかった。それはもうそういうものだと思っていたから、嫌悪感も何もない。夫婦もそんなマキを邪険にはしなかったし、手のかからない兄くらいに思っていた。ダドリーが彼の誕生日ケーキの大半を食べ尽くしたって、兄ならかわいい弟のために我慢するべきだと考えていたし、実際マキもそんなことでは怒らない。
「ハリー。これ、君の分」
ただ、夫婦とは違って、マキはもう一人の弟も同じように扱った。
「……僕の?」
「そう」
「どうして?」
「え?」
「どうして、僕にくれるの?」
ある年のマキの誕生日、ハリーは差し出された一切れのケーキを見て、ついに長年の疑問を口にした。
ダーズリー家の居候として、半ば虐げられるような生活をしていたハリーは、自分の誕生日を祝ってもらったことがない。ましてや、他の家族の誕生日だって、ハリーにはケーキを切り分けてもらえなかった。いやしんぼのダドリーがほとんど食べ尽くしてしまうので、残り物を貰えることもそうそうない。
でも、マキは、たまにこういうことをする。
「どうしてって、何が?」
「……だって、これ、君の分だ」
二人きりのリビングで、ハリーはおそるおそるマキを見上げた。夫婦とダドリーはそれぞれの自室で既に寝静まっていて、下には晩餐の洗い物を命じられたハリーと、まだ起きているマキだけが残っていた。
「君の誕生日ケーキなのに、どうして僕にくれるの?」
ハリーがそう尋ねると、マキは妙な顔をした。
「いらないなら置いておいて。明日ダドリーにあげるから」
「そ、ういうことじゃなくて…」
「好きにしていいよ。じゃ、おやすみ」
手にケーキの皿を握らされて、ハリーは一瞬うろたえた。普段、誰かと手が触れ合うことなんかほとんど無いのだ。そして促すように背中を軽く押されて、戸惑ったように振り仰いだ。
「おやすみって、僕、まだ寝れない…」
「どうして?」
「だって、まだ洗い物が残ってる」
また、マキは妙な顔をした。腕まくりをしながら不思議そうにハリーを見下ろした。見下ろされるハリーは、またどぎまぎとした心地になる。四つ歳上のこの男を見るたび、本当にダドリーの兄なのかと疑問に思う。自分だって、従兄弟のわりにダドリーには似てないけど、マキは兄弟なのに全然似てない。
「僕の誕生日のごちそうなんだから、後片付けも僕がするよ」
「…」
「ハリーはほとんど食べてないんだから、さっさと寝たらいいんじゃない」
「……マキだって。ダドリーがほとんど全部食べたのに」
「まあ、確かに。なら今日のこれはあの子が片付けるべきかな」
シンクに積み上がった食器を眺めながら、まあいいや、と呟くようにマキが言ったので、ハリーもそれ以上は何も言わなかった。はちみつ漬けの砂糖菓子よりも甘ったるく育てられたダドリーに、そんなことをさせられるとはそもそも思ってない。でも、片付けを押し付けたら怒られるのは彼相手だって同じはずだ。夫婦はマキを溺愛してはいないけど、ハリーに対する手厳しさは過分にある。
「母さんには言わないよ」
見透かしたようにマキが言った。そんなこと、マキがするなんて思ってない。言い訳めいた気持ちで言い募ろうとしたハリーは、シンクに流れる水音に気圧されて口をつぐんだ。静かなリビングで、食器が触れる音がやけに響いた。マキの目線は既に手元のスポンジの泡立ちに注がれていたので、ハリーはもう何も言えなくなって、ケーキの皿を握りしめたまま、黙って階段下の自室に戻った。
「…」
……また、ありがとうって言えなかった。
豆電球の灯りの下で、ぼってりとしたバタークリームケーキをしばらく眺めた。
マキはたまにこういうことをするけど、それが優しいのか優しくないのか、ハリーにはよく分からなかった。おじさんやおばさんの厳しい仕打ちから庇ってくれるわけでもなければ、ことさらに親身になって話しかけてくれるわけでもない。でも、マキはハリーのことを使用人のようには扱わなかったし、いないものにはしなかった。ダドリーを相手にするように、兄として接してきた。乱暴者のダドリーとその仲間がハリーをいじめている場面に遭遇すると、ダドリーの首根っこを掴まえてたしなめてくれた。そのことを夫婦に告げ口されて怒られても、マキはハリーの名前は出さなかったし、その後ハリーに恩を着せるようなこともしなかった。何事もなかったような、そ知らぬ顔で横を通り過ぎていくので、ハリーはそのたびに混乱した。
「やっぱり、変な人だ…」
なのに話しかけられるたび、妙に心が踊るのは、優しさに飢えているからなのだろうか。
バタークリームをひとくち掬って、舐めた。染みるほどに甘くて、ハリーは頭を抱えた。
▽
ダーズリー夫妻の愛情をたっぷり注がれて、蝶よ花よと育てられているダドリーとは対照的に、マキは放任的に自由に育った。あまり目をかけられていないとも言えるし、のびのび育てられているとも言える。彼の気性にはそれが合っていたし、マキ本人も満足していた。
「マキ、昨日の放課後、どこにいた?」
「彼女の家」
「またか」
なので、こういう奔放さは彼の性根と育ちに起因するところが大きい。
「親がうるさく言わないから」
自分に割く時間をすべてダドリーにかけている両親のことを思いながら、マキは学友にそう言った。ある意味信用されていることを分かっているから、羽目を外しすぎることはしない。ただガールフレンドの誘いには適度に乗って、風の吹くままに過ごしていた。
「それもいいけどさ。昔みたいに、たまには俺とも遊んでみない?」
「いいよ。もちろん」
かつて一緒に紙飛行機を飛ばし合った友人は、マキと見つめ合ってニヤリと笑った。マキは友情も大事にするタチだった。
「ハリー、ちょっと」
「え…」
ある日、マキにそう話しかけられて、ハリーはオーブンを磨く手を止めた。
「これ、あげる」
そう言って差し出された紙飛行機に、困惑して目を瞬いた。ハリーに合わせてしゃがみこんだマキと視線が絡んで、まるでキッチンに隠れて二人で内緒話でもしているような気になって、またもハリーはどきどきした。
「昨日教えてもらったんだけど、この紙飛行機、びっくりするくらい飛ぶんだよ」
「そう、なんだ」
「だからあげる」
やけに真面目な顔で話すマキに困惑する反面、浮き上がるような気持ちで紙飛行機を受け取った。このそわそわする気分は、一体なんだろう。定規で折ったような、几帳面な性格が滲む紙飛行機を手に乗せながら、ハリーは昔のことを思い出した。
もっと幼い頃、マキからダドリーと一緒に紙飛行機の折り方を教えてもらったことがあった。街のガキ大将だったダドリーとは違って、ハリーには友達がいなかったから、階段下のあの狭い部屋で壁に向かって投げてばかりいたけど、出来上がった紙飛行機を眺めるだけで少し気が晴れて、ずっと枕元に飾っていた。マキは覚えていないだろうけど、ハリーにとっては数少ない思い出の一つだ。
「懐かしいね。前にも同じ奴に紙飛行機の折り方教えてもらって、それもよく飛んでさ。君らにも付き合わせたっけ」
そう思い返すように言われて、ハリーはふと顔を上げた。
「え…」
「君は覚えてないか」
昔のことだから、となんてことない顔で笑うマキに、ハリーは口をまごつかせた。言え。言ってしまえ。覚えてるよって。言ってしまえば会話は続くんだ。
意を決するように、生唾を飲み込んだ。
「マキ、僕…」
「あー! マキがハリーに何かあげてる!!」
つんざくような大声が、二人の上から降ってきた。出かかった言葉が喉奥を転がり落ちて、ハリーは軽くむせた。カウンターに身を乗り上げたダドリーが、むかっ腹を立てていることを隠そうともせずにわめいている。「こら、騒ぐなよ」マキは平然とした顔で立ち上がって、ダドリーのおでこを軽く弾いた。一瞬ムッとした利かん気なダドリーも、兄には何度か凹まされたことがあるので、噛み付くことはせずにじっと睨むにとどめた。
「ほら。君の分もあるよ」
「早く! ちょうだい!」
紙飛行機を受け取ってしばらくはためつすがめつ眺めていたダドリーは、やがてぽいっと投げ出してしまった。ハリーはあっと声をあげた。
「こんなのつまんない! ラジコンの方がもっとずーっと飛ぶのに」
「お前はわがままに育ったねぇ」
呆れたように言うマキは、それでも意に介した様子はない。甘やかされて育ったこの弟にとって物足りないおもちゃであることは承知の上だ。
「このシンプルな造形がいいんだろ。 ロマンがあるじゃん」
「マキがまたよく分かんないこと言ってる!」
「生意気な坊っちゃんだな、まったく」
悪態をつきながらご自慢のラジコンヘリを抱えて外に飛び出していくダドリーを見送って、マキは放り出された紙飛行機を拾い上げた。軽く投げると、それはリビングの端まで綺麗な放物線を描いて、テレビの裏に吸い込まれるように落ちた。
「……ほんとだ。よく飛ぶね」
「でしょ」
振り向いて笑うマキはいつもより屈託がない気がして、それがほんの少しだけ新鮮だった。
「君は可愛げがあるね」
そう言って軽く頭を撫でられた。雷のような衝撃がハリーを襲ったことに、マキはまるで気付かなかった。紙飛行機を拾い上げたアリがリビングから出て行っても、ハリーはしばらくオーブンの前から動けなかった。
▽
階段下の小さな部屋は、このダーズリー邸におけるハリーの唯一の居場所だった。
元は物置だった埃っぽい一室で、窮屈そうにおさまった棚の隅っこに、空気が抜けてしぼんだ風船が置かれている。
ハリーは別にそれを飾っているわけでも、意図して残しているわけでもなかったけど、なんとなく、掃除のたびに捨てるかどうかを悩んで、そしてなんとなく、そこに置いておく選択をしていたのだった。理由なんかないけど、そうした方がいいような気がしてそうしていた。
この部屋には、そういうものがたくさんある。
捨てても何も困らないけど、無くなってしまうとまずいような、この居心地の悪い空間ですら自分の居場所じゃなくなってしまうような、そら恐ろしい空想にせっつかれて、ハリーはその棚の乱雑さを許すことにしていた。
その風船の隣に、今日、マキに貰った紙飛行機を置いた。
ハリーはしばらくそれを眺めたあと、かぶりを振って布団にもぐった。横になった後も、しばらくうんうんと唸っていた。
▽
しんと静まり返った夜更けに、ハリーは喉の渇きを覚えて目を覚ました。
幸運なことに扉には鍵がかかっていなかったので、階上の夫婦を起こさないようにゆっくりと部屋を抜け出した。ハリーの部屋の扉には外側からかんぬき錠がかかっていて、たまに閉じ込められることがあった。
こんな夜中にうるさくしては折檻されるに決まってる。ゆっくりと忍び足で、キッチンの流しに向かった。コップに汲んだ水を煽って息をつくと、かすかに人の気配を感じた。一瞬身じろぎしたものの咎める声が飛んでくることはなかったので、そっと胸を撫で下ろす。ハリーは眼鏡をずらして、ごしごしと目をこすった。暗闇に目が慣れて月明かりでもリビングの様子が分かるようになってくると、ソファのシルエットが歪に膨らんでいることに気が付いた。近寄ると、規則的な寝息が聞こえてくる。
「あ。マキ…」
ソファに寝転んで、マキが毛布にくるまって眠っていた。
時たま、マキは夜遅くに家に帰ってくることがあった。彼に無頓着な両親はそれについて朝食の席で軽いお小言を言うくらいで、あまり深く咎めたりはしない。マキも節度を守った夜遊びを心得ていた。
夜遅くに帰ったマキは、二階の自室に戻るのが面倒なのか、もしくは階段下で眠るハリーを気遣っているのか、こうやって一階のリビングで寝てしまうことが何度かあった。確信はないけれど、なんとなく、ハリーは後者だと思っている。
「…」
なんとなく、寝顔をしばらく眺めていた。
こんなにまじまじとマキの顔を観察したことなんてない。ソファの背もたれに腕を組んで、顎を乗せてぼんやりと伏せたまつげの長さなどを眺めた。普段、起きている時ですら交わす言葉も二言三言で、ハリーから話しかけることなんか滅多にない。だから、この間みたいにマキから声をかけられたとき、ハリーはちょっと緊張していたんだと思う。そのせいであんなにどきどきしたし、無性に悩ましい気持ちになったのだ。マキに見下ろされると妙に忙しないのはそのせいだ。こうして寝入っているマキになら、遠慮せずに視線を向けることができた。
「変な人…」
思ったことだって口に出せる。
ふと手を伸ばして、額にかかる前髪をそっと払った。少し待ってみても、マキが目を覚ます様子はない。ハリーはそのまま、頬のあたりを指の背でそっと撫でた。このまま鼻をつまんだら、マキはきっと起きるだろうか…。ハリーの中で悪戯心が小さく顔を出した。いつも何を考えているか分からない、風のように掴み所のないマキの、無防備な姿はハリーに妙な冒険心を抱かせた。
……綺麗な顔をしていると思う。
身を乗り出して、真上から彼を見下ろした。いつもの捉えどころのない表情とは違って、どこかあどけない面持ちに、不思議と喉が鳴った。なんだか、誘われるような心地だった。
気がつくと、唇を落としていた。
数秒か、数十秒か、それとも一弾指ほどの時間しか経ってないのか分からない。ふと、マキが身じろぎをして、ハリーは弾かれたように顔を上げた。心臓がやにわに音を立てて、途端に冷や汗が流れた。ハリーは、すぐに踵を返して自分の部屋に駆け込んだ。頭まで布団をかぶりながら、どうしてこの部屋には内側から鍵がかけられないんだろうと思った。
どうか、どうか、マキが眠ったままでいてほしい。
自分でもどうしてあんなことをしてしまったのか分からないまま、ハリーは一晩中不安に包まれてじっとしていた。
翌朝、夫人にいつものように叩き起こされたハリーは、寝起きのふりをしながらのろのろとリビングに向かった。結局昨日の夜はうつらうつらとしかできなくて、睡眠不足の頭も体も気だるく感じる。
「ハリー! さっさと卵をお皿に並べて」
「はい、おばさん…」
どやされながら、そっとリビングに目をやった。マキはいつもみたいにトーストをくわえながら、ダーズリーが読む新聞の裏面をとっくり眺めていた。
「マキ、何かいいニュースはある?」
「この面には見当たらないね」
「ああ、そう…」
「政治欄はどうかな。ダドリー、そっちのページ読んで」
「やだね! マキのバーカ」
「な、生意気〜…」
「こら、マキ! 坊やになんてこと言うの」
ふと、ハリーは昨日置きっ放しにしていたコップのことを思い出した。水を飲んで、シンクに置いたままにしてしまっていた。はっと振り向くと、コップは食器棚の定位置にきちんとおさまっている。
朝、おばさんが見つけて片付けたのだろうか。それとも、昨日の夜、マキはあの時点で起きていて…。
おそるおそる、リビングに視線を戻した。タイミング悪く、マキと正面から目が合った。
「!」
慌てて視線を逸らしてから後悔した。こんなに分かりやすい態度を取ってどうする。でも、やったあとではもう遅い。
ハリーはフライパンの焦げを取るのに集中するふりをしながら、俯いてその場をやり過ごした。
▽
「ねえ」
「ん?」
「キスってどういう時にするもの?」
その日、マキが突然そんなことを言い出したので、紙飛行機を折っていた友人は驚いて顔を上げた。
「何? その質問。どういう風の吹き回し?」
「さあ…」
その手の相談なんか一度もしてこなかった優男の言葉に、友人は紙を山折りする手を止めずに首を傾げた。
頬杖をついて、マキもうーんと唸る。明後日の方を見ながら、自問するみたいに呟いた。
「なんだろうね…」
とうとう、マキにも読めない風が吹いたのだ。
▽
しばらくの間ハリーは戦々恐々としてマキを避けた。
とはいえ、元々二人の間には会話なんてあまりなかったし、ダーズリー家の人々はハリーに絶え間なく雑用を押し付けたので、それらをこなすことに集中した。マキもそんなハリーを気に留めた様子はなく、いつもみたいに気ままに過ごした。
そのうちハリーの危機感もちょっと薄れて、またこっそりとマキの姿を盗み見るようになった。それでも決して目が合わないように、雑用にまぎれて、ひそかに視線を向けるにとどめた。
「あ、」
「あ?」
だから、こうして二人が真正面から顔を合わせたのは、実に数週間ぶりだった。
「ハリー。まだ起きてたの」
「…」
「早く寝たら」
「そ、そっちこそ」
例によって、夜遅くに帰ってきたマキとリビングで鉢合わせした。ハリーはダーズリー夫人に言いつけられたクロスのシミ抜きが終わらなくて、キッチンの小さなペンダントライトの灯りの下で、お湯を張ったシンクに手を突っ込んでいた。
「赤ワイン?」
隣に立ったマキがハリーの手元を覗き込んだ。さっさと二階に上がってくれたらいいのに。そうは思いつつも久々に話しかけられたことが嬉しくて、ハリーはごまかすみたいになるべくそっけなく頷いた。
「父さんがこぼしたんだね。いいよ、ほっとけば」
「そんな…」
そんなことしたら、明日の朝ダーズリーに叱られる。
とは、ハリーは言わなかった。マキの手口はもう大体分かっていた。どうせ、ハリーが寝た後に自分が片付けるつもりだ。それならそうとはっきり言ってくれたらいいのに、マキはそんなことおくびにも出さないし、言ったってすっとぼけるだけなので、ハリーにもお礼の言いようがない。
「良い子は寝る時間だよ」
まるで自分は違うみたいにそんなことを言う。
この家に良い子なんているもんかな、とハリーは思った。いじめっ子のダドリーも、夜遊びばかりするマキも、そんなマキに後ろめたいことをしたハリーだって良い子だとは言えなかった。そもそもマキに雑用を押し付けるつもりなんてなかったハリーは、クロスの染みに集中するふりで言った。「別に、」シンクに波が立つ音と、柱時計の秒針の音がやけにうるさく聞こえる。「僕、まだ眠くないから」
だから君こそさっさと寝て、と言外に匂わせた。
マキはちょっとだけ黙り込んだ。
「そう」
「…」
「じゃあ、今日はおやすみのキスはいらない?」
思わず手を止めた。まるで、冷や水でもひっかけられたような心地になった。
さっと青くなったハリーに対して、マキはただの世間話でも振ったような平然さでカウンターにもたれている。おそるおそる視線を上げたハリーには信じられない。なんだこの人、って、今までにもう何回思っただろうか。
ごくりと生唾を飲み込んで、やっとのことで声を振り絞った。
「お、」
「お?」
「怒らないの…」
てっきり、怒られるとばかり思っていた。なんならなじられるとすら思っていた。嫌われるんじゃないかとビクビクしていた。でもこわごわと見つめる先のマキは怒った様子もなくて、ハリーは判決を言い渡されるような気持ちで唇を舐めた。口の中がカラカラだ。
「怒る? なんで僕が」
「なんでって…」
「怒ってほしいの?」
そう言われて、ハリーはぶんぶんと顔を横に振った。そんなわけない。マキが怒ってないなら、それが何よりの救いだった。でも、じゃあ、どうして怒らないの。なんて、聞いてみてもいいものだろうか。何が悪手で、何が妙手かが分からない。ハリーは少しだけ迷って、思い切って尋ねてみた。マキは一瞬不思議そうな顔をした。
「だって、怒るようなことじゃないから」
「…」
「君が僕にキスしたのは、君の問題でしょ」
「…」
言われて、ハリーはちょっと怪訝な顔つきになった。もしや突き放されたのかと思って身構えたが、マキはやけに真面目な顔をしている。なんだこの人、ともう一度強く思った。
「マキは、なんとも思わなかったってこと?」
どうしてか、食い下がるようなことを言ってしまう。
「マキにとっては、僕がやったことなんて、取るに足らないようなことだった?」
その質問はなんだか自分の首を絞めているような気がしたけど、ハリーは言わずにはいられなかった。興味深そうな様子で顔を覗き込まれて、きゅっと唇を引き結んだ。
「なんだか、君の方が怒ってるみたいだけど」
「別に、そんなこと」
「寝てる僕にキスしたのはハリーなんだから、だったらそれは、君の問題でしょ」
「…」
「だから…」
マキはそこで言葉を切った。伏せたまつげが間近に迫って、ふと、ハリーの唇になんだか柔らかいものが触れた。すぐに離れたその感触は、たった一瞬だったけれど、あの夜のことを思い出させた。
「こうしたら、二人の問題になるね」
固まるハリーを見て、マキは笑った。今まで見たことのない、涼しげな笑みだった。
そのまま至近距離で見つめ合いながら、マキはシンクに手を突っ込んで栓を抜いた。おやすみ、と呟いて、二階へと消えていくまで、ハリーは信じられない気持ちでいっぱいだった。
もし彼が水を抜かなければ、きっとハリーは朝までそこで手をふやかしていたに違いなかった。
▽
ある日、マキが学校から帰ると、通りの看板に一羽のフクロウがとまっていた。街中ではなかなか見かけない姿を物珍しく思って、「どこから来たの」と尋ねてみた。当然フクロウは答えなかったし、なんならツンとしてそっぽを向いているようだった。マキはちょっとだけ傷ついた。
「ただいま」
「あ…」
まだ日が高いうちに帰ってきたマキを見て、玄関先でダーズリーの革靴を磨いていたハリーは驚いたように顔を上げた。見下ろすマキと目が合って、どきっとする。
「なに?」
「別に…。おかえりなさい」
「ただいま。母さんは?」
「さっきダドリーと買い物に出かけた」
「そう。じゃあきっとしばらくは帰ってこないね」
どうせパーラーにでも寄って、たらふく美味しいものを食べさせて帰ってくるだろうと予想した。置いていかれるのはよくあることだ。
「おじさんも」手のひらで持て余すように靴墨を転がしながら、ハリーが言った。「今日は遅くなるって」
「ああ、会議があるんだっけ」
「…」
「つまり、夕飯は自分で適当にしろってことね」
「…」
「中華のデリバリーでいい?」
「えっ」
思わず顔を上げたハリーに、怪訝な顔つきになる。
「えっ、何?」
「いや、あの」
「もしかして、僕に作れって言ってる?」
「違うよ! そうじゃなくて、ただ、えっと…」
「なに、言ってよ。今夜は二人だけなんだから、食べたいものがあるなら言えば」
でも出前の方が安パイだよ、とマキは付け加えた。確かに、彼が料理をしているところなんか見たことがない。きっとハリーの方が綺麗に卵を焼けるだろうと思った。でもハリーが引っかかったのはそんなことじゃなくて、ただ、マキがハリーと一緒に夕飯を食べるつもりでいることに驚いたのだった。てっきりいつもみたいに夜遊びに出かけて、自分は朝食用のシリアルで済ませることになると思っていたから、びっくりしてしまったのだ。
「えと、二人で食べるの…?」
「二人しかいないんだから、そうなるんじゃない」
そんな当たり前のことを聞いてどうするの、とでも言いたげだ。
「よく分からないけど、デリバリーでいいんだね?」
「うん……うん。僕、なんでもいいよ」
マキとなら、と続けて出そうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
「良かった。キッチンをめちゃくちゃにしなくて済む」
冗談か本気か分からないトーンで言うので、ハリーは思わず笑った。
「本気だよ」
すかさずマキがそう言った。
実際、彼の料理の腕は壊滅的だった。
夕食を食べ終わってもダーズリー達はまだ帰ってこない。
いつもなら食事の後片付けが済んだらさっさと部屋へと戻されるハリーも、今日ばかりはリビングのソファで温かい紅茶を楽しんだ。当然マキは咎めないし、告げ口だってしない。それが分かっているから、ハリーは安心してゆったりした時間を過ごした。ただ、それでもどこか落ち着かない気持ちでいる。
「そういえば、この間のこと」
「!」
ソファにもたれて垂れ流しのテレビを眺めていたマキが、ふと思い出したように口を開いた。
「こ、この間って…」
あの夜のことを指しているのはハリーにだって分かる。でもあまりにも突然だった。それまでマキは画面の中のフットボールの試合運びにかまけていて、いつその話をしようかとソワソワしていたのはハリーの方だ。食事中も、食後の紅茶を淹れている間も、どう言い出そうかとタイミングを見計らってソワソワしていた。それなのに。
思いがけず先手を打たれて、動揺したままカップを握りしめた。
「この間のことが、何?」
すっとぼけるつもりなんてなかったのに、どうしてか勝手に口が回る。
「何って…」
その返事が意外だったのか、マキが画面から目を離してハリーに視線をやった。その様子に、ますますそ知らぬ顔をしてしまう。
…僕が慌てふためくとでも思っていたんだろうか。
いや、実際、ハリーは内心大慌てだったけれど、落ち着き払ったマキを目の前にするとなんだか自分ばかりが振り回されているような気がして、それがちょっと癪だった。だから冷静なふりなんかしてしまった。見抜かれていたらどうしよう。じっと注がれる視線に耐えながら、ハリーはハラハラした。自分で悩みの種を増やしてどうする。
「ふーん…」
まじまじと見られて、息がつまりそうになる。
「まあ、いいけど」
やがてそう言い残して、マキが席を立った。あ、と思ってももう遅く、ハリーの手から空になったカップを取り上げたマキはそのまま流しで洗い物を始めてしまった。僕の仕事だ、と立ち上がりかけたハリーを目で制して。
「どうせ三人でレイトショーでも観に行ってるだろうから、今日は好きなだけ夜更かししたら」
片付けを終えて、濡れた手をタオルで拭いながらマキは柱時計を見上げた。「僕はもう寝る」
もう、言い出すなら今しかないのに。二人きりで話ができる、折角のチャンスだったのに。どうしてあんな意地を張ってしまったんだろう。後悔するハリーをよそに、マキはさっきの会話なんてすっかり忘れてしまったような顔でいる。
「おやすみ」
去り際になんてことない手つきで頭を撫でられて、後悔が確信に変わった。
「……待、って、マキ!」
風が吹いたのかもしれない。
開いていたはずの扉が勢いよく閉まって、リビングを出ようとしていたマキはしこたま顔を打ち付けた。
「…!?」
「いっ……たぁ」
訳もわからず呻いた。突然のことに目を白黒させたのはハリーも同じだ。家の中で風なんか吹くわけない。それでもこの機を逃してたまるかと、不思議そうに額を撫でさするマキの背中に飛びついた。
「えっ、ハリー?」
「マキ、まだ、まだ寝ないで」
「え、」
「まだ、ここにいて。お願い」
お願いだからここにいてほしい。一緒にいて、どうか話を聞いてほしい。振り返って、マキの視線がしがみつくハリーのつむじに落ちた。返ってきたのは非情な言葉だ。
「なんで。やだよ」
胸が痛んだ。死にそうなほどにきつく。
この11年間、マキが何を考えているのかハリーにはまるで読めなかったし、彼が優しいのか優しくないのか、それすらも分からなかった。でもこの時ばかりは心から思う。優しくない。全然、優しくない。全身が凍りついたように固まった。
なのに、どうしてか離せない。
胸元に回した腕にぎゅっと力を込めて、肩甲骨のあたりに鼻先を埋めた。指先が震えるのを感じながら返す言葉を必死に探した。思えば、マキに拒絶されたのなんて初めてだ。心臓はバクバクと嫌な音を立てて、ハリーを内から責め立てた。
それでもマキには関係ない。
「眠いし、もう寝るよ」
「…」
「ハリー。離して」
たしなめるみたいに、胸元をきつく握りしめる手に冷たい手が添えられて、ハリーは観念して力を抜いた。穏やかな、でも容赦ない手つきで腕を外されて、ぎゅっと唇を噛み締めた。視線は足元に落っこちたまま、心まで奈落の底に沈んだようだ。
「ほら」
だから、マキに手を取られても、すぐには反応できなかった。
「………え。えっ」
「ほら、行くよ」
腕を引かれてリビングを抜け出した。さっきはマキの行く手を阻んだ扉は今度はすんなりと開いて、簡単に二人を通した。マキがあまりにも自然に階段を上がるから、連れられるハリーもたどたどしく後を追うしかない。
「マキ、待って、どこ行くの」
「僕の部屋」
「な、なんで!?」
「なんでって、寝るから」
「君も一緒に寝よう」そう平然と言われて、ますます訳が分からなくなる。そうして初めて入ったマキの部屋は想像よりずっと質素で、おもちゃや装飾に溢れたダドリーの部屋を想像していたハリーは面食らった。兄弟でこんなにも違うものか。ベッドは多少上等なものに見えたけど、それだってハリーがいつも使っている薄っぺらな布団に比べてそう見えるだけで、極端に物の少ない部屋は隙間風でも吹いてるみたいにうすら寒く感じた。でも、なんだか彼らしいと思える。
さっさとベッドに潜り込んだマキは、入り口で躊躇いがちに佇んだままのハリーに気付いて手招きした。
「何してんの。ドア閉めて、おいで」
「ど、どうして」
「なに?」
「どうして、一緒に寝るの。僕が。君と」
「どうしてって…一緒にいたいんじゃないの?」
「そっ…!」
「違うの?」
「そ、それは…」
「…」
「…」
「…」
「………違わない、けど」
「でしょ」
ほらおいで、と催促されておずおずとベッドに入り込んだ。迎え入れたマキは毛布ですっぽりと二人を包み込んだ。近い。近いし、あったかい。向かい合うと暗がりの中で目が合った。
「僕はもう寝たいし、君は一緒にいたいって言うし、じゃあこうするのが一番なんじゃないの」
「そ、そうかな…」
「いや?」
「えっ、ううん。いやじゃない」
「そ」
「うん。…うん」
「…」
いやじゃないよ、ともう一度呟いた。その後の言葉は恥ずかしくて口には出せなかった。いやじゃない。むしろ、嬉しい。慣れない人肌があまりに心地よくて、ハリーはちょっとだけ泣きそうになった。
「…ねえ、マキ」
「なに」
「なんでキスしたの?」
言ってから、少しだけ後悔した。もっと違う聞き方をすればよかった。ハリーだって、どうしてマキにキスしたのかと聞かれてもきっと答えられない。なぜあんなことをしたのか、自分でも理由が分からないからだ。その点、マキは明朗に答えた。
「君がしてほしそうだったから」
「えっ、それだけ?」
「それだけ」
「そん……そんなの、理由にならないよ」
「なんで?」
「だって、…誕生日のケーキと一緒だ。マキにそんなことする義理はないもの」
「義理ぃ?」
予想外の言葉に、マキは目を細めて聞き返した。ハリーはたじろいだけれど、ぐっとこらえた。ここで引いてしまったらまた元の木阿弥だ。
「君ってさ」
「…」
「よく分かんないこと言うね…」
一方マキは、呆れたような様子でそんなハリーをまじまじ眺めた。
いつもこうだ。誕生日ケーキも、紙飛行機も、どうして与えるのかと不思議がるハリーの方こそおかしいみたいに、マキはいつも首をかしげる。ハリーにはずっとそれが疑問だった。ことダーズリー家において、異質なのはどう考えてもマキの方だ。
「…マキこそ、よく分かんないよ」
誕生日ケーキや、紙飛行機だけじゃない。
他にもたくさん、色んなものを貰ってきたことを、ハリーは自覚している。
「どうしていつも僕にくれるの」
家族で遊園地に行った時、留守番をさせられたハリーに風船を持って帰ってきてくれた。
公園に行くことも許されず、遊び相手のいないハリーに紙飛行機の折り方を教えてくれた。
近所のお姉さんが焼いたアップルパイを包んで部屋まで持ってきてくれた。
冬が近付けばお下がりのマフラーを譲ってくれたし、春が迫ると、部屋のかんぬき錠を外して家の外に出してくれた。家に閉じ込められてばかりいたハリーに、空気に混ざる青さが新緑の香りだと教えてくれた。
その全てがハリーにとって必要なものだった。階段下の小さな部屋で、マキから貰った風船や紙飛行機をいつまでも捨てられずにいたのは、それがハリーにとって数少ない、大切な思い出だったからだ。
マキはちょっとだけ眉根を寄せて、怪訝そうな顔をした。
「なんていうか、買い被りすぎなんじゃない。僕のこと」
「…どうして?」
「全部どうってことないことじゃん。君が深く受け取りすぎ」
「…」
「僕はダドリーと同じように接してるだけだよ。あくまでも」
「マキはダドリーにもキスするの?」
「それはさぁ…しないけど…それは…」
揚げ足を取らないの、とまるで言い含めるようにハリーの頭を抱き込んだ。いきなりのことにびくりと肩を震わせたハリーは、しかし抵抗しなかった。やがておずおずと自分から体を寄せて、ぴったりとマキにくっついた。
「ほら、もうおしまい。寝よう。おやすみ」
「お、おやすみなさい…」
人肌の中で、ハリーはそっと目を閉じた。規則正しい心臓の音と、マキの匂いに安心した。
その夜の夢見が良かったのは、きっとフカフカのベッドのせいだけではないと思う。
▽
マキは、生まれてから今日に至るまで、色んなものを貰ってきた。大抵は風に運ばれてきたものだ。
その日、散歩から帰ったマキはふと家の前で立ち止まった。最近やけにフクロウを見かけるとは思っていたが、今日ばかりはちょっと度を越していた。屋根にも、庭にも、車にも、何十羽ものフクロウがホーホー鳴きわめくでもなく、じっとそこに集っていた。
おかしなことに、そのフクロウたちはダーズリー家に群がるばかりで、他の家にはまるで近付こうとしない。
風に吹かれて飛んできたフクロウの羽を拾い上げたマキは、しばらくその羽をくるくると弄んだ。フクロウ屋敷と化した我が家を見上げて、どうしたもんかなと思案した。一瞬迷って、それでも臆することなく家の中に入っていった。
風の吹くままに生きてきたマキは、臆病風にだけは吹かれたことがないのだ。
「ぅわぷ」
だから家の中がちょっとありえないことになっていても、マキは慌てたりしなかった。「えっ、何?」ただ純粋に驚いた。大量の手紙が宙を舞うその中心で、手紙を掴もうとするハリーをダーズリーが顔を真っ赤にしてふんじばっている。これ以上ないくらいの惨事だ。怯えきった様子でリビングの入り口から顔を出している夫人とダドリーは、入ってきたマキに気付いて早くなんとかしてくれと身振り手振りで伝えた。急かされたって、マキにどうこう出来るわけがない。「いいからさっさとドアを閉めろ!」ダーズリーが叫んだので、後ろ手に扉を閉めた。それでも手紙は投函口から矢のように飛び入ってくる。ダーズリーは絶叫した。
「マキ! どうにかしてちょうだい!」
夫人が縋るように声を張り上げた。ダドリーと肩を寄せ合って、心底怯えているようだった。
「そう言われてもね…」
床を埋め尽くす手紙に足を取られながら、家の奥へと進む。歩きづらくてかなわない。ハリーを取り押さえろ!とダーズリーが叫んだがマキは無視した。一瞥もくれずに横を通っていくマキを、ハリーは見上げることしかできない。
「なに、一体なんなの? これ」
「し、知らないわ、いいから早くなんとかして!」
「無茶言わないでよ」
「マキ!」
「ほっとけば。そのうち収まるんじゃないの…」
がなる母親を横目に、ふと、足元に散らばったうちの一通を拾い上げた。宛先に目を通したマキは一瞬驚いたように目を瞬いて、ハリーの方を振り返った。
風が吹き荒れる中、ようやく二人の視線が絡んだ。
「君宛てじゃん」
「そ、そう。そうなんだ」
マキがなんだか笑っているように見えたので、羽交い締めにされながらもハリーはこくこくと頷いた。そうだ。全部、全部僕のだ。ダーズリーがどれだけ邪魔をしたってその事実は変わらない。皆がハリーの妨害をする中で、ただ一人マキが笑ってくれたことが無性に嬉しくて、もがきながら必死に手を伸ばした。
「マキ! 今すぐ、こいつを、取り押さえろ!」
額に血管を浮かべたダーズリーが何度もそう叫んだけれど、マキは聞かなかった。聞くわけがなかった。
生まれてから今日に至るまで、マキは色んなものを貰ってきた。その大半は風に運ばれてきたものだ。
だからこそ、父親のしていることは無駄なあがきだと分かっていた。風が運んできたものは素直に受け取るしかないことをマキはよく知っている。外野がどれだけ妨害したって、きっとこの謎の手紙はハリーの手に届く運命にあるのだ。
この日、初めてハリーのために風が吹いたことを、マキは心から祝福した。
「ハリー」
「あ、」
「良かったね」
手紙をひらりと落とした。風に乗って、舞い上がる渦の中に混ざり合う。
ハリーに笑いかけると、もう目の前で起きていることに興味なんかない様子で、マキは階段を上っていった。その背中を追いかけるようにダーズリーの怒号が飛んだ。信じられない!と夫人も叫んだし、怯えて声を発せないダドリーもまるで理解できない様子で兄の背中を見上げた。ただハリーだけは、その淡白さを彼らしいと思う。
手紙の中身を読んでくれるわけでも、ダーズリーを引き剥がしてくれるわけでもなく、その場を放置して自分の部屋へと去っていくマキはやっぱり優しくなかったけれど、ハリーにはそれだけで十分だった。
貰ったその一言が、何より嬉しい。
一年後、ホグワーツ帰りのハリーにグイグイこられる。
2020.11.26