短い話
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※転生現パロ
目と目で通じ合う、なんて、そんな歌が流行ったんだっけ。今世では。
「あわわわわ」
「ははっ」
慌てて後ずさりする私と対照的に、目の前に立ちふさがる尾形さんはそれはもう楽しげな顔をしていた。薄暗い教室の中でもよく分かる。清潔そうな白いシャツに、無難なネクタイ、男性もののオーデコロン。100年前の記憶の中とはまったく違うその装いの中で、顎の傷と、獲物を狙う表情だけは過去によく見知ったものだった。
尾形さん。尾形百之助さん。
まさかこんなところで会うなんて。
のりのきいたプリーツスカートを無意識に握り込んでいた私を、相変わらずうっそりと笑みを刷いた尾形さんが見つめている。
▽
「三木ちゃん、ちょーっと待った!」
「うわっ、白石さん」
「待った待った、待ってってば! 止まろうよ! そんでナニ!? その顔!」
「だって遅刻しそうなんだもん。歩きながらでもいい?」
「やだ、冷たぁい…」
玄関ドアを勢いよく開けた先に手のひらを突き立てる白石さんの姿が見えて、思わず正面衝突しそうになったところを神回避。今日初めて足を通したローファーでたたらを踏んだ。あっぶない。なんでそんなとこに立ってるのかな。真新しい制服の裾をひるがえして先を急ぐ私を、慌てて追いすがってくる白石さんは、何やらめかしこんでるように見える。
「うわぁ、白石さん、どうしたの。デートでも行くの」
「んなわけないじゃん! 今日は三木ちゃんの入学式でしょぉ?」
「えっ、来るの!?」
「だからなぁにぃその顔ッ」
だって、白石さん。まさか来るとは思ってなくて。
足を止めないままの私に並んだ白石さんが「あったりまえじゃん」ってキメ顔でサムズアップした。当たり前って、何が? 海外赴任で来られない両親の代わりに、プーで時間を持て余してる白石さんが私の初登校を見守ってくれること?
いらないなぁ…って素直に思ったことが顔に出てしまったらしくて、白石さんは小走りのまま器用に地団駄を踏んだ。なに、そのステップ。
「一人でも大丈夫って言ったのに」
「だめだめ、だ〜めっ。ちゃんとした保護者が必要でしょ?」
「ちゃんとした…?」
「ん?」
「ね、白石さん、私もう高校生だよ。子供じゃないってば」
「いやいや、高校生なんて、俺からしたらまだまだ……」
言いかけて、言葉を切った白石さんの視線が私の体を上から下までとっくり二往復した。
「……でもないかも」
「白石さんのえっち」
なんだかな。ちゃんとした保護者はそんな目しません。
がっし。と、突然両肩を掴まれて、もつれそうになった足を止めた。真剣な目で凄まれる。
「三木ちゃん」
「はい?」
「そーいうこと、軽々しく言っちゃダメッ。分かった?」
「はぁい…」
めんどくさいな。白石さんは自分が奔放なわりにやけに過保護じみたとこがあるから、この歳になってもまだやきもきすることがあるみたい。
また駆け出した私の横にぴったりついて、白石さんはマジな顔をした。
「ねー、ほんとに分かってる? 三木ちゃんに何かあったら俺、マジで死んじゃうからね」
「死なない、死なない」
「比喩じゃないんだけど!?」
マジもマジ。大マジでしょ。分かってるよ。雲よりも軽いフットワークで上手に世渡りをする白石さんが、何度も命の危機に晒されながらも(主にギャンブル関係で)いまだに五体満足でいられるのは、危険を認識する能力がズバ抜けて高いからだ。…って、前に自分で言ってたもんね。
「杉元さん、白石さんよりも過保護だもんなぁ…」
「ちょっとちょっと、俺とは比べもんにもなんないでしょっ」
「白石さんも大概だと思うけどな」
「俺は三木ちゃんに告っただけの中学生をボコボコにしたりしねぇもん」
「そんな次元で争われても…」
でもさすがに殺したりはしないと思うよ、って言ったら「やっぱり分かってないじゃん!」って絶叫が返ってきた。
仕事の都合で入学式に付き添えないことをハンカチでも噛みそうな勢いで嘆いていた杉元さん。代わりを任された白石さんは、その責任の重さを肌で感じているらしくて目に見えてブルっていた。腕まくりして鳥肌を見せつけてくる。大げさだなぁ。杉元さんだって鬼じゃないんだから、そんなぽんぽん殺したりしないよ。100年前じゃあるまいし。
そうこうしているうちに校門が見えてきた。時間ギリギリのせいか人影もまばらで、胸元に花を付けた誘導の人が手を大きく振って急かしてくる。初日から遅刻なんて私だって嫌だから、白石さんを引き離す気でスピードを上げた。でもそうか、白石さんは昔から足が早いんだった。置いていかれまいと意固地になったらしい白石さんは、本領を発揮しすぎて私を追い抜いて門の中に突っ込んでいった。元気なお父さんですね、と続けて門をくぐる私に誘導の人が言うので会釈で返した。お父さんじゃないけど、もう、いいや。
正面玄関横の受付に駆け寄って、上がった息を整えながら名前を告げる。女の人が名簿と照らし合わせて読み上げた。1年3組八重田三木。引き返してきた白石さんがゼェゼェ息を乱して、遅いよぉって文句を言った。白石さんが早すぎるんだけどな。
「そう、遅いの。遅刻ギリギリ。だから急がなきゃ」
「えっもう行くの!? まだ写真撮ってないじゃん」
「いらないよ、そんなの」
「いる! 絶対いる! 桜の下で微笑む制服姿の三木ちゃんの写真が絶対にいる!」
「白石さん」
通学鞄を両手で持ったまま、その場でくるっと一回転してあげた。自宅から近いってだけで受験したこの学校は幸運なことに制服もそこそこかわいい。おろしたてでぱりっとしたスカートの裾が風に揺れた。
「よく撮れた?」
「脳内シャッター5回は切った……」
「充分だね」
下駄箱の影からひょっこり顔がのぞいて、私を呼ぶ声がした。あっ、さっちん。何やら焦り顔のさっちんは手首を指で示す古風なそぶりで私を急かした。中学からの親友ともなると、来たる日に私が遅刻しそうになることも想定してこうして出迎えてくれるみたい。すぐ行くよのジェスチャーで手を振って、ちゃっかり受付で私の父の名前を語る白石さんを振り返った。
「もう、来ちゃったからしょうがないけど、入学式が終わったらまっすぐ帰ってね。寄り道しちゃダメ。知らない人にもついていっちゃダメだからね」
「そんなぁ。三木ちゃん、ついに反抗期?」
「そうそう。反抗期になったの。たった今。だからここから先は一人で行くし写真も撮らないよ。じゃあね、ばいばい。また後で」
「そんな律儀な反抗期、あるぅ?」
白石さんがブーたれて唇を尖らせた。
子供みたいなのはどっちなんだろう。
▽
家から近いだけあって中学時代の同級生の顔がちらほら見える。さっちんも私と同じ1年3組で、出席番号も近くて窓際の前後の席に落ち着いた。
担任の簡単な自己紹介と今日の流れを説明するだけのホームルームが終わって、入学式のために体育館に向かう。白石さん、大丈夫かな。大人しくしてくれてたらいいんだけど。世渡り上手で意外と空気を読む人だから、騒ぎを起こすとか、そういう心配はしてないけど、惚れっぽくてお尻が軽い白石さんの人妻好きが同級生のお母さんに粗相をしないかどうかは、私にもちょっと分からない。
さっちんは白石さんが苦手なので、息を詰めて廊下を歩いた。
白石さんに限らず、杉元さんのことも怖いみたい。なんで歳の離れた人たちとそんなに仲良くしてるの? ってずっと不思議そうに聞かれてきた。まあ、そうだよね。事情を知らないとそうなると思う。なんでかなぁ。星の巡り合わせってやつ。100年経っても縁が切れなかったからとは言えるはずもなくて、適当にはぐらかしていたらさっちんは問い詰めてこなくなって、代わりに彼らへの不信感だけが残ったみたい。なんかごめんね。いい人たちだよ。不自然に距離が近いのも、ちょっと過激っぽいとこも、前世であんな別れ方をすればこそで。
「あっ、三木ちゃん! 」
「うわっ、白石さん」
保護者席から大げさに手を振ってくる白石さんてば、まさに絵に描いたようなマイホームパパ。娘の成長に諸手を挙げて喜ぶ父親に見事なり切った白石さんは、私の姿を見とめるとお隣のご婦人と手を繋いでキャピキャピと小躍りした。よりにもよってさっちんのお母さんだし。隣から聞こえる引きつれたような声は無視させてもらった。ごめん、なんかごめん。悪いのはあの二人が隣同士になるような星の巡り合わせと、白石さんの底抜けのコミュ力だよ。
無難に小さく手を振り返すと、うなじのあたりがチリっとした。
開式の辞が宣言されて、入学式はつつがなく進む。ただ座っているだけでどんどん項目が消化されていく式は楽ちんでいいな。入れ替わり立ち替わり壇上に現れる知らない人たちをぼんやり眺めて、ただ時間が過ぎるのを待った。途中、校長先生からのありがたいお話がなんと本当にありがたかったので思わず聞き入る。徳の高い人だな。なにか、他の人にはないような風格を感じる…。この学校にして良かったかもしれない。ぽーっと見上げているとまたうなじがチリっとした。起立、礼、着席。在校生からの歓迎の校歌斉唱も賜って、滞りなく式が終わった。
1組から順に教室へと戻っていくざわめきの中で、白石さんがまた大仰に手を振ってくる。なぜかさっちんの名前を呼んで。お隣のさっちんママはニコニコ顔で私の名前を呼んでいる。あの静粛な式の間にどこまで仲良くなったんだろう。すっかり意気投合して、私とさっちんのツーショットを楽しんでいるみたいだった。さっちんが私の手を思いっきり握りしめた。いたいいたい。ごめんって。指先を絡めながら無言の怒りをなだめて、はいチーズ。白石さんの脳内カメラはともかく、さっちんママが構えるリアルなカメラは無碍にはできなかった。白石さん、さっちんのお母さん寝取ったらさすがに怒るよ。
「じゃあ、このメンバーで一年やっていくわけだけども」
教室に戻って、担任が一同を見渡して頷く。式の後は恒例の自己紹介の時間。浮かれ心地の新入生に負けず劣らず、うきうきと胸を膨らませている担任はなにやらレクリエーションめいたことを画策しているようで、やけにもったいつけた間をとった。
みんなでワイワイ楽しいことをするのが好きなさっちんはさぞ嬉しいでしょう、と思って前を見るとめちゃめちゃジト目で睨まれた。怖っ。さっちん、お怒りが後を引きすぎてて怖い…。どうやら白石さんをここまで連れてきたことに腹を立てているみたいで、嫌いな相手と母親が懇意になったことにも憤りを感じている、といったところ。そういえば、こないだ遊んだとき、入学式には連れてこないでねって口を酸っぱくして言われてたっけか。忘れてたわけじゃないけど、今日の白石さんは不意打ちだったし、多少は大目に見てほしい。
「出席番号順に…ってのがセオリーだけど、それじゃつまらないよな。誰か、我こそは!って奴、いるかー?」
お詫びのしるしにポケットに忍ばせておいたチロルチョコを剥いて差し出すとプイッとそっぽを向かれた。手強いね。どんだけ白石さんたちのこと嫌いなんだろう。確かに昔からさっちんと遊んでる時もひっきりなしに電話がかかってきたり、さっちん憧れの先輩たちとのお出かけから連れ出されてさっちんを紅一点にしてしまったり、なんでもない日に校門まで迎えに来られてさっちんと一緒に帰る約束を泣く泣く反故にしたりもしたわけだけど、チロルで懐柔できない怒りとは思わなかった。
しょうがないなぁ。自分で食べちゃおうと引っ込めた手を、ふいに掴まれた。
「誰もいないかー? 先生が当てちゃうぞ。いいのかー?」
いらないとは言ってない…。そう呟いて私の手ずからチロルを食べた。ううん、このツンデレギャル。なんて可愛いんだ。
そのとき、チリっとした視線を感じて窓の外に目をやった。晴れ晴れとした空と、今日初めて見るグラウンド。視界の端に似つかわしくない煙が漂ったのが見えて、何の構えもなく目を凝らした。明らかに場違いな煙草をくわえながら、まっすぐこちらを見上げてくるその人と、
確かに、
目が合った。
目と目で通じ合う、なんて、そんな歌が流行ったんだっけ。今世では。
思わず立ち上がった。
口に触れたままだった指を反動で突っ込んでしまい、さっちんがえずいた。椅子を思い切り引いて突然立ち上がった私に、教室中の視線が一斉に集まった。チリっともしない、ただの興味でしかない視線が刺さる。目を逸らせずにいる私とは対照的に、窓の外のその人は煙草を携帯灰皿に押しつけながら校舎へと歩いていった。ポイ捨てしないの、えらい。いやえらくない。学校で煙草は吸っちゃいけない。
「先生」
「あ、えーと、八重田か。うんうん。積極的でいいぞ。じゃあ自己紹介いってみよう!」
「早退します」
「早!」
担任が叫んだ。
構わずに、鞄を引っ掴んで駆け出した。「自己紹介は!?」なんて担任の声が追いかけてきて、振り返りながらさっちんを指差した。さっちんに聞いて。中学からの親友なら、きっと私の第一印象を底上げする完璧な他者紹介をしてくれるはず。期待を込めてウインクする私を、喉を抑えて睨みつけるさっちんに、ちょっと嫌な予感がした。
「サボり魔です。今後要注意」
ひ、ひどい! 覚えてろよ!
怒る時間も惜しくて泣く泣く走り去った。
▽
とは言っても今日来たばかりの校舎の構造なんて分からなくて同じ階を何周もさせられた。
もう3度は見た資料室の前で立ち止まって、胸に手を当てて息を整えた。おかしい。下駄箱がどこかも分からないなんて。それほど混乱してるってことなのかな。自分では冷静でいるつもりだけど、自分の胸の内なんてそうそう分からない。だって、あの人がこんなところにいるなんて想像もしてなかったから。面倒なことになる前に早く帰ってしまいたい。
「……あっ、しまった」
白石さん。白石さんもいる。彼も回収して帰らないといけないことを思い出した。ふう、って額に手を当てた。杉元さんからのプレッシャーを一身に背負った白石さんが、入学式が終わって素直に帰るとは思えない。私の言うことなんて全然信用してくれないの。あーあ、ほんとにグレちゃおっかな、もう。
右も左も分からない場所で人探しなんて途方もない。とにかく早く合流しないと。
踵を返して来た道を戻ろうとする私の腕を、何か強い力が引き寄せた。
「え、えっ」
真横からの引力。急に視界に影が差して、踏み出し損ねた足がたたらを踏んだ。私を資料室に引っ張り込んだのは、もちろん、さっき目が合った……
「あわわわわ」
「ははっ」
慌てて後ずさりする私と対照的に、目の前に立ちふさがる尾形さんはそれはもう楽しげな顔をしていた。薄暗い教室の中でもよく分かる。清潔そうな白いシャツに、無難なネクタイ、男性もののオーデコロン。100年前の記憶の中とはまったく違うその装いの中で、顎の傷と、獲物を狙う表情だけは過去によく見知ったものだった。
尾形さん。尾形百之助さん。
まさかこんなところで会うなんて。
のりのきいたプリーツスカートを無意識に握り込んでいた私を、相変わらずうっそりと笑みを刷いた尾形さんが見つめている。
「よう」
「…」
「奇遇だな」
扉を後ろ手で閉めながら私を見下ろす。見事に誘い込まれてしまって、奇遇も何もないのでは? と思いながらも頷いた。ああ、緊迫。緊張する。目の前の人と対峙しながら100年前の記憶を掘り起こした。
あの時の私たち、どんなお別れをしたんでしたっけ。
杉元さんや白石さんみたいに、この世でも友好な関係を築ける間柄だったかどうか、記憶がふわふわしちゃってて(100年前のことなんて、ずっと覚えてられるわけがないのだ)この場から逃げ出すべきなのか迷ってしまう。杉元さんには「もし尾形を見かけたら逃げて。即逃げて。俺に連絡ちょうだい」って再三言われ続けてきたけど、逃げられるかなぁ。分かんないな…。
「あの」
「…」
「ちょっと電話してきていいですか?」
「あ?」
「あっ、いたたたた」
顎を掴まれて頬を挟まれた。あれ、なんかこれ、ちょっとデジャヴかも。
「誰に」
「杉元さんに」
「あ?」
「尾形さんに会ったら連絡しろって言われてるんです」
「…」
「ちょっと過保護気味で…」
「……チッ。相変わらず邪魔くせぇな」
そう言いながら、掴んだ顔をじろじろと眺め回す尾形さん。やっぱり、なんか、覚えがある。気がする。記憶にはなくても体は覚えてるってやつかな。なんかえっちだ。100年前にもこんなやり取りしてたんだろうか。
「ほっとけよ。勝手に怒らせとけ」
「でも、殺されちゃうし…」
「誰が」
「白石さん」
「ならいいだろ。ほっとけ」
「…」
「更に言うと、校内での携帯電話の使用は校則違反だぜ。お嬢さん」
いつのまにか制服のポケットからスマホを抜き取られて、目の前でそれをちらちら振られる。まるで先生みたいな口ぶりに唖然として見上げると、尾形さんは笑みを深くした。
「お、尾形さん」
「なんだよ」
「もしかして…」
「ははっ」
「…」
顔を上向きにされて喉が反った。鼻の先がくっつくくらいの距離で、尾形さんのくらい目が細まる。心底楽しそうだ。私はといえば心の底から驚いて、なんと言っていいか分からなかった。感情を見せない瞳の奥に、何か、杉元さんと同じような熱が宿っているのがかろうじて分かる。
「これから3年間、楽しみだなぁ?」
「…!」
返事ごと飲み込むみたいに口付けられて、目を丸くした。
い、淫交。これは淫交なのでは? 現役教師と女子高生の淫らな関係なんて、そんな危ない橋は渡るつもりない。ましてあの尾形さんが私の口の中を好き勝手に舐めまわしてる非常事態に右足のかかとが狙いを定めた。アッ、避けた! 踏みつけようとした足を難なく避けられて、二度目はないとばかりに力強く腰を抱かれて体が密着する。そのうち、どんどん深いキスになって、なんか唾液とか飲まされて、押し返す手がシャツを握るだけになってしまう。
「んっ、ちょ、尾形さ…」
「……ははっ」
「ん、」
「やっと禁煙できそうだ」
口寂しさをごまかす理由がなくなった、とかなんとか、ようやく離してくれた尾形さんが唇を舐めながらそう言った。ひ、ひどい。人の口を煙草代わりにされちゃ困る。そんなに口寂しいのが嫌ならチロルチョコでも食べてたらいいじゃないですか。さすがに怒って、口の中に押し込んでやろうとポケットを探しても、何もない。ああ、しまった。今日の一個、さっちんにさっきあげちゃった…。
「なんだよ。そんな目で見られると興奮するだろ」
「怖っ…」
また唇がくっついた。
さっちんが憎い。いや、そもそも、さっちんを怒らせた白石さんが憎い。いやいや、そもそも、前世からの縁が全部悪かったりするのかも。星の巡り合わせが憎い。
乙女の純情を好き勝手に弄ぶ尾形さんをジト目で睨んだ。尾形さんはずっと楽しそうだ。最初に目が合ったときから、ずっと。目と目で通じ合って、かすかに感じたのは色っぽさじゃなくて警戒心だった。そっか、そうだ。思い出した。尾形さんは100年前から、こうやって私のことを好き勝手に暴いてきたのだ。
「転校しようかな…」
「勝手にしろよ。家なら割れてる」
「ひぇ…」
「もっと近いところに俺が越すのもわけないが、その前に、挨拶に行かんとなぁ」
「えっ」
「…」
「だ、誰にですか」
まさか親…と青ざめる。勘弁してください尾形さん。私の両親は普通の人で、娘が明治時代の記憶を抱えて、未だにその頃の交友を続けてるなんてまったく知りもしないんです。見上げる私の頬を撫でて、尾形さんが眉を寄せた。
「違ぇよ。他にも保護者ぶった奴らが二人、いるだろう」
「…」
「散々独占してきたんだ。恨み言の一つや二つ、言ってやりたいね」
「…」
「あと、多少は労ってやろうかと」
「な、」
「あ?」
「何を言うつもりですか」
杉元さんと白石さんの顔が脳裏に浮かぶ。下手したら、血で血を洗う泥沼戦の再開だ。
暗い教室の中で、尾形さんがニヤリと笑う。
「虫除けご苦労さん」
いいとこ取り。
2020.8.11
目と目で通じ合う、なんて、そんな歌が流行ったんだっけ。今世では。
「あわわわわ」
「ははっ」
慌てて後ずさりする私と対照的に、目の前に立ちふさがる尾形さんはそれはもう楽しげな顔をしていた。薄暗い教室の中でもよく分かる。清潔そうな白いシャツに、無難なネクタイ、男性もののオーデコロン。100年前の記憶の中とはまったく違うその装いの中で、顎の傷と、獲物を狙う表情だけは過去によく見知ったものだった。
尾形さん。尾形百之助さん。
まさかこんなところで会うなんて。
のりのきいたプリーツスカートを無意識に握り込んでいた私を、相変わらずうっそりと笑みを刷いた尾形さんが見つめている。
▽
「三木ちゃん、ちょーっと待った!」
「うわっ、白石さん」
「待った待った、待ってってば! 止まろうよ! そんでナニ!? その顔!」
「だって遅刻しそうなんだもん。歩きながらでもいい?」
「やだ、冷たぁい…」
玄関ドアを勢いよく開けた先に手のひらを突き立てる白石さんの姿が見えて、思わず正面衝突しそうになったところを神回避。今日初めて足を通したローファーでたたらを踏んだ。あっぶない。なんでそんなとこに立ってるのかな。真新しい制服の裾をひるがえして先を急ぐ私を、慌てて追いすがってくる白石さんは、何やらめかしこんでるように見える。
「うわぁ、白石さん、どうしたの。デートでも行くの」
「んなわけないじゃん! 今日は三木ちゃんの入学式でしょぉ?」
「えっ、来るの!?」
「だからなぁにぃその顔ッ」
だって、白石さん。まさか来るとは思ってなくて。
足を止めないままの私に並んだ白石さんが「あったりまえじゃん」ってキメ顔でサムズアップした。当たり前って、何が? 海外赴任で来られない両親の代わりに、プーで時間を持て余してる白石さんが私の初登校を見守ってくれること?
いらないなぁ…って素直に思ったことが顔に出てしまったらしくて、白石さんは小走りのまま器用に地団駄を踏んだ。なに、そのステップ。
「一人でも大丈夫って言ったのに」
「だめだめ、だ〜めっ。ちゃんとした保護者が必要でしょ?」
「ちゃんとした…?」
「ん?」
「ね、白石さん、私もう高校生だよ。子供じゃないってば」
「いやいや、高校生なんて、俺からしたらまだまだ……」
言いかけて、言葉を切った白石さんの視線が私の体を上から下までとっくり二往復した。
「……でもないかも」
「白石さんのえっち」
なんだかな。ちゃんとした保護者はそんな目しません。
がっし。と、突然両肩を掴まれて、もつれそうになった足を止めた。真剣な目で凄まれる。
「三木ちゃん」
「はい?」
「そーいうこと、軽々しく言っちゃダメッ。分かった?」
「はぁい…」
めんどくさいな。白石さんは自分が奔放なわりにやけに過保護じみたとこがあるから、この歳になってもまだやきもきすることがあるみたい。
また駆け出した私の横にぴったりついて、白石さんはマジな顔をした。
「ねー、ほんとに分かってる? 三木ちゃんに何かあったら俺、マジで死んじゃうからね」
「死なない、死なない」
「比喩じゃないんだけど!?」
マジもマジ。大マジでしょ。分かってるよ。雲よりも軽いフットワークで上手に世渡りをする白石さんが、何度も命の危機に晒されながらも(主にギャンブル関係で)いまだに五体満足でいられるのは、危険を認識する能力がズバ抜けて高いからだ。…って、前に自分で言ってたもんね。
「杉元さん、白石さんよりも過保護だもんなぁ…」
「ちょっとちょっと、俺とは比べもんにもなんないでしょっ」
「白石さんも大概だと思うけどな」
「俺は三木ちゃんに告っただけの中学生をボコボコにしたりしねぇもん」
「そんな次元で争われても…」
でもさすがに殺したりはしないと思うよ、って言ったら「やっぱり分かってないじゃん!」って絶叫が返ってきた。
仕事の都合で入学式に付き添えないことをハンカチでも噛みそうな勢いで嘆いていた杉元さん。代わりを任された白石さんは、その責任の重さを肌で感じているらしくて目に見えてブルっていた。腕まくりして鳥肌を見せつけてくる。大げさだなぁ。杉元さんだって鬼じゃないんだから、そんなぽんぽん殺したりしないよ。100年前じゃあるまいし。
そうこうしているうちに校門が見えてきた。時間ギリギリのせいか人影もまばらで、胸元に花を付けた誘導の人が手を大きく振って急かしてくる。初日から遅刻なんて私だって嫌だから、白石さんを引き離す気でスピードを上げた。でもそうか、白石さんは昔から足が早いんだった。置いていかれまいと意固地になったらしい白石さんは、本領を発揮しすぎて私を追い抜いて門の中に突っ込んでいった。元気なお父さんですね、と続けて門をくぐる私に誘導の人が言うので会釈で返した。お父さんじゃないけど、もう、いいや。
正面玄関横の受付に駆け寄って、上がった息を整えながら名前を告げる。女の人が名簿と照らし合わせて読み上げた。1年3組八重田三木。引き返してきた白石さんがゼェゼェ息を乱して、遅いよぉって文句を言った。白石さんが早すぎるんだけどな。
「そう、遅いの。遅刻ギリギリ。だから急がなきゃ」
「えっもう行くの!? まだ写真撮ってないじゃん」
「いらないよ、そんなの」
「いる! 絶対いる! 桜の下で微笑む制服姿の三木ちゃんの写真が絶対にいる!」
「白石さん」
通学鞄を両手で持ったまま、その場でくるっと一回転してあげた。自宅から近いってだけで受験したこの学校は幸運なことに制服もそこそこかわいい。おろしたてでぱりっとしたスカートの裾が風に揺れた。
「よく撮れた?」
「脳内シャッター5回は切った……」
「充分だね」
下駄箱の影からひょっこり顔がのぞいて、私を呼ぶ声がした。あっ、さっちん。何やら焦り顔のさっちんは手首を指で示す古風なそぶりで私を急かした。中学からの親友ともなると、来たる日に私が遅刻しそうになることも想定してこうして出迎えてくれるみたい。すぐ行くよのジェスチャーで手を振って、ちゃっかり受付で私の父の名前を語る白石さんを振り返った。
「もう、来ちゃったからしょうがないけど、入学式が終わったらまっすぐ帰ってね。寄り道しちゃダメ。知らない人にもついていっちゃダメだからね」
「そんなぁ。三木ちゃん、ついに反抗期?」
「そうそう。反抗期になったの。たった今。だからここから先は一人で行くし写真も撮らないよ。じゃあね、ばいばい。また後で」
「そんな律儀な反抗期、あるぅ?」
白石さんがブーたれて唇を尖らせた。
子供みたいなのはどっちなんだろう。
▽
家から近いだけあって中学時代の同級生の顔がちらほら見える。さっちんも私と同じ1年3組で、出席番号も近くて窓際の前後の席に落ち着いた。
担任の簡単な自己紹介と今日の流れを説明するだけのホームルームが終わって、入学式のために体育館に向かう。白石さん、大丈夫かな。大人しくしてくれてたらいいんだけど。世渡り上手で意外と空気を読む人だから、騒ぎを起こすとか、そういう心配はしてないけど、惚れっぽくてお尻が軽い白石さんの人妻好きが同級生のお母さんに粗相をしないかどうかは、私にもちょっと分からない。
さっちんは白石さんが苦手なので、息を詰めて廊下を歩いた。
白石さんに限らず、杉元さんのことも怖いみたい。なんで歳の離れた人たちとそんなに仲良くしてるの? ってずっと不思議そうに聞かれてきた。まあ、そうだよね。事情を知らないとそうなると思う。なんでかなぁ。星の巡り合わせってやつ。100年経っても縁が切れなかったからとは言えるはずもなくて、適当にはぐらかしていたらさっちんは問い詰めてこなくなって、代わりに彼らへの不信感だけが残ったみたい。なんかごめんね。いい人たちだよ。不自然に距離が近いのも、ちょっと過激っぽいとこも、前世であんな別れ方をすればこそで。
「あっ、三木ちゃん! 」
「うわっ、白石さん」
保護者席から大げさに手を振ってくる白石さんてば、まさに絵に描いたようなマイホームパパ。娘の成長に諸手を挙げて喜ぶ父親に見事なり切った白石さんは、私の姿を見とめるとお隣のご婦人と手を繋いでキャピキャピと小躍りした。よりにもよってさっちんのお母さんだし。隣から聞こえる引きつれたような声は無視させてもらった。ごめん、なんかごめん。悪いのはあの二人が隣同士になるような星の巡り合わせと、白石さんの底抜けのコミュ力だよ。
無難に小さく手を振り返すと、うなじのあたりがチリっとした。
開式の辞が宣言されて、入学式はつつがなく進む。ただ座っているだけでどんどん項目が消化されていく式は楽ちんでいいな。入れ替わり立ち替わり壇上に現れる知らない人たちをぼんやり眺めて、ただ時間が過ぎるのを待った。途中、校長先生からのありがたいお話がなんと本当にありがたかったので思わず聞き入る。徳の高い人だな。なにか、他の人にはないような風格を感じる…。この学校にして良かったかもしれない。ぽーっと見上げているとまたうなじがチリっとした。起立、礼、着席。在校生からの歓迎の校歌斉唱も賜って、滞りなく式が終わった。
1組から順に教室へと戻っていくざわめきの中で、白石さんがまた大仰に手を振ってくる。なぜかさっちんの名前を呼んで。お隣のさっちんママはニコニコ顔で私の名前を呼んでいる。あの静粛な式の間にどこまで仲良くなったんだろう。すっかり意気投合して、私とさっちんのツーショットを楽しんでいるみたいだった。さっちんが私の手を思いっきり握りしめた。いたいいたい。ごめんって。指先を絡めながら無言の怒りをなだめて、はいチーズ。白石さんの脳内カメラはともかく、さっちんママが構えるリアルなカメラは無碍にはできなかった。白石さん、さっちんのお母さん寝取ったらさすがに怒るよ。
「じゃあ、このメンバーで一年やっていくわけだけども」
教室に戻って、担任が一同を見渡して頷く。式の後は恒例の自己紹介の時間。浮かれ心地の新入生に負けず劣らず、うきうきと胸を膨らませている担任はなにやらレクリエーションめいたことを画策しているようで、やけにもったいつけた間をとった。
みんなでワイワイ楽しいことをするのが好きなさっちんはさぞ嬉しいでしょう、と思って前を見るとめちゃめちゃジト目で睨まれた。怖っ。さっちん、お怒りが後を引きすぎてて怖い…。どうやら白石さんをここまで連れてきたことに腹を立てているみたいで、嫌いな相手と母親が懇意になったことにも憤りを感じている、といったところ。そういえば、こないだ遊んだとき、入学式には連れてこないでねって口を酸っぱくして言われてたっけか。忘れてたわけじゃないけど、今日の白石さんは不意打ちだったし、多少は大目に見てほしい。
「出席番号順に…ってのがセオリーだけど、それじゃつまらないよな。誰か、我こそは!って奴、いるかー?」
お詫びのしるしにポケットに忍ばせておいたチロルチョコを剥いて差し出すとプイッとそっぽを向かれた。手強いね。どんだけ白石さんたちのこと嫌いなんだろう。確かに昔からさっちんと遊んでる時もひっきりなしに電話がかかってきたり、さっちん憧れの先輩たちとのお出かけから連れ出されてさっちんを紅一点にしてしまったり、なんでもない日に校門まで迎えに来られてさっちんと一緒に帰る約束を泣く泣く反故にしたりもしたわけだけど、チロルで懐柔できない怒りとは思わなかった。
しょうがないなぁ。自分で食べちゃおうと引っ込めた手を、ふいに掴まれた。
「誰もいないかー? 先生が当てちゃうぞ。いいのかー?」
いらないとは言ってない…。そう呟いて私の手ずからチロルを食べた。ううん、このツンデレギャル。なんて可愛いんだ。
そのとき、チリっとした視線を感じて窓の外に目をやった。晴れ晴れとした空と、今日初めて見るグラウンド。視界の端に似つかわしくない煙が漂ったのが見えて、何の構えもなく目を凝らした。明らかに場違いな煙草をくわえながら、まっすぐこちらを見上げてくるその人と、
確かに、
目が合った。
目と目で通じ合う、なんて、そんな歌が流行ったんだっけ。今世では。
思わず立ち上がった。
口に触れたままだった指を反動で突っ込んでしまい、さっちんがえずいた。椅子を思い切り引いて突然立ち上がった私に、教室中の視線が一斉に集まった。チリっともしない、ただの興味でしかない視線が刺さる。目を逸らせずにいる私とは対照的に、窓の外のその人は煙草を携帯灰皿に押しつけながら校舎へと歩いていった。ポイ捨てしないの、えらい。いやえらくない。学校で煙草は吸っちゃいけない。
「先生」
「あ、えーと、八重田か。うんうん。積極的でいいぞ。じゃあ自己紹介いってみよう!」
「早退します」
「早!」
担任が叫んだ。
構わずに、鞄を引っ掴んで駆け出した。「自己紹介は!?」なんて担任の声が追いかけてきて、振り返りながらさっちんを指差した。さっちんに聞いて。中学からの親友なら、きっと私の第一印象を底上げする完璧な他者紹介をしてくれるはず。期待を込めてウインクする私を、喉を抑えて睨みつけるさっちんに、ちょっと嫌な予感がした。
「サボり魔です。今後要注意」
ひ、ひどい! 覚えてろよ!
怒る時間も惜しくて泣く泣く走り去った。
▽
とは言っても今日来たばかりの校舎の構造なんて分からなくて同じ階を何周もさせられた。
もう3度は見た資料室の前で立ち止まって、胸に手を当てて息を整えた。おかしい。下駄箱がどこかも分からないなんて。それほど混乱してるってことなのかな。自分では冷静でいるつもりだけど、自分の胸の内なんてそうそう分からない。だって、あの人がこんなところにいるなんて想像もしてなかったから。面倒なことになる前に早く帰ってしまいたい。
「……あっ、しまった」
白石さん。白石さんもいる。彼も回収して帰らないといけないことを思い出した。ふう、って額に手を当てた。杉元さんからのプレッシャーを一身に背負った白石さんが、入学式が終わって素直に帰るとは思えない。私の言うことなんて全然信用してくれないの。あーあ、ほんとにグレちゃおっかな、もう。
右も左も分からない場所で人探しなんて途方もない。とにかく早く合流しないと。
踵を返して来た道を戻ろうとする私の腕を、何か強い力が引き寄せた。
「え、えっ」
真横からの引力。急に視界に影が差して、踏み出し損ねた足がたたらを踏んだ。私を資料室に引っ張り込んだのは、もちろん、さっき目が合った……
「あわわわわ」
「ははっ」
慌てて後ずさりする私と対照的に、目の前に立ちふさがる尾形さんはそれはもう楽しげな顔をしていた。薄暗い教室の中でもよく分かる。清潔そうな白いシャツに、無難なネクタイ、男性もののオーデコロン。100年前の記憶の中とはまったく違うその装いの中で、顎の傷と、獲物を狙う表情だけは過去によく見知ったものだった。
尾形さん。尾形百之助さん。
まさかこんなところで会うなんて。
のりのきいたプリーツスカートを無意識に握り込んでいた私を、相変わらずうっそりと笑みを刷いた尾形さんが見つめている。
「よう」
「…」
「奇遇だな」
扉を後ろ手で閉めながら私を見下ろす。見事に誘い込まれてしまって、奇遇も何もないのでは? と思いながらも頷いた。ああ、緊迫。緊張する。目の前の人と対峙しながら100年前の記憶を掘り起こした。
あの時の私たち、どんなお別れをしたんでしたっけ。
杉元さんや白石さんみたいに、この世でも友好な関係を築ける間柄だったかどうか、記憶がふわふわしちゃってて(100年前のことなんて、ずっと覚えてられるわけがないのだ)この場から逃げ出すべきなのか迷ってしまう。杉元さんには「もし尾形を見かけたら逃げて。即逃げて。俺に連絡ちょうだい」って再三言われ続けてきたけど、逃げられるかなぁ。分かんないな…。
「あの」
「…」
「ちょっと電話してきていいですか?」
「あ?」
「あっ、いたたたた」
顎を掴まれて頬を挟まれた。あれ、なんかこれ、ちょっとデジャヴかも。
「誰に」
「杉元さんに」
「あ?」
「尾形さんに会ったら連絡しろって言われてるんです」
「…」
「ちょっと過保護気味で…」
「……チッ。相変わらず邪魔くせぇな」
そう言いながら、掴んだ顔をじろじろと眺め回す尾形さん。やっぱり、なんか、覚えがある。気がする。記憶にはなくても体は覚えてるってやつかな。なんかえっちだ。100年前にもこんなやり取りしてたんだろうか。
「ほっとけよ。勝手に怒らせとけ」
「でも、殺されちゃうし…」
「誰が」
「白石さん」
「ならいいだろ。ほっとけ」
「…」
「更に言うと、校内での携帯電話の使用は校則違反だぜ。お嬢さん」
いつのまにか制服のポケットからスマホを抜き取られて、目の前でそれをちらちら振られる。まるで先生みたいな口ぶりに唖然として見上げると、尾形さんは笑みを深くした。
「お、尾形さん」
「なんだよ」
「もしかして…」
「ははっ」
「…」
顔を上向きにされて喉が反った。鼻の先がくっつくくらいの距離で、尾形さんのくらい目が細まる。心底楽しそうだ。私はといえば心の底から驚いて、なんと言っていいか分からなかった。感情を見せない瞳の奥に、何か、杉元さんと同じような熱が宿っているのがかろうじて分かる。
「これから3年間、楽しみだなぁ?」
「…!」
返事ごと飲み込むみたいに口付けられて、目を丸くした。
い、淫交。これは淫交なのでは? 現役教師と女子高生の淫らな関係なんて、そんな危ない橋は渡るつもりない。ましてあの尾形さんが私の口の中を好き勝手に舐めまわしてる非常事態に右足のかかとが狙いを定めた。アッ、避けた! 踏みつけようとした足を難なく避けられて、二度目はないとばかりに力強く腰を抱かれて体が密着する。そのうち、どんどん深いキスになって、なんか唾液とか飲まされて、押し返す手がシャツを握るだけになってしまう。
「んっ、ちょ、尾形さ…」
「……ははっ」
「ん、」
「やっと禁煙できそうだ」
口寂しさをごまかす理由がなくなった、とかなんとか、ようやく離してくれた尾形さんが唇を舐めながらそう言った。ひ、ひどい。人の口を煙草代わりにされちゃ困る。そんなに口寂しいのが嫌ならチロルチョコでも食べてたらいいじゃないですか。さすがに怒って、口の中に押し込んでやろうとポケットを探しても、何もない。ああ、しまった。今日の一個、さっちんにさっきあげちゃった…。
「なんだよ。そんな目で見られると興奮するだろ」
「怖っ…」
また唇がくっついた。
さっちんが憎い。いや、そもそも、さっちんを怒らせた白石さんが憎い。いやいや、そもそも、前世からの縁が全部悪かったりするのかも。星の巡り合わせが憎い。
乙女の純情を好き勝手に弄ぶ尾形さんをジト目で睨んだ。尾形さんはずっと楽しそうだ。最初に目が合ったときから、ずっと。目と目で通じ合って、かすかに感じたのは色っぽさじゃなくて警戒心だった。そっか、そうだ。思い出した。尾形さんは100年前から、こうやって私のことを好き勝手に暴いてきたのだ。
「転校しようかな…」
「勝手にしろよ。家なら割れてる」
「ひぇ…」
「もっと近いところに俺が越すのもわけないが、その前に、挨拶に行かんとなぁ」
「えっ」
「…」
「だ、誰にですか」
まさか親…と青ざめる。勘弁してください尾形さん。私の両親は普通の人で、娘が明治時代の記憶を抱えて、未だにその頃の交友を続けてるなんてまったく知りもしないんです。見上げる私の頬を撫でて、尾形さんが眉を寄せた。
「違ぇよ。他にも保護者ぶった奴らが二人、いるだろう」
「…」
「散々独占してきたんだ。恨み言の一つや二つ、言ってやりたいね」
「…」
「あと、多少は労ってやろうかと」
「な、」
「あ?」
「何を言うつもりですか」
杉元さんと白石さんの顔が脳裏に浮かぶ。下手したら、血で血を洗う泥沼戦の再開だ。
暗い教室の中で、尾形さんがニヤリと笑う。
「虫除けご苦労さん」
いいとこ取り。
2020.8.11