短い話
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気が付いたら鼓膜が破れてた。
いや、本当に。
気付いたら鼓膜が破れていたのだ。あるときから左耳がじんじん痛んで、周囲の声が雑踏のざわめきみたいに聞こえ出して、何かがおかしいと思って耳鼻科に行ったら鼓膜が破れていた。へえ、喧嘩もしてないのに。爆音ヘッドフォンで音楽聞いたりしてないのに。なのに鼓膜って破れるんだ。へえ!
勝手なことだけど鼓膜が破れるって結構なおおごとだと思ってた。二度と塞がらないとか、手術がいるとか、職場に重々しく申告しなきゃいけないことだと思ってた。
いらないらしい、治療。薬とか…。手術しなきゃいけない場合もあるらしいけど、私の場合は大丈夫だった。鼓膜って皮膚と同じなんだって。2週間くらいで塞がりますよ、それまではちょっと痛いでしょうけど…なんてお医者さんが言ってた。へえ!“鼓膜が破れる”ってそんなもんなんだ。知らなかった。鼓膜破れた人が周りにいなかったからかな。もっと重症なんだと思ってた。思い込みってやつ。
ねえ、私みたいに思ってた人、結構多いと思うな…。
「す、杉元さんも、そうなんじゃない?」
「………」
ああ、無言の圧がすごいよ。
大きな傷跡を持つ男前にじいぃっと見下ろされて、膝が震えない22歳の女の子って存在するの?100年前の気合い入ってた私ならともかく、今のしがない底辺DTPデザイナーの私じゃ、その視線に太刀打ちできないよ。ゆとり世代だからさ…。
仁王像のごとくそびえ立つ杉元さんを共になだめすかしてくれるキロランケさん、谷垣さん、あなた達のこと一生大切にするって誓うよ。約束する…。前世では色々いじってごめん…。
「まぁまぁ杉元、そんなに怒るなよ。三木ちゃんも酷い怪我じゃないって言っただろ?」
「2週間もすれば治るんだ。そんなに責めるな」
「………責めてねェよ」
「じゃあなんだよ」
何をそんなに怒ってるんだ。
谷垣さんの言葉に首がちぎれるくらい頷きたいのをなんとか我慢した。今そんなことしたら杉元さんの怒りを煽るだけだ。でも、本当に、なんでそんなに怒ってるの?ねえ!
久しぶりに鍋でもしないかって、白石さんから連絡をもらった。前にみんなと会ってから2ヶ月くらい経っていて、そのときは杉元さんの家でアシリパさんのお誕生日会をしたのだった。家が近い杉元さんとアシリパさん、白石さんは頻繁に会って遊んだりしてるみたいだけど、家が遠くて割と激務な私はそんなイベントでもないとみんなと会えない。100年前から何も変わった様子のないみんなと同じで、私も上司によわよわなところは何一つ変わってないみたいだ。チーフ、怖い。
有休ひとつ取るのも難しい私の職場環境をみんなよく知っているから、前のお誕生日会は3ヶ月前に招待を受けた。だから今回の鍋パもだいぶ先の話なんだろうなって、職場のトイレでラインを返しながらそう思ってた。「い、き、ま、す、絵文字…っと。既読はや!」白石さんはプーなので連絡が早い。ものの数秒で返事が来た。かわいいクマが喜んでるスタンプの後に「じゃ、今夜ね!会社まで迎えにいくよン」と続いたので私は仰天してしまった。「今日もテッペンまで残業です!!汗」と慌てて返したけど、白石さんの返事を確認する前にタイムリミットが来た。私が上げた初稿にダメ出しをしに来たチーフの声が聞こえたので、駆けるようにデスクに戻らざるを得なかった。
だから、いつも通り0時超えるまで仕事して、駆け足で会社の自動ドアを抜けた先に杉元さんたちがいたときは「マジだったのか…」と驚いてしまった。慌てて駆け寄った私に、遅いとか待たせるなとか、そうなじるでもなく「マジでこの時間まで仕事してんの…?毎日…?」と全員から若干の引きをいただいたために、もう恐縮するしかない。ゴメンネ、とうなだれる私をヨシヨシしてくれたアシリパさんの鼻先は赤かった。一体どれくらい待っててくれたんだろう。そうまでして開催される鍋パって、一体…。
「材料買ってあるから、行こうぜ。ちなみに今日は尾形ちゃんのマンション開催な」と、私の左側に立ってた白石さんはそう言ったらしい。アシリパさんのりんごほっぺたをムニムニしてた私の左耳にはその声は届かなくて、「え、何?」と右耳に手を添えて、もう一回言ってもらった。そんなことが、キロランケさんのワンボックスに乗り込んで尾形さんのマンションに着くまでに何度かあって、とうとう杉元さんに言われてしまった。
「三木ちゃん、もしかして耳聞こえてねえの?」
ここからは冒頭に至る。
あくまで軽い調子で左耳の鼓膜が破れてることを伝えたのが悪かったのか、杉元さんは私の想像を超える反応を見せた。「…は?」地を這うように低い杉元さんの声に、慌てて現状の怪我の軽微さを伝えたけど、修羅の表情は変わらなかった。
ねえ、ほんとになんでそんなに怒ってるの?
杉元さんは基本的に優しくて気のいいニイちゃんで、こんなに怒られたことなんて今も昔も一度しかなくて。杉元さんが怖いって、まさか再び思うことになるなんて想像もしてなかった。
谷垣さんの問いに答えない杉元さんの肩に、ポンと手が置かれた。さっきまで簡易コンロにガスボンベをセットしていた白石さんが、見かねて来てくれたようだった。
訳知り顔で覗き込む白石さんは、杉元さんの睨みなんてまるで効いてない。そういうとこ尊敬しちゃう。
「杉元よぅ、気持ちは分かるが、三木ちゃん怖がらせるのは違うんじゃねぇ?」
「………」
「三木ちゃんもさ、そんなに怯えないでやってよ。こいつトラウマなんだよ」
「うん…?」
「そうなんだろ?お前、目が見えなくなる幼馴染のこと、思い出しちまったんだろ」
杉元さんが信じられないものを見る目で白石さんを見たので、それがアタリだってことが私達にも理解できた。
杉元さんの幼馴染の梅ちゃんさんのこと、昔々に話に聞いて知ってた。そんな、私の怪我なんて、そんな!比べるのもおこがましいくらいの軽い、軽ーいやつだよ、杉元さん…。
なんと声をかけていいか分からなくなって、みんなが口をつぐんだ中で、杉元さんがポロッと涙をこぼした。もう、仰天である。一粒の涙を皮切りに、とめどなく溢れてくる涙を隠すみたいに、杉元さんはしゃがみこんでしまった。えっ。えっ!?
「や、やだなー!大丈夫だよ杉元さん!ほっといても治っちゃうんです!すり傷みたいなもんだってセンセも言ってたし!」
「破れてんのは左耳だけだってさ!それもこんなちんまーい穴空いてるだけなんだろ?な!?」
「まったく聞こえないわけでもないし、これから良くなるしかない怪我だぞ!泣くな泣くなァ!」
杉元さんを取り囲んで必死に慰める私たちに、尾形さんは冷めた視線を投げて来た。もう鍋の準備はできていた。でもこんな状態で始められるわけないじゃない!?ぐすぐすと泣き続ける杉元さんのおっきな背中をさすりながら、どうしたら分かってもらえるのか、言葉を必死に探した。
「つ、次会うときまでには、完全にくっついてますから…」
「……それって」
杉元さんが俯いていた顔を上げてたので、涙の絡んだ透明な視線が至近距離でぶつかった。なんだか拗ねてるみたいな表情がちょっとかわいいなと思ったけど、今口に出すとこじれそうだからやめておいた。
「少なくとも2週間は俺と会わないってこと?」
「え?」
「そういうことだろ?」
「え、だって、今日だって2ヶ月ぶりだし、次もそれくらいかな…って」
「三木ちゃんは俺と2ヶ月会わなくも平気なんだ…」
「えっ!?なんで更に泣く!?」
「あーあーあー」
「泣ーかせたー」
「今のは三木ちゃんが悪ィよ」
「ええ…!?」
さっきまでの威圧感が嘘のようにべそべそ泣いてる杉元さんと、白石さん達の小学生みたいなブーイングに追い詰められて鼻白む。う、嘘だろ?!私が悪いの?ねえ!ちょっと!
わたわたしながら杉元さんを撫でまくる私の右耳に、救いの音が差し込んだのはその時だ。
カーーーーーン!
「いいから、チタタプするぞ」
「アシリパさぁん!」
ああ、私のエンジェル、マイハニー、尊敬する人第1位、アシリパさん!!フライパンとおたまを両手に装備してもなお気高い少女に、ひっしと縋りつく22歳社会人女、そしてしぶしぶ従う男どもの図。尾形さんは終始冷めた目をしていた。
2ヶ月ぶりのチタタプを経て、ついに鍋パが始まると、みんなお酒が入ったこともあって一気に空気がグダグダになる。それぞれがてんで好きなことを喋っている、この無法地帯が結構好きだ。気の置けない仲間って感じがして…。杉元さんはさすがにもう泣き止んでいたけど、私の右隣に陣取ったまま動こうとしなかった。アルコールであったまった体をかなりくっつけて、耳元で囁くように話しかけてくれるのは杉元さんの優しさなんだろうけど、鼓膜が破れてるのは左耳なんだから、そんなことをしなくても聞こえてるよって実はもう5回くらい言ってる。そのたびにウンウンって頷くけど、結局また顔を近づけて唇を寄せてくるのだ。この、酔っ払いめ、私の話を聞いてないな?杉元さんの熱い息と心地いい低音が耳にかかって何やら変な気持ちを誘うので、6回目の囁きは自分から体を離して回避したけど、よろけて左隣に座ってた尾形さんにぶつかってしまった。私もなんだかんだで結構キテる。ビール、何缶飲んだっけ?分かんないな…。
「…飲みすぎじゃねェのか。明日も仕事だろ」
「尾形さん……ほ、本当だ…!」
そういえば今日は木曜日なのだった。つまり明日は金曜日で、平日で、仕事があるってことじゃんか。うへえ、つらい…。なんだかみんなといると楽しくて浮かれちゃって、まるで休日のような乱痴気騒ぎになっているけど、白石さん以外はみんな仕事があるんだよなぁ…。でもみんなお酒に滅法強いから二日酔いなんてならないだろうし、ピンチなのは私だけだ。どれだけ飲んだか覚えてないけど、覚えてられないほど飲んだってことだ!それって十分明日に差し支える量…いや、もう2時を過ぎてるから今日なんだけど…。
「飲みすぎたぁ〜。うっ、後悔しかない……けど出勤すること考えたら飲まずにはいられないよぉ。ううっ尾形さん、ビールくださいぃ」
「……こぼすなよ」
「んぐ、」
尾形さんがその手に持っていた飲みかけの缶ビールを私の唇にあてがった。戸惑いつつも素直に口を開くと、尾形さんは缶を傾けてビールを流し込んだ。何を考えてるのか分からない猫目は相変わらずだ。飲みこむ量が追っつかなくて口の端からつ…と伝った雫を尾形さんの太い指が拭った。ようやくぜんぶ飲み込んで、ぷは、と息を吐くとニヤリと口端が持ち上がるのが目に入った。
「どうせ毎日毎日無駄に頑張ってんだろうが。明日くらいはテキトーに流して定時で上がってこい。迎えにいってやる」
「え…いいです」
「あ?」
「え?」
「飲め」
「んぐぐ」
残りのビールを一気に流しこまれて喉の奥がヒリヒリした。定時上がりなんてしたのは何ヶ月前だろうか。そんなことできるわけがないのに尾形さんも無茶を言う。
空になった缶をわざとらしくテーブルに置いた尾形さんの耳が少し赤くなっているのに今気がついた。
「尾形さん酔ってるの?」
「どうかな」
「…。そろそろおいとました方がいいですか?」
「は?いい。泊まっていけ。ウチからでもそう変わらんだろう」
確かに尾形さんのマンションから職場までそう離れてるわけじゃない。アルコールがまわった頭で電車の乗り継ぎを計算していると、右からのしっと体重がかけられた。杉元さんのとろけるような甘い声が耳にかかって背筋が震える。杉元さん7回目だよ。
「そうだよぉ。もー今日は皆でクソ尾形の家泊まろ?んで明日の夜に続きやろ?」
「お前は来なくていい」
「は?尾形。は?は?」
「なんだ?おい。おい」
「や〜だ〜頭上で喧嘩するのやめてぇ」
酔っ払いたちの応酬が始まったので、私はもう会話に混ざることを諦めて新しいビールに手を伸ばした。左耳は全く聞こえないわけじゃないけど聞き取りづらいのも本当だ。会話をするために耳を澄ましているのをやめると体の力も抜けていくようだった。二人の大きな体に挟まれて、あったかい空気の中でビールを好き勝手に飲める幸せ…。また24時間後にこの幸せが味わえるなら、久々の定時上がりにチャレンジするのもいいかもしれないなと思った。
テーブルの向こうで酔い潰れていたはずの白石さんと目があった。
相変わらず上手すぎるウインクが飛んできたので、乾杯のジェスチャーで返してあげた。そのときにはもう、この鍋パが誰のために開かれたものなのか見当が付き始めていた。
あおったビールはぬるくなっていた。寝落ちする前に、出しっ放しの缶を冷蔵庫に閉まっておかないといけないな。
明日の幸せな時間のためにもね。
過労を心配してたら斜め上の怪我をこさえていたので心配が止まらない杉元一行。尾形は早く辞めろと思っている。
2019.1.7