短い話
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※ちょっと特殊
「ね、ねえ待って!三木ちゃん待って!待って!?」
「え!? なに!? よく聞こえません!」
「嘘でしょ!? こんなに近くにいるのに!?」
真っ赤になって私を押し返そうとする杉元さんと、そんな杉元さんに馬乗りになる私と、拳ひとつ分くらいの距離で見つめ合いながら、もう長いこと膠着状態が続いていた。ゴリゴリの武闘派である杉元さんと、一介の看護婦である私とでは明らかな力の差があるはずなのに、私を傷つけまいと気を遣ってくれているみたいだった。人に優しくする前に、まず自分の体のことを思いやってくださいよ。
杉元さんの腕に一直線に走る刀傷からは血がだくだくと流れ出ていた。私と両手の指を絡ませながら、押したり押し返されたりするたびに、いきんだ傷口から垂れた血が肘からポタポタと伝い落ちた。乾いた土に染み込んでできた赤黒い円が、さっきよりもずいぶん大きくなっているのを横目で見ながら、この押し問答を始めてから無駄にした時間と血のことを思ってムッと目つきが鋭くなる。
血を失っていいことなんて何もないのに。
「三木!ちゃん!待って!!お願いだから待って!心の準備がぁ!!」
「うるさいな〜くち塞ぎますよ」
「えっそれってまさか……!!」
「んっ」
「んん〜〜〜〜っ♡♡」
いい加減堪忍袋の尾が切れてしまった。このまま失血死がお望みならそれでもいいけど、杉元さんは違うじゃないですか。1日でも早く夕張へ、果ては網走へと行かなきゃいけないんだから、治せる怪我はすぐ治した方がいいに決まってる。杉元さんを押さえつけるつもりで跨った足に力をこめると、分かりやすく肩が跳ねた。そのまま勢いで口付けると、もっと分かりやすく体がこわばった。驚きのせいか半開きになった唇の隙間から舌を差し込むと、つながった手をいっそう強く握られる。
「ん、ん、んむ…」
「あ、三木ちゃ…♡んっ…!」
唾液を絡めた舌同士をこすりあわせるようにすると、抵抗を諦めたせいか、杉元さんの声から次第に力が抜けていった。そのくせ舌を深く絡めるたび、反比例するようにどんどん強くつなぎとめられる両手が、まるで注射を我慢して着物のすそを掴むこどもみたいでなんだかちょっとおかしかった。
シチュエーションとしてはおんなじだけどね。
「……ん、もういいかな」
「あ…」
「しばらく清潔な布で傷口を抑えててくださいね。じきに血が止まって薄皮が張るので、破れないように上から包帯を…」
「……」
「杉元さん? 聞いてます?」
数分経って唇を離すと、いつもと少し様相の違う杉元さんにじっと見つめられた。言外に責められているみたいで罪悪感がわいてきた。う…。そんな目で見ないでください…。治療行為なんですよ、杉元さん。お願いだから恨まないでほしい。決してやましい気持ちがあるわけではないんです。
「あのう…」
「…なに?」
「喉元過ぎれば熱さを忘れるとはいいますが」
「…」
「この程度の傷で…とか思っちゃイヤですよ…。必要なことだったんです」
「…」
「破傷風にでもなったら事ですから…」
私はあくまでナースであって、決して痴女ではないのだった。そりゃ、やり口は褒められたものではないかもだけど、私にできることと言ったらこれしかないのだ。
「傷の痛みはどうですか?」
「……なんともない」
「よかった。効いてきましたね」
「…」
嫌な思いをさせた分効果は保証しますので、どうか犬にでも噛まれたと思って忘れてください。そう言いながら惰性でつなぎとめられたままの手を引き抜いて立ち上がると、杉元さんは深いため息をついた。軍帽からのぞく耳が赤い。まれに副作用で微熱が出る人もいるのだ。体が快方に向かって頑張っている証拠。この調子じゃ、明日の朝には完治しているかもしれないな。
「………忘れられんのか?俺………」
「杉元さん?」
俯いて何事かを呟いた杉元さんが、顔を上げずに片手を振った。先に戻っていてってことだろうか。示されたとおり、離れた場所で夕飯の支度をするアシリパさんと白石さんの元へ戻った私は、そのあと杉元さんが何をしたのか、何も知らない。
「あ、おかえりなさい」
「傷の具合はどうだ? 三木に手当てしてもらったんなら平気だろう」
「うん………」
「ならいい。さぁチタタプするぞ!」
「……」
10分ほどしてから戻ってきた杉元さんを、白石さんが哀れみを含んだ目で見やるのを、不思議だなぁと思いながら黙って見ていた。
「スッキリした?杉元…」
「うん………」
なんだか立ち入れない会話だった。
▽
「その傷塞ぐので、私とちゅーしましょう」
新手の誘い文句かと思った。
「……え、なんて?三木ちゃん、なんて?」
「その傷を、塞ぎたいので、私と、ちゅーしましょう」
「いや聞き取れなかったわけじゃなくてぇ」
律儀にはっきり発音し直す三木ちゃんの両肩を掴みながら、バレないように生唾を飲み込んだ。隣でアシリパさんが一心不乱に馬を捌いている。
小樽でアシリパさんと出会ってから始まった刺青探しの旅に、いつのまにか加わっていた三木ちゃんだった。小樽の外れの小さな診療所に勤めていた三木ちゃんは、金塊に興味はないと最初からきっぱり言いきった。よりたくさん血の流れるところに身を置きたいという理由で素性もしれない俺たちに着いてきたので最初は警戒していたが(そりゃそうだ。そんなこと言う奴は根っからの戦闘狂かナイチンゲールの生まれ変わりくらいしかいない)それでもしばらく付き合ううちに、大体人となりというものが分かってきた。三木ちゃんは結構いいやつだった。怪我の手当てにも当然ながら長けていた。笑うとなんだか癒された。かわいい。囚人の白石と川に落っこちて死にかけの状態から生還したときは半泣きで怒られた。涙目を見てちょっと勃ってしまった。かわいい。自己嫌悪しながら抜いたあの日の夜のことは多分忘れないと思う。スッキリしてから寝床に戻るとすやすや眠っていたので、寝顔を見ながらまた抜いた。俺は頭がおかしいのか。このまま一緒にいるとよくない気がする…。アシリパさんとは別に三木ちゃんを置いていったのにはそういう理由があったんだが、またこうして再会すると、ああやっぱり俺が傍にいないとダメだな、と根拠もなく思った。串刺しにされて穴の空いた頬を見て、三木ちゃんは少し引いたがそんな顔も新鮮でかわいい。
「何をどうしたらそんなことに…」
「俺にもよく分かんない…」
アシリパさんにストゥでやられたコブをさすりながら俯く俺の頬に、三木ちゃんはそっと両手を添えた。少し感心したように息をつく三木ちゃんの視線が傷口に注がれているのをいいことに、俺は遠慮なく三木ちゃんの全身を観察した。かわいい。少し離れていただけなのに、しかも離れていったのは俺の方なのに、手の届く距離にいる三木ちゃんの姿に安堵した。貫かれたのが顔でよかった。まるで口付けをねだるような距離でこの子の顔が見られた。
「これじゃ、お水を飲むのも一苦労ですね」
「ビックリ人間ショーにでも出ようか…」
「冗談言ってる場合ですか?」
「ごめん」
「杉元さん」
「ん?なぁに?」
「その傷塞ぐので、私とちゅーしましょう」
「……。えっ」
一瞬思考が読み取られたかと思った。自分で言うのもなんだが、俺は結構こじらせている……と思う。三木ちゃんのことをかわいいと思うのは男としてのサガだったろうが、最近では、顔を合わせるたびに全部俺のものに出来ないだろうかと思い始めていた。端的に言うとムラムラしていた。
そんな欲にまみれた俺が理性の俺に見せた幻か何かだと思って聞き返すと、更にはっきり言い直されて思わず眉間を指で押さえた。何を言ってるんだろうねこの子は…。
「三木ちゃん?えーと、それ、どういう意味で言ってんの?」
「そ、そのままの意味です!」
「?……??」
「私とちゅーしたら、怪我が治るんです。本当です」
やはり幻か、それとも新手の誘い文句か何かだろうか。男をからかうのはやめなさい、とそう言おうとして肩に置いた手に力をこめると、いやに真剣な目をした三木ちゃんに引き寄せられた。そのまま柔らかいものが唇に押し当たる感触に、俺の全てが止まった。持ってかれた。アシリパさんが馬を捌く音も、虫の鳴き声も風の音も全部消えた。その上三木ちゃんの小さな舌が口の中に入り込んできたもんだから、俺の理性は敗北したに等しい。
「んん…!?」
「…ん、すぎもとさ、かがんで…」
あったかくてやわくてなんだか甘い味のする舌に俺の舌がぎゅっと抱きしめられてしまった。か、絡まってる、三木ちゃんの舌が…!! これは夢か。現実なのか。口の中をぬるぬるに舐めまわされて頭がおかしくなりそうだ。おい、ていうか、なんだよその舌遣いは。誰がこの子に教えた?そいつブッ殺してやる。
「…ん、ぷは」
「…」
「う……、あの、怒らないで…」
「…」
「実際に見た方が早いと思って…」
それくらいの傷なら数時間ほどで、と真顔でこちらを見上げる三木ちゃんの真剣な眼差しを見て、昂りまくった熱を体の内側になんとか隠した。おまじないの一種か何かだろうが、三木ちゃんから口付けられたという事実があれば嘘も本当になりそうだ。
それからしばらくして軍服姿の白石が戻ってきた。奴が調達してきた調味料と俺の味噌を使ってこしらえた桜鍋は香りからすでに絶品で、俺たち全員の食欲を沸き立たせたが、俺はちょっとだけ躊躇した。一足先に馬肉を頬張った白石が、俺の箸が迷ったようにぎこちなく動くのを見て唇を尖らせた。
「なんだよ食わねぇのか? 肉食わねーと、治るもんも治らねぇぞ」
「いや……食べるよ。食べるけど」
「けど?」
「しみそう……」
「ああ〜……」
塩分は傷口によくしみるのだ。しかもアツアツときたら尚更。目の前でむぐむぐと幸せそうに桜鍋を堪能する三木ちゃんとアシリパさんを見ていると余計にお腹がすいてきた。そうしてつかんだ肉を目の前に掲げて覚悟を決める俺に、三木ちゃんが「平気ですよ」なんて言うもんだから、俺はさっきのことを思い出して少し前屈みになった。「そうだそうだ、一気にパクッといっちまえー」などと事の次第を知らない白石がのんきに煽ってくるので、それに便乗したふりをしてまだ湯気の立つ馬肉に噛み付いた。誰も俺の下半身を見るな。
「……ん、あれ?」
「ふふ」
「なんだ?」
「どーしたよ杉元」
「痛くない…」
「は?」
「うふふ」
馬肉を思い切り咀嚼する俺の向かいで三木ちゃんが珍しくドヤ顔をしていた。なんだそれかわいい。レアすぎる。「ちょうど2時間でしたね。あーん」ご機嫌な様子で俺に長ネギを差し出す三木ちゃんに白石がブー垂れた。味噌と和解したアシリパさんは至福の表情で白菜をヒンナヒンナしていた。まるで眼中にない。
「なにそれぇ?杉元ばっかりずるくない?俺にもアーンしてぇ?」
「三木ちゃんこれどうなってんの?」
「言ったじゃないですかぁ。杉元さん、信じてなかったでしょ」
「ねえ聞いて?どっちかは返事して?」
舌で頬の内側をつつくと傷が跡形もなく消えていた。殴られた拍子にできた、切り傷もだ。どこもかしこも、三木ちゃんになめられたところが綺麗に治っていた。すぐに頬を手でなぞると串刺しにされた箇所に跡ができていたから、中から塞がっているということだろうか。
「ほっぺの跡もそのうちちゃんと消えますよ。すごいでしょう。えっへん」
「えっかわい………じゃなくて、三木ちゃん、え?これなに?どうやったの?」
「塞ぎました。ちゅーして」
「んんん…」
それはさっきも聞いた…。三木ちゃんに差し出してもらった長ネギをもぐもぐと咀嚼しながら思わず目の前の小さな唇を見つめてしまう。
本当に現実なのか。本当に、三木ちゃんと口付けすると怪我が治ってしまうのか。夢じゃないのか。そんなことがありえるのか。
だとしたら、俺はとうとうヤバイんじゃないか。
満足そうな顔をしながら俺の怪我を治した三木ちゃん、なんの抵抗もなく俺と深く唇を合わせた三木ちゃん、より怪我人と多く出会える道を行きたいと言っていた三木ちゃん、今まで小樽の診療所で働いていた三木ちゃん、割と、どころかかなりいいやつな三木ちゃん。自己犠牲の気がある三木ちゃん。いや、ちょっと、ちょっと待ってくれないか。
全部がつながって吐きそうだ。
「三木ちゃん、もうその力は…」
使わないでほしい、と言いかけて黙った。まだ俺にも理性は残っていた。三木ちゃんのその清らかな唇を汚してまでこれから傷を負う連中を癒していく道理はないと、そう言おうとしたけど、そうじゃないと分かったからだ。
俺以外には使わないでほしい。
本当に言いたかった言葉はこっちだろう。三木ちゃんの唾液の味を知っている奴が俺以外にもいるかもしれないって考えるだけで身の毛もよだった。当然、正気じゃいられない。
だというのに三木ちゃんはやはりいいやつだったから、俺が深手を負うたびに治してくれた。
俺はそのたびに抵抗してみたりするけど、心の奥底に三木ちゃんとちゅーしたいという下心があるために毎回負けてしまっていた。分かってる。本当はわざと負けている。抵抗するふりなんかして、意地になった三木ちゃんが俺に迫ってくる姿が脳髄とろけそうなほど可愛かったから、口ではいつも拒んでみせた。でも、三木ちゃんの唇が触れて、やわらかいぬかるみにその舌をうずめるたび、いつも後悔するのだ。その先を勝手に想像してしまう俺の下半身の単細胞が、無理やりにでも続きをしろとせがんでくる。
理性がぶっとびそうだ。こんなこと続けてたら、いつか俺はやらかしてしまうんじゃないか。そうなったとき、三木ちゃんは俺をどう思うのだろうか…。
最悪の未来だけは避けたいと思う。
▽
包帯や薬の補充をしたかったので、夕張に着いてから皆とは別行動を取っていた私だった。例の剥製家の屋敷を目印に落ち合おうということで、紙袋を両手いっぱいに抱えてほくほくしながら向かってみるといつのまにか大所帯になっていた。見知った顔もチラホラ…。
「あっ、よかった、戻ったか」
「アシリパさん、これなぁに?どうして牛山さんたちがここに?」
「さあ。炭鉱で会って杉元と白石を助けてもらった。他の連中は知らない」
「ふ〜ん」
「三木が戻ってきてよかった。飯の時間だ!」
「め、めし!」
めしですか。そういえば何やらいい匂いが漂っている。キッチンを覗くといつぞやの美貌の囚人さん…家永さんがお鍋をぐるぐるかき回していたのでお手伝いを申し出た。「あなた、相変わらず良いものを持っていますね」「…」胸元をじっと注視されたので腕で庇いながら後ずさった。そうだったこの人ってこういう人だった。
「私、家永さんのこと、割と興味あります」
「あら? あらあら」
「同じ医療人として…」
「同じでいいのね。変わってるわ」
「うーん…」
どうかな。同物同治の考えを持ったことはないけど、人体が人体を作るプロセスには興味深いものがあった。
杉元さんたちには「口付けで怪我を治す」と説明している私の力は、実際のところ、唾液なんかの体液に宿っているんじゃないかと思う。
今はもういないおばあちゃんが、その昔、天から降りた神の使いだと持て囃された話をしてくれた。眠る前のお話はいつもそれだったのでもう耳タコだ。そらで話せる。「アンタもすぐに涙を流せるようにしとくんだよ。そうしたらきっと食うに困らない」代々遺伝として受け継がれているらしいこの力を一番うまく使いこなしていたおばあちゃんだった。0.2秒で泣けると豪語するおばあちゃんに育てられた私も、わりかし上手いこと立ち回れていた。ちゃんとした医術もちゃんと学んで、この力が世間に露見しにくいようにカモフラージュした。私のお母さんは自己顕示欲が強かったせいで大ポカをやらかしていたので、同じミスはしないように気を払った。
小樽の小さな診療所に勤めてからは単純な医療の腕だけでご飯が食べられた。立ち回れた。うーん。いいっちゃいい。いいんだけど、そもそもこの力を上手く世間に迎合させるために医術を学んだのに、使わないままでいいのだろうか。手段が目的にすり替わっていた。
もっと役に立てる道があるんじゃないか。自己の尊厳を保ったまま、私が上手く立ち回れる範囲内で、この力を最大限に活用する方法がきっとあるはずだ。
だから、杉元さんたちとの出会いは渡りに船だった。願ってもない。血と汗と泥の匂いしかしないような刺青人皮争奪戦において、私の力はきっと誰かの役に立つと思った。
実際、その予感は当たった。
「あの軍人さん…」
「え?」
「いつから一緒に?」
「さあ?私、牛山さまにしか興味ないので」
「あ、はい」
生きていたんですね。
名前も知らない軍人さん。
私がこの旅に出て初めて力を使った男の人。
さすがに砕けた顎までは治らなかったみたいだけど、命が繋がっただけで上出来だと思う。世代を重ねて血が薄まるごとに、力は弱まってきていると聞いた。実際、おばあちゃんと私では治癒能力に雲泥の差があった。
旅が始まってしばらくしたある日、川の岸辺で水を汲んでいたら上から人が降ってきた。バウンド、一回バウンドしましたけど…!人って跳ねるんですね。知らなかった。
崖の上で何やら揉め事が起きていているような気配はあったけど、まさか落っこちてくるとは思わなかった。杉元さんがやったんだろうか。それともこの人が逃げる時に足を滑らせたんだろうか。
上から杉元さんが追ってくる気配はなかったので、岸辺に引っかかった身体を引き上げた。お、おも〜い。意識のない人の体って本当に重い。
別に理由があってこの人を助けようと思ったわけじゃなかったけど、どこかでスタートを切る瞬間を待っていたんだと思う。家族以外で、力を使って人を助けたことがなかった私は、柄にもなく、しなくていい緊張をしていた。
「初めてだったらごめんなさい…」
膝の上に頭を乗せて、意識のない額を撫でた。
こんなに重症の人を診たことがなかったので、加減が分からなかった。それだけでは無許可のディープキスの言い訳としては足りないでしょうか。
たっぷり五分ほど舌を絡めてから、得体の知れない虚無感に襲われた。
これで救えなかったら、やりきれないな。私の唇に価値なんかないからいいけど。大事なのは、唾液に含まれた神秘の力だ。
▽
第七師団の元軍人が何を思って土方の元にいるのか、その理由は知らないし、実際のところどうでもいい。俺には関係のないことだ。
だが、そいつが三木ちゃんを見て箸を取り落としたことは、どうしたって見過ごせない。
「お前………」
「おっ、嬢ちゃん、また会ったな」
「チンポ先生、お久しぶりです」
「三木ちゃんがチンポって言うとさ〜、なんかさ〜」
「白石さん、なんですか?」
「俺のチンポがムズムズする…」
「ああ〜大変ですね〜お薬出しましょうね〜」
「白石キモい」
「んアシリパちゃん冷たぁいッ」
そのまま三木ちゃんが無視してくれたらどんなに良かったか。順繰りに鍋をよそって回る三木ちゃんが、ついに尾形のお椀に手を付けた。信じられない目で三木ちゃんを見上げる尾形の顔を覗き込みながら、首を傾げてにこっと笑う。頭の上に疑問符が見える。絶対分かってない。あー、かわいい。
「何か?」
「お前……」
「?」
「あの時の……」
「…」
三木ちゃんに鍋をよそってもらいながら凝視し続ける尾形の視線を受けて、三木ちゃんが一瞬反応したのを確かに見た。離れた俺からでも分かったんだから、目の前の尾形に分からないはずがなかった。三木ちゃんは何も応えなかったし、尾形も深追いする気はなさそうだ。そのままお椀を受け渡しする2人の様子に気付いたのはきっと俺ひとりだけだ。
三木ちゃん、あいつのことを助けたのか。
俺が片手をへし折って、真冬の北海道の崖下へと転がり落としたあの男を、三木ちゃん、君は助けたのか。
よりにもよって……。いや、誰が相手だって関係ない。たとえそれが白石や、牛山や、土方のジジイだって不愉快な気持ちになったはずだ。
ただ、俺より先に三木ちゃんの唾液の味を知った野郎が存在することに、言葉にできない憤りを感じていた。
▽
「三木ちゃん」
「あ、杉元さん」
一通り食器を洗って片付けたあと、背後に気配を感じて振り向くと杉元さんがいたので私はちょっとだけ驚いた。もしいるとしたらそれはあの軍人さん(尾形さんというらしい。チンポ先生に教えてもらった)だと思っていたから、予想が外れた。
「あのさ…」
「?」
「尾形、のことなんだけど」
「えっ」
えっ。
心が読まれたかと思ってドキリとした。
さっき私を見て顔色を変えた尾形さんは、きっと私のことを覚えているんだと思う。あの驚いたような表情から、尾形さんが私に感謝しているのか、それとも怒っているのか憎んでいるのか、読み取ることはできなかったけど、なんだっていいと思った。私は、私の役目を果たしただけだ。その結果尾形さんが私をどう思おうが知ったこっちゃないのだった。感謝されるなら……それはないか、ないな、瀕死の状態で身動きの取れないところに突然現れた女がベロチューかまして、感謝する人がいたらその人はちょっと変わってる。きっと訳を問われるか、怒られるかするんだろうな。そのときは言えるだけのことを説明して、不快な気分にさせたことを謝るつもりでいた。
でも杉元さんにはバレたくないなと思ってた。
あの時、崖の上で杉元さんが退けた相手を私がこっそり助けたことを知ったら、杉元さんは裏切られたと思うだろうか。一度でも裏切ったやつは何度だって裏切る。杉元さん、前にそう言ってたよね。私の行為は裏切りじゃないよ。ただ私の倫理にのっとっただけだ。だけど、それが杉元さんの目にはどう映るかは、杉元さん自身にしか決められないことだ。
「尾形さんのこと…」
「…」
「知ってたんですか?」
「さっき、あいつの反応見て、なんとなく」
「う…」
尋常じゃない勘の鋭さ。やっぱり杉元さんってただ者じゃない。
「正直、死んだと思った」
「…」
「アシリパさんには殺すなって言われたけど…。俺は殺られる前に殺る方がいい」
「…」
「あの高さだったし、腕も折った。相当重傷だったんじゃない?」
「うん…」
「三木ちゃん、キス以上のことをあいつにしたの」
「………。え?」
いつのまにか目の前まで迫ってきていた杉元さんが、私を閉じ込めるみたいに壁に両手をついた。見上げる先にある杉元さんの表情が怒ってるように見えたけど、なんだろう、問われている言葉の意味がよく分からない…。
「それってどういう…?」
「…唾液だけで、あの怪我、治るとは思えないんだけど」
「えっ」
えっ。
またもや、心が読まれたかと思ってドキリとした。杉元さん、気付いていたんですか。何という勘の鋭さ…。ただ者じゃないどころか、尋常じゃない。
「な、なぜそれを」
「三木ちゃん、怪我の大小で舌の絡め方違うから。そりゃ気付くよ。唾液の量を調整してたんだろ?」
「あう…」
本当に?そんなことで気付けるものでしょうか。私だっておばあちゃんに言われるまで、唇を合わせるだけでどんな怪我も治してしまう、ロマンチックな魔法のようなものだと思っていたのに。実際はスーパー遺伝子情報による超回復なのだ。ゴリゴリの科学と物理。体液の量や、含まれている情報量で回復力は変わってくる。
えっ。ということは。それに気付いたということは、杉元さん、まさかその先のことを疑っているんですか。
「あいつとまぐわったのか」
なんていう言葉を使うんでしょう。杉元さん、本気でキレている。
「し、してない。まぐわってません…!」
「本当に?」
「ほんとです!キス以上のことしたことないし…」
「…本当?」
「ほんと、ほんと!…キスで、助からないようなら、それも仕方ないと思ったんです」
実際、あのあと私は尾形さんのことを放置した。一人で下山できるまでに回復するならそれでいいと思ったし、もし足りなくて、あのまま死んでしまうのなら、それはあの人の運命だと思った。それ以上のことをしようとすると、きっと私は上手く立ち回れなくなってしまう。それは私が決めた範囲外のことだ。
「……」
「あ、あのですねぇ、私、別に痴女でもなんでもないんですよ」
「…うん」
「ただ人助けのためにやってるだけで…。どうしても助けようと思ったら…その…やらないことはないかもしれないけど…」
「は?」
「ひぇっ」
一気に室温が下がった。こ、こわい…!
「さすがにお互いの同意がなきゃできないですよ、そんなの…!」
「それって何?あいつが許せば、尾形とも寝れるってこと?」
「言い方ぁ…」
そんな仮定の話をされたって分からないよ。尾形さんが瀕死の状態で、生きたい助けてくれって懇願されて、そのためなら何でもするって言質を取れたなら、私、するのかな…。私、そこまでできるのかな。私の純潔にはどこまでの価値があるんだろう。考えたこともなかった。
「…仮に」
「え?」
「仮に、俺が今にも死にそうな状態だったとして」
「杉元さんが?」
「三木ちゃんのことを求めたとしたら」
「…」
「三木ちゃんはそれに応えてくれるの」
「…」
「…」
「…」
「…」
「……杉元さんなら」
「…」
「すると思います……」
「えっ」
杉元さんは不死身だからそんなことにはならないと思いますけど…。
戸惑いながらそう付け加える私を見開いた目で見下ろしていた杉元さんが、やがてぎゅっと抱きついてきた。厚い胸板に押し付けられて少々息苦しいけど、なんだか悪い気はしない。質のいい筋肉というのは柔らかいそうな。なるほど、確かにそうみたい。
杉元さんはこの先、必ず必要になる人だ。万が一にも死んじゃいけない人だ。今まで旅を続けてきて、それがよく分かる。アシリパさんには彼が必要だし、杉元さんにもアシリパさんが必要なのだ。彼らが行き着くべきところに辿り着くためなら、そのためなら私は、なんだってできる気がする。
「俺、なんか、泣きそう……」
「えっ?なんで!?」
「分かんない…感情がぐちゃぐちゃで…胸が苦しい…」
「えっなんでだろう…よく分かんないけど、よしよし」
「うう〜…!」
「あわわわわ」
なんだか泣きだしてしまいそうな勢いの杉元さんに、慌てて背中をさすったけど逆効果だった。杉元さんの情緒がおかしい。なんだろな、突飛な話をしすぎちゃったかな。
「ちなみにさ…」
「はい?」
「どの程度の怪我だったら…」
「…」
「その…」
「…」
「俺とやろうと思う…?」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…分かんないですけど…」
「…」
「脳みそ欠けたらとかじゃないですか…」
「脳みそ…」
いや分かんないよ。
冗談でもやめてね。
フラグが立った…。
2019.8.3
「ね、ねえ待って!三木ちゃん待って!待って!?」
「え!? なに!? よく聞こえません!」
「嘘でしょ!? こんなに近くにいるのに!?」
真っ赤になって私を押し返そうとする杉元さんと、そんな杉元さんに馬乗りになる私と、拳ひとつ分くらいの距離で見つめ合いながら、もう長いこと膠着状態が続いていた。ゴリゴリの武闘派である杉元さんと、一介の看護婦である私とでは明らかな力の差があるはずなのに、私を傷つけまいと気を遣ってくれているみたいだった。人に優しくする前に、まず自分の体のことを思いやってくださいよ。
杉元さんの腕に一直線に走る刀傷からは血がだくだくと流れ出ていた。私と両手の指を絡ませながら、押したり押し返されたりするたびに、いきんだ傷口から垂れた血が肘からポタポタと伝い落ちた。乾いた土に染み込んでできた赤黒い円が、さっきよりもずいぶん大きくなっているのを横目で見ながら、この押し問答を始めてから無駄にした時間と血のことを思ってムッと目つきが鋭くなる。
血を失っていいことなんて何もないのに。
「三木!ちゃん!待って!!お願いだから待って!心の準備がぁ!!」
「うるさいな〜くち塞ぎますよ」
「えっそれってまさか……!!」
「んっ」
「んん〜〜〜〜っ♡♡」
いい加減堪忍袋の尾が切れてしまった。このまま失血死がお望みならそれでもいいけど、杉元さんは違うじゃないですか。1日でも早く夕張へ、果ては網走へと行かなきゃいけないんだから、治せる怪我はすぐ治した方がいいに決まってる。杉元さんを押さえつけるつもりで跨った足に力をこめると、分かりやすく肩が跳ねた。そのまま勢いで口付けると、もっと分かりやすく体がこわばった。驚きのせいか半開きになった唇の隙間から舌を差し込むと、つながった手をいっそう強く握られる。
「ん、ん、んむ…」
「あ、三木ちゃ…♡んっ…!」
唾液を絡めた舌同士をこすりあわせるようにすると、抵抗を諦めたせいか、杉元さんの声から次第に力が抜けていった。そのくせ舌を深く絡めるたび、反比例するようにどんどん強くつなぎとめられる両手が、まるで注射を我慢して着物のすそを掴むこどもみたいでなんだかちょっとおかしかった。
シチュエーションとしてはおんなじだけどね。
「……ん、もういいかな」
「あ…」
「しばらく清潔な布で傷口を抑えててくださいね。じきに血が止まって薄皮が張るので、破れないように上から包帯を…」
「……」
「杉元さん? 聞いてます?」
数分経って唇を離すと、いつもと少し様相の違う杉元さんにじっと見つめられた。言外に責められているみたいで罪悪感がわいてきた。う…。そんな目で見ないでください…。治療行為なんですよ、杉元さん。お願いだから恨まないでほしい。決してやましい気持ちがあるわけではないんです。
「あのう…」
「…なに?」
「喉元過ぎれば熱さを忘れるとはいいますが」
「…」
「この程度の傷で…とか思っちゃイヤですよ…。必要なことだったんです」
「…」
「破傷風にでもなったら事ですから…」
私はあくまでナースであって、決して痴女ではないのだった。そりゃ、やり口は褒められたものではないかもだけど、私にできることと言ったらこれしかないのだ。
「傷の痛みはどうですか?」
「……なんともない」
「よかった。効いてきましたね」
「…」
嫌な思いをさせた分効果は保証しますので、どうか犬にでも噛まれたと思って忘れてください。そう言いながら惰性でつなぎとめられたままの手を引き抜いて立ち上がると、杉元さんは深いため息をついた。軍帽からのぞく耳が赤い。まれに副作用で微熱が出る人もいるのだ。体が快方に向かって頑張っている証拠。この調子じゃ、明日の朝には完治しているかもしれないな。
「………忘れられんのか?俺………」
「杉元さん?」
俯いて何事かを呟いた杉元さんが、顔を上げずに片手を振った。先に戻っていてってことだろうか。示されたとおり、離れた場所で夕飯の支度をするアシリパさんと白石さんの元へ戻った私は、そのあと杉元さんが何をしたのか、何も知らない。
「あ、おかえりなさい」
「傷の具合はどうだ? 三木に手当てしてもらったんなら平気だろう」
「うん………」
「ならいい。さぁチタタプするぞ!」
「……」
10分ほどしてから戻ってきた杉元さんを、白石さんが哀れみを含んだ目で見やるのを、不思議だなぁと思いながら黙って見ていた。
「スッキリした?杉元…」
「うん………」
なんだか立ち入れない会話だった。
▽
「その傷塞ぐので、私とちゅーしましょう」
新手の誘い文句かと思った。
「……え、なんて?三木ちゃん、なんて?」
「その傷を、塞ぎたいので、私と、ちゅーしましょう」
「いや聞き取れなかったわけじゃなくてぇ」
律儀にはっきり発音し直す三木ちゃんの両肩を掴みながら、バレないように生唾を飲み込んだ。隣でアシリパさんが一心不乱に馬を捌いている。
小樽でアシリパさんと出会ってから始まった刺青探しの旅に、いつのまにか加わっていた三木ちゃんだった。小樽の外れの小さな診療所に勤めていた三木ちゃんは、金塊に興味はないと最初からきっぱり言いきった。よりたくさん血の流れるところに身を置きたいという理由で素性もしれない俺たちに着いてきたので最初は警戒していたが(そりゃそうだ。そんなこと言う奴は根っからの戦闘狂かナイチンゲールの生まれ変わりくらいしかいない)それでもしばらく付き合ううちに、大体人となりというものが分かってきた。三木ちゃんは結構いいやつだった。怪我の手当てにも当然ながら長けていた。笑うとなんだか癒された。かわいい。囚人の白石と川に落っこちて死にかけの状態から生還したときは半泣きで怒られた。涙目を見てちょっと勃ってしまった。かわいい。自己嫌悪しながら抜いたあの日の夜のことは多分忘れないと思う。スッキリしてから寝床に戻るとすやすや眠っていたので、寝顔を見ながらまた抜いた。俺は頭がおかしいのか。このまま一緒にいるとよくない気がする…。アシリパさんとは別に三木ちゃんを置いていったのにはそういう理由があったんだが、またこうして再会すると、ああやっぱり俺が傍にいないとダメだな、と根拠もなく思った。串刺しにされて穴の空いた頬を見て、三木ちゃんは少し引いたがそんな顔も新鮮でかわいい。
「何をどうしたらそんなことに…」
「俺にもよく分かんない…」
アシリパさんにストゥでやられたコブをさすりながら俯く俺の頬に、三木ちゃんはそっと両手を添えた。少し感心したように息をつく三木ちゃんの視線が傷口に注がれているのをいいことに、俺は遠慮なく三木ちゃんの全身を観察した。かわいい。少し離れていただけなのに、しかも離れていったのは俺の方なのに、手の届く距離にいる三木ちゃんの姿に安堵した。貫かれたのが顔でよかった。まるで口付けをねだるような距離でこの子の顔が見られた。
「これじゃ、お水を飲むのも一苦労ですね」
「ビックリ人間ショーにでも出ようか…」
「冗談言ってる場合ですか?」
「ごめん」
「杉元さん」
「ん?なぁに?」
「その傷塞ぐので、私とちゅーしましょう」
「……。えっ」
一瞬思考が読み取られたかと思った。自分で言うのもなんだが、俺は結構こじらせている……と思う。三木ちゃんのことをかわいいと思うのは男としてのサガだったろうが、最近では、顔を合わせるたびに全部俺のものに出来ないだろうかと思い始めていた。端的に言うとムラムラしていた。
そんな欲にまみれた俺が理性の俺に見せた幻か何かだと思って聞き返すと、更にはっきり言い直されて思わず眉間を指で押さえた。何を言ってるんだろうねこの子は…。
「三木ちゃん?えーと、それ、どういう意味で言ってんの?」
「そ、そのままの意味です!」
「?……??」
「私とちゅーしたら、怪我が治るんです。本当です」
やはり幻か、それとも新手の誘い文句か何かだろうか。男をからかうのはやめなさい、とそう言おうとして肩に置いた手に力をこめると、いやに真剣な目をした三木ちゃんに引き寄せられた。そのまま柔らかいものが唇に押し当たる感触に、俺の全てが止まった。持ってかれた。アシリパさんが馬を捌く音も、虫の鳴き声も風の音も全部消えた。その上三木ちゃんの小さな舌が口の中に入り込んできたもんだから、俺の理性は敗北したに等しい。
「んん…!?」
「…ん、すぎもとさ、かがんで…」
あったかくてやわくてなんだか甘い味のする舌に俺の舌がぎゅっと抱きしめられてしまった。か、絡まってる、三木ちゃんの舌が…!! これは夢か。現実なのか。口の中をぬるぬるに舐めまわされて頭がおかしくなりそうだ。おい、ていうか、なんだよその舌遣いは。誰がこの子に教えた?そいつブッ殺してやる。
「…ん、ぷは」
「…」
「う……、あの、怒らないで…」
「…」
「実際に見た方が早いと思って…」
それくらいの傷なら数時間ほどで、と真顔でこちらを見上げる三木ちゃんの真剣な眼差しを見て、昂りまくった熱を体の内側になんとか隠した。おまじないの一種か何かだろうが、三木ちゃんから口付けられたという事実があれば嘘も本当になりそうだ。
それからしばらくして軍服姿の白石が戻ってきた。奴が調達してきた調味料と俺の味噌を使ってこしらえた桜鍋は香りからすでに絶品で、俺たち全員の食欲を沸き立たせたが、俺はちょっとだけ躊躇した。一足先に馬肉を頬張った白石が、俺の箸が迷ったようにぎこちなく動くのを見て唇を尖らせた。
「なんだよ食わねぇのか? 肉食わねーと、治るもんも治らねぇぞ」
「いや……食べるよ。食べるけど」
「けど?」
「しみそう……」
「ああ〜……」
塩分は傷口によくしみるのだ。しかもアツアツときたら尚更。目の前でむぐむぐと幸せそうに桜鍋を堪能する三木ちゃんとアシリパさんを見ていると余計にお腹がすいてきた。そうしてつかんだ肉を目の前に掲げて覚悟を決める俺に、三木ちゃんが「平気ですよ」なんて言うもんだから、俺はさっきのことを思い出して少し前屈みになった。「そうだそうだ、一気にパクッといっちまえー」などと事の次第を知らない白石がのんきに煽ってくるので、それに便乗したふりをしてまだ湯気の立つ馬肉に噛み付いた。誰も俺の下半身を見るな。
「……ん、あれ?」
「ふふ」
「なんだ?」
「どーしたよ杉元」
「痛くない…」
「は?」
「うふふ」
馬肉を思い切り咀嚼する俺の向かいで三木ちゃんが珍しくドヤ顔をしていた。なんだそれかわいい。レアすぎる。「ちょうど2時間でしたね。あーん」ご機嫌な様子で俺に長ネギを差し出す三木ちゃんに白石がブー垂れた。味噌と和解したアシリパさんは至福の表情で白菜をヒンナヒンナしていた。まるで眼中にない。
「なにそれぇ?杉元ばっかりずるくない?俺にもアーンしてぇ?」
「三木ちゃんこれどうなってんの?」
「言ったじゃないですかぁ。杉元さん、信じてなかったでしょ」
「ねえ聞いて?どっちかは返事して?」
舌で頬の内側をつつくと傷が跡形もなく消えていた。殴られた拍子にできた、切り傷もだ。どこもかしこも、三木ちゃんになめられたところが綺麗に治っていた。すぐに頬を手でなぞると串刺しにされた箇所に跡ができていたから、中から塞がっているということだろうか。
「ほっぺの跡もそのうちちゃんと消えますよ。すごいでしょう。えっへん」
「えっかわい………じゃなくて、三木ちゃん、え?これなに?どうやったの?」
「塞ぎました。ちゅーして」
「んんん…」
それはさっきも聞いた…。三木ちゃんに差し出してもらった長ネギをもぐもぐと咀嚼しながら思わず目の前の小さな唇を見つめてしまう。
本当に現実なのか。本当に、三木ちゃんと口付けすると怪我が治ってしまうのか。夢じゃないのか。そんなことがありえるのか。
だとしたら、俺はとうとうヤバイんじゃないか。
満足そうな顔をしながら俺の怪我を治した三木ちゃん、なんの抵抗もなく俺と深く唇を合わせた三木ちゃん、より怪我人と多く出会える道を行きたいと言っていた三木ちゃん、今まで小樽の診療所で働いていた三木ちゃん、割と、どころかかなりいいやつな三木ちゃん。自己犠牲の気がある三木ちゃん。いや、ちょっと、ちょっと待ってくれないか。
全部がつながって吐きそうだ。
「三木ちゃん、もうその力は…」
使わないでほしい、と言いかけて黙った。まだ俺にも理性は残っていた。三木ちゃんのその清らかな唇を汚してまでこれから傷を負う連中を癒していく道理はないと、そう言おうとしたけど、そうじゃないと分かったからだ。
俺以外には使わないでほしい。
本当に言いたかった言葉はこっちだろう。三木ちゃんの唾液の味を知っている奴が俺以外にもいるかもしれないって考えるだけで身の毛もよだった。当然、正気じゃいられない。
だというのに三木ちゃんはやはりいいやつだったから、俺が深手を負うたびに治してくれた。
俺はそのたびに抵抗してみたりするけど、心の奥底に三木ちゃんとちゅーしたいという下心があるために毎回負けてしまっていた。分かってる。本当はわざと負けている。抵抗するふりなんかして、意地になった三木ちゃんが俺に迫ってくる姿が脳髄とろけそうなほど可愛かったから、口ではいつも拒んでみせた。でも、三木ちゃんの唇が触れて、やわらかいぬかるみにその舌をうずめるたび、いつも後悔するのだ。その先を勝手に想像してしまう俺の下半身の単細胞が、無理やりにでも続きをしろとせがんでくる。
理性がぶっとびそうだ。こんなこと続けてたら、いつか俺はやらかしてしまうんじゃないか。そうなったとき、三木ちゃんは俺をどう思うのだろうか…。
最悪の未来だけは避けたいと思う。
▽
包帯や薬の補充をしたかったので、夕張に着いてから皆とは別行動を取っていた私だった。例の剥製家の屋敷を目印に落ち合おうということで、紙袋を両手いっぱいに抱えてほくほくしながら向かってみるといつのまにか大所帯になっていた。見知った顔もチラホラ…。
「あっ、よかった、戻ったか」
「アシリパさん、これなぁに?どうして牛山さんたちがここに?」
「さあ。炭鉱で会って杉元と白石を助けてもらった。他の連中は知らない」
「ふ〜ん」
「三木が戻ってきてよかった。飯の時間だ!」
「め、めし!」
めしですか。そういえば何やらいい匂いが漂っている。キッチンを覗くといつぞやの美貌の囚人さん…家永さんがお鍋をぐるぐるかき回していたのでお手伝いを申し出た。「あなた、相変わらず良いものを持っていますね」「…」胸元をじっと注視されたので腕で庇いながら後ずさった。そうだったこの人ってこういう人だった。
「私、家永さんのこと、割と興味あります」
「あら? あらあら」
「同じ医療人として…」
「同じでいいのね。変わってるわ」
「うーん…」
どうかな。同物同治の考えを持ったことはないけど、人体が人体を作るプロセスには興味深いものがあった。
杉元さんたちには「口付けで怪我を治す」と説明している私の力は、実際のところ、唾液なんかの体液に宿っているんじゃないかと思う。
今はもういないおばあちゃんが、その昔、天から降りた神の使いだと持て囃された話をしてくれた。眠る前のお話はいつもそれだったのでもう耳タコだ。そらで話せる。「アンタもすぐに涙を流せるようにしとくんだよ。そうしたらきっと食うに困らない」代々遺伝として受け継がれているらしいこの力を一番うまく使いこなしていたおばあちゃんだった。0.2秒で泣けると豪語するおばあちゃんに育てられた私も、わりかし上手いこと立ち回れていた。ちゃんとした医術もちゃんと学んで、この力が世間に露見しにくいようにカモフラージュした。私のお母さんは自己顕示欲が強かったせいで大ポカをやらかしていたので、同じミスはしないように気を払った。
小樽の小さな診療所に勤めてからは単純な医療の腕だけでご飯が食べられた。立ち回れた。うーん。いいっちゃいい。いいんだけど、そもそもこの力を上手く世間に迎合させるために医術を学んだのに、使わないままでいいのだろうか。手段が目的にすり替わっていた。
もっと役に立てる道があるんじゃないか。自己の尊厳を保ったまま、私が上手く立ち回れる範囲内で、この力を最大限に活用する方法がきっとあるはずだ。
だから、杉元さんたちとの出会いは渡りに船だった。願ってもない。血と汗と泥の匂いしかしないような刺青人皮争奪戦において、私の力はきっと誰かの役に立つと思った。
実際、その予感は当たった。
「あの軍人さん…」
「え?」
「いつから一緒に?」
「さあ?私、牛山さまにしか興味ないので」
「あ、はい」
生きていたんですね。
名前も知らない軍人さん。
私がこの旅に出て初めて力を使った男の人。
さすがに砕けた顎までは治らなかったみたいだけど、命が繋がっただけで上出来だと思う。世代を重ねて血が薄まるごとに、力は弱まってきていると聞いた。実際、おばあちゃんと私では治癒能力に雲泥の差があった。
旅が始まってしばらくしたある日、川の岸辺で水を汲んでいたら上から人が降ってきた。バウンド、一回バウンドしましたけど…!人って跳ねるんですね。知らなかった。
崖の上で何やら揉め事が起きていているような気配はあったけど、まさか落っこちてくるとは思わなかった。杉元さんがやったんだろうか。それともこの人が逃げる時に足を滑らせたんだろうか。
上から杉元さんが追ってくる気配はなかったので、岸辺に引っかかった身体を引き上げた。お、おも〜い。意識のない人の体って本当に重い。
別に理由があってこの人を助けようと思ったわけじゃなかったけど、どこかでスタートを切る瞬間を待っていたんだと思う。家族以外で、力を使って人を助けたことがなかった私は、柄にもなく、しなくていい緊張をしていた。
「初めてだったらごめんなさい…」
膝の上に頭を乗せて、意識のない額を撫でた。
こんなに重症の人を診たことがなかったので、加減が分からなかった。それだけでは無許可のディープキスの言い訳としては足りないでしょうか。
たっぷり五分ほど舌を絡めてから、得体の知れない虚無感に襲われた。
これで救えなかったら、やりきれないな。私の唇に価値なんかないからいいけど。大事なのは、唾液に含まれた神秘の力だ。
▽
第七師団の元軍人が何を思って土方の元にいるのか、その理由は知らないし、実際のところどうでもいい。俺には関係のないことだ。
だが、そいつが三木ちゃんを見て箸を取り落としたことは、どうしたって見過ごせない。
「お前………」
「おっ、嬢ちゃん、また会ったな」
「チンポ先生、お久しぶりです」
「三木ちゃんがチンポって言うとさ〜、なんかさ〜」
「白石さん、なんですか?」
「俺のチンポがムズムズする…」
「ああ〜大変ですね〜お薬出しましょうね〜」
「白石キモい」
「んアシリパちゃん冷たぁいッ」
そのまま三木ちゃんが無視してくれたらどんなに良かったか。順繰りに鍋をよそって回る三木ちゃんが、ついに尾形のお椀に手を付けた。信じられない目で三木ちゃんを見上げる尾形の顔を覗き込みながら、首を傾げてにこっと笑う。頭の上に疑問符が見える。絶対分かってない。あー、かわいい。
「何か?」
「お前……」
「?」
「あの時の……」
「…」
三木ちゃんに鍋をよそってもらいながら凝視し続ける尾形の視線を受けて、三木ちゃんが一瞬反応したのを確かに見た。離れた俺からでも分かったんだから、目の前の尾形に分からないはずがなかった。三木ちゃんは何も応えなかったし、尾形も深追いする気はなさそうだ。そのままお椀を受け渡しする2人の様子に気付いたのはきっと俺ひとりだけだ。
三木ちゃん、あいつのことを助けたのか。
俺が片手をへし折って、真冬の北海道の崖下へと転がり落としたあの男を、三木ちゃん、君は助けたのか。
よりにもよって……。いや、誰が相手だって関係ない。たとえそれが白石や、牛山や、土方のジジイだって不愉快な気持ちになったはずだ。
ただ、俺より先に三木ちゃんの唾液の味を知った野郎が存在することに、言葉にできない憤りを感じていた。
▽
「三木ちゃん」
「あ、杉元さん」
一通り食器を洗って片付けたあと、背後に気配を感じて振り向くと杉元さんがいたので私はちょっとだけ驚いた。もしいるとしたらそれはあの軍人さん(尾形さんというらしい。チンポ先生に教えてもらった)だと思っていたから、予想が外れた。
「あのさ…」
「?」
「尾形、のことなんだけど」
「えっ」
えっ。
心が読まれたかと思ってドキリとした。
さっき私を見て顔色を変えた尾形さんは、きっと私のことを覚えているんだと思う。あの驚いたような表情から、尾形さんが私に感謝しているのか、それとも怒っているのか憎んでいるのか、読み取ることはできなかったけど、なんだっていいと思った。私は、私の役目を果たしただけだ。その結果尾形さんが私をどう思おうが知ったこっちゃないのだった。感謝されるなら……それはないか、ないな、瀕死の状態で身動きの取れないところに突然現れた女がベロチューかまして、感謝する人がいたらその人はちょっと変わってる。きっと訳を問われるか、怒られるかするんだろうな。そのときは言えるだけのことを説明して、不快な気分にさせたことを謝るつもりでいた。
でも杉元さんにはバレたくないなと思ってた。
あの時、崖の上で杉元さんが退けた相手を私がこっそり助けたことを知ったら、杉元さんは裏切られたと思うだろうか。一度でも裏切ったやつは何度だって裏切る。杉元さん、前にそう言ってたよね。私の行為は裏切りじゃないよ。ただ私の倫理にのっとっただけだ。だけど、それが杉元さんの目にはどう映るかは、杉元さん自身にしか決められないことだ。
「尾形さんのこと…」
「…」
「知ってたんですか?」
「さっき、あいつの反応見て、なんとなく」
「う…」
尋常じゃない勘の鋭さ。やっぱり杉元さんってただ者じゃない。
「正直、死んだと思った」
「…」
「アシリパさんには殺すなって言われたけど…。俺は殺られる前に殺る方がいい」
「…」
「あの高さだったし、腕も折った。相当重傷だったんじゃない?」
「うん…」
「三木ちゃん、キス以上のことをあいつにしたの」
「………。え?」
いつのまにか目の前まで迫ってきていた杉元さんが、私を閉じ込めるみたいに壁に両手をついた。見上げる先にある杉元さんの表情が怒ってるように見えたけど、なんだろう、問われている言葉の意味がよく分からない…。
「それってどういう…?」
「…唾液だけで、あの怪我、治るとは思えないんだけど」
「えっ」
えっ。
またもや、心が読まれたかと思ってドキリとした。杉元さん、気付いていたんですか。何という勘の鋭さ…。ただ者じゃないどころか、尋常じゃない。
「な、なぜそれを」
「三木ちゃん、怪我の大小で舌の絡め方違うから。そりゃ気付くよ。唾液の量を調整してたんだろ?」
「あう…」
本当に?そんなことで気付けるものでしょうか。私だっておばあちゃんに言われるまで、唇を合わせるだけでどんな怪我も治してしまう、ロマンチックな魔法のようなものだと思っていたのに。実際はスーパー遺伝子情報による超回復なのだ。ゴリゴリの科学と物理。体液の量や、含まれている情報量で回復力は変わってくる。
えっ。ということは。それに気付いたということは、杉元さん、まさかその先のことを疑っているんですか。
「あいつとまぐわったのか」
なんていう言葉を使うんでしょう。杉元さん、本気でキレている。
「し、してない。まぐわってません…!」
「本当に?」
「ほんとです!キス以上のことしたことないし…」
「…本当?」
「ほんと、ほんと!…キスで、助からないようなら、それも仕方ないと思ったんです」
実際、あのあと私は尾形さんのことを放置した。一人で下山できるまでに回復するならそれでいいと思ったし、もし足りなくて、あのまま死んでしまうのなら、それはあの人の運命だと思った。それ以上のことをしようとすると、きっと私は上手く立ち回れなくなってしまう。それは私が決めた範囲外のことだ。
「……」
「あ、あのですねぇ、私、別に痴女でもなんでもないんですよ」
「…うん」
「ただ人助けのためにやってるだけで…。どうしても助けようと思ったら…その…やらないことはないかもしれないけど…」
「は?」
「ひぇっ」
一気に室温が下がった。こ、こわい…!
「さすがにお互いの同意がなきゃできないですよ、そんなの…!」
「それって何?あいつが許せば、尾形とも寝れるってこと?」
「言い方ぁ…」
そんな仮定の話をされたって分からないよ。尾形さんが瀕死の状態で、生きたい助けてくれって懇願されて、そのためなら何でもするって言質を取れたなら、私、するのかな…。私、そこまでできるのかな。私の純潔にはどこまでの価値があるんだろう。考えたこともなかった。
「…仮に」
「え?」
「仮に、俺が今にも死にそうな状態だったとして」
「杉元さんが?」
「三木ちゃんのことを求めたとしたら」
「…」
「三木ちゃんはそれに応えてくれるの」
「…」
「…」
「…」
「…」
「……杉元さんなら」
「…」
「すると思います……」
「えっ」
杉元さんは不死身だからそんなことにはならないと思いますけど…。
戸惑いながらそう付け加える私を見開いた目で見下ろしていた杉元さんが、やがてぎゅっと抱きついてきた。厚い胸板に押し付けられて少々息苦しいけど、なんだか悪い気はしない。質のいい筋肉というのは柔らかいそうな。なるほど、確かにそうみたい。
杉元さんはこの先、必ず必要になる人だ。万が一にも死んじゃいけない人だ。今まで旅を続けてきて、それがよく分かる。アシリパさんには彼が必要だし、杉元さんにもアシリパさんが必要なのだ。彼らが行き着くべきところに辿り着くためなら、そのためなら私は、なんだってできる気がする。
「俺、なんか、泣きそう……」
「えっ?なんで!?」
「分かんない…感情がぐちゃぐちゃで…胸が苦しい…」
「えっなんでだろう…よく分かんないけど、よしよし」
「うう〜…!」
「あわわわわ」
なんだか泣きだしてしまいそうな勢いの杉元さんに、慌てて背中をさすったけど逆効果だった。杉元さんの情緒がおかしい。なんだろな、突飛な話をしすぎちゃったかな。
「ちなみにさ…」
「はい?」
「どの程度の怪我だったら…」
「…」
「その…」
「…」
「俺とやろうと思う…?」
「…」
「…」
「…」
「…」
「…分かんないですけど…」
「…」
「脳みそ欠けたらとかじゃないですか…」
「脳みそ…」
いや分かんないよ。
冗談でもやめてね。
フラグが立った…。
2019.8.3