短い話
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※R15
その瞬間、雷に打たれて死んでしまったかと思った。
不死身であることがウリだったのに。
「ゲッ、佐一くんだ」
しかし現実に俺は死んでいなかったし、雷にも打たれていなかった。
そもそもその日は雲ひとつない晴天で、雷雨なんか見る影もないくらい陽気な空だった。間違いない。隣を歩くアシリパさんとつい30秒前に「今日は気持ちのいい天気だね」「狩りがはかどるな!」とかなんとか、そんな会話をしたばかりだった。
雷と錯覚するほどの衝撃。
実際、心臓が止まるほど驚いた。
小樽の街は人が多く、昼間などは特に活気付いて華やいでいる。アシリパさんと連れ立って刺青の情報を集めている最中、不特定多数とすれ違いながら、なんのけなしに路地を曲がったところで思いもよらぬ再会を果たした。それがあんまりにも唐突すぎて、俺は思わず立ちすくんでしまった。
三木が、いた。
前触れもない衝撃が俺の全身を貫いて、それがまるで電流でも流したみたいに隅々の神経を焼き尽くしていったから、(あれっ雷なんて鳴ってたかな?)なんてくだらないことを一瞬考えてしまったのだ。そんなしょうもない思考に0.5秒も使ってしまった。バカじゃないのか俺は。考えるより先にやることがあるだろ?
三木だ。
目の前に三木がいるんだぞ。
「お前…!!」
「うわっ、やだっ」
「はあっ!? 逃げんな!!」
呆然とする俺とは反対に、目が合った瞬間、露骨に「マズった」という顔をした三木はあろうことか俺から逃げようと身を翻した。なんッだそれふざけんな!! 俺と鉢会うまで呑気にくわえていたたい焼きもその包みもほっぽり出して、人の波を縫いながら逃げる背中を当然追いかけた。
たかだか18、19の娘に俺が追いつけないわけがない。
とうとう手首を捕まえて腕の中に引っ張りこんだ。せいぜい100メートルほどの逃走劇の末、問答無用で三木の後頭部を抑えてぎゅうぎゅうに抱きしめた。ああもう、小さいなぁ、柔らかいなぁ…。くそっ。あんなくだらないこと考えてなきゃ、0.5秒は早くこうしてやれたのに…。
三木は逃げ足はそこそこ早いが諦めはもっと早い方だ。俺の腕の中で太刀打ちできないことを悟ると、大人しく抱きしめられるがままになった。そうだ、それでいい。頼むから逃げようなんて思わないでくれよ。ていうかなんで逃げるんだ。おかしいだろ?
俺はお前の兄なんだぞ。
「おい杉元!なんなんだ一体……」
追いかけてきたアシリパさんが困惑顔で俺と三木を交互に見やった。ご丁寧に三木が落としたたい焼きの包みを拾ってきてくれたらしい。抱えられた茶包を見て、三木があっとくぐもった声を上げたが俺は無視した。代わりに、もっと強く、どこもかしこも柔い体を抱きしめた。たい焼きなんか気にしてる場合かよ。俺を、俺を見ろよ。何年かぶりに会った、お前の兄なんだぞ…。
「く、苦しいんだけど…」
「…」
「折れる折れる、骨が折れる…!」
「…」
「離してよぅ」
「…」
「無言…?」
「…」
「…」
「……なんで、」
「…」
「なんで逃げた」
「佐一くん、どこから声出してるの?地獄の底?」
そんな軽口を叩いてもはぐらかす気はないらしい。
だって、と言いながら少し唇を尖らせる様子がバカみたいに可愛かったので、俺は食指が震えたのを誤魔化すみたいに小さく舌打ちした。変わらないな、お前は。
昔からいつもそうだった。
まだ一家揃った平和な団欒が当たり前だった頃、俺が寅次や梅ちゃんとずっとつるんでいたように、三木も三木と仲の良い連中と毎日遊んで、働いて、俺たちはてんでバラバラなことをして、そして同じ家に帰って眠った。
それでも俺はいつだって三木のことを見ていた。
村の悪ガキが三木にちょっかいをかけたとき、すぐに俺がそいつをぶん殴れたのはそのせいだよ。村で一番の金持ちの坊ちゃんが三木の手を引いて家に帰ろうとしたとき、すぐにその手を奪い返せたのもそのせいだよ。三木の成長した胸元に手を伸ばす汚いオッサンの指を迷わずにへし折ったとき、お前は、今と同じような顔で俺を見たな。
「佐一くんってどこにでもいるね」……どこにでもいるわけじゃないよ。何言ってんだ。お前のいるところに俺がいるだけだ。当然だろ?俺はお前の兄で、お前は俺の妹なんだから…。視界から妹を外す兄がこの世にいるのか?
「妹のピンチには駆けつけるよ。当然だろ?」
俺がそう言うと、三木は唇を引き結んで複雑そうに眉をハの字に下げた。物言いたげな視線でまっすぐに俺を見上げている。指を握り潰されたままヒイヒイ騒いでいるオッサンなんかまるで眼中にない様子で、もしかしてこいつ押し倒されてもこんな顔するだけなんじゃないだろうな、と思ったら無意識に手に力がこもった。オッサンの指は死んだ。
「私は佐一くんのピンチには駆けつけられないと思う…」
まるで呟くように言われた言葉に、俺はちょっとだけ驚いた。そんなこと、気にするどころか考える必要もないことだ。俺から離れずにいてくれたら、お前はそれだけでいいじゃないか。
俺がずっとお前を見てるよ。
そう言うと、三木は何も答えなかった。
「頭おかしいんじゃねぇのか……」
代わりに慄いたようにオッサンが口を挟んできたので、俺は三木の手を引いてその場を後にした。去り際、うずくまって痛みにもだえる背中に三木が「おじさん、メッだよ」などと声をかけて、オッサンが救われたように顔を上げたのが気に食わなくて、汚い視線から隠すように三木の体を引き寄せた。
「あんまり優しくすんなよ。また襲われるぞ」
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なんだよ。念のためもう片方の指も潰しておこうかと一瞬考えたが、三木が俺の手を引いて歩き出したのでやめた。この手を離す時間の方が惜しい。
「佐一くんは心配性だね」
数歩先を歩く三木の頬の輪郭を眺めながら、ただその存在の愛しさを噛み締めた。
当たり前じゃないか。俺はお前の兄なんだからさ…。
それからしばらくして、両親が結核の病に倒れた。祖母も後を追うように床に伏した。
俺や三木は介護する側に回ったまま、村の連中からの誹謗中傷を受け流す日々だった。寅次や梅ちゃんが心配そうに気を揉んでいるのが伝わってきたが、今までのように連れ合うわけにはいかない。村の鼻つまみ者となった今、俺の世界には三木しか存在しなくなったような気がして、自分でも持て余すほどの感情が心の底から溢れて流れ落ちた。
それを知ってか知らずか、三木は眉ひとつ動かさずに、ただ最後まで弱っていく家族のそばに連れ添っていた。どれだけ結核がうつると言われても、村から出て行けと罵られても、三木は杉元の家から、俺のそばから離れなかった。
きっと三木の世界にも俺しか存在していないんだろう。
祖母が亡くなったと報せを受けた日から俺たちは同じ部屋に布団を並べて眠るようになった。お袋の最期を看取ったその夜は、同じ布団の中で三木を抱きしめながら眠った。その柔らかさとあたたかさに涙が出た。
そして、とうとう親父が死んだ。
その次の日、三木も姿を消した…。
「杉元の妹?言われてみれば目の色が似てるな…」
「そうなの。同じ色なの。たい焼きおいしい?」
「美味い。ヒンナだ!」
「ね、ひとくち」
「ん。ほら」
「あーん」
「あーん」
「天国かな?」
三木とアシリパさんが並んで喋っているだけで何か満たされるような気がするのは気のせいだろうか。この世のよいところだけ集めて切り取ったみたいで、一生見ていられるな…。
まさかこのツーショットが見られると思っていなかったこともあってその感慨はひとしおだった。
「ところで」
「ん?」
「三木はこんなところで何をしてたんだ?」
俺が一番聞きたかったことをアシリパさんは実直に口に出した。
唐突なことに、俺は視線を逸らせない。
たい焼きのカケラを飲み込んだ三木は、二度、ゆっくりと瞬きをした。明るい金色の瞳に太陽の光がきらめき、反射する。
だって、佐一くん追ってくるでしょ。
なんで逃げるんだ、と問いかけた答えがこれだった。拗ねたように唇をとがらせて、非力に俺の胸板を押し返す三木に、俺の方が言葉に詰まった。なん、なんだそれ。そんなの、当たり前のことじゃないか。決まりきったことじゃないか!
ある日、なんの前触れもなく姿を消した妹が目の前に現れたんだぞ。追いかけて捕まえない兄がいるか?
数年ぶりに感じる三木の体温と、記憶の中より少し大人びた顔つきに高揚感が押し上げられるのをなんとか隠しながら、やっとの思いでそう告げると三木がふいに視線を落とした。
「またそうやって…」
「は?なんだよ」
「…」
口を閉ざしてぷいとそっぽを向く三木に、どんどん仄暗い気分になる。おい、まさか、この期に及んで反抗期じゃないだろうな。三木は昔から淡白な面の多い娘で、感情の起伏も少ない方だ。求めることをしない代わりに、拒絶するようなことも一切しなかった。それがここに来て、そんな可愛い顔して、俺の言葉を無視するのか?
たまらず三木の頬を両手で掴んで無理やり視線を合わせた。おでこがぶつかりそうなくらい近くまで顔を寄せると、三木も少したじろいだみたいだった。そういえば、この顔の傷を三木は知らないんだっけ…。
「三木」
「…」
「今までどこにいた?」
「…」
「言えよ。言わないと…」
「んー…!」
三木の両の頬を引っ張ると、ぎゅっと目を閉じて唇を引き結ぶ。意地でも言わないつもりか?悪い子だ。そのちっちゃい口ごと食べてやろうか…。幼い頃のお仕置きみたいでだんだん興奮してきた。
まつげが触れそうなほど顔を近づけた。その唇の柔らかさを俺は知っている。
「なあ、これなんだ?」
意地の張り合いが始まりかけた瞬間、アシリパさんの声に引き戻された。三木もぱちっと目を開けた。2人してアシリパさんの方に視線を向ける。
アシリパさんの手に取り出されたたい焼きはまだ作り立てで、袋の口から生地の甘い香りが立ち込めている。三木の存在や俺たちのやりとりに疑問符を飛ばしていたアシリパさんの興味は既にそっちに向かっているようで、じゅるりと唇を舐めて空腹をアピールしている。この、食いしん坊さん…。
「あー、アシリパさん、それはね」
「あのう」
「…」
「よかったら食べますか」
「!」
完全に毒気が削がれた。三木と視線を交わして、どちらともなく頷いて体を離した。アシリパさんはたい焼きに頭からかぶりついている。
まったく、敵わないなぁもう…。
そうして道端で小さなたい焼きパーティが始まって、軽い自己紹介を交わした2人の少女の和やかな雰囲気にすべてが有耶無耶になってしまいそうなところで、アシリパさんの切り込みだった。
さすがだよ、アシリパさん。
この数年で馬鹿みたいに溜め込んだ三木に対するあらゆる感情を、どう小出しにしていけばまた俺の側に戻ってきてくれるのか、微笑ましい2人を眺めながらもんもんと頭の隅っこで考えていた俺にはまるで天よりの助けだった。
アシリパさんは純粋な疑問で聞いているだけだから、三木だって無視できない。そうだろ?
「何してたっていうか…」
「…」
「何もしてなかった…」
「は?」
「しいていうならお見舞いに行こうとしてたけど」
指でちょいとたい焼きの包みを指差した。一人分にしては量の多いたい焼きは手土産のつもりだったようだ。食べちゃったぞ!とにわかにアシリパさんが慌てだすのを、まあまあと両手で制した三木は、袋から新しいたい焼きを取り出して尻尾の方からパクついた。
「別にいいんだ。まだ意識戻ってないって言ってたし」
「なんだ。重体だな」
「横でみんなで美味しいもの食べてれば目を覚ますかなって思ったんだけど。おが、……その人、意外とそういうの気にしそうだから」
「天の岩戸作戦?効くの?」
「分かんない。だから試してみようかと思って」
そういう興味本位のアレだから別にいいの。そう言ってたい焼きをたいらげる三木にならって、「そうか、それなら」とアシリパさんも手元の残りを食べてしまった。なんというか、本当に変わってないな、三木は…。変にあっさりしているところ。顔も知らない病人に向かって心の中で合掌した。どこの誰だか知らないけど、三木のお見舞いの機会を奪っちゃったみたいで悪いね。俺だったらすげえショックだろうな…。
「…村を出たのは?」
「…」
「あの日、突然、俺に黙って消えたのは、なんでだよ」
「…」
「三木、答えてやれ。杉元は怒ると怖いぞ」
「知ってるよ…。…うーん…」
「…」
「別に、突然じゃないよ」
「は?」
「前から決めてたもん。お父さんが死んだら出て行こっかなって」
「は?」
全然意味が分からなかった。それとこれと、何の関連性もないだろ?むしろ、俺とお前で手を取り合って出て行くべきじゃないのか?あの村を。
あの日の朝、もぬけの殻になっていた布団を見た瞬間にスーッと冷えた心臓の感覚を、俺は未だに引きずっていた。
「だって」
「…」
「佐一くん、私がいると邪魔でしょ」
「………は?」
「結核持ちかもしれない妹なんて、」
「おい」
「ただのお荷物じゃんか」
「お前何言ってんの?」
「佐一くんひとりなら梅ちゃんと一緒になれたんじゃないの」
まっすぐに向けられる視線に真正面から対峙した。その瞳にはほんの、ほんの少しだけ、俺を責めるような色が見え隠れしていた。
梅ちゃんの名前が、どうして今出てくるんだよ。
お前は、本当に、何を言ってるんだ?
「おい…」
「佐一くんは元からうつってないって分かってたよ。強いひとだもん。だから、次に発症するなら私だと思って、最悪、そうなる前に出てっちゃおって思ったのに。佐一くんてば」
「…」
「梅ちゃんのこと置いてっちゃったんだね」
「…」
「佐一くんのばか…」
村の連中に煙たがられる日々の中で、ぴくりとも動かさなかった眉の下で、同じ布団で眠りにつく俺の胸元で、ずっとそんなことを考えていたのか?お前は。
てんで的外れだよ。
三木を邪魔だと思ったことなんてない。たったの一度だってそんなこと、思うはずがない。
俺はお前の兄なんだぞ。
「杉元もお前も、結局発症しなかったんだな」
「うん。セーフ」
「せぇふ?」
ふう、と小さく息をついて、三木は俺から視線を逸らした。その仕草で何かがピンと来た。
二の腕を掴んで性急に三木の体を引き寄せる俺を、ギョッとして見上げるその表情で疑惑はあっさりと確信に変わる。
「な、なに…」
「また逃げる気だろ」
「う、」
アシリパさんが懲りないな、という目で三木を見た。ほら。たった数刻前に出会ったアシリパさんでさえ、お前の行動を読んでいる。そしてそれがとんだ見当違いの、間違いだらけの、おかしな行動だってことも、全部お見通しなんだよ。
「逃がさねぇよ。逃がすわけがない」
「なんで…」
「前に言っただろ。ずっとお前を見てるって」
「そんなの……そんなのさぁ、」
「なんだよ」
「んん、」
思わず腕を掴む手に力が入った。少し眉をひそめる三木にしまったと思うも、手を緩める気にはならなかった。
二度と手放してたまるか。
やっと、やっと会えたんだぞ。どうして三木を失ったのかも分からないまま、心がぐちゃぐちゃのドロドロになるまで考え込んでも答えの出ない問いを何年も続けて、ただ記憶の中の三木の姿を擦り切れるほど使い込みながら、俺は、行き着くところまで行ってしまっていた。
それが分からないお前じゃないだろ?
だって、お前は俺の、たったひとりの妹なんだから…。
「アシリパさん、三木も連れてくよ。悪いけど」
「任せる。家族のことは家族で決めろ」
「…私は、」
何かを言いさして腕を引こうとした三木は、自らの腕に食い込む俺の手を見て、言葉を切った。困ったように眉を下げるその表情から、三木が俺から逃げる算段を立てているのか、それとも梅ちゃんのことを思って申し訳ない気持ちでいるのか、もしくはそのどちらでもないのか…。俺には察することはできなかったが、そんなの、する必要もないことだ。
三木は俺の側にいるべきだ。
それだけ分かっていたら、後はもう何もいらない。
「二度目はないよ。分かってるな?」
三木は頷かなかった。
▽
「アイヌの金塊かぁ」
「疑ってんの?」
「なんで? 安心しただけだよ」
それはきっと梅ちゃんのことを言っているんだろうな。簡単に察しがついた。
どうやら三木は、俺が梅ちゃんを好いていたことをいやに気にしているようだった。俺が梅ちゃんのために動いていることに安心した、と言いながら、どこかその表情に少し含みがあるような気がして引っかかる。まだ何か隠しているんじゃないだろうな…。
焚き火のあかりが三木の金色の瞳を煽るように照らしていた。きっと同じような輝きが俺の瞳にもともっているはずだ。
小樽の山の中、罠で取ったリスをオハウにした夕食を終えて、アシリパさんはぐうぐうと寝息をたてて眠っている。気が付けばもうすっかり夜の帳も下りて、しんとした空気が漫然と流れていた。
焚き火を挟んで俺と向かい合っている三木は、すっかり馴染んだと言ってもいいだろう。たったの半日前に再会したとは思えないくらい、この場にいるのが当たり前に見えた。
やっぱり俺の側にいるべきなんだよ、お前は。
四六時中俺の目の届くところにいてくれないと、俺は、今度こそどうなってしまうか分からない。
「その傷…」
「ん?」
「戦争?」
「ああ、うん」
三木の視線の先をなぞるように顔の傷に触れた。やっぱり、気になるよな。記憶の中の俺と現実を見比べるように、じっと見つめてくる三木は、そっか、とだけ言って視線を逸らした。
「生きててよかった」
「え?」
「佐一くん、割と無茶するから」
「…」
「割とね」
お前がそれを言うのか? 生きててよかった、だなんて、お前を見つけた瞬間にいの一番に思ったよ。俺の目の届かないところでお前がどうにかなっているんじゃないかって考えるだけでグラグラと胃の底が沸き立った。身体中の傷なんかより、そっちの方がよっぽど痛む。
三木も俺のことを気にしていたのか?
「三木」
「え、」
だったら、俺の考えてることが分かるはずだ。
戸惑う体を幹に押し付けて、両の手首をひとまとめにして頭上で拘束した。重力に従ってずり落ちる袖からのぞく肌が夜の闇の中で白く浮いて俺を誘った。
木と俺の体に挟まれて、体の自由を奪われた三木は不安げに眉をひそめていた。それでも逃げようとしないのがこいつらしい。
「さ、佐一くん」
「ん?」
「これ、なに?」
「何って…。確かめるんだよ。分かるだろ?」
逃げないってことはそういうことだろ?
着物の合わせからのぞく首筋に鼻先を埋めて深く息を吸い込んだ。三木の匂いがする。甘い、媚薬みたいな三木の匂いだ。
誘われるがままに首筋に舌を這わせながら、襟の隙間から手のひらを差し込んだ。三木が息をのむ気配が伝わってくる。
「佐一くん!何を…」
「数年ぶりに会ったんだから」
「…」
「確かめなきゃいけないだろ? 兄として」
「は、」
襦袢ごと合わせをゆるめて、半ば無理やり引きずり下ろした。むき出しになった肩や鎖骨と、ふるんと揺れる左胸が眼下に晒されて、たまらずに生唾を飲み込んだ。また、大きくなったんじゃないか? 悪い子だ。こんな体で俺の側を離れていたことに腹わたが煮えくりかえるようだった。
手首の拘束を押し返すような動きを感じたが、俺が離すわけがないし、三木が俺に勝てるわけもなかった。
柔らかな胸を鷲掴んで指をその肌に食い込ませた。吸い付くような肌の感触と、頬を赤くして焦ったように目をぐるぐるさせる三木の表情に口角が上がるのをなんとか隠した。かわいい。かわいいなぁお前は。
「やだ、何するの、やだよ…」
「大人しくしてな。痛いことはしない」
「んっ、ぅ」
人差し指を先端に這わせて軽くころがすと、三木の体がピクンと跳ねた。それがかわいくて小ぶりな唇に噛み付いた。驚いた三木が唇を固く引き結んで俺の侵入を阻もうとしたので、乳首をやわやわとすり合わせた。三木が震えるのが伝わってくる。隙間から舌をねじこみながら、相変わらず弱いなぁと嬉しくなる。唾液の味も、喘ぐ声も、あの頃と同じままだった。
「三木、三木」
「っ、」
「かわいい」
「ぁ、やだ、あっ」
「本当にかわいい」
全身を押しつけながら三木の体をまさぐった。張り詰めた下半身を腰に擦り付けると、怯んだように目をぎゅっとつむるのが弱っちくてかわいい。荒くなる息を隠すのも億劫になって本能のまま唇をべろべろと舐めた。三木の味がする。
下腹部のあたりを手のひらで撫でると途端に身を固くするので、俺は思わず笑ってしまった。余裕のない笑みだった。
「誰にも許してないよな?」
「さ、さいちくん、」
引きつったような声音をなだめるように目尻に口付けた。お前を疑ってるわけじゃないよ。ただ、こんなにかわいいお前を世の獣どもが放っておくわけがないだろ? お前がどれだけ嫌だ、やめてと叫んでも、濡れ切った欲に身を任せて力任せにお前を暴く馬鹿どもが、もしいたとするなら、俺がそいつらを殺してくるからさ…。
「お前は俺だけ知ってればいい」
「あ、」
涙が頬をすべり落ちた。
その水滴の一粒すらもたまらなく愛おしい俺は、なるべく優しい手つきで着物の裾を割り開いた。
▽余談
「尾形上等兵、意識が戻ったんですね」
「……」
瀕死の重傷で山から帰ってきた上等兵がようやく目を覚ましたというので、三島が病院に駆けつけてみると何やら尾形の表情が険しい。生きるか死ぬかの瀬戸際から無事戻ってこられたというのに、起き抜けにその圧は一体どういう理由だろうかと三島は首を傾げた。
「体が痛みますか」
「……」
「全身バキバキのグチャグチャですからね。しばらくはまともに動けんでしょう」
「……」
「縫った顎の調子はどうですか。まだ喋れませんか」
「……」
「看護婦を呼んできましょうか」
「そうじゃねぇ…」
「三木さんならいませんよ」
流れるような三島の言葉に尾形がピクリと反応した。やっぱりね、と平坦に言う美丈夫の顔を、不機嫌に細められた黒目が睨んだ。
「一度お見舞いに来たんですが、その後パッタリと。残念でしたね」
「うるせぇ」
「呼ぼうにも手段がないもんで。鶴見中尉も残念がっていますよ」
「は?」
「次は美味しいものを持ってくると言ってましたので。尾形上等兵を囲んで甘味パーティだと、中尉も楽しみになさっていたのに」
「……」
「あ、想像だけで腹立ちましたね? 三木さんはすごいなぁ」
天の岩戸作戦はきっと成功していましたね、なんてのたまう三島を尾形は早々に無視して、ベッド脇のボードに残されたメモに視線を落とした。「また来ます」と淡白に記された文字がいつ書かれたものなのか、三島の様子を見るに、少なくとも最近のことではないらしいと察して尾形は苛立ちを隠さずに舌打ちした。
ふとしたことで関わり合いを持つようになったただの町娘ひとりに、一体何を乱される必要がある、とは頭で分かっていても実際に感じるものはまた別の話だ。
目が覚めて、一番に三木の顔が見たいと思う俺はおかしいのか。
尾形は三木の残したメモをそのまま置いておくことにした。次やって来たときにどんな文句を言ってやろうかと考えて、仰向けにベッドに倒れこんだ。
残念ながら夕張までお預けです。
2019.7.2
その瞬間、雷に打たれて死んでしまったかと思った。
不死身であることがウリだったのに。
「ゲッ、佐一くんだ」
しかし現実に俺は死んでいなかったし、雷にも打たれていなかった。
そもそもその日は雲ひとつない晴天で、雷雨なんか見る影もないくらい陽気な空だった。間違いない。隣を歩くアシリパさんとつい30秒前に「今日は気持ちのいい天気だね」「狩りがはかどるな!」とかなんとか、そんな会話をしたばかりだった。
雷と錯覚するほどの衝撃。
実際、心臓が止まるほど驚いた。
小樽の街は人が多く、昼間などは特に活気付いて華やいでいる。アシリパさんと連れ立って刺青の情報を集めている最中、不特定多数とすれ違いながら、なんのけなしに路地を曲がったところで思いもよらぬ再会を果たした。それがあんまりにも唐突すぎて、俺は思わず立ちすくんでしまった。
三木が、いた。
前触れもない衝撃が俺の全身を貫いて、それがまるで電流でも流したみたいに隅々の神経を焼き尽くしていったから、(あれっ雷なんて鳴ってたかな?)なんてくだらないことを一瞬考えてしまったのだ。そんなしょうもない思考に0.5秒も使ってしまった。バカじゃないのか俺は。考えるより先にやることがあるだろ?
三木だ。
目の前に三木がいるんだぞ。
「お前…!!」
「うわっ、やだっ」
「はあっ!? 逃げんな!!」
呆然とする俺とは反対に、目が合った瞬間、露骨に「マズった」という顔をした三木はあろうことか俺から逃げようと身を翻した。なんッだそれふざけんな!! 俺と鉢会うまで呑気にくわえていたたい焼きもその包みもほっぽり出して、人の波を縫いながら逃げる背中を当然追いかけた。
たかだか18、19の娘に俺が追いつけないわけがない。
とうとう手首を捕まえて腕の中に引っ張りこんだ。せいぜい100メートルほどの逃走劇の末、問答無用で三木の後頭部を抑えてぎゅうぎゅうに抱きしめた。ああもう、小さいなぁ、柔らかいなぁ…。くそっ。あんなくだらないこと考えてなきゃ、0.5秒は早くこうしてやれたのに…。
三木は逃げ足はそこそこ早いが諦めはもっと早い方だ。俺の腕の中で太刀打ちできないことを悟ると、大人しく抱きしめられるがままになった。そうだ、それでいい。頼むから逃げようなんて思わないでくれよ。ていうかなんで逃げるんだ。おかしいだろ?
俺はお前の兄なんだぞ。
「おい杉元!なんなんだ一体……」
追いかけてきたアシリパさんが困惑顔で俺と三木を交互に見やった。ご丁寧に三木が落としたたい焼きの包みを拾ってきてくれたらしい。抱えられた茶包を見て、三木があっとくぐもった声を上げたが俺は無視した。代わりに、もっと強く、どこもかしこも柔い体を抱きしめた。たい焼きなんか気にしてる場合かよ。俺を、俺を見ろよ。何年かぶりに会った、お前の兄なんだぞ…。
「く、苦しいんだけど…」
「…」
「折れる折れる、骨が折れる…!」
「…」
「離してよぅ」
「…」
「無言…?」
「…」
「…」
「……なんで、」
「…」
「なんで逃げた」
「佐一くん、どこから声出してるの?地獄の底?」
そんな軽口を叩いてもはぐらかす気はないらしい。
だって、と言いながら少し唇を尖らせる様子がバカみたいに可愛かったので、俺は食指が震えたのを誤魔化すみたいに小さく舌打ちした。変わらないな、お前は。
昔からいつもそうだった。
まだ一家揃った平和な団欒が当たり前だった頃、俺が寅次や梅ちゃんとずっとつるんでいたように、三木も三木と仲の良い連中と毎日遊んで、働いて、俺たちはてんでバラバラなことをして、そして同じ家に帰って眠った。
それでも俺はいつだって三木のことを見ていた。
村の悪ガキが三木にちょっかいをかけたとき、すぐに俺がそいつをぶん殴れたのはそのせいだよ。村で一番の金持ちの坊ちゃんが三木の手を引いて家に帰ろうとしたとき、すぐにその手を奪い返せたのもそのせいだよ。三木の成長した胸元に手を伸ばす汚いオッサンの指を迷わずにへし折ったとき、お前は、今と同じような顔で俺を見たな。
「佐一くんってどこにでもいるね」……どこにでもいるわけじゃないよ。何言ってんだ。お前のいるところに俺がいるだけだ。当然だろ?俺はお前の兄で、お前は俺の妹なんだから…。視界から妹を外す兄がこの世にいるのか?
「妹のピンチには駆けつけるよ。当然だろ?」
俺がそう言うと、三木は唇を引き結んで複雑そうに眉をハの字に下げた。物言いたげな視線でまっすぐに俺を見上げている。指を握り潰されたままヒイヒイ騒いでいるオッサンなんかまるで眼中にない様子で、もしかしてこいつ押し倒されてもこんな顔するだけなんじゃないだろうな、と思ったら無意識に手に力がこもった。オッサンの指は死んだ。
「私は佐一くんのピンチには駆けつけられないと思う…」
まるで呟くように言われた言葉に、俺はちょっとだけ驚いた。そんなこと、気にするどころか考える必要もないことだ。俺から離れずにいてくれたら、お前はそれだけでいいじゃないか。
俺がずっとお前を見てるよ。
そう言うと、三木は何も答えなかった。
「頭おかしいんじゃねぇのか……」
代わりに慄いたようにオッサンが口を挟んできたので、俺は三木の手を引いてその場を後にした。去り際、うずくまって痛みにもだえる背中に三木が「おじさん、メッだよ」などと声をかけて、オッサンが救われたように顔を上げたのが気に食わなくて、汚い視線から隠すように三木の体を引き寄せた。
「あんまり優しくすんなよ。また襲われるぞ」
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なんだよ。念のためもう片方の指も潰しておこうかと一瞬考えたが、三木が俺の手を引いて歩き出したのでやめた。この手を離す時間の方が惜しい。
「佐一くんは心配性だね」
数歩先を歩く三木の頬の輪郭を眺めながら、ただその存在の愛しさを噛み締めた。
当たり前じゃないか。俺はお前の兄なんだからさ…。
それからしばらくして、両親が結核の病に倒れた。祖母も後を追うように床に伏した。
俺や三木は介護する側に回ったまま、村の連中からの誹謗中傷を受け流す日々だった。寅次や梅ちゃんが心配そうに気を揉んでいるのが伝わってきたが、今までのように連れ合うわけにはいかない。村の鼻つまみ者となった今、俺の世界には三木しか存在しなくなったような気がして、自分でも持て余すほどの感情が心の底から溢れて流れ落ちた。
それを知ってか知らずか、三木は眉ひとつ動かさずに、ただ最後まで弱っていく家族のそばに連れ添っていた。どれだけ結核がうつると言われても、村から出て行けと罵られても、三木は杉元の家から、俺のそばから離れなかった。
きっと三木の世界にも俺しか存在していないんだろう。
祖母が亡くなったと報せを受けた日から俺たちは同じ部屋に布団を並べて眠るようになった。お袋の最期を看取ったその夜は、同じ布団の中で三木を抱きしめながら眠った。その柔らかさとあたたかさに涙が出た。
そして、とうとう親父が死んだ。
その次の日、三木も姿を消した…。
「杉元の妹?言われてみれば目の色が似てるな…」
「そうなの。同じ色なの。たい焼きおいしい?」
「美味い。ヒンナだ!」
「ね、ひとくち」
「ん。ほら」
「あーん」
「あーん」
「天国かな?」
三木とアシリパさんが並んで喋っているだけで何か満たされるような気がするのは気のせいだろうか。この世のよいところだけ集めて切り取ったみたいで、一生見ていられるな…。
まさかこのツーショットが見られると思っていなかったこともあってその感慨はひとしおだった。
「ところで」
「ん?」
「三木はこんなところで何をしてたんだ?」
俺が一番聞きたかったことをアシリパさんは実直に口に出した。
唐突なことに、俺は視線を逸らせない。
たい焼きのカケラを飲み込んだ三木は、二度、ゆっくりと瞬きをした。明るい金色の瞳に太陽の光がきらめき、反射する。
だって、佐一くん追ってくるでしょ。
なんで逃げるんだ、と問いかけた答えがこれだった。拗ねたように唇をとがらせて、非力に俺の胸板を押し返す三木に、俺の方が言葉に詰まった。なん、なんだそれ。そんなの、当たり前のことじゃないか。決まりきったことじゃないか!
ある日、なんの前触れもなく姿を消した妹が目の前に現れたんだぞ。追いかけて捕まえない兄がいるか?
数年ぶりに感じる三木の体温と、記憶の中より少し大人びた顔つきに高揚感が押し上げられるのをなんとか隠しながら、やっとの思いでそう告げると三木がふいに視線を落とした。
「またそうやって…」
「は?なんだよ」
「…」
口を閉ざしてぷいとそっぽを向く三木に、どんどん仄暗い気分になる。おい、まさか、この期に及んで反抗期じゃないだろうな。三木は昔から淡白な面の多い娘で、感情の起伏も少ない方だ。求めることをしない代わりに、拒絶するようなことも一切しなかった。それがここに来て、そんな可愛い顔して、俺の言葉を無視するのか?
たまらず三木の頬を両手で掴んで無理やり視線を合わせた。おでこがぶつかりそうなくらい近くまで顔を寄せると、三木も少したじろいだみたいだった。そういえば、この顔の傷を三木は知らないんだっけ…。
「三木」
「…」
「今までどこにいた?」
「…」
「言えよ。言わないと…」
「んー…!」
三木の両の頬を引っ張ると、ぎゅっと目を閉じて唇を引き結ぶ。意地でも言わないつもりか?悪い子だ。そのちっちゃい口ごと食べてやろうか…。幼い頃のお仕置きみたいでだんだん興奮してきた。
まつげが触れそうなほど顔を近づけた。その唇の柔らかさを俺は知っている。
「なあ、これなんだ?」
意地の張り合いが始まりかけた瞬間、アシリパさんの声に引き戻された。三木もぱちっと目を開けた。2人してアシリパさんの方に視線を向ける。
アシリパさんの手に取り出されたたい焼きはまだ作り立てで、袋の口から生地の甘い香りが立ち込めている。三木の存在や俺たちのやりとりに疑問符を飛ばしていたアシリパさんの興味は既にそっちに向かっているようで、じゅるりと唇を舐めて空腹をアピールしている。この、食いしん坊さん…。
「あー、アシリパさん、それはね」
「あのう」
「…」
「よかったら食べますか」
「!」
完全に毒気が削がれた。三木と視線を交わして、どちらともなく頷いて体を離した。アシリパさんはたい焼きに頭からかぶりついている。
まったく、敵わないなぁもう…。
そうして道端で小さなたい焼きパーティが始まって、軽い自己紹介を交わした2人の少女の和やかな雰囲気にすべてが有耶無耶になってしまいそうなところで、アシリパさんの切り込みだった。
さすがだよ、アシリパさん。
この数年で馬鹿みたいに溜め込んだ三木に対するあらゆる感情を、どう小出しにしていけばまた俺の側に戻ってきてくれるのか、微笑ましい2人を眺めながらもんもんと頭の隅っこで考えていた俺にはまるで天よりの助けだった。
アシリパさんは純粋な疑問で聞いているだけだから、三木だって無視できない。そうだろ?
「何してたっていうか…」
「…」
「何もしてなかった…」
「は?」
「しいていうならお見舞いに行こうとしてたけど」
指でちょいとたい焼きの包みを指差した。一人分にしては量の多いたい焼きは手土産のつもりだったようだ。食べちゃったぞ!とにわかにアシリパさんが慌てだすのを、まあまあと両手で制した三木は、袋から新しいたい焼きを取り出して尻尾の方からパクついた。
「別にいいんだ。まだ意識戻ってないって言ってたし」
「なんだ。重体だな」
「横でみんなで美味しいもの食べてれば目を覚ますかなって思ったんだけど。おが、……その人、意外とそういうの気にしそうだから」
「天の岩戸作戦?効くの?」
「分かんない。だから試してみようかと思って」
そういう興味本位のアレだから別にいいの。そう言ってたい焼きをたいらげる三木にならって、「そうか、それなら」とアシリパさんも手元の残りを食べてしまった。なんというか、本当に変わってないな、三木は…。変にあっさりしているところ。顔も知らない病人に向かって心の中で合掌した。どこの誰だか知らないけど、三木のお見舞いの機会を奪っちゃったみたいで悪いね。俺だったらすげえショックだろうな…。
「…村を出たのは?」
「…」
「あの日、突然、俺に黙って消えたのは、なんでだよ」
「…」
「三木、答えてやれ。杉元は怒ると怖いぞ」
「知ってるよ…。…うーん…」
「…」
「別に、突然じゃないよ」
「は?」
「前から決めてたもん。お父さんが死んだら出て行こっかなって」
「は?」
全然意味が分からなかった。それとこれと、何の関連性もないだろ?むしろ、俺とお前で手を取り合って出て行くべきじゃないのか?あの村を。
あの日の朝、もぬけの殻になっていた布団を見た瞬間にスーッと冷えた心臓の感覚を、俺は未だに引きずっていた。
「だって」
「…」
「佐一くん、私がいると邪魔でしょ」
「………は?」
「結核持ちかもしれない妹なんて、」
「おい」
「ただのお荷物じゃんか」
「お前何言ってんの?」
「佐一くんひとりなら梅ちゃんと一緒になれたんじゃないの」
まっすぐに向けられる視線に真正面から対峙した。その瞳にはほんの、ほんの少しだけ、俺を責めるような色が見え隠れしていた。
梅ちゃんの名前が、どうして今出てくるんだよ。
お前は、本当に、何を言ってるんだ?
「おい…」
「佐一くんは元からうつってないって分かってたよ。強いひとだもん。だから、次に発症するなら私だと思って、最悪、そうなる前に出てっちゃおって思ったのに。佐一くんてば」
「…」
「梅ちゃんのこと置いてっちゃったんだね」
「…」
「佐一くんのばか…」
村の連中に煙たがられる日々の中で、ぴくりとも動かさなかった眉の下で、同じ布団で眠りにつく俺の胸元で、ずっとそんなことを考えていたのか?お前は。
てんで的外れだよ。
三木を邪魔だと思ったことなんてない。たったの一度だってそんなこと、思うはずがない。
俺はお前の兄なんだぞ。
「杉元もお前も、結局発症しなかったんだな」
「うん。セーフ」
「せぇふ?」
ふう、と小さく息をついて、三木は俺から視線を逸らした。その仕草で何かがピンと来た。
二の腕を掴んで性急に三木の体を引き寄せる俺を、ギョッとして見上げるその表情で疑惑はあっさりと確信に変わる。
「な、なに…」
「また逃げる気だろ」
「う、」
アシリパさんが懲りないな、という目で三木を見た。ほら。たった数刻前に出会ったアシリパさんでさえ、お前の行動を読んでいる。そしてそれがとんだ見当違いの、間違いだらけの、おかしな行動だってことも、全部お見通しなんだよ。
「逃がさねぇよ。逃がすわけがない」
「なんで…」
「前に言っただろ。ずっとお前を見てるって」
「そんなの……そんなのさぁ、」
「なんだよ」
「んん、」
思わず腕を掴む手に力が入った。少し眉をひそめる三木にしまったと思うも、手を緩める気にはならなかった。
二度と手放してたまるか。
やっと、やっと会えたんだぞ。どうして三木を失ったのかも分からないまま、心がぐちゃぐちゃのドロドロになるまで考え込んでも答えの出ない問いを何年も続けて、ただ記憶の中の三木の姿を擦り切れるほど使い込みながら、俺は、行き着くところまで行ってしまっていた。
それが分からないお前じゃないだろ?
だって、お前は俺の、たったひとりの妹なんだから…。
「アシリパさん、三木も連れてくよ。悪いけど」
「任せる。家族のことは家族で決めろ」
「…私は、」
何かを言いさして腕を引こうとした三木は、自らの腕に食い込む俺の手を見て、言葉を切った。困ったように眉を下げるその表情から、三木が俺から逃げる算段を立てているのか、それとも梅ちゃんのことを思って申し訳ない気持ちでいるのか、もしくはそのどちらでもないのか…。俺には察することはできなかったが、そんなの、する必要もないことだ。
三木は俺の側にいるべきだ。
それだけ分かっていたら、後はもう何もいらない。
「二度目はないよ。分かってるな?」
三木は頷かなかった。
▽
「アイヌの金塊かぁ」
「疑ってんの?」
「なんで? 安心しただけだよ」
それはきっと梅ちゃんのことを言っているんだろうな。簡単に察しがついた。
どうやら三木は、俺が梅ちゃんを好いていたことをいやに気にしているようだった。俺が梅ちゃんのために動いていることに安心した、と言いながら、どこかその表情に少し含みがあるような気がして引っかかる。まだ何か隠しているんじゃないだろうな…。
焚き火のあかりが三木の金色の瞳を煽るように照らしていた。きっと同じような輝きが俺の瞳にもともっているはずだ。
小樽の山の中、罠で取ったリスをオハウにした夕食を終えて、アシリパさんはぐうぐうと寝息をたてて眠っている。気が付けばもうすっかり夜の帳も下りて、しんとした空気が漫然と流れていた。
焚き火を挟んで俺と向かい合っている三木は、すっかり馴染んだと言ってもいいだろう。たったの半日前に再会したとは思えないくらい、この場にいるのが当たり前に見えた。
やっぱり俺の側にいるべきなんだよ、お前は。
四六時中俺の目の届くところにいてくれないと、俺は、今度こそどうなってしまうか分からない。
「その傷…」
「ん?」
「戦争?」
「ああ、うん」
三木の視線の先をなぞるように顔の傷に触れた。やっぱり、気になるよな。記憶の中の俺と現実を見比べるように、じっと見つめてくる三木は、そっか、とだけ言って視線を逸らした。
「生きててよかった」
「え?」
「佐一くん、割と無茶するから」
「…」
「割とね」
お前がそれを言うのか? 生きててよかった、だなんて、お前を見つけた瞬間にいの一番に思ったよ。俺の目の届かないところでお前がどうにかなっているんじゃないかって考えるだけでグラグラと胃の底が沸き立った。身体中の傷なんかより、そっちの方がよっぽど痛む。
三木も俺のことを気にしていたのか?
「三木」
「え、」
だったら、俺の考えてることが分かるはずだ。
戸惑う体を幹に押し付けて、両の手首をひとまとめにして頭上で拘束した。重力に従ってずり落ちる袖からのぞく肌が夜の闇の中で白く浮いて俺を誘った。
木と俺の体に挟まれて、体の自由を奪われた三木は不安げに眉をひそめていた。それでも逃げようとしないのがこいつらしい。
「さ、佐一くん」
「ん?」
「これ、なに?」
「何って…。確かめるんだよ。分かるだろ?」
逃げないってことはそういうことだろ?
着物の合わせからのぞく首筋に鼻先を埋めて深く息を吸い込んだ。三木の匂いがする。甘い、媚薬みたいな三木の匂いだ。
誘われるがままに首筋に舌を這わせながら、襟の隙間から手のひらを差し込んだ。三木が息をのむ気配が伝わってくる。
「佐一くん!何を…」
「数年ぶりに会ったんだから」
「…」
「確かめなきゃいけないだろ? 兄として」
「は、」
襦袢ごと合わせをゆるめて、半ば無理やり引きずり下ろした。むき出しになった肩や鎖骨と、ふるんと揺れる左胸が眼下に晒されて、たまらずに生唾を飲み込んだ。また、大きくなったんじゃないか? 悪い子だ。こんな体で俺の側を離れていたことに腹わたが煮えくりかえるようだった。
手首の拘束を押し返すような動きを感じたが、俺が離すわけがないし、三木が俺に勝てるわけもなかった。
柔らかな胸を鷲掴んで指をその肌に食い込ませた。吸い付くような肌の感触と、頬を赤くして焦ったように目をぐるぐるさせる三木の表情に口角が上がるのをなんとか隠した。かわいい。かわいいなぁお前は。
「やだ、何するの、やだよ…」
「大人しくしてな。痛いことはしない」
「んっ、ぅ」
人差し指を先端に這わせて軽くころがすと、三木の体がピクンと跳ねた。それがかわいくて小ぶりな唇に噛み付いた。驚いた三木が唇を固く引き結んで俺の侵入を阻もうとしたので、乳首をやわやわとすり合わせた。三木が震えるのが伝わってくる。隙間から舌をねじこみながら、相変わらず弱いなぁと嬉しくなる。唾液の味も、喘ぐ声も、あの頃と同じままだった。
「三木、三木」
「っ、」
「かわいい」
「ぁ、やだ、あっ」
「本当にかわいい」
全身を押しつけながら三木の体をまさぐった。張り詰めた下半身を腰に擦り付けると、怯んだように目をぎゅっとつむるのが弱っちくてかわいい。荒くなる息を隠すのも億劫になって本能のまま唇をべろべろと舐めた。三木の味がする。
下腹部のあたりを手のひらで撫でると途端に身を固くするので、俺は思わず笑ってしまった。余裕のない笑みだった。
「誰にも許してないよな?」
「さ、さいちくん、」
引きつったような声音をなだめるように目尻に口付けた。お前を疑ってるわけじゃないよ。ただ、こんなにかわいいお前を世の獣どもが放っておくわけがないだろ? お前がどれだけ嫌だ、やめてと叫んでも、濡れ切った欲に身を任せて力任せにお前を暴く馬鹿どもが、もしいたとするなら、俺がそいつらを殺してくるからさ…。
「お前は俺だけ知ってればいい」
「あ、」
涙が頬をすべり落ちた。
その水滴の一粒すらもたまらなく愛おしい俺は、なるべく優しい手つきで着物の裾を割り開いた。
▽余談
「尾形上等兵、意識が戻ったんですね」
「……」
瀕死の重傷で山から帰ってきた上等兵がようやく目を覚ましたというので、三島が病院に駆けつけてみると何やら尾形の表情が険しい。生きるか死ぬかの瀬戸際から無事戻ってこられたというのに、起き抜けにその圧は一体どういう理由だろうかと三島は首を傾げた。
「体が痛みますか」
「……」
「全身バキバキのグチャグチャですからね。しばらくはまともに動けんでしょう」
「……」
「縫った顎の調子はどうですか。まだ喋れませんか」
「……」
「看護婦を呼んできましょうか」
「そうじゃねぇ…」
「三木さんならいませんよ」
流れるような三島の言葉に尾形がピクリと反応した。やっぱりね、と平坦に言う美丈夫の顔を、不機嫌に細められた黒目が睨んだ。
「一度お見舞いに来たんですが、その後パッタリと。残念でしたね」
「うるせぇ」
「呼ぼうにも手段がないもんで。鶴見中尉も残念がっていますよ」
「は?」
「次は美味しいものを持ってくると言ってましたので。尾形上等兵を囲んで甘味パーティだと、中尉も楽しみになさっていたのに」
「……」
「あ、想像だけで腹立ちましたね? 三木さんはすごいなぁ」
天の岩戸作戦はきっと成功していましたね、なんてのたまう三島を尾形は早々に無視して、ベッド脇のボードに残されたメモに視線を落とした。「また来ます」と淡白に記された文字がいつ書かれたものなのか、三島の様子を見るに、少なくとも最近のことではないらしいと察して尾形は苛立ちを隠さずに舌打ちした。
ふとしたことで関わり合いを持つようになったただの町娘ひとりに、一体何を乱される必要がある、とは頭で分かっていても実際に感じるものはまた別の話だ。
目が覚めて、一番に三木の顔が見たいと思う俺はおかしいのか。
尾形は三木の残したメモをそのまま置いておくことにした。次やって来たときにどんな文句を言ってやろうかと考えて、仰向けにベッドに倒れこんだ。
残念ながら夕張までお預けです。
2019.7.2