短い話
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昔から妙につきまとってくる娘だ。
追い払うのも面倒で好きにさせている。
………他人に三木のことを説明しなければならないとき、俺はいつもそんなような言い方をした。お前らしいな、と苦々しい顔で返されるのにももう慣れた。そうだろう、いかにも俺が言いそうなことだろう。それだけで大体の奴は俺の言葉を信じるんだからチョロいもんだ。
嘘だ。
全然本当のことじゃない。
都合のいいでっちあげだ。
それなのに三木も三木で俺の言葉を真に受けて、「好きにさせてもらっちゃってます」なんて笑っていたりする。そんな三木を見て苦々しいを超えて怒りさえ感じたような顔で睨まれるのにももう慣れていた。お前はひどい奴だ、もっとあの子を大切にしろ、そう俺をなじる奴も多かった。
いやアホか。ひどいのはどっちだ。
俺に付きまとってくるような娘だぞ。
俺と、あの出来のいい弟を見比べた上で、俺を選ぶようなひどい娘だぞ。
追い払えるものならとっくにそうしていた。茨城の片田舎からわざわざ俺を追いかけてきた三木を、簡単に断ち切れるならとっくの昔にそうしていた。
そうしない理由があるから、俺は今日もあいつの側にいる。
あいつが俺に付きまとっているのか。
俺があいつを手放せないのか。
その答えを知るのが嫌だから、俺は、あんな嘘をつくようになったのに。
外野が入ってくんじゃねえ。殺すぞ。
▽
「追い払うのも面倒で好きにさせてる………って、言ってたよ、尾形。ひどいよね。こんなかわいい子つかまえて」
「へ〜…」
「本気でどうでもいいみたい、君のこと。冷たい奴なんだあいつは」
「は〜…」
「俺だったら、もっと優しく、大切にしてあげるのに…」
「ふ〜ん…」
世界一無駄な会話をしている自覚がない人とのおしゃべりってしんどい。そう思うよね、谷垣さん。
私の視線を受けて、その表情から考えていることを察してくれた谷垣さんは、渋い顔で首を横に振った。そして駄目押しに腕で作ったバツマークを掲げられて、分かってたけどちょっと落胆した。ちぇっ。
分かってる。分かってるけどね。こんなところで怒ったりしないよ。しないけどさ〜。
この名前も知らないモブ軍人め。さては、私の地雷を踏み抜いている自覚がないな。
茨城の田舎から尾形百之助さんを追いかけて北海道までやってきた私を、物珍しい目で見てくる軍人さんは数多くいた。
男のためにそこまでするか、はしたない、とお叱りを賜ったのはその内の何人くらいだったろうか。決して少なくなかった気がする。だから言ってやったのだ。男のためじゃなく、尾形さんのためでもなく、自分のために頑張っちゃったのだと。
私の言葉に、呆れて物も言えんな、と苦い表情で捨て台詞を置いて去る有象無象の後ろ姿に、せめてもの仕返しだとべーっと舌を出して悪態をついた。本当は正面切って言い返してやりたかったけど、ぐっとこらえるようにしていた。そうやって言いたいことを我慢するのにはかなりの精神力を要したけど、それでも尾形さんがため息をつきながら頭を撫でてくれたのでぜーんぶどうでもよくなった。
ほらね。自分のためだ。
私は尾形さんが大好きなので、尾形さんの近くにいるだけで幸せなのだ。
第七師団の兵舎の近くの甘味屋で給仕をするようになってからは、どういうわけだか、妙な使命感をもって近付いてくる軍人さんが増えた。
「君は騙されてる」
「あいつはまともな人間じゃない」
「クソだ」
「クソの尾形」
「所詮妾の子だぞ」
「カスみたいな人間性」
「倫理観がゴミ」
「君が人生を捧げる価値もない奴だ」
……正直に言ってもいいでしょうか。
尾形さん、ブレなさすぎて安心しちゃう…。なんですか、この嫌われっぷり…実家のような安心感…。は〜、やっぱり尾形さんこそ私の帰る家なのだわ…。
めためたにこき下ろされる尾形さんの、その品のない悪口をどこかまったりとした気持ちで聞き流しながら、それでも心の裏ッ側では黒々とした気持ちがとぐろを巻いていた。
私を口説くつもりで尾形さんを下げるだなんてトンチンカンにも程がある。
尾形さんが実際にちょっとアレな人で良かったね、名前も知らない軍人さん。
もし尾形さんが、さっきあなた達が言ったような罵詈雑言とは似ても似つかない高潔な人物であったなら、私は、きっとあなた達を殺してしまいたいくらい憎んでた。
そうだよ。
尾形さんはまともじゃないよ。
でもそんな尾形さんが、私は大好きだった。
とはいえ、軍人だからと言って、決してそんな人たちばかりというわけでもなかった。
鶴見さんはうちのみたらし団子を贔屓にしてくれて、よく尾形さんが武功を挙げた話などをしてくれた。一挙一動に華がある人だ。手を取られて嫌じゃないと思ったのは、尾形さん以外では鶴見さんが初めてだった。(あとで尾形さんにその話をしたらとんでもない目で見られてしまった。何?)
よく鶴見さんの側に控えている月島さんも、たまに顔を合わせると世間話をするようになった。話をしてみて初めて分かったけど、月島さんてば、この界隈では群を抜いて苦労人だった。かわいそう…第七師団が変わっているのか分からないけど、上にも下にも問題児を抱えて大変そう…。せめて軍のしがらみがない私といるときくらいは気を休めてほしくて、通りかかるたびにお茶を出すようにしたらほんのちょっとだけ距離が縮まった。(ある日2人でお茶しているところを尾形さんに見られてしばらく話しかけてくれなかった。何?)
鯉登さんは尾形さんのことをとても嫌っているので、ぶっちゃけ第一印象は最悪だったけど、尾形さんも尾形さんで鯉登さんのことを散々こき下ろしていたので公平な目で見ることにした。トントンね。鶴見さんへのお土産にお団子を買う頻度がやや高めな鯉登さん。その度にお喋りに付き合わされるけど、彼は顔がいいので店の前にいるだけで女性客が増えるので積極的に相手をしてやれと女将さんに言われている。客寄せパンダ。(尾形さんの前で鯉登さんの名前を出すとすこぶる不機嫌になってしまう。何?)
谷垣さんや三島さんのことは、正直、好き。唯一の共通の話題である尾形さんをダシにした会話をする必要がないくらい、ウェットに富んだ話のタネを持っている人たちだった。あと、割に話が通じるタイプの軍人さんだったので安心できた。尾形さんを追っかけてここまで来たことを話してもバカにされたりしなかった。う〜ん、常識人…。私の前で尾形さんの悪口を垂れ流すお仲間の襟をひっつかんで、兵舎にお持ち帰りしてくれることも多々あった。(尾形さんがいい後輩に恵まれてよかったなぁ、としみじみしていると無言で後頭部を掴まれた。いやだから何?)
そんな風にして、私の北海道での生活は形作られていった。尾形さんを中心とした私のコミュニティ。尾形さんが側にいるだけで満足してしまう私の、低燃費なパーソナルエリア。
鶴見さん達以外、未だに名前も知らないような(そして覚える必要もないような)軍人さんたちは、私の生活圏には必要のないものだった。
「……だから、尾形ってやっぱり人間性に問題があるっていうか……」
「へ〜…」
それなのに今日もこうして絡まれる。は〜、しんどい。しんどいな…。こんな無駄な会話をしている暇があったら尾形さんのことを考えていたい。
私の白けた表情や気の抜けた返事を意にも介さず、ただひたすら尾形さんを嘲り続ける軍人さんと、偶然場に居合わせてしまったために居心地の悪い思いで去るに去れない谷垣さん。こんなに誰も得しない時間、ある?
「ていうかさ、三木ちゃんは尾形のどこがそんなにいいの?」
「え?」
名前を呼ばれて寒気がした。適当な相槌で返せない質問をされたことにムカムカしたけど、表面上はなんとかいつも通りを保った。保ったつもり。上手く出来てるかどうかは正直自信ない。役者じゃないんだこっちは…。軍人さんの後ろで黙って控える谷垣さんが何やらハラハラしだしたので、多分、普通に演技は失敗してイライラが顔に出てしまっていた。この軍人さんが上等兵という立場にあるために、口出しできずにいる谷垣さんの立場を思って申し訳ない気持ちになる。軍の階級は絶対だもんね…。こんなことに付き合わせてしまって申し訳ない。せめて谷垣さんに迷惑をかけないようにと、表情筋をキュッと引き締めた。笑え〜、私。笑え〜。
「えーと、尾形さんは…なんていうか…昔からあんな感じで」
「…」
「村の男の子とはちょっと違う雰囲気にグッときたのが始まりというか…」
「…」
「温度のないような人に見えて、好きなことにはちゃんと熱を持ってるとことか、気まぐれだけどちゃんと芯があるとことか…いや、その芯がどこに通ってるかはよく分かってないんですけど…。人としての温かみ?も、あるようで無いようであるような…?その曖昧な人間性から目を離せなくて…」
「…」
「気付いたら好きになっちゃってました…あは…」
「ちょっと俺にはよく分かんないなぁ…」
分かられてたまるか。叫び出したい気持ちをぐっと我慢して、後手にぎゅっと拳を握った。谷垣さんが苦味を通り越して痛みを耐えるような顔をするから、私も頑張って我慢した。自分でも言語化できずにいる尾形さんへの恋心を、ただあの人の後を付いて回ることでしか満たせない欲求を、あなた程度の人に分かられてたまるもんか。尾形さんを好きになるってそういうことだ。清濁併せ呑む覚悟を持って挑んでも、あの人のことを好きになるのに足りてない。尾形さんには清も濁も、善も悪もないんだからさぁ…。
だから、結局は自分勝手な行為なのだ。
尾形さんのどこが好きかなんて質問にすら答えられない私の、私による、私だけが幸せな行為なのだ。
「追い払うのも面倒で好きにさせている」……その通りだよ。尾形さんにとってはそれ以上でも、それ以下でもない。ただ虫を払うように邪険にされないというだけで、サイコーに幸せな気持ちになってしまう、バカな私の自己満足だった。
「結局、三木ちゃんも分かってないんでしょ?」
「…」
「尾形の好きなところ…。こんなところまでくっついてきちゃって、引っ込みつかなくなってるだけじゃない?」
「…」
「俺らがガキの頃なんて、足が速いとか、虫採りが上手いとか、そういう奴がモテたもんだよ。そういうことでしょ?そんな程度のことなんだろ?」
「…」
「幼少期の勘違いをこんなとこまで引っ張ってきちゃって、三木ちゃん、かわいそうに…」
人を殺したいほど嫌いだと思ったのは久しぶりだった。
ついに黙って見ていられなくなった谷垣さんが男の肩を掴むように動くが早いか、私がへたくそな演技をやめて不快感をあらわにするのが早いか。
そのどちらよりも早く、唐突にこの場に現れたその人に、私も谷垣さんも一瞬で視線を奪われた。
得意げに語る男だけが気付かない。
「お、尾形さん…」
「…」
感情の読めないまっくろな瞳がこちらをひとまとめに一瞥して、何も言わずに視線を逸らされた 。どこから聞いていたのか、どこまで聞いていたのか、その表情から伺い知ることはできなくて、ただ、尾形さんがそのまま立ち去るのを黙って見ていることしかできなかった。ようやく尾形さんに気づいた男が、離れていく尾形さんの後ろ姿を見ながらやれやれといったように肩をすくめるのが視界の隅に映った。
今度は、私の平手の方が早い。
「ッ……!!」
昔から尾形さんのことが好きだった。人とはちょっと変わった様子の尾形さんを気にかけているうちにいつの間にか好きになっていた。恋の駆け引きも尾形さんの心の闇も何も知らないまま真正面から体当たりして、当たり前に拒絶されても好きな気持ちは消えなくて、そのうち私の好意を受け入れない尾形さんのことが大好きになっていた。自分の気持ちを伝え続けているうちに、とうとう面倒になった尾形さんに拒絶すらされなくなった。だから私の好きなようにしたんだよ。尾形さんを追いかけて生まれ故郷を捨てて北海道くんだりまでやってきて、ただ尾形さんの側にいる事実に頭がクラクラするほど幸福を感じられたから。私はそれだけでよかった。一から十まで、私だけで完結している行為だった。
尾形さんが私のことを好きじゃないなんてとっくの昔に知ってるんだよこっちは。
これからも尾形さんが振り向いてくれないことなんて承知の上で好きなようにしてるんだよ。
ねえ。だから言ったじゃないですか。男のためでもない。尾形さんのためでもない。ただ自分のためだけに頑張ってるんだよ。それを分かってくれなんて思ってない。私の自己満足を、私のエゴを、邪魔しないでくれたらただそれでよかったのに。
よりにもよって尾形さんの目の前で、私の気持ちを軽んじるような発言をした男にとうとう堪忍袋の尾が切れた。唐突な私の平手打ちを受けて、呆然としている男と、額に手を当てて目を伏せる谷垣さんの姿を、どこか冷静な私が俯瞰していた。
「な、三木ちゃん、なんで…?」
「……尾形さんは私のことなんて好きじゃないんです……」
「は…?」
一介の町娘である私に平手打ちされた事実が堪えたのか、仮にもさっきまで口説いていた相手を怒らせたことに慄いているのか、怒りや不満を噛みしめるように声を震わせた男に真正面から対峙した。最初からこうしておけばよかった。尾形さんの悪口を並べ立てられた時に、このどうしようもない男を張り倒しておけばよかった!
「私が尾形さんを好きなんです…。分かりますか?私です。私なんです」
「…」
「尾形さんは私のことなんて全然好きじゃない。私が尾形さんを追いかけてるだけなのに。追いかけさせてもらってるのに…」
「…」
「見当違いも甚だしいんですよ。バカ!!」
言いたいことだけ言い捨てて、睨むだけ睨んで、相手に何か言い返される前に駆け出していた。ただ尾形さんの背中だけを目掛けて、男のことも谷垣さんのことも全部頭の中から吹っ飛ばして、何年も追いかけ続けた背中だけを目指して走った。尾形さん。尾形さん!弁解をしたいわけじゃない。ただ側にいたいだけだ。尾形さんの近くにいたいだけだ。尾形さんはきっと私がどこに行こうが何をしようが、きっとなんとも思わない。それでも私は、私だけは、私の気持ちを大切にしてあげたい。ただそれだけのために走った。徹頭徹尾、一から十まで、嫌になっちゃうくらい自分のことばっかりだ!
「尾形さん!!」
ようやく見つけた背中に飛びついた。相当な衝撃を受けたはずなのに、尾形さんは倒れることなく私を受け止めて、歩みを止めた。無言のまま見下ろされる視線だけを感じながら、硬い軍服の背中におでこをくっつけながら荒い息を整えた。はあ、もう、息切れがひどい。上下する胸を落ち着かせながら、ただしっかりと尾形さんにしがみついた。尾形さんの匂いがする。
「おが、尾形さん…はあ…っ、足速い…」
「…」
「も、久々に走った…心臓痛い…」
「…何だよ」
降ってくる視線に応えるように視線を上げた。逆光のせいで読めない表情の中で、それでも視線がかち合ったのがなんとなく分かる。息を乱す私を、じっと見下ろす尾形さんが何を考えているのか私には分からない。
「何で追いかけてきた」
「……嫌な我慢をしてしまったので……」
「は?」
ようやく落ち着いてきた呼吸の合間に、たくましい背中に頬を摺り寄せた。腰に回した腕は振りほどかれない。
「あの男、尾形さんのこと好き勝手言って、めちゃくちゃムカついたのに我慢してしまったので…」
「…」
「変に忖度しなきゃよかった、です、最初から…。尾形さんのことも、私のことも何にも知らないくせに、もう、好き勝手言うから!腹立つんです!」
「…」
「私が、引っ込みつかなくなってるとか、尾形さんに騙されてるとか」
「…」
「そんなことあるわけないのに!私が尾形さんを好きじゃなくなるなんてこと、天地がひっくり返ったってありえない…」
私の地雷を踏み抜きまくった男によってすり減らされた心を補うように、尾形さんにくっついた。尾形さん。好き。好きです。私のことを受け入れるわけでも、拒絶するわけでもなく、ただ無関心を貫くあなたが好きです。
しばらくされるがままだった尾形さんだったけど、やがて肩をぐっと押し返されて、引っ付いていた体を引き剥がされた。こちらに体を向けた尾形さんと真正面から向かい合って、私が視線を逸らすわけもないのに、顎を掴まれて見下ろされた。
「尾形さん?」
「…お前」
「?」
「俺のことが好きなのか」
「…」
空は青いのか、と聞かれたようなものだった。何を分かりきったことを…。私の人生はあなたに出会ってから始まったんだよ。それを知っていながら放置していたはずの尾形さんにしては、謎の多い質問だった。
「昔、こっぴどく振ったろう」
「…」
「つきまとってくるお前のことを、わざと手酷く突き放しただろ、俺は」
「…」
「それでもお前は、変わらずに俺を追いかけてきたな。何年経っても、こんなところまで…」
「…」
「三木…」
何かを確かめるような、どこか繊細なものを諳んじるような面持ちで問いかける尾形さんは、私の知らない表情をしていた。お互いの吐息が唇を湿らせるくらいの距離になっても、私は、尾形さんが何を伝えたいのか読み取ることができない。こんなに近くで目が合ったの、初めてだな。
「好きだ」
尾形さんの唇が私の言葉を飲み込んだ。
▽
最初は、同情か何かだと思った。
母親が亡くなって婆ちゃんと2人で暮らす俺を哀れむ連中のうちの一人だと思って、ただただ不快だった。
だからこっぴどく拒絶してやった。
さっさと離れていかないかな。そう思って突き放した。
それでも三木は変わらずに俺を好きだという。いつかはその気色の悪い勘違いに気付いて、恋慕だと思っていたものがただの慈悲でしかなかったことを自覚して、俺の元を離れる日が来ると、そう思っていた。
三木は何も変わらなかった。
俺はどうしたらよかったんだ。
村の男どもが三木をたしなめて気を引こうとして俺の陰口を吹き込んでも、三木の心に翳りが生まれることはなく、ただ幸せそうに俺の側に立っていた。
月日が経って、場所が変わっても同じことだった。相変わらず俺を追いかけ続ける三木を横取りしようと、軍の連中がどれだけ俺を嘲っても、三木の俺を見る目は何も変わらなかった。
そんなことがあるのか?
お前、もしかして本当に俺のことが好きなのか?
ある日、珍しくムッとした顔で三木が俺の元を訪れた。どれだけ俺の悪口を聞いても顔色ひとつ変えなかった三木が、眉根をきゅっと寄せて頬を膨らませながら、俺の左腕にくっついて、俺のために怒っていた。
「勇作さんにしといたら?なんて、そんなバカみたいなこと言われるとは思いませんでした!」
「ひどい罵りです。私と尾形さんと勇作さん、三人まとめてバカにされたのは初めてです」
「勇作さんは関係ないじゃないですか」
「自分が同じ土俵に立てないからって無関係な人を引き合いに出して…」
「もー!ほんとムカつく!」
「尾形さんのこと無神経とか、人間性がゴミとか、出来の悪い兄だとか」
「くだらない話ばっかり、勝手なことばっかり!」
俺に聞かせるためではなく、ただ自分の中の感情を消化しようと躍起になっている三木を、俺は黙って見下ろしていた。三木のことを受け入れることもせず、かといって拒絶することもせず、ただ「面倒だから好きにさせている」という体を取ってこの関係を続けさせていた俺の小賢しい企みを疑いもせずに、三木はただ俺だけを求めて、俺だけを見ていた。
「こんなに優秀な人をつかまえて…」
ひときわ強く腕を抱かれて、思わず指が震えそうになったのをなんとか隠した。
三木が俺に付きまとっているのか。
俺が三木を手放せずにいるのか。
そのどちらもが正解だった。怒りで頬を染めて俺の体にその身を寄せる三木のつむじを見下ろして、俺は、初めて抱きしめたいと思った。
…嘘だ。この期に及んでまだ自分を守る嘘をつこうとしていることに辟易した。
本当はずっと抱きしめたかった。さっさと俺のものにしてやりたかった。俺のためだけに笑っていてくれたら、それだけでよかった。
それでも俺があえて無関心を装っていたのは、いつまでも後をついてくる三木の姿に満たされたからだ。俺が何かを与えなくても、変わらず側にいる三木の存在が気持ちよかったからだ。
そこからまた月日が経って、今度は三木自身の気持ちを軽んじるバカが出てきた。くだらねぇな。三木がどうしようもない勘違いで俺を好きだと思い込んでいるなどと、そんなこと、誰に言われるまでもなく何遍も俺自身が考えたことだ。ずっと昔から、数え切れないほど疑ってきたことだ。そしてそれを、他の誰でもない、三木自身が覆してきた。
なぁ、もういいだろう。
ようやく分かったよ。疑うまでもないってことが。
俺は十分に満たされた。ここから先は、俺自身が三木を求めないと何も手に入ることはない。待たせたなぁ。なあ、三木よ。随分長いこと放ったらかしにして悪かったな。ようやく報いるときが来たぜ。
俺を追いかけて息を乱す三木の姿に、俺はとうとう満足したのだ。
俺にしがみつく三木の顎をすくって、唇を落とした。
ここから始まるはずだった。
三木の目が、驚いたように見開かれるまでは。
▽
「………違う………」
「あ?」
天地がひっくり返るほどの衝撃とはこのことだ。
尾形さんが、私にキスをした。愛しいものを見る目で、慈しむような表情で、私を腕に抱きながら、好きだと言いながらキスをした。
何?
何なの?尾形さん。
なんだか、時折、おかしなことをするとは思っていた。私が鶴見さんを肯定した時に見せる表情とか、月島さんとお茶しただけでしばらく話しかけられなくなったことや、鯉登さんの名前を出しただけで不機嫌になられたことも、谷垣さんや三島さんを褒めるたびに降ってくる険しい目つきだって、ずっとおかしいなと思ってた。何?って思ってた。
「あの……」
「何だ」
「別に無理しなくてもいいんですよ?」
「は?」
未だに尾形さんの腕に抱き込まれたまま、降ってくる訝しげな視線と対峙した。
「ご褒美とか、別にそういうのいらないので…」
「は?」
「これは本当に、その、強がりとかじゃなくて…」
「…」
「無理して私の気持ちに応えてもらわなくても大丈夫です」
「…」
「むしろ、そっちの方がイヤっていうか…」
ずっと尾形さんのことだけを見て追いかけてきた私を、つれなくされながらも懲りずに付きまとう私を、不憫だと思ったのだろうか。気まぐれに、少しは報いてやろうかと思ったのだろうか。
いい、いいです。そういうのいいです。
私のことを受け入れず、拒絶もせずに、無関心を貫く尾形さんが好きだった。どれだけ付きまとっても、追い払うのも面倒だからと好きにさせてくれているだけでよかったので…。そういう関係に私は幸せを感じていたから、こんな恋人めいたこと、尾形さんがする必要はないんですよ。
「本当に、今まで通りで大丈夫ですから」
「…」
「嫉妬するふりとかもいらないし…」
「…」
「ただ尾形さんの側にいるだけでいいんです、私、本当に」
「…」
「なんか、気を遣ってもらっちゃったみたいで…」
すみません、と申し訳なく思う気持ちを伝えると、今まで見たことがないくらい、苦味走った表情で見下ろされた。ええ…?何?何ですか。どういう感情なんですかそれは。
「尾形さん?」
「…お前、俺のことが好きなんじゃないのか」
「? 好きですよ。大好き。この世で一番好きです」
「じゃあ、」
「でも好きになってもらうのは違うっていうか…」
私のことを好きな尾形さんとか、想像すらつかなくて笑っちゃうな。
「……」
「あ、でも、いい加減鬱陶しくなったら言ってくださいね」
「……」
「もう二度と目の前に現れないので」
「……」
「影でこっそり見るだけにします」
「……」
「…? 尾形さん?どうしました?」
「……」
「お、尾形さん?…あれ?」
「……」
「えっ、なんか泣いてません?なんで!?」
どうしろってんだよ。
2019.6.1