短い話
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※R15 ※現パロ
こんな世の中に誰がした。
「三木ちゃん、おかえり」
「うん…」
平成31年2月8日の午前1時16分。
人もまばらな駅の構内で、杉元さんは今日も私を待っていた。改札を抜けて目があった瞬間にぱっと明るくなる杉元さんの表情に、周りにいたスーツ姿のおじさん達が目を焼かれたようにうめいた。うんうん、分かる分かる。杉元さんの笑顔、超眩しいよね。なんかのエネルギーに満ち満ちてる感じがするよね。生命力のかたまりって感じ、あるよね。分かる分かる。
そんなおじさん達にそそくさと避けられる杉元さんは、それに気付いているのかいないのか、ニコニコしながら歩み寄る私を見ていた。そして「今日もおつかれさま」なんて優しい言葉を飽きもせずにかけてくれる。残業あがりの体に染み渡るその優しさは、ありがたいけどそれ以上に申し訳なさが打ち勝ってしまうのだ。
昨日も、一昨日も、そのまた前の日も、杉元さんは私を待っていた。夜道の一人歩きは危ないからって、毎日午前様が当たり前な私をこうして駅まで迎えに来てくれる。
いや、優しすぎませんか。杉元さん。
大学時代のバイト仲間の白石さんの紹介で、一年半ほど前に知り合った杉元佐一さん。住んでる家が近いこともあって、なんだかんだ飲み友達として定期的に会う仲になった。そんな折、杉元さんのアパートでの宅飲みの最中、ふいに2人きりになったときに私がぽろっと仕事の愚痴をこぼしてしまったことが今回の事の発端だった。
「え…そんな遅くに帰ってんの?毎日?」
「うん。でも終電逃したら会社に泊まるから大丈夫です」
「何も大丈夫じゃないんだけど?ちょっとそれ危なくない?」
「そうかなぁ、危ないかなぁ。考えたことなかった」
「…」
「うわ杉元さん顔こわいよ…」
「…」
「飲みます?」
「うん」
私が差し出した飲みかけのビールを煽って、それきり杉元さんが黙り込んでしまったのでその話題はそこで打ち切りになった。と、思っていた。
次の日、しかめっ面の杉元さんに駅で出迎えられるまでは。ちょっと驚くどころの話じゃない。慌てて杉元さんのもとへと駆け寄ると、渋い表情で見下ろされてなんだか心臓がキュッとなった。
「え、す、杉元さん?どうしたんですか?」
「本当にこの時間なんだ…」
「はあ、そうですけど…?」
「帰ろう」
「え?」
「明日も迎えにくるから」
「え?」
「ほら、行こ?」
そう言いながら差し出された手に反応できかったのは、決して私の落ち度じゃなかった。
だって、あんまりに唐突だったから。恋人でもなんでもない、ただの飲み友達に対してそれは、ちょっと、優しすぎませんか…。戸惑う私の手を、焦れた杉元さんがかっさらうように掴んで絡めた。ぎゅっと大きな手に握られて、もう私は驚きっぱなしだ。どれだけ平気だってことを言い募っても杉元さんは頑として聞き入れてくれなくて、結局、アパートに着いて私が部屋に入るまで、杉元さんは私を見守る意思を曲げなかった。
「へ〜、杉元がねえ」
「白石さん、私どうしたらいいかな」
「えー、好きにさせとけばいいんじゃん?俺も三木ちゃんの生活ちょっと危ないと思ってたしぃ…」
それがあまりに強固な意思であると、一週間続けて出迎えられて確信した。どうしたら大丈夫だって分かってもらえるのか、白石さんに相談を持ちかけてもそんな返事が返ってくるので眉がハの字に下がってしまう。うう、やだな、白石さんまでそんなこと言うの。皆が言うほど私、仕事つらくないんだけどな。確かに拘束時間は長いけど内容自体は好きな方だし、夜道ったってたかだか10分程度の道のりだし…。皆が大げさだと思うんだけどな…。
「何かあってからじゃ遅いんだよ」
そう言って真剣な表情で私を責め立てる杉元さんに、ついに私の方が折れた。というより、認めざるを得なかった、というのが正しい。
杉元さんのお出迎えが一ヶ月ほど続いたある日、いつも通りの時間に駅に降り立つと、そこに杉元さんの姿はなかった。少しの驚きと同時に、安心した。胸を撫で下ろした。良かった。終わった、と思った。
そりゃ杉元さんにだって用事はあるだろうし、そもそもこんな時間に付き合わせていた方がおかしいんだから。無理させていたのはわかってる。あとで今までのお礼をしないとな…。
なんて、そんなことを考えながらアパートまでの道を歩いていたら、突然後ろからものすごい力で抱きしめられた。
「んん…!?」
大きな手のひらで口を覆われて、一瞬呼吸の仕方を忘れた。いきなりのことに強張る体に、男の腕が巻きついて身動きが取れなくなった。うそ、何で。左胸にあてがわれた手が、じっとりと丸みを撫でるので、一気に冷や汗が流れた。耳元に感じる荒い息遣いがおそろしい。なんで。なんでよりによって今日、痴漢なんかに遭うの。
「あ…っ」
服の上からだというのに、まるですべてお見通しだというように、男がゆっくりと指で乳輪のあたりを撫でだして上ずった声が出た。怖くて、恥ずかしくて、どうかそれ以上は探し当てないでくださいって祈りながら目をぎゅっと瞑った。抵抗はすべて無駄だった。
そんな私の耳に柔らかく湿ったものがくっついた。それが唇だったと、流し込まれる低音で気付いた。「ほら、言ったじゃん」聞き覚えのある声。まさか。嘘。おそるおそる振り向くと、獣のような金色の瞳とかち合った。
な、なんで。
「すぎもと、さん?」
「夜道は危ないって言ったのに」
「え、」
「そんなかわいく怯えてさ…襲ってくださいって言ってるようなもんじゃん」
「そ、そんな、あっ」
「何かあってからじゃ遅いんだよ」
私を責めるような口調で、じっと後ろから覗き込まれて涙が滲んだ。その間も杉元さんの指はずっと胸のてっぺんを撫で回していて、言ってることとやってることが噛み合わないのが恐怖だった。
「杉元さ、それ、やだ……」
「嫌なの?じゃあ抵抗して?」
「し、してるっ。してます…!」
「…そんなんじゃ止めらんねえよ。煽ってんの?」
「あ、やっ!」
きゅ、と乳首を指で挟まれて、体がびくっと震えた。やだやだ、こんなのやだ。乳首の側面をすり、すり、と擦り合わされて、どんどん涙が溢れてきた。やだ、杉元さん怒ってる。声を我慢する私の表情をじっと見つめられて、頬が赤くなるのが分かった。やだ、見ないでください。やめて、こんなのやだ…。
「俺に言うことあるよね?」
「っ…」
「三木ちゃん」
「…」
「ほら」
「んっ、……ごめん、なさい……」
「何が?」
「う、杉元さんの言うこと、聞かなくて…」
「そうだね。これからはどうするの?」
「えと、」
「…」
「す、杉元さんと、一緒に帰る…」
恐々と見やる私の視線を受けて、杉元さんはにっこりと笑った。あっさりと解放された体は、自分だけが分かるくらいかすかに震えていた。心臓の音がどきどきうるさい。何。何だったんだろう、今の。普通こんなことするかな。確かに、もし、今の痴漢が杉元さんじゃなかったら、きっと最悪の結果になっていたに違いないんだけど…。それを分からせるためだけにこんなことしたの?
なんか、それって、優しいのか優しくないのか、よく分かんないよ…。
「ほら、帰ろ?」
差し出された手に、今度は自分から手を重ねることができた。杉元さんに頼っていれば、もう怖い思いしなくて済むのかな。軽く乗せただけの手をぎゅっと握り込む杉元さんがとても優しい笑みを浮かべていたので、私はそっと息をついた。よかった。杉元さん、もう怒ってないみたい。私のことを心配してくれたことに変わりはないんだから、杉元さんて、やっぱりすごく優しい人なのかもな…。
「いや、逆だろう」
「え?」
「普通じゃねえな」
私が持ってきた缶ビールを煽りながら、尾形さんがそんなことを言う。いつもと変わらない淡々とした声音と感情の読めないくろい瞳に射抜かれて、なんだか居心地が悪いのをごまかすみたいに私も手元のビールをなめた。
「そうかな…」
「普通、そんなことしねえだろ」
「うん…」
「そんな奴が優しいわけあるか」
「う〜ん…そうなのかな…」
「……お前、また間違えてるぞ」
少しトーンの落ちた声が私の視線を上げさせた。思いのほか近くに尾形さんの顔があって、ちょっと驚いた。いつもは気だるげにソファを背もたれにして、ローテーブルを挟んで向かい合っている尾形さんが、珍しく身を乗り出して私を見ていた。
「また?…ってなんですか?」
「感覚おかしくなってんな」
「?」
「お前、今日で何連勤だ」
「20」
「仕事つらいか」
「全然」
「ほら見ろ」
間違えっぱなしじゃねえか。
鼻で笑いながらおでこを軽くはたかれて、思わずムッとして唇を尖らせた。
「何がおかしいんですか」
「アホか。それが分かんねえからおかしいんだろうが。さっさと……」
「え?」
「……いや。なんでもねえ」
何かを言いかけた尾形さんは、少し考える素振りを見せて、ぷいとそっぽを向いてしまった。尾形さんの言ってること、抽象的でよく分かんないよ。アルコールの回った頭でも理解できるレベルまで噛み砕いてもらわないと…。
「…明日も行くのか」
「?はい」
だからこうして尾形さんのマンションに泊めてもらっているのに。今更何を言ってるんだろう。
私は、杉元さんに一つだけ嘘をついていた。月曜から金曜まで、終電で帰る私を出迎えてくれる杉元さんに、どうしても言い出せなかったこと。
実は、土日も仕事だったりして。
さすがに毎日欠かさずあの時間に迎えに来てもらうなんてのは無茶な話だった。杉元さんだって働いてる身なんだから、体おかしくなっちゃうよ。私は慣れてるから平気だけど…。それに、会社で寝泊まりだけは絶対にやめてって言われたけど、土日はなんだかんだ忙しくて終電には間に合わないことの方が多かった。だから会社の近くにある尾形さんちに泊めてもらったりしていた。今日もそう。カレンダー通りのお休みをもらってる尾形さんは、そんな私をきっと哀れんでいる。うーん、だから、そんなに言うほどつらくないんだけどな…。お仕事楽しいよ。
「何かあってからじゃ遅いんだがな…」
髪を撫でつけながら尾形さんがポツリとこぼした。
なんか、似たようなこと、杉元さんも言ってた気がする。
「じゃあ、明日、よろしくね」
あれから何日経ったか、何週間経ったか、数えるのも面倒くさくなった。だってそんなの意味がない。仕事は楽しい。つらくない。毎日終電上がりでも、そうしなきゃ終わらなかったし、他の人に迷惑をかけないためにはそうするしかなかったもん。大丈夫。全然平気。私なんか、若くて体力があるだけが取り柄で、こんなことで弱音を吐くはずがない。先輩の仕事量は新人の私の比ではなかったし、それこそ終電上がりどころか、始発で帰るなんてザラだったから。ほら、上には上がいる。
間違ってないよ、私。尾形さん。
いつもいつも、自動ドアを抜けたあとに見上げるビルの窓にこうこうと灯る明かりが、私をそう確信させていた。
私よりしんどい人はいっぱいいる。だから頑張れた。つらいと思わなかった。私より遅く帰る人がいるのなら、私が誰より早く来るべきだと思った。
「…はい」
これからは、どうなのかな。
上司は私の返事を聞く前にさっさとどこかに消えていた。
「三木ちゃん、おかえり」
「うん…」
平成31年3月8日の午前1時16分。
人もまばらな駅の構内で、杉元さんは今日も私を待っていた。太陽みたいな笑顔が、私と周りのおじさん達の目を焼いた。今日も眩しいね。杉元さん。…今日は、なんだか、いっとう眩しいね…。
差し出された手のひらに迷わず自分の手を重ねて、握られる前にきゅっと力を込めた。杉元さんが驚いたように目を見開いたけど、何も言わなかった。代わりにいつもよりずっと強い力で握り返された。合わさった指の付け根から杉元さんの熱い体温が伝わってきて、冷たくかたまった指先まで温められるようだった。
「…」
「…」
私は何も言わなかったし、杉元さんも何も聞かなかった。いつもは道中、今日はこんなことがあったとか、今度どこそこに飲みにいこうとか、そんな他愛もない会話が交わされていたけど、今日ばっかりはお互い無言だった。
それでも、杉元さんは全部分かってた。いつもは決して踏むことのなかったアパートの入り口を越えて、私が鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込むまで、ずっと熱い手のひらに固くつなぎとめられていた。
「三木ちゃん」
「…」
「おいで」
ガチャン、と背後でドアが閉まる音がした。狭い玄関の中で、電気も付けず、靴も脱がずに、杉元さんが私に向かって両手を広げたのが気配で分かった。すごい。なんでも分かっちゃうんだね。杉元さん。やっぱり優しいよ。
「ん」
ぎゅっと逞しい体に抱きしめられて、胸が焦げ付くように苦しくなった。背中に手を回すのと同時に、腰に添えられた手に力がこもった。黒のパンプスに包まれたかかとが浮くくらい、強い力で。
あー、消えちゃいそ。
真っ暗な部屋で、真っ黒な服で、杉元さんの腕に抱かれたまま無くなってしまいそうだった。
「三木ちゃん、かわいい」
「…」
そんな私と対照的に、熱のこもった声が落ちてくるのがすごく不思議な感じ。私のどこがかわいいんだろう。私、全然ダメだよ。そんな肯定的なこと言われる資格ないや。
杉元さんにも、自分にも、嘘ばっかりついていた。
間違えてばっかり。
仕事はつらかった。全然楽しくなかった。本当は終電に乗り込むたびになんだか馬鹿みたいだって思ってた。自炊したあとの洗い物に手を付けられなくなって、家に紙皿や割り箸が増えた。お気に入りの小説やDVDが詰まった棚には近寄ることもなくなって、今では白いホコリを被っている。月に3000円くらいかかっていた電気代が1/5まで落ち込んだときは笑っちゃったな。使わなくなった家電のコンセント、全部引っこ抜いたから。冷蔵庫の待機電力やばいな、なんて笑ってる場合じゃなかったんだよなぁ、多分。
そこから既に間違えていた。
今になってそれが分かる。
喪服に包まれた体を癒すには、この部屋は、部屋としての機能を失いすぎていた。
「まずは何からする?」
「うーん…」
杉元さんの優しい声に応えるように胸板に頬をすり寄せた。
辞表を書こう。まずは、一番の間違いから正そう。つらいことをつらいと言えずに頑張らなきゃいけない世の中がおかしい。先輩が死んで初めて分かった。先輩もずっとつらかったんですよね。分かります。多分、次は私の番だってことも。
私以外、誰も先輩のお葬式に参加しなかったあの会社の異常性が、ようやく分かった。
「杉元さん」
「ん?」
「死ぬほどねむい…」
腕の中ですでにまどろみ始めた私の耳に、羽根が触れるようなキスと、低いささやきが落ちてきた。どれだけ体の力を抜いても支えてくれる安心感がどんどん私を夢の中に引っ張り込んでいった。すごい。明日のことを気にせず眠れるって、こんなに気持ちいいことだったんだ…。
「おやすみ」
あとは全部俺に任せて。
そんな呟きが最後に聴こえて、私の意識は途切れた。次に目を覚ますのがちょっと怖くて、でも同じくらい楽しみでもあった。
変なの。
こんな世の中に誰がした。
過労、ダメ、絶対。
2019.3.13
こんな世の中に誰がした。
「三木ちゃん、おかえり」
「うん…」
平成31年2月8日の午前1時16分。
人もまばらな駅の構内で、杉元さんは今日も私を待っていた。改札を抜けて目があった瞬間にぱっと明るくなる杉元さんの表情に、周りにいたスーツ姿のおじさん達が目を焼かれたようにうめいた。うんうん、分かる分かる。杉元さんの笑顔、超眩しいよね。なんかのエネルギーに満ち満ちてる感じがするよね。生命力のかたまりって感じ、あるよね。分かる分かる。
そんなおじさん達にそそくさと避けられる杉元さんは、それに気付いているのかいないのか、ニコニコしながら歩み寄る私を見ていた。そして「今日もおつかれさま」なんて優しい言葉を飽きもせずにかけてくれる。残業あがりの体に染み渡るその優しさは、ありがたいけどそれ以上に申し訳なさが打ち勝ってしまうのだ。
昨日も、一昨日も、そのまた前の日も、杉元さんは私を待っていた。夜道の一人歩きは危ないからって、毎日午前様が当たり前な私をこうして駅まで迎えに来てくれる。
いや、優しすぎませんか。杉元さん。
大学時代のバイト仲間の白石さんの紹介で、一年半ほど前に知り合った杉元佐一さん。住んでる家が近いこともあって、なんだかんだ飲み友達として定期的に会う仲になった。そんな折、杉元さんのアパートでの宅飲みの最中、ふいに2人きりになったときに私がぽろっと仕事の愚痴をこぼしてしまったことが今回の事の発端だった。
「え…そんな遅くに帰ってんの?毎日?」
「うん。でも終電逃したら会社に泊まるから大丈夫です」
「何も大丈夫じゃないんだけど?ちょっとそれ危なくない?」
「そうかなぁ、危ないかなぁ。考えたことなかった」
「…」
「うわ杉元さん顔こわいよ…」
「…」
「飲みます?」
「うん」
私が差し出した飲みかけのビールを煽って、それきり杉元さんが黙り込んでしまったのでその話題はそこで打ち切りになった。と、思っていた。
次の日、しかめっ面の杉元さんに駅で出迎えられるまでは。ちょっと驚くどころの話じゃない。慌てて杉元さんのもとへと駆け寄ると、渋い表情で見下ろされてなんだか心臓がキュッとなった。
「え、す、杉元さん?どうしたんですか?」
「本当にこの時間なんだ…」
「はあ、そうですけど…?」
「帰ろう」
「え?」
「明日も迎えにくるから」
「え?」
「ほら、行こ?」
そう言いながら差し出された手に反応できかったのは、決して私の落ち度じゃなかった。
だって、あんまりに唐突だったから。恋人でもなんでもない、ただの飲み友達に対してそれは、ちょっと、優しすぎませんか…。戸惑う私の手を、焦れた杉元さんがかっさらうように掴んで絡めた。ぎゅっと大きな手に握られて、もう私は驚きっぱなしだ。どれだけ平気だってことを言い募っても杉元さんは頑として聞き入れてくれなくて、結局、アパートに着いて私が部屋に入るまで、杉元さんは私を見守る意思を曲げなかった。
「へ〜、杉元がねえ」
「白石さん、私どうしたらいいかな」
「えー、好きにさせとけばいいんじゃん?俺も三木ちゃんの生活ちょっと危ないと思ってたしぃ…」
それがあまりに強固な意思であると、一週間続けて出迎えられて確信した。どうしたら大丈夫だって分かってもらえるのか、白石さんに相談を持ちかけてもそんな返事が返ってくるので眉がハの字に下がってしまう。うう、やだな、白石さんまでそんなこと言うの。皆が言うほど私、仕事つらくないんだけどな。確かに拘束時間は長いけど内容自体は好きな方だし、夜道ったってたかだか10分程度の道のりだし…。皆が大げさだと思うんだけどな…。
「何かあってからじゃ遅いんだよ」
そう言って真剣な表情で私を責め立てる杉元さんに、ついに私の方が折れた。というより、認めざるを得なかった、というのが正しい。
杉元さんのお出迎えが一ヶ月ほど続いたある日、いつも通りの時間に駅に降り立つと、そこに杉元さんの姿はなかった。少しの驚きと同時に、安心した。胸を撫で下ろした。良かった。終わった、と思った。
そりゃ杉元さんにだって用事はあるだろうし、そもそもこんな時間に付き合わせていた方がおかしいんだから。無理させていたのはわかってる。あとで今までのお礼をしないとな…。
なんて、そんなことを考えながらアパートまでの道を歩いていたら、突然後ろからものすごい力で抱きしめられた。
「んん…!?」
大きな手のひらで口を覆われて、一瞬呼吸の仕方を忘れた。いきなりのことに強張る体に、男の腕が巻きついて身動きが取れなくなった。うそ、何で。左胸にあてがわれた手が、じっとりと丸みを撫でるので、一気に冷や汗が流れた。耳元に感じる荒い息遣いがおそろしい。なんで。なんでよりによって今日、痴漢なんかに遭うの。
「あ…っ」
服の上からだというのに、まるですべてお見通しだというように、男がゆっくりと指で乳輪のあたりを撫でだして上ずった声が出た。怖くて、恥ずかしくて、どうかそれ以上は探し当てないでくださいって祈りながら目をぎゅっと瞑った。抵抗はすべて無駄だった。
そんな私の耳に柔らかく湿ったものがくっついた。それが唇だったと、流し込まれる低音で気付いた。「ほら、言ったじゃん」聞き覚えのある声。まさか。嘘。おそるおそる振り向くと、獣のような金色の瞳とかち合った。
な、なんで。
「すぎもと、さん?」
「夜道は危ないって言ったのに」
「え、」
「そんなかわいく怯えてさ…襲ってくださいって言ってるようなもんじゃん」
「そ、そんな、あっ」
「何かあってからじゃ遅いんだよ」
私を責めるような口調で、じっと後ろから覗き込まれて涙が滲んだ。その間も杉元さんの指はずっと胸のてっぺんを撫で回していて、言ってることとやってることが噛み合わないのが恐怖だった。
「杉元さ、それ、やだ……」
「嫌なの?じゃあ抵抗して?」
「し、してるっ。してます…!」
「…そんなんじゃ止めらんねえよ。煽ってんの?」
「あ、やっ!」
きゅ、と乳首を指で挟まれて、体がびくっと震えた。やだやだ、こんなのやだ。乳首の側面をすり、すり、と擦り合わされて、どんどん涙が溢れてきた。やだ、杉元さん怒ってる。声を我慢する私の表情をじっと見つめられて、頬が赤くなるのが分かった。やだ、見ないでください。やめて、こんなのやだ…。
「俺に言うことあるよね?」
「っ…」
「三木ちゃん」
「…」
「ほら」
「んっ、……ごめん、なさい……」
「何が?」
「う、杉元さんの言うこと、聞かなくて…」
「そうだね。これからはどうするの?」
「えと、」
「…」
「す、杉元さんと、一緒に帰る…」
恐々と見やる私の視線を受けて、杉元さんはにっこりと笑った。あっさりと解放された体は、自分だけが分かるくらいかすかに震えていた。心臓の音がどきどきうるさい。何。何だったんだろう、今の。普通こんなことするかな。確かに、もし、今の痴漢が杉元さんじゃなかったら、きっと最悪の結果になっていたに違いないんだけど…。それを分からせるためだけにこんなことしたの?
なんか、それって、優しいのか優しくないのか、よく分かんないよ…。
「ほら、帰ろ?」
差し出された手に、今度は自分から手を重ねることができた。杉元さんに頼っていれば、もう怖い思いしなくて済むのかな。軽く乗せただけの手をぎゅっと握り込む杉元さんがとても優しい笑みを浮かべていたので、私はそっと息をついた。よかった。杉元さん、もう怒ってないみたい。私のことを心配してくれたことに変わりはないんだから、杉元さんて、やっぱりすごく優しい人なのかもな…。
「いや、逆だろう」
「え?」
「普通じゃねえな」
私が持ってきた缶ビールを煽りながら、尾形さんがそんなことを言う。いつもと変わらない淡々とした声音と感情の読めないくろい瞳に射抜かれて、なんだか居心地が悪いのをごまかすみたいに私も手元のビールをなめた。
「そうかな…」
「普通、そんなことしねえだろ」
「うん…」
「そんな奴が優しいわけあるか」
「う〜ん…そうなのかな…」
「……お前、また間違えてるぞ」
少しトーンの落ちた声が私の視線を上げさせた。思いのほか近くに尾形さんの顔があって、ちょっと驚いた。いつもは気だるげにソファを背もたれにして、ローテーブルを挟んで向かい合っている尾形さんが、珍しく身を乗り出して私を見ていた。
「また?…ってなんですか?」
「感覚おかしくなってんな」
「?」
「お前、今日で何連勤だ」
「20」
「仕事つらいか」
「全然」
「ほら見ろ」
間違えっぱなしじゃねえか。
鼻で笑いながらおでこを軽くはたかれて、思わずムッとして唇を尖らせた。
「何がおかしいんですか」
「アホか。それが分かんねえからおかしいんだろうが。さっさと……」
「え?」
「……いや。なんでもねえ」
何かを言いかけた尾形さんは、少し考える素振りを見せて、ぷいとそっぽを向いてしまった。尾形さんの言ってること、抽象的でよく分かんないよ。アルコールの回った頭でも理解できるレベルまで噛み砕いてもらわないと…。
「…明日も行くのか」
「?はい」
だからこうして尾形さんのマンションに泊めてもらっているのに。今更何を言ってるんだろう。
私は、杉元さんに一つだけ嘘をついていた。月曜から金曜まで、終電で帰る私を出迎えてくれる杉元さんに、どうしても言い出せなかったこと。
実は、土日も仕事だったりして。
さすがに毎日欠かさずあの時間に迎えに来てもらうなんてのは無茶な話だった。杉元さんだって働いてる身なんだから、体おかしくなっちゃうよ。私は慣れてるから平気だけど…。それに、会社で寝泊まりだけは絶対にやめてって言われたけど、土日はなんだかんだ忙しくて終電には間に合わないことの方が多かった。だから会社の近くにある尾形さんちに泊めてもらったりしていた。今日もそう。カレンダー通りのお休みをもらってる尾形さんは、そんな私をきっと哀れんでいる。うーん、だから、そんなに言うほどつらくないんだけどな…。お仕事楽しいよ。
「何かあってからじゃ遅いんだがな…」
髪を撫でつけながら尾形さんがポツリとこぼした。
なんか、似たようなこと、杉元さんも言ってた気がする。
「じゃあ、明日、よろしくね」
あれから何日経ったか、何週間経ったか、数えるのも面倒くさくなった。だってそんなの意味がない。仕事は楽しい。つらくない。毎日終電上がりでも、そうしなきゃ終わらなかったし、他の人に迷惑をかけないためにはそうするしかなかったもん。大丈夫。全然平気。私なんか、若くて体力があるだけが取り柄で、こんなことで弱音を吐くはずがない。先輩の仕事量は新人の私の比ではなかったし、それこそ終電上がりどころか、始発で帰るなんてザラだったから。ほら、上には上がいる。
間違ってないよ、私。尾形さん。
いつもいつも、自動ドアを抜けたあとに見上げるビルの窓にこうこうと灯る明かりが、私をそう確信させていた。
私よりしんどい人はいっぱいいる。だから頑張れた。つらいと思わなかった。私より遅く帰る人がいるのなら、私が誰より早く来るべきだと思った。
「…はい」
これからは、どうなのかな。
上司は私の返事を聞く前にさっさとどこかに消えていた。
「三木ちゃん、おかえり」
「うん…」
平成31年3月8日の午前1時16分。
人もまばらな駅の構内で、杉元さんは今日も私を待っていた。太陽みたいな笑顔が、私と周りのおじさん達の目を焼いた。今日も眩しいね。杉元さん。…今日は、なんだか、いっとう眩しいね…。
差し出された手のひらに迷わず自分の手を重ねて、握られる前にきゅっと力を込めた。杉元さんが驚いたように目を見開いたけど、何も言わなかった。代わりにいつもよりずっと強い力で握り返された。合わさった指の付け根から杉元さんの熱い体温が伝わってきて、冷たくかたまった指先まで温められるようだった。
「…」
「…」
私は何も言わなかったし、杉元さんも何も聞かなかった。いつもは道中、今日はこんなことがあったとか、今度どこそこに飲みにいこうとか、そんな他愛もない会話が交わされていたけど、今日ばっかりはお互い無言だった。
それでも、杉元さんは全部分かってた。いつもは決して踏むことのなかったアパートの入り口を越えて、私が鞄から鍵を取り出して鍵穴に差し込むまで、ずっと熱い手のひらに固くつなぎとめられていた。
「三木ちゃん」
「…」
「おいで」
ガチャン、と背後でドアが閉まる音がした。狭い玄関の中で、電気も付けず、靴も脱がずに、杉元さんが私に向かって両手を広げたのが気配で分かった。すごい。なんでも分かっちゃうんだね。杉元さん。やっぱり優しいよ。
「ん」
ぎゅっと逞しい体に抱きしめられて、胸が焦げ付くように苦しくなった。背中に手を回すのと同時に、腰に添えられた手に力がこもった。黒のパンプスに包まれたかかとが浮くくらい、強い力で。
あー、消えちゃいそ。
真っ暗な部屋で、真っ黒な服で、杉元さんの腕に抱かれたまま無くなってしまいそうだった。
「三木ちゃん、かわいい」
「…」
そんな私と対照的に、熱のこもった声が落ちてくるのがすごく不思議な感じ。私のどこがかわいいんだろう。私、全然ダメだよ。そんな肯定的なこと言われる資格ないや。
杉元さんにも、自分にも、嘘ばっかりついていた。
間違えてばっかり。
仕事はつらかった。全然楽しくなかった。本当は終電に乗り込むたびになんだか馬鹿みたいだって思ってた。自炊したあとの洗い物に手を付けられなくなって、家に紙皿や割り箸が増えた。お気に入りの小説やDVDが詰まった棚には近寄ることもなくなって、今では白いホコリを被っている。月に3000円くらいかかっていた電気代が1/5まで落ち込んだときは笑っちゃったな。使わなくなった家電のコンセント、全部引っこ抜いたから。冷蔵庫の待機電力やばいな、なんて笑ってる場合じゃなかったんだよなぁ、多分。
そこから既に間違えていた。
今になってそれが分かる。
喪服に包まれた体を癒すには、この部屋は、部屋としての機能を失いすぎていた。
「まずは何からする?」
「うーん…」
杉元さんの優しい声に応えるように胸板に頬をすり寄せた。
辞表を書こう。まずは、一番の間違いから正そう。つらいことをつらいと言えずに頑張らなきゃいけない世の中がおかしい。先輩が死んで初めて分かった。先輩もずっとつらかったんですよね。分かります。多分、次は私の番だってことも。
私以外、誰も先輩のお葬式に参加しなかったあの会社の異常性が、ようやく分かった。
「杉元さん」
「ん?」
「死ぬほどねむい…」
腕の中ですでにまどろみ始めた私の耳に、羽根が触れるようなキスと、低いささやきが落ちてきた。どれだけ体の力を抜いても支えてくれる安心感がどんどん私を夢の中に引っ張り込んでいった。すごい。明日のことを気にせず眠れるって、こんなに気持ちいいことだったんだ…。
「おやすみ」
あとは全部俺に任せて。
そんな呟きが最後に聴こえて、私の意識は途切れた。次に目を覚ますのがちょっと怖くて、でも同じくらい楽しみでもあった。
変なの。
こんな世の中に誰がした。
過労、ダメ、絶対。
2019.3.13