短い話
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※転生
空っぽになった部屋で、柄にもなく、初めて八重田三木に会ったときのことを思い出している。
「お腹いっぱいになりました?」
それはなんでもない言葉だった。
食事を終えた頃合いに初めて向こうから声をかけられて、俺はなんと返したのか、正直よく覚えていない。ただ、その時はまだ名前も知らない若い娘に、少なくとも好意的ではない態度を取ったのは確かだった。
なんでもない言葉だったはずだ。笑われたわけでも、蔑まれたわけでもなく、ただ食事の量は足りたかと聞かれただけ。だというのに無性に苛立ってしまったのは、三木が見るからにぽけっとした苦労知らずの町娘で、俺とは生きる領分がまったく違う人間だと思ったからに相違ない。
なぜこんな若い娘が泥沼必須の金塊争奪戦なんぞに加わっているのか。もっと身の丈に合った幸せがあるだろう、と当時の俺はそんなことを思ったわけだ。人の腹具合を気にするようなお節介な真似をしている暇があるのか。結構なことだな…。そんなことを考えた。
そんな三木に気安く話しかけられて気の利いた言葉が返せるわけもなく、有り体に言うと、俺は無視した。
そうだ、無視した。泣くなら泣けばいいと思ったし、若い女らしく角で繊細に傷ついていろと思った。どうせ過保護ぶった周りの連中が慰めるだなんだするだろう。さめざめと泣く三木の背中をさすりながら睨まれても、そんなのは俺の知るところじゃない。勝手にやってろ。
しかし、予想に反して杉元たちは俺を責めなかった。
三木も泣かなかった。
どころか、傷ついた素振りもない。何食わぬ顔で鍋の残りをさらえている。内心で面食らう俺を見てお前はどう思っただろう。おそらく何も感じなかったに違いない。今になって、初めてそれがよく分かる。
これは後から知った話だが、杉元達と出会う前、三木は小樽の小さな食堂で給仕をしていたらしい。仕事柄、よく使った言葉が食事時に口をついて出るのだと、それを聞いて理解した。理解はしたが、無神経だと思った。
腹いっぱいになることが幸せだと決めつけるような奴と、俺が、気が合うわけがない。
俺は腹いっぱい食べたいと思うほど食に執着していない。
「お腹いっぱいになりました?」
またそのセリフか、と思う頃には、俺は三木の名前を完全に覚えていた。声に出して呼ぶことも増えた。向こうも俺の名を呼ぶ機会は増えたが、しかしその声音は初めて会った時から一貫して同じ温度を保っていた。上がり下がりもない。
三木は何も変わらない。
変わったのは俺の方だ。
どうやら、最初に受けた印象とは大分違うようだと、この頃になると三木の人となりというのが多少分かるようになっていた。自分の機嫌を自分で取れる奴は、嫌いじゃない。
三木は確かにお節介だったが、見返りや結果を強要するようなことはしなかった。決して奥深い所へは踏み込まずに、浅瀬でこちらをただ伺っていた。
いつからだろう。それがもどかしいと感じるようになったのは。
もっと、俺の方へ降りてこいと思うようになったのは。
三木は何も変わらない。
ただ、俺の見る目が変わっただけだ。
「お腹いっぱいになりました?」
しばらくして気付いたが、三木は俺以外の奴には「おかわりいりますか?」だの「まだ食べられますか?」だの、そんな聞き方をしていた。
俺に対してだけ、あんな言葉をかける。見透かされたような気分だった。それが嬉しいのか、腹立たしいのか、判別できないくらいには複雑な感情が渦巻いていた。
「ああ」……俺は、このとき初めて返事をした。杉元やアシリパが少し驚いたような表情を見せたのが癪に触ったが、それ以上に、三木に微塵の動揺も見られなかったのが不服だった。「そうですか」とだけ言って、鍋の片付けを始めてしまう。俺が返事をしようがしまいが、三木の態度は全く変わらなかったのだ。
なんなんだ、お前は。
多少なりとも喜ばせてやりたいという気持ちがあったから返事をくれてやったのに。その態度はなんなんだ。
「やっと返事してくれましたね、尾形さん」などと言いつつ、笑顔を見せるものだと思っていたんだぞ。
ことさらに本音を隠してわざと同じ態度を取り続けているのか、それとも、ありのまま見たままがお前の本性なのか。この娘に表裏があるのかないのか、俺には見抜けなかった。
つきたくもない嘘をついてまで…。俺は内心で毒づいた。
腹いっぱいだなんて、嘘だ。
これからもきっと嘘をつく。満腹になることに興味がない俺は、食に対して受動的な人間だった。食への執着は生への執着だと認識していた。
何も欲しいと思わない。
かつて俺の腹を満たしたあんこう鍋が、未だに胃の底にこびりついている気がする。
それはもはや呪いだった。
きっと何を食べても満たされない。
「お腹いっぱいになりました?」
お前は最後までそれか。
すっかり反射で肯定の返事をするようになった俺は、結局最後まで嘘をつき続けたことになる。
それでよかった。
俺が本当のことを吐露しない限り、三木は同じことを俺に問い続けるだろう。その繰り返しでよかった。そんなことでも、この娘が俺の側に居続けるという確約になるのであれば、それでいい。一生嘘をつき続けてやると決めていた。
その思いに終わりはない。
嘘はつき続けるからこそ意味がある。
「お腹いっぱいになりました?」
だから、かつての戦いやいざこざが風化してしまうくらいの過去になった現代へと生を受け、100年越しの再会を果たしてなおそんなことを聞いてくる三木に、俺はひどく安心した。
金塊はない。
刺青もない。
だが変わらないものもある。
ようやく探し出した三木の手を引いて、半ば無理やり俺のものにした。杉元たちに見つかる前に、俺だけのものにしてしまいたかった。食や生への執着は相変わらず薄っぺらなものだったが、俺の三木への執心は時の分だけ重みを増したようだった。
そのとき大学4年生で一人暮らしをしていた三木は、意外なことにそんな俺を受け入れた。相変わらず、何が本音か分からないような顔は俺の心をざわつかせたが、それでも、例によってかけられる言葉に嘘の返事を重ねてさえいれば、ずっとこの関係が続けられると、俺はそう思っていた。
三木は人の奥深い所へは踏み込まず、浅いところでこちらを伺うような娘だった。だから俺も同じようなことをしたのだ。
進展のない関係。
だが後退するよりは余程いい。
二人で囲む食卓に俺は満足していた。
三木が卒業したら、俺の部屋で一緒に暮らせばいい。そうしたら、あのやり取りもきっと必要ないものになる。
そんな未来を思い描いていた。
しばらくして、三木は俺の前から消えた。年末が差し迫り、仕事で拘束されることが増えていたために、気付くのが遅くなった。
この時点で出会ってから1年が経っていた。俺の部屋に引っ張り込み続けた甲斐あってか、いつの間にか三木の私物が増えていた俺のマンションの一室は、まるで時間を巻き戻したみたいにかつての寂しいがらんどうな部屋に逆戻りしていた。
なんだこれは。
仕事の合間を縫って、ようやく帰ってきた部屋の真ん中で取り残されたように立ち尽くした。
随分あいつの物が増えていたんだと、無くなってから気付いた。所々ぽっかり抜け落ちたような部屋は、自分の家のはずなのに違和感しかなく、ひたすらに俺の焦燥を煽った。
電話をかけたが、出ない。
そもそも俺がいない時を狙って私物を回収していった三木が、俺からの連絡に応えるわけがないと、3回目の発信ボタンを押した後に気付いて、自嘲した。
結局、こういう終わりを迎えるのか。
何を食べても満たされないんだと、満たされたいと思わないんだと、素直に吐き出せない関係がそもそも間違っていたのだろうか。三木は、一体、何を思ってあの言葉を言い続けていたのだろうか。
乱雑にスーツの上着を投げ捨てて、ソファに腰を降ろした。これからどうやって三木を探し出すか、先のことを考える前に、思いの外ショックを受けている自分を落ち着かせる必要があった。
逃す気はさらさらない。ただ、逃げられた事実は大きい。思い返してみれば、三木にはっきりと拒絶されたのは今回が初めてだった。
最初に無視したのは俺の方だったのに。手痛いしっぺ返しをくらった気分だ。
部屋だけでなく、心にもぽっかり穴が開いた気分だった。
心の奥深い所を満たしていたものが無くなった。自分で自分の機嫌を操れる範囲外の部分。執着せざるを得ないところ。
なくなって初めて気付くもの。
飢えだとか、渇望だとかに似たその空白は、100何年かぶりに感じた、俺がずっと昔に無くしたと思っていた、満たされたいという感覚……。
「尾形さん、お腹すいてます?」
あんこう鍋の呪いが解けた。
▽
「尾形さん、お腹すいてます?」
ここ最近仕事が多忙だったせいか、目の下にクマをくっつけた尾形さんが、部屋の真ん中で死にそうな顔をしていた。
私が入ってきたことにも気づかないくらい沈んだ様子だった。
なんだなんだ。もしかして、私が勝手に部屋に入ったこと、怒っているんだろうか。でも合鍵渡してきたのは尾形さんだし、今までだって勝手に出入りはしてたのになぁ。
仕事がとんでもなくヤバそうってことが見ていて分かったので、連絡は遠慮しちゃったんだけど、それがまずかったのかな…。でも、それってこの世の終わりみたいな顔をするほどのこと?いやだな、久しぶりに会ったんだし、楽しい空気を出していこうよ。美味しいごはんでも食べに行く?
すっとぼけたふりをして、ソファの横に腰掛けて声をかけると、その時初めて私に気付いたような様子で尾形さんの肩が跳ねた。
信じられないものを見る目で私を見るのが、びっくりするくらい新鮮だった。
「尾形さん?」
「お前……」
まじまじと私を見つめていた尾形さんの手が、突然私の両肩を力強く掴み上げたので慄いてしまう。こちらを睨め付ける目が、打って変わって力強い責めの感情をはらんでいるのがちょっと怖い。
「お、尾形さん?」
「…説明しろ」
「え、何を?」
「この部屋の有様だ」
「え?……あ、あー。断捨離しました。ちょっと整理しようと思って」
「は?」
「じゃないと入らないかなって」
何をだ、とその不可解そうな視線だけで訴えてくる尾形さんに、私も似たような目線で返した。やだな、忘れちゃったんですか尾形さん。
「私の荷物ですよ。明日ここに届くので、一緒に荷解きしてくれます?」
「は?」
「……えっと、一緒に暮らすんですよね?」
そのつもりで自分のアパート解約してきたんですけど…。と、そうまごつきながら返す私を、尾形さんは瞳孔をかっぴらいて見下ろした。えっなんでそんなに驚くんですか。えっ。
「えっ、そういう話じゃなかったですか?卒業したら一緒に住むって」
「いや…。…した。したな」
「ですよね?は〜、焦った〜。ここ追い出されたら住所不定無職になっちゃう」
「住むのか、ここに」
「あっはい、今日から。住みます」
内定も決まってるし、必要単位も取れているので、わざわざ卒業を待つ必要もないかと思って時間のあるときに引っ越し準備を進めていたのだった。も〜、大変だったんですよ。尾形さんめちゃくちゃ忙しそうだったから手伝ってほしいなんて言えなかったし。引越しって重労働。一人でベッド解体するの超骨折れた。
「ね、引越し祝いに、ごはん食べに行きません?力仕事ばっかでお腹ぺこぺこなんです」
力の抜けた顔つきになった尾形さんの両手を引っ張って、一緒に立ち上がった。どうせ尾形さんだって腹ペコのはずだ。知ってる知ってる。昔っからそうだよね。尾形さん、ほっとくとすぐ食事って作業を忘れちゃうから。
「……そうだな。腹いっぱいになりに行くか」
そんな尾形さんにしては、珍しい言い回しをする。なんだか憑き物が落ちたみたいな表情で、小首を傾げる私を見下ろしている。うーん、よほどお腹がすいているとみた。
「じゃ、何食べに行きます?和食?中華?」
「今日はもう決まってる」
「えっ珍しい。何ですか?」
「あんこう鍋」
「へー。私、食べたことないです」
「…俺もだ」
「え?」
「どんな味がするんだろうな」
「さあ。淡白そうですけどね」
「どうかな」
「?」
「行くか」
「あっ、はい」
呪いの刷新。
2019.2.26
空っぽになった部屋で、柄にもなく、初めて八重田三木に会ったときのことを思い出している。
「お腹いっぱいになりました?」
それはなんでもない言葉だった。
食事を終えた頃合いに初めて向こうから声をかけられて、俺はなんと返したのか、正直よく覚えていない。ただ、その時はまだ名前も知らない若い娘に、少なくとも好意的ではない態度を取ったのは確かだった。
なんでもない言葉だったはずだ。笑われたわけでも、蔑まれたわけでもなく、ただ食事の量は足りたかと聞かれただけ。だというのに無性に苛立ってしまったのは、三木が見るからにぽけっとした苦労知らずの町娘で、俺とは生きる領分がまったく違う人間だと思ったからに相違ない。
なぜこんな若い娘が泥沼必須の金塊争奪戦なんぞに加わっているのか。もっと身の丈に合った幸せがあるだろう、と当時の俺はそんなことを思ったわけだ。人の腹具合を気にするようなお節介な真似をしている暇があるのか。結構なことだな…。そんなことを考えた。
そんな三木に気安く話しかけられて気の利いた言葉が返せるわけもなく、有り体に言うと、俺は無視した。
そうだ、無視した。泣くなら泣けばいいと思ったし、若い女らしく角で繊細に傷ついていろと思った。どうせ過保護ぶった周りの連中が慰めるだなんだするだろう。さめざめと泣く三木の背中をさすりながら睨まれても、そんなのは俺の知るところじゃない。勝手にやってろ。
しかし、予想に反して杉元たちは俺を責めなかった。
三木も泣かなかった。
どころか、傷ついた素振りもない。何食わぬ顔で鍋の残りをさらえている。内心で面食らう俺を見てお前はどう思っただろう。おそらく何も感じなかったに違いない。今になって、初めてそれがよく分かる。
これは後から知った話だが、杉元達と出会う前、三木は小樽の小さな食堂で給仕をしていたらしい。仕事柄、よく使った言葉が食事時に口をついて出るのだと、それを聞いて理解した。理解はしたが、無神経だと思った。
腹いっぱいになることが幸せだと決めつけるような奴と、俺が、気が合うわけがない。
俺は腹いっぱい食べたいと思うほど食に執着していない。
「お腹いっぱいになりました?」
またそのセリフか、と思う頃には、俺は三木の名前を完全に覚えていた。声に出して呼ぶことも増えた。向こうも俺の名を呼ぶ機会は増えたが、しかしその声音は初めて会った時から一貫して同じ温度を保っていた。上がり下がりもない。
三木は何も変わらない。
変わったのは俺の方だ。
どうやら、最初に受けた印象とは大分違うようだと、この頃になると三木の人となりというのが多少分かるようになっていた。自分の機嫌を自分で取れる奴は、嫌いじゃない。
三木は確かにお節介だったが、見返りや結果を強要するようなことはしなかった。決して奥深い所へは踏み込まずに、浅瀬でこちらをただ伺っていた。
いつからだろう。それがもどかしいと感じるようになったのは。
もっと、俺の方へ降りてこいと思うようになったのは。
三木は何も変わらない。
ただ、俺の見る目が変わっただけだ。
「お腹いっぱいになりました?」
しばらくして気付いたが、三木は俺以外の奴には「おかわりいりますか?」だの「まだ食べられますか?」だの、そんな聞き方をしていた。
俺に対してだけ、あんな言葉をかける。見透かされたような気分だった。それが嬉しいのか、腹立たしいのか、判別できないくらいには複雑な感情が渦巻いていた。
「ああ」……俺は、このとき初めて返事をした。杉元やアシリパが少し驚いたような表情を見せたのが癪に触ったが、それ以上に、三木に微塵の動揺も見られなかったのが不服だった。「そうですか」とだけ言って、鍋の片付けを始めてしまう。俺が返事をしようがしまいが、三木の態度は全く変わらなかったのだ。
なんなんだ、お前は。
多少なりとも喜ばせてやりたいという気持ちがあったから返事をくれてやったのに。その態度はなんなんだ。
「やっと返事してくれましたね、尾形さん」などと言いつつ、笑顔を見せるものだと思っていたんだぞ。
ことさらに本音を隠してわざと同じ態度を取り続けているのか、それとも、ありのまま見たままがお前の本性なのか。この娘に表裏があるのかないのか、俺には見抜けなかった。
つきたくもない嘘をついてまで…。俺は内心で毒づいた。
腹いっぱいだなんて、嘘だ。
これからもきっと嘘をつく。満腹になることに興味がない俺は、食に対して受動的な人間だった。食への執着は生への執着だと認識していた。
何も欲しいと思わない。
かつて俺の腹を満たしたあんこう鍋が、未だに胃の底にこびりついている気がする。
それはもはや呪いだった。
きっと何を食べても満たされない。
「お腹いっぱいになりました?」
お前は最後までそれか。
すっかり反射で肯定の返事をするようになった俺は、結局最後まで嘘をつき続けたことになる。
それでよかった。
俺が本当のことを吐露しない限り、三木は同じことを俺に問い続けるだろう。その繰り返しでよかった。そんなことでも、この娘が俺の側に居続けるという確約になるのであれば、それでいい。一生嘘をつき続けてやると決めていた。
その思いに終わりはない。
嘘はつき続けるからこそ意味がある。
「お腹いっぱいになりました?」
だから、かつての戦いやいざこざが風化してしまうくらいの過去になった現代へと生を受け、100年越しの再会を果たしてなおそんなことを聞いてくる三木に、俺はひどく安心した。
金塊はない。
刺青もない。
だが変わらないものもある。
ようやく探し出した三木の手を引いて、半ば無理やり俺のものにした。杉元たちに見つかる前に、俺だけのものにしてしまいたかった。食や生への執着は相変わらず薄っぺらなものだったが、俺の三木への執心は時の分だけ重みを増したようだった。
そのとき大学4年生で一人暮らしをしていた三木は、意外なことにそんな俺を受け入れた。相変わらず、何が本音か分からないような顔は俺の心をざわつかせたが、それでも、例によってかけられる言葉に嘘の返事を重ねてさえいれば、ずっとこの関係が続けられると、俺はそう思っていた。
三木は人の奥深い所へは踏み込まず、浅いところでこちらを伺うような娘だった。だから俺も同じようなことをしたのだ。
進展のない関係。
だが後退するよりは余程いい。
二人で囲む食卓に俺は満足していた。
三木が卒業したら、俺の部屋で一緒に暮らせばいい。そうしたら、あのやり取りもきっと必要ないものになる。
そんな未来を思い描いていた。
しばらくして、三木は俺の前から消えた。年末が差し迫り、仕事で拘束されることが増えていたために、気付くのが遅くなった。
この時点で出会ってから1年が経っていた。俺の部屋に引っ張り込み続けた甲斐あってか、いつの間にか三木の私物が増えていた俺のマンションの一室は、まるで時間を巻き戻したみたいにかつての寂しいがらんどうな部屋に逆戻りしていた。
なんだこれは。
仕事の合間を縫って、ようやく帰ってきた部屋の真ん中で取り残されたように立ち尽くした。
随分あいつの物が増えていたんだと、無くなってから気付いた。所々ぽっかり抜け落ちたような部屋は、自分の家のはずなのに違和感しかなく、ひたすらに俺の焦燥を煽った。
電話をかけたが、出ない。
そもそも俺がいない時を狙って私物を回収していった三木が、俺からの連絡に応えるわけがないと、3回目の発信ボタンを押した後に気付いて、自嘲した。
結局、こういう終わりを迎えるのか。
何を食べても満たされないんだと、満たされたいと思わないんだと、素直に吐き出せない関係がそもそも間違っていたのだろうか。三木は、一体、何を思ってあの言葉を言い続けていたのだろうか。
乱雑にスーツの上着を投げ捨てて、ソファに腰を降ろした。これからどうやって三木を探し出すか、先のことを考える前に、思いの外ショックを受けている自分を落ち着かせる必要があった。
逃す気はさらさらない。ただ、逃げられた事実は大きい。思い返してみれば、三木にはっきりと拒絶されたのは今回が初めてだった。
最初に無視したのは俺の方だったのに。手痛いしっぺ返しをくらった気分だ。
部屋だけでなく、心にもぽっかり穴が開いた気分だった。
心の奥深い所を満たしていたものが無くなった。自分で自分の機嫌を操れる範囲外の部分。執着せざるを得ないところ。
なくなって初めて気付くもの。
飢えだとか、渇望だとかに似たその空白は、100何年かぶりに感じた、俺がずっと昔に無くしたと思っていた、満たされたいという感覚……。
「尾形さん、お腹すいてます?」
あんこう鍋の呪いが解けた。
▽
「尾形さん、お腹すいてます?」
ここ最近仕事が多忙だったせいか、目の下にクマをくっつけた尾形さんが、部屋の真ん中で死にそうな顔をしていた。
私が入ってきたことにも気づかないくらい沈んだ様子だった。
なんだなんだ。もしかして、私が勝手に部屋に入ったこと、怒っているんだろうか。でも合鍵渡してきたのは尾形さんだし、今までだって勝手に出入りはしてたのになぁ。
仕事がとんでもなくヤバそうってことが見ていて分かったので、連絡は遠慮しちゃったんだけど、それがまずかったのかな…。でも、それってこの世の終わりみたいな顔をするほどのこと?いやだな、久しぶりに会ったんだし、楽しい空気を出していこうよ。美味しいごはんでも食べに行く?
すっとぼけたふりをして、ソファの横に腰掛けて声をかけると、その時初めて私に気付いたような様子で尾形さんの肩が跳ねた。
信じられないものを見る目で私を見るのが、びっくりするくらい新鮮だった。
「尾形さん?」
「お前……」
まじまじと私を見つめていた尾形さんの手が、突然私の両肩を力強く掴み上げたので慄いてしまう。こちらを睨め付ける目が、打って変わって力強い責めの感情をはらんでいるのがちょっと怖い。
「お、尾形さん?」
「…説明しろ」
「え、何を?」
「この部屋の有様だ」
「え?……あ、あー。断捨離しました。ちょっと整理しようと思って」
「は?」
「じゃないと入らないかなって」
何をだ、とその不可解そうな視線だけで訴えてくる尾形さんに、私も似たような目線で返した。やだな、忘れちゃったんですか尾形さん。
「私の荷物ですよ。明日ここに届くので、一緒に荷解きしてくれます?」
「は?」
「……えっと、一緒に暮らすんですよね?」
そのつもりで自分のアパート解約してきたんですけど…。と、そうまごつきながら返す私を、尾形さんは瞳孔をかっぴらいて見下ろした。えっなんでそんなに驚くんですか。えっ。
「えっ、そういう話じゃなかったですか?卒業したら一緒に住むって」
「いや…。…した。したな」
「ですよね?は〜、焦った〜。ここ追い出されたら住所不定無職になっちゃう」
「住むのか、ここに」
「あっはい、今日から。住みます」
内定も決まってるし、必要単位も取れているので、わざわざ卒業を待つ必要もないかと思って時間のあるときに引っ越し準備を進めていたのだった。も〜、大変だったんですよ。尾形さんめちゃくちゃ忙しそうだったから手伝ってほしいなんて言えなかったし。引越しって重労働。一人でベッド解体するの超骨折れた。
「ね、引越し祝いに、ごはん食べに行きません?力仕事ばっかでお腹ぺこぺこなんです」
力の抜けた顔つきになった尾形さんの両手を引っ張って、一緒に立ち上がった。どうせ尾形さんだって腹ペコのはずだ。知ってる知ってる。昔っからそうだよね。尾形さん、ほっとくとすぐ食事って作業を忘れちゃうから。
「……そうだな。腹いっぱいになりに行くか」
そんな尾形さんにしては、珍しい言い回しをする。なんだか憑き物が落ちたみたいな表情で、小首を傾げる私を見下ろしている。うーん、よほどお腹がすいているとみた。
「じゃ、何食べに行きます?和食?中華?」
「今日はもう決まってる」
「えっ珍しい。何ですか?」
「あんこう鍋」
「へー。私、食べたことないです」
「…俺もだ」
「え?」
「どんな味がするんだろうな」
「さあ。淡白そうですけどね」
「どうかな」
「?」
「行くか」
「あっ、はい」
呪いの刷新。
2019.2.26