短い話
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※現パロ(モブ視点)
働いてて、嫌だな、とかつらいな、って思うことがあったとき、その子を見ると、なんだか救われた気分になる。
「また怒られたんですか?」
「言われた通りに作ったのに…ラフでは褒めてくれてたのに…」
「あるあるですねえ」
「直しは今日中だって…朝イチで先方にメール確認だって…」
「それも、あるあるですねえ」
広告代理店なんてどこも同じだ。仕事はきついし、給料は安いし、クライアントや上司は無茶ばかり言う。そんなんだから社員の入れ替わりも激しくて、かくいう俺も別の代理店から中途でここに入ってきたクチだった。五十歩百歩、目くそ鼻くそ、どんぐりの背比べ…。やっぱり広告代理店なんてどこも一緒だなあ!果たして、今日も仕事がつらい。
俺の救いであるピチピチギャルの八重田三木ちゃんは、そんな俺の一ヶ月後輩にあたる入社半年の新入社員だった。だというのに不自然なほど仕事ができるので、経験者である俺よりもよっぽど皆に頼りにされていた。
「手伝いますよ」
「八重田さん自分の仕事あるでしょ。大丈夫…」
「……今からとっても言いづらいことを言うんですが……」
「?」
「定時です」
すでに押されたタイムカードを持ち上げてみせる三木ちゃんが哀れみをたっぷりその目にたたえていたので、思わず涙が出そうになった。入社半年といえど、万年人手不足の弊社なので、三木ちゃんにだってたっぷり仕事は回っているはずなのに、ほぼ毎日定時上がりなんだからその優秀っぷりが伺える。それに比べて俺は…。定時という概念がすっかり抜け落ちていたことから、俺の日々の帰宅時間を察してもらえることだろう。
「たまのサービス残業もオツですから」
「八重田さんてばなんて出来た子…ウウッ」
なぜか定時を過ぎてもほぼ全員がデスクに着いたままのこの会社で、俺は彼女の笑顔にのみ癒されているといっても過言ではない。ぶっちゃけると、好きだ。付き合いたいと思っている。22歳の若々しさ溢れる彼女のプライベートに踏み込むことができたなら、俺だって、今は幻の定時上がりを為せる気がしている。
そんな俺だから、社内の誰よりも三木ちゃんのことを知っているという自負があった。
皆に好かれている彼女を一等好いているのは俺だという自信があった。
彼女も俺にそこそこ懐いているんじゃないかという自尊があった。
そんなことばかり考えているから、
今日も俺は定時で上がれないし、
毎日怒られても上の空で、
たとえこんなことになっても、
未だに現実を直視できないでいる。
「ド下手くそ……」
三木ちゃんの口からそんな汚い言葉が出てくるのが受け入れられないという気持ちと、恐怖と、少しの興奮がないまぜになったせいで、俺はデスクから一歩も動いていないくせして息も絶え絶えになってしまっていた。
多分、ジョークなんだと思う。出し物とか。ドッキリね。エイプリルフールもまだのくせに、こんな悪趣味な催しを思いついたやつを後で締め上げようと思っても、いつまでたっても目の前の現実が動かないので、俺も立ち上がることができない。
三木ちゃんの首には、男のがっちりとした腕がきつく巻きついている。
頬にあてられたナイフは刃渡20センチはありそうだった。それを持つ手が小刻みに震えるもんだから、いつ誤って三木ちゃんの可愛い顔が傷つけられてしまうかと気が気じゃない。おい。脅すなら脅すで、しっかり持てよ。三木ちゃんにかすり傷一つでも付けてみろ。俺が黙っちゃいないぞ…。そんなことを頭の中で一生懸命叫んだ。俺の足があの男の持つナイフ以上に震えているのが、よく分かった。
なんでこんなことになっているんだろう。
いつも通りの、仕事に追われて疲れ果てた一日の終盤だったはずなのに。もうすぐ帰れるというときに、突然押し入ってきたこの男は、あろうことか三木ちゃんを後ろから羽交い締めにしやがった。くそ。新入社員の三木ちゃんは来客対応の雑務なんかも任されているから、入り口から一番近いところにデスクを置かれていたのだ。
「は?…な、なんつった?」
なんでこんなちっぽけな会社に強盗が入るんだよ。おかしいだろ。このドッキリを考えたやつの作り込みの甘さを笑ってやろうと立ち上がりかけたところで、男が取り出したナイフが三木ちゃんの顔にあてられた。…なあ、それはさすがに、パワハラじゃないのか…。
「ド下手くそって言ったんです」
平然とした顔の三木ちゃんの言葉も、場合によってはパワハラの一種になってしまう。
「全然抑えられてないし。力弱いし。しかも震えちゃってるし…」
「は…?」
「あとなんか汗くさい」
激高した男が力任せに三木ちゃんの体を壁に叩きつけたところで、俺は頭の中で叫ぶことさえできなくなった。周りも皆震えていた。この展開がパフォーマンスであることを願うことしかできない文系の弱虫ども…。俺を含めて。三木ちゃんだってそうだったはずなのに。今時の、なんの変哲もない、ただの若い子だったはずなのに。
「も〜…」
「…」
「ほんっとヤダ…」
「…」
「痛いし…杉元さんに怒られちゃうし…」
「は、」
「で?」
「…」
「あなたは何師団の人だったんですか」
そんな、意味のわからないことを言う子じゃなかったじゃないか。血の混じった唾を吐き捨てながら、三木ちゃんは自分の後頭部を掴む男の手を払いのけた。その動揺のなさはなんだ。
「俺は、つ、鶴見中尉の、」
「…」
「中尉の、中尉に、救われたから」
「…」
「今度こそ、成せなかったことを成すために」
「…」
「お前を殺しにきた」
「なんだただのバカか」
一瞬だった。三木ちゃんの挑発を断ち切るみたいに、男が振りかぶったナイフが蛍光灯の光を受けてきらめいた。その先は覚えてない。見てられなかった。だってそうだろ、人が刺される瞬間なんて、目をそらさずにいられる奴がいるもんか。もしそんな奴がいたとしたら、そいつは頭がおかしいに違いない。
「……バカはどっちだ」
だから、突然現れたその男も、きっと頭がおかしいんだ…。
「お、尾形さん」
三木ちゃんが狼狽した声で現れた男の名を呼んだ。向けられたナイフをどうやってかわしたのか、いつの間にか組み敷いていた男の首には小さな注射器があてがわれていた。な、なんだそれ。ここはジェームズボンドの世界かよ…。自らの手によってむき出しにされた三木ちゃんの太ももに巻き付いたベルトには、同じような注射器がいくつも連なっていた。
「…中身は」
「に、ニコチンです」
「バカか。死ぬだろう」
「だって、殺せって言われたから…」
「は?誰に」
「家永さん」
あのクソジジイ、と悪態をついた男が、三木ちゃんの腕をとって男から無理やり引き剥がして隣に立たせた。それに大人しく従った三木ちゃんは、それでも抜け目なく、暴れる男の首を踏みつけてその抵抗を削いでいた。もういい加減、夢なんだと思う。あの三木ちゃんがそんなことをするはずがないでしょ…。これは全部夢なんだ。
オガタと呼ばれた男が三木ちゃんの手から注射器を抜き取って、当たり前みたいに三木ちゃんのスカートをたくし上げてベルトに挿し直す様子がなんだか場違いにえっちだったので、実はこのとき少し勃った。
「ていうか、尾形さん、なんでここに」
「は?お前が遅いから迎えにきたんだろうが。感謝しろよ」
「はあ、それはどうも…」
「くだらねえことに巻き込まれやがって」
「いつものことじゃないですか。こないだも同じようなことあったし」
「は?」
「え?」
「知らんぞ。聞いてねえ」
「杉元さんと映画行った日に…」
「は?」
「そのときは杉元さんに任せたけど」
「は?」
いつの間にか暴れるのをやめて泣き出していた男を、オガタは器用につま先でひっくり返して、みぞおちを思いっきり踏みつけた。見てるだけで痛くて思わず涙が出た。短く濁った声を上げた男はそれを最後に意識を手放したらしくて、それからピクリとも動かなくなった。おい、殺したんじゃないだろうな…。もう勘弁してくれよ。俺はとうとう泣いたし、周りも皆泣いていた。
「みんなバカですね。刺青なんてもうないのに…」
「金塊もな」
「前世のことなんて忘れちゃえばいいのにね」
「は?」
「え?」
「このバカ運ぶぞ。手伝え」
「あ、はい」
オガタが動かなくなった男を抱えて歩き出したので、三木ちゃんが先回りして自動ドアを抑えた。おい。もしかしてこのまま去るつもりじゃないだろうな。おい。さすがにないだろ。説明してほしいことがたくさんあるのに、たくさんありすぎてちっとも呂律が回らない。嗚咽ばかりが口をついて出た。
「あーあ、やっぱ転職かなあ…」
「だから、俺のところに来いって言っただろ」
「尾形さんとこって外資系じゃん…絶対無理…」
「違う」
「え?」
「行くぞ」
「え?」
現れたときと同じように、オガタはあっと言う間に去っていった。だから何者だったんだお前は。今、この場で、何が起こったのか説明してくれよ。俺だけじゃない、周り全員の視線が三木ちゃんに集まった。オガタの後を追いかけようとした三木ちゃんはその視線に気づいて振り向いてくれた。よしいいぞ。説明してくれ。でいうか誰か質問しろよ!なんで誰も何も言わないんだよ!なんで足の震えが止まらないんだよ俺は!
「あの、短い間でしたが」
「…」
「お世話になりました。どうも」
どうしていつも通りに笑えるの、三木ちゃん…。
このときその場にいた全員が、もう二度と三木ちゃんとは会えないことを薄々ながら勘付いていた。だからこの場で聞かなきゃ一生謎に伏されると全員が分かっていた。君は一体何者なんだ。さっきのやり取りはなんなんだ。何に追われているんだ。襲ってきた奴は何者だ。オガタはどういう奴なんだ。最初から、最後まで、一体何が起こっていたんだよここで!
「あ…あ、あの、三木、…ちゃん」
絞り出した声がかろうじて言葉になっていたことに、俺は何よりも安心した。三木ちゃんがちょっと驚いたような顔をしたので、そのとき初めて名前で呼びかけてしまったと気づいた。ああそうだよ。俺は君のことを心の中で馴れ馴れしくもちゃん付けで呼んでいたんだよ。
「あの…その、き、君は…っ」
三木ちゃんのことならなんでも知っていると思ってた。俺が一番君と仲が良いと思ってた。でも、全然違ったんだね今知ったよ。なんだこのクソみたいな現実は。
「な、なんで、そんなに、強いの…?なんて……ハハッ…」
だからなんでそんなクソみたいな質問しかできねえんだろうな俺は。こんなだから、いつまで経っても怒られて、定時上がりもできなくて、一回りも年下の女の子に助けてもらってる無能なんだろうな。
それでも三木ちゃんは俺を見下したりしなかったから。だから好きだった。付き合いたいと思っていた。
「はあ。あの…」
「…」
「私が強いっていうか」
「…」
「さっきの人が弱かったので」
「…」
「熊より、弱かったので」
「…」
「それだけです。じゃ」
何かを熊と比べた経験のない俺がおかしいのだろうか?
外からオガタが三木ちゃんを呼ぶ声がして、三木ちゃんは今度こそ去っていった。それを黙って見送った俺たちは、そのまましばらく声を上げて泣いた。怖かった。後から気づいたが、半数以上がチビっていた。
その後、全員がこのときのことを悪い夢だと思って、二度と三木ちゃんのことは口に出さなかったが、俺はまだあの子のことが好きだった。
熊より強そうなあの子に、実はあのとき惚れ直していた。
かつてのモブ軍人の数だけ刺客はいるぞ 〜杉元一行の受難〜
2019.1.19