涙のヤジロベエ
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不死身の杉元の名を耳にした瞬間の八重田の顔を、尾形にも見せてやりたかった、などとその場にいた全員が思った。
「こら、八重田。こぉら」
「…」
「やめなさい。八重田。こらこら」
「…」
「聞こえなかったかな?」
やめなさいと言っている。
三度目になってようやく鶴見の言葉に従った八重田は、ゆっくりと振り上げていた足を下ろした。その間も、苛立ちを隠さないひとみはずっと目下の男を睨みつけているので、その命令に納得して従ったわけではないのが周囲にはありありと分かった。
椅子に縛り付けられて身動きの取れない杉元の肩にくっきりとついた靴底の跡から、八重田の足が本気で押し込まれていたことにようやく気付いて、静観していたはずの野間たちは思わず生唾を飲み込んだ。
あの八重田上等兵が、鶴見中尉の指示を無視するなど。
八重田の足癖の悪さは鶴見中尉もよく知っていた。
彼の尻に手を伸ばす不届き者を叩きのめすために振り上げられた足がどんな悪さをしようと、鶴見中尉は咎めなかった。礼節を重んじる輩が八重田の行いを咎めた時も、鶴見は彼を庇うような言葉を並べてみせた。平時、八重田がどんな行いをしようが、鶴見中尉の指揮下にひとたび入ってしまえばそんなことは何の関係もなかったからだ。八重田は鶴見の駒としてよく働いた。鶴見を崇拝していた八重田にとって、彼の命令を無視することなど言語道断であったし、従うことに何の不満もなかった。昔から飛び抜けてよく動くこの足を鶴見の役に立てるためにできることは惜しまなかった。ただ鶴見の言う通りに動いた。そこに八重田の意思なんてあるはずもなかった。言われたことをこなすことに、この上ない喜びを感じていると思われた。
でも、と野間などは思う。
そうではなかったのかもしれない。鶴見中尉にこの上ない忠誠を誓っている八重田が、一方で涼しげな顔をしながら自分の道理にのっとって痴れ者を叩きのめす八重田が、本当に大事にしていることは、別にあったのかもしれない。そしてそれは、鶴見中尉が握っているとは限らないのかもしれない…。
話を戻して。
不死身の杉元を捕まえた、との伝令は第七師団の中であっという間に広まった。まさに電光石火だった。多くは指示を受けるまでいつも通りの役割をこなす動きを見せたが、当然ながら、八重田にはそんなこと知ったこっちゃない。例によって速報を伝えにきた三島の首根っこを掴みながら、取り調べが行われている部屋まで足はやに駆けた。珍しく息を乱す八重田を頭上で感じながら、不謹慎ながら三島は少しわくわくした。非日常が始まる予感がしていた。
「…八重田上等兵…」
ちょうど二等兵が杉元の身柄を椅子に拘束したあたりで部屋に押し入った八重田は、腰を落ち着けている鶴見中尉を一瞥してなお杉元の方に気を向けた。
猫のように放り出された三島を見て谷垣が苦い顔をしたが、三島はそれにサムズアップで返した。今度は失言しなかった、と自信をたたえた目がそう伝えたが、そんなの当たり前のことではないのか…。むしろ、八重田上等兵を杉元に引き会わせたことの方が失態ではないのか、と思いながらも口をつぐんだ谷垣だった。ぎゅっと寄せられた眉根の下の切れ長の瞳は冷たく燃えるようで、顔のいい男が怒るとこんなに恐ろしいものなのかと今更なことを思った。
「お前か」
「…あ?」
「尾形を殺したのはお前か」
死んでない死んでない。
鶴見と、三島と、岡田が同時に手を横に振った。八重田上等兵、まさかテンパっているんですか。口に出してつっこめるほど野間は空気の読めない男ではなかったが、「あれ、あの人ついに死んだんですか」などとのたまう二階堂弟の頭を小突くくらいのことはしてやった。縁起でもないことを言うな。
「知らん。人違いだ」
「…」
最初から杉元の言い分なんか聞く気はなかったくせに、一応返事を待つあたり八重田の義理堅さが見て取れた。理不尽な暴圧を何より嫌う八重田にとって、会話をなさないまま事を進めるのは我慢のならないことだったらしい。
それでも聞く気がないんだから結果は一緒だ。間髪入れずに振り上げられた八重田の右足が、勢い良く杉元の肩に押し込まれた。ゲッ、と三島がうめいた。杉元に手を出すな、とは鶴見中尉に一番最初に仰せつかった命令だった。ここに来るまでの道中、引きずられながらもちゃんと八重田には伝えていたはずなのに。
踏みつけにされた本人といえば少し顔をしかめる程度で、目と鼻の先にある軍靴を避けるように顔を逸らした。もったいない、と呟く輩がいなかったのは僥倖だった。今の杉元に見えている光景は一部の野郎どもからしたら垂涎ものであったろうが、今このシチュエーションでそんなことを口に出せるやつがいたらそいつはただの馬鹿か、大馬鹿でしかなかった。
尾形なら口に出しただろうか。なんでもないふりして八重田に並々ならぬ執着を抱いていた尾形は、どんな形であれ他の男の前で足を広げた八重田の姿を見咎めただろうか。そこまで考えて、野間はイヤイヤとかぶりを振った。そこまでいったらただの変態じゃないか。それこそ、今こうして尾形のために八重田が怒っている光景こそ、見逃せないワンシーンだったに違いない。
「八重田、やめなさい」
そうして冒頭に至る。
鶴見中尉の命令を再三無視した八重田は、それでも最終的にはちゃんと言うことを聞いたので鶴見中尉はよしよしと頷いた。
あの八重田が鶴見中尉の言葉より尾形の敵討ちを優先するようなことがあれば、それがどういうことか…。こっそり造反を企てている野間たちはほんの少しの光明を見たように気持ちになる。
「いってぇな、足蹴にしやがって」
「…尾形は…」
「あ?」
「奴は銃の腕はあっても接近戦ではヘナチョコなのだ」
血の混じった唾を吐く杉元を見下ろしながらそんなことを言う八重田だった。こりゃいかん、と玉井伍長が八重田の首根っこを掴んで杉元から距離を取るように引きずった。されるがままの八重田は、しかし杉元をジロリと睨んだまま視線を外そうとしないので、さしもの鶴見中尉もやれやれとかぶりを振った。まったく手のかかる犬っころだ。
「狙撃で死ぬならともかく、勝ち目のない肉弾戦で敗れて死ぬのは奴もさすがに哀れだろうが」
「死んでない死んでない」
「八重田上等兵、死んでませんよ!」
「まだ生きてますって!」
聞いちゃいない。
落ち着きなさいよと玉井伍長が八重田の顎下をくすぐりながら頭を撫でた。谷垣や三島にもどうどうとなだめられて、まだ生きてますからね、と念を押すように付け加えられて、ようやく杉元から視線をそらした。なんだこいつ、と鼻白んだ杉元は、このとき初めて八重田という人間に興味を持った。
「やれやれ…。さあ、私と話をする番だな」
「……ンだよ、あんたが聞きてえ話なんかできねえぞ」
事ここに及んでしらを切ろうとする杉元をうっそりと見つめる鶴見中尉のひとみはくらい。先走った八重田を取り立てて咎めることもなく、ただ聞きたいことを聞くだけだった。
鶴見の手によって頬を串刺しにされてなお、微塵の動揺も見せない杉元を、いくらか落ち着きを取り戻した八重田は面白くなさそうに眺めていた。
テンパリスト。
2019.9.14
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