涙のヤジロベエ
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「………あ゙?」
いつにも増して不機嫌そうな八重田の反応に、三島は少し動揺した。傍らで谷垣が押し黙っている。
第七師団の兵舎の一室に、居心地の悪い空間が出来上がっていた。そんな空気に誰がしたかといえば、あえていうならそれは一番最初に発言した三島自身であったし、そんな三島を遠慮のない目で見る八重田でもあったし、成り行きを見て口を開かずにいる谷垣でもあった。この場にいない人間は、割愛する。
そもそも三島の切り出し方がよくなかった。八重田が控える個室に入るなり、一気に言い切ってしまえばいいものを「八重田上等兵!悲報です、尾形上等兵が……」などと中途半端に言いさしてしまうから、それを受けた八重田の態度だって剣呑なものになる。部屋の中で想定外のことが起きていたために、思わず言葉を飲み込んでしまったのがよくなかったのだ。
「おい。尾形がなんだ?」
「あ、その……尾形上等兵が……」
言いながらも、三島の視線が床に泳いでしまう。
自室のベッドに腰掛ける八重田と、その足元で伸びている名前も知らない二等兵の構図は、気にするなというのが無理な話だった。話には聞いていたが、実際にこうして返り討ちに遭っている奴とその現場を見るのは、三島も谷垣も初めてだった。
三島はそれまで、とっつきにくいと言われがちな八重田マキ上等兵とは、なかなか上手く付き合えている方だと思っていた。人の尻に欲情したことのない三島だったから、いくら八重田上等兵の腰回りが大層魅力的であったとて、それは自分にいっさい関係のないことだった。むしろ、誰に、いつ、どのように言い寄られようが、頑なに痴れ者を叩きのめす八重田の一貫した態度の方に好意を感じていた。そんな八重田に尾形がいっとう執着するのも、なんとなく分かる気がした。面倒な人たちに好かれそうなタイプ、とはさすがに口には出さなかったが、それでも挫けず頑張ってほしいとこっそり心中で応援旗を揚げるなどしていた。
だからこそ、八重田の同期である尾形の身に起きた不幸を、いの一番に伝えなくてはと、こうして谷垣とともに駆けてきたのだ。
「尾形上等兵が……その……」
「おい、らしくないぞ、三島。はっきり言え」
「あ、いや、その」
「尾形が、なんなのだ」
どうやら尾形によくないことが起こったらしいと、冒頭の三島の言葉で察した八重田の表情は、かたく険しい。
もっと、冷静な人だと思っていた……。八重田の剣呑な態度に三島は動揺していた。いつも同じようなテンションで、荒れも狂いもなく、着実に任務をこなす八重田にここまで明瞭に睨まれたのは初めてだ。三島は八重田の尻を狙っていなかったので、尚更。
尾形上等兵、意外と脈ありかもしれません……などと、動揺する頭の隅で渦中の人のことを思った。
「尾形上等兵が………死にました」
「は?」
「は?」
大事なことを話す時に、考えごとをするのはよくない。
口が滑った三島の頭を先にどついたのは、後ろに控えていた谷垣だった。
「………生きてるな」
「ええ、生きてます」
「ほぼ死んでるようなもんですが」
「コラッ二階堂ッ、不謹慎だぞッ」
「お前が言うな」
二度目の制裁を受けて、三島はすごすごと引き下がった。拳を振り下ろした谷垣と、それを見て愉快そうにする二階堂兄弟を背後に、八重田はただ目の前に横たわる尾形をじっと見下ろしていた。
さまざまな傷病兵が入り混じる陸軍病院の中で、全身を包帯でぐるぐる巻きにされた尾形は頭一つ抜けて重傷だ。それが分かるから、容態をわざわざ聞くようなことはしない。リネンの清潔な布団がかすかに上下しているのを確認できたら、八重田はそれだけで十分だった。
「鶴見中尉は?」
「意識が戻るまでは様子を見ると」
「そうか」
「え…もういいのですか」
「生きてるならいい。あとは知らん」
そう言ってさっさと踵を返してしまう八重田に、一等兵一同が唇をとがらせた。
「冷たい、八重田上等兵、それは冷たい」
「側にいてあげなくていいのですか?」
「手を握ってあげては?」
「優しい言葉をかけてあげましょう、さあ」
「なんなのだお前らは…」
いくら上下関係が厳しい軍人とはいえ、徒党を組んで責められると八重田がたじろいでしまうのも無理はない。真面目な谷垣にすら促されて八重田はしぶしぶ尾形に向き直った。備え付けの椅子に腰を下ろして腕を組んではみたものの、それ以外にすることがない。尾形は何も喋らないし、八重田だって返事のない相手に向かって延々世間話をするような生産性のないことはしない主義だった。
八重田が意外にも自分たちの言うことを聞いたので、三島たちは少し調子づいた。
幾度の死線をくぐり抜けてきた歴戦の強者の中でも、ずば抜けた射撃の腕を持つ尾形と、常人離れした健脚を持つ八重田は一目置かれる存在だった。この二人がいたから抜けられた窮地も少なくない。そういう人間は、総じて扱いづらいものだ。尾形はいつも何を考えているのかよくわからなかったし、八重田も八重田で鶴見中尉以外には決して愛想のいい方じゃない。そんな二人のうち片方が物言わぬ状態で、さらに八重田が押され気味とあれば、ここぞとばかりに絡んでやろうと三島などは思った。二階堂兄弟も似たようなものだった。谷垣は根が優しいので純粋に尾形を心配していた。
「さあ、尾形上等兵に励ましの言葉を」
「あ?」
「なんでもいいんですよ。頑張れとか」
「勝手に頑張るだろう、こいつなら」
「おっ、そういうのですよ!もっと褒めて!」
「…悪運がある。体も丈夫だな」
「いいですよ!もっと!」
「憎まれっ子だからもっと世に憚るだろう。根性もある方だ」
「もう一声!」
「あ?もう無い」
「そう言わずに!」
「絞り出して!」
「…」
「さあ!」
「意外とまつげが長い」
「最高!!」
なんの歓声だこれは。
盛り上がる三島達と、乗せられた八重田がまとめて看護婦に注意されているのを見ていた谷垣は、視界の端で何かが動いたのを見て瞠目した。
これは後に第七師団の中で語り草になることだが、尾形はそのとき、確かに意識を取り戻した。これには八重田も驚いた。お節介半分、面白半分で八重田をそそのかしていた三島達もぎょっとした。
当然、八重田の呼びかけによって尾形が目を覚ましたわけではなかったが、この奇妙なタイミングの合致により、「尾形上等兵はまつげを褒められるとどんな怪我でも立ちどころに治る」というまことしやかな噂が流されることは、このときの尾形は知る由もない。
「尾形上等兵!」
「意識が戻ったのですか」
「やってみるもんですね」
「おい。鶴見中尉に知らせろ」
「はい!」
「尾形。…見えるか」
神妙な顔をして尾形の顔を覗き込んだが、すぐに顎が砕かれていることを思い出して小さく舌打ちした。これでは返事のしようがない。それでも尾形は目を開けて、八重田をみとめて視線を合わせた。血の気のない顔だが、瞳に意思が見えることを確認して八重田は小さく頷いた。同時に、その黒目が辿るように下方に動き、震える右手がかすかに持ち上げられたのを見逃さなかった八重田は、すぐに尾形の行動を理解して手首を掴んだ。
もう片方の自身の手のひらに尾形の指を押し付けて、近い距離で、じっと見下ろした。尾形も八重田を見上げていた。
「書け」
「…」
「何でもいい。俺に伝えろ」
「…」
「尾形」
ゆっくりと、震える手が八重田の手のひらをなぞった。銃を握り慣れた硬い指先が、3文字の言葉を書き終わるまで、八重田は何も言わずに尾形を見ていた。
やがて力尽きて尾形の手がベッドの上に落ちると、後ろで成り行きを見守っていた二階堂達もようやく口を開くことができた。見えない文字を手の内に握りこむ八重田の背中に問いかける言葉が殊勝な声音であったのは、無理もないことだった。
「尾形上等兵は、なんと?」
「…」
「八重田上等兵」
「ふじみ、だ」
「は?」
「ふじみ。そう書いた」
「……どういう意味です?」
「知らん。俺に聞くな」
「はあ……」
「八重田上等兵!鶴見中尉がお越しです」
息を乱して現れた三島の後ろから現れる人物を迎えるため、八重田は姿勢を正して向き直った。尾形は既に目を閉じている。八重田に残された言葉が一体何の意味を持つのか、問いただすことはできなくなっていた。
「八重田上等兵……」
「谷垣。尾形はふじみと伝えた。それだけだ。あとは鶴見中尉が判断してくださる」
「しかし、それだけでは…」
「……尾形は、俺に伝えたのだ。いいか、尾形が、俺にだぞ」
硬い軍靴の音が病室に近づいてくるのを、八重田はまっすぐ扉を見つめながら聞いていた。そんな八重田の横顔を伺う谷垣たちは、そのとき初めて八重田の感情に気がついた。普段から顔に機嫌を出す方ではない八重田は、その分態度に出やすい男だということは、既に周知の事実だった。
「あいつが俺に、意味のないことをするわけがない…」
谷垣たちは何も言わずに、八重田にならって病室の扉へと視線を移した。
血の気が失せるほどかたく握りしめた拳は、八重田が怒っていることを示していた。
実は、最初から、ずっと。
2019.2.25