涙のヤジロベエ
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八重田は昔から大抵のことならそつなくこなした。
石川の田舎に生まれ、徴兵検査を得て軍隊に入隊した八重田はそもそも軍人としての進退にあまり興味がなかった。
二等卒の肩書きを負っていた頃はその身分の低さから様々ないたぶりを受けたが、八重田はそれに反発した。心底くだらないと思っていた。軍人であれば誰でも通る道だろうと、一つ位が上がっただけの男たちは従順でない八重田を叱責したが、それでも切れ長の瞳にきつく睨まれて黙ってしまう者は少なくなかった。いくら声を荒げて八重田を貶めたところで、少しも響いた様子がないのが一等卒たちの困惑を助長した。ただの田舎者だと侮ったのが彼らの間違いだった。涼しげな顔の作りの割に八重田には根性があったし、自分が正しいと思ったことを曲げる義理はないと思っていた。
そんな八重田が上等兵となり、階級によるわずらわしさからある程度解放されると、それ以上彼が軍の中で望むことはなかった。同期の上等兵や分隊長などから尻に伸ばされる手さえ振り払っておけば、尊敬する鶴見中尉のお役に立てる立場であったので、出世願望のない八重田はある程度満足していたといえる。
尾形はそんな八重田をずっと側で見てきた。意識して隣に立つでもなく、不思議と足並みが揃う八重田のことを、尾形は初め自分に似ていると思っていた。愛想がなく、腕が立ち、どこか意固地なこの男を、自分なら理解できると思っていた。その決めつけがいつしか執着に代わり、金塊探しが始まる頃には、八重田が鶴見中尉に向ける視線さえわずらわしいと感じるようになっていた。
「玉井伍長らと最近よくつるんでいるらしいな」
ある日の日夕点呼のあと、他愛のない話をしていた八重田が急にそんなことを言い出したので、尾形は顔には出さずに内心で少し驚いた。
バレていないと思っていた。八重田は根が真面目な男で、しかも鶴見に忠誠を誓っていたので、谷垣同様自らの陣営に誘うのは悪手だと考えていた。そもそも金塊に興味のない八重田にとって、鶴見中尉を裏切る話になんのメリットもなかった。今この場でそれを問いただされるのは尾形にとってよろしくないことだ。ただ、この男が自分の動向を気にしていた事実は捨て置けないものがある。
「なぜそう思う?」
「あ?」
質問に質問で返されて八重田は剣呑な顔をした。尾形の猫目には微塵の動揺も浮かんでいない。そこそこ長い付き合いの中で、八重田が尾形の行動の変化に気付いたのも、それを口に出したのも、尾形が知る限りでは初めてのことだった。
「俺に興味があるのか?」
「おい。茶化すな」
「別に、…伍長とはくだらん話をしていただけだ」
尾形が誰とつるもうが、誰の派閥に入ろうが、八重田には一切関係のないことだった。ただ、八重田の世界には鶴見中尉と、少なからず尾形も存在していた。大抵のことはそつなくこなせた八重田だが、軍人になって一番最初に敵わないと思ったのが尾形の銃の腕だった。実はその時点で尾形に一目置いていた八重田は、しかしそれをおくびにも出さなかったので、当の尾形は知る由もない。
「伍長とは酒の趣味が合うからな」
「へえ…」
本当にただの雑談の延長だったので、それだけ聞いて八重田は会話を切り上げた。宙ぶらりんな気持ちのまま残された尾形は不服である。
そんな、適当な相槌で済まされてたまるか。
初めて会った時から鶴見中尉の方ばかり見ていた八重田が、ようやくこちらを向いたのだ。尾形にとってそれは待ちに待った、いわば千載一遇のチャンスだった。
組み敷こうと思えばいつでもできた。鶴見中尉の名を呼ぶ憎らしい口を塞ごうと思えばいつでもできた。八重田の顔を見ただけで猛るそれを押し込もうと思えばいつでもできたのだ。だというのに尾形がそれをしなかったのは、本当の意味で八重田を手に入れたかったからに他ならない。八重田の人生丸ごと自分のものにしたかった。今この瞬間に求められたいとすら思っている。ようやくその兆しを見せ始めた八重田を逃せるはずもない。
「おい。酒を飲むぞ」
「あ?」
ひと段落した雑談の合間でぬるくなった湯飲みの茶を煽っていた八重田は、なんの脈絡もなく立ち上がった尾形を胡乱な目で見上げた。
「なんだ急に」
「そんな気分になった。付き合えよ」
「珍しいな。お前が俺を誘うなんて」
「は?」
「玉井伍長でなくていいのか」
酔いに任せてお前を組み敷かんとも限らんからだ、と言ったらこの男はどういう反応をするだろうか。尾形がそんな逡巡をしているとも知らずに、八重田も尾形にならって立ち上がった。少なくとも二人きりでの酒盛りを嫌がられるような関係ではないらしい、とそんなことで頬を緩ませる尾形を見て、八重田は存外酒の好きな男だなと解釈した。八重田だって嫌いじゃない。
「だが肝心の酒がないだろう」
「ある」
「は?」
「前にくすねた残りが部屋にある」
「あぁ?」
連れ立って宿舎の方へと歩き出した八重田がふいに尾形の方を振り向いたので、尾形は思わず足を止めた。八重田はいつも切れ長の瞳を細めるようにしてきゅっと眉根を寄せている。目つきの悪いのが当たり前で、根が真面目なくせに柄が悪く、それがまた妙に色っぽく見えるときがあった。そんな所作に惹かれた奴らが八重田の尻に手を伸ばすのだ。
その八重田が尾形を見て、少し意地悪げな笑みを見せた。鶴見中尉には決して見せることのない表情だった。
「尾形でもそんなことをするんだな」
「……普通だろ、それくらい」
「そうか、普通か」
「……」
「はは」
「…なんだよ」
「いけない上等兵だな」
なんだその顔は。ブチ犯すぞ。
切れ長の瞳をすがめ、からかい混じりの言葉を吐く八重田を尾形はこれから妄想の中で何度も押し倒すことになる。尾形はそうすることでしか自身の猛りを処理できないところまで来ていたのだ。
2人きりになって近い距離で酒を酌み交わしても、尾形はそのどろどろとした執着を完全に隠し通すことができた。ただ気の置けない同期と飲んでいるだけのつもりの八重田を見る目は、言わずと知れた狙撃手のそれだった。
(いつか必ず俺のものにしてやる…)
尾形の言う「いつか」が決して遠いものではなく、明らかな現実味を帯びていることは、実は彼が一番よく知っていた。
尾形は狙った獲物を決して逃さない。
誘い上手(無自覚)
2019.1.16