涙のヤジロベエ
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
鶴見中尉に褒められた日の八重田は機嫌がいいのですぐに分かる。
尾形が食堂で彼の後ろ姿をちらと見ただけで、なんとなく理解した。とっつきにくいと言われがちな八重田に対して、今日はやけに声をかける奴が多いこともそれを証明していた。
普段からあまり感情を顔に出す方ではないが、態度に出やすいのが八重田という男だ。切れ長の目が尾形を捉えると、尾形が隣に腰を降ろす前に空の小皿をずいと差し出してきた。
「…なんだよ。何もやらねぇぞ」
「入れろ」
「はぁ?」
「嫌いだろう。俺が食べる」
言われてみると、なるほど、確かに奴がいた。芋と人参の煮付けに澄ました顔で混じっている黒いブツを引っこ抜いて小皿にポツリと落とすと、八重田は何も言わずに食べてしまった。尾形が食器を差し出して、八重田がしぶしぶ引き受けるというのがいつもの光景だったはずだ。こりゃ相当嬉しいことを言われたな。なぜか、尾形の機嫌が少し悪くなった。
「鶴見中尉に尻でも撫でられたか」
思ったことをすぐ口に出してしまうから、尾形は配慮に欠けると言われる。
「あ?」
じろりと睨まれても尾形はちっとも怖くなかった。なかなか向けられることのない表情だ。新鮮味のほうが強い。
「いや。機嫌が良いようだからな」
「意味が分からない。それでなぜ俺が喜ぶのだ」
「嬉しくないのか?」
麗しの鶴見中尉だぞ、と尾形は念を押すように付け加えた。八重田は食事を中断したまま、心底分からないという顔をする。少々呆れが滲んでいるところに尾形という男への諦めが見てとれた。八重田とは少し違った意味で、尾形もとっつきづらいところがあった。
「おい。いくら鶴見中尉が撫でてくださるとはいえ、尻だぞ。尻だ。嬉しいことがあるか」
「へえ…」
「撫でられるなら………頭がいいな」
八重田が目を伏せたのは、口に出した言葉が本心だったからだ。そのとき汁物をすすっていた尾形の猫目がかすかに瞬いたのを、見逃したのは不幸だが必然だ。
柄にもないことを言った。軽く咳払いをして箸を持ち直した八重田は、それで話を終わらせたつもりだった。伸びてきた手が八重田の頭をゆるく掴むまでは。
「う、」
「なかなかむぞいことを言うな」
骨ばった手にまぜられて、八重田の髪が軽く乱れた。真後ろから伸びる手は褐色の肌をしていた。尾形の白けた表情を見ているものは誰もいない。
「こ、鯉登少尉」
「結構なことだ。貴様の夢はこれで叶ったか?」
「別に俺は…その…」
上官の手をさっさと払いつけるわけにもいくまい。八重田が珍しく口ごもる理由がその逡巡だけではないことが、撫でられるたびほんのり赤くなる目元から分かった。白けるね。そう思う尾形の胸の内は黒々としている。
思いのほかウブな反応を見せる八重田に、鯉登は満足した様子を見せた。鶴見中尉殿に尻を撫でてもらったなどと、事実であれば捨て置けない言葉が聞こえたために渦巻いた憎悪は霧散していた。成人した男であれ、可愛らしいと感じることはあるのだな。
鯉登が与える喜びを知ったのはこのときだ。
「悪くない。八重田上等兵。今後も励め。俺がこうして褒めてやろう」
「何を言ってるんですか少尉」
「月島ぁ」
子守役が登場したことで、八重田はやっと上官の手を下ろすことができた。すぐに乱れを整えるのも失礼になるかと、散らばった前髪はそのままだ。いつもより幼い印象になった八重田に尾形は少し目を奪われた。なぜこうも色っぽくなるのだろうか。不思議なことだ。
撫でられるのに慣れてない(尻以外)
2018.11.18