涙のヤジロベエ
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ダン。
ダン。ダン。
ダンダンダンダンダン。
もし尾形百之助がもう少しノリのいい男であったなら、その鈍い音に合わせて手拍子でもしながら木の陰から姿を現してやっただろうに。
眉間に深く溝を刻みながら、憎々しげに木の幹を蹴りつける八重田にとって、尾形が決してそうしないことは僥倖だった。もし、今、腹の底から煮えくりかえるような怒りで支配されているこのときにそんな登場の仕方をされでもしたら、この癖の悪い足がどこへ向かうか分かったものじゃない。
「荒れてるな」
手拍子の代わりに、軽い口調の一言が投げられた。
ダン!…
そして一際大きい一発ののち、断続的に続いていた音が止んだ。
八重田は強く踏みつけた木から足を降ろすことなく、視線だけで尾形を仰ぎ見た。苛立ちが表れた表情は、尾形に向けられたものでなかった。
庁舎裏の雑木林は尾形も普段からよく使う隠れ場所なので、八重田のこうしたストレス発散に立ち会うのも、よくあることと言っていい。
「うるさい。見るな」
「そう言うな。いい加減その木が哀れだろう」
「哀れなもんか…」
踏みつけにしたままの大木を前に、八重田は吐き捨てた。軍靴を押し当てたままの幹を見ているとまた怒りがふつふつと湧き上がってきたのか、もう一度足を振り上げたが、ふと思い直したように動きを止めて、今度は小さく頭を振った。降ろした右足はちゃんと土を踏みしめた。
「…いや。哀れだ……八つ当たりだ、これは……クソッ!」
「おい、殴るなよ。手を痛めるぞ」
「あいつら全員殺す」
「また迫られたのか」
握りしめた両拳を木に打ち付けた八重田は、俯いていた顔を少しあげて二の腕の下をくぐるように尾形の方を見た。重力に従って垂れた前髪の束が目元にかかってやたら色っぽい。
八重田、そういうとこだぞ。
「男のケツを揉んで何が楽しいのか?」
「…。さあ」
「俺は、いくら鶴見中尉のことを思っても、揉みたいとは思わない」
「そうかよ」
「やはりあいつらが変態なのだ」
八重田マキの尻が妙にやわらかくて具合がよさそうだと、最初に気付いたのは誰だったか。
当初、その小ぶりな尻をすれ違いざまにポンと撫ぜられるくらいなら、八重田も冗談も大概にしろよと睨むくらいで済ませていたのに、段々と調子に乗る奴が出てきては行為はエスカレートしていった。
この男所帯で性に目覚めてしまった馬鹿者が、八重田を部屋に引きずり込んでついにそれ以上を求めてしまったとき、八重田は我慢するのをやめた。
乱暴にデスクに肩を押さえつけられて、尻を突きだすような体勢にされたところで、後ろ足で馬鹿を思い切り蹴り上げた。
尾形が目撃したのはここからだ。
八重田の足癖の悪さには定評がある。そんなことも知らない、ただ八重田の尻の柔さと顔につられて襲いかかる男に遠慮するほど優しい男ではなかった。八重田マキ上等兵は。
みぞおちに一撃を食らって悶えながら伏した男をわざと踏みつけながら、八重田は揚々と部屋を去った。無慈悲に閉じた扉が八重田の背中を完全に隠すまで、尾形は窓の外でそっと息を潜めていた。
あの男を襲うなど、一階の部屋の、しかも窓際でするようなことか。馬鹿者が。
八重田の尻を越え、逸物まで触れ、あまつさえしごくようなことがあったならば、尾形はその馬鹿を殺してしまうつもりだった。
そんな馬鹿が一人、また一人と現れては返り討ちに遭いみぞおちに痣をつくる毎日だった。
鶴見中尉にも褒めそやされるほどの足技を持った八重田を組み敷こうなど、そもそもが無理な話なのに、やってやれないことはないなどと根性論を振りかざす馬鹿はこの時代には珍しくないのだった。
襲いかかる男、誘ってくる男、揶揄ってくる男などを沈めるたびに、八重田はこの雑木林で鬱憤を晴らしていた。
生まれ持った顔と尻の柔さが悪いとは全く思わない。「俺にそんな劣情を抱く奴が悪いのだ」そう言いながら苛立ちを幹に全て押し付ける。
尾形はそんな八重田を見るたびに内心で胸を撫で下ろしていた。
大木に蹴りを入れているうちは、まだ八重田は誰にも組み敷かれていない。
最初に奴の体を暴くのは自分だと、勝手に決め付けている尾形も、ちょっと馬鹿になっていたりする。
尾形の初恋。続く。
2018.11.17
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