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第一話 ストレイ・ガール

 春は、出会いと別れの季節だ。卒業式に入学式、あるいは進級、あるいは就職。寒い冬が終わり、暖かくなるのは嬉しいが、環境や人間関係が変わるのは少し憂鬱でもある。
 けれど、何となく街の空気が浮足立つ中、古書カフェ「桜華堂」は、変わらずのんびりと営業していた。
 桜華堂は駅から徒歩約十五分とやや不便な立地にあるが、古い洋館を改装して造られた落ち着いた雰囲気と、店主が仕入れてくる古本に、美味しいコーヒーや料理が評判となって、幸いなことに経営は安定していた。
 三月も後半に入り、裏庭に一本だけ植えられている桜の木は、蕾が膨らみ始めている。普段はこの木が桜であることなんて、正直忘れかけているのに、桜というのはこの時期になると急に存在感を主張してくる。
 今年はいつ花見に行けるかな、などと考えながら、森山昴もりやますばるは裏口から店に入った。

 四月から大学二年生になる昴の身辺には、大して変化はなかった。叔父が経営するこの桜華堂で下宿とアルバイトをさせてもらいながら大学に通うようになって、一年が経つ。
 ここは居心地がいい。いつまでもここにいることはないだろうけれど、大学生でいる間は、変わらずここで過ごせればいいと思う。

「ただいま」

 昴は買い物袋を厨房のカウンターに置いて、中で働く面々に声をかけた。春休み中の今、昴も昼間からシフトに入っていた。

「おかえり、昴君。買い出し、ありがとうね」

 穏やかな笑みを浮かべてコーヒーを淹れているのは、この店のオーナーで、昴の叔父でもある七海陽介ななみようすけ七海陽介だ。五十手前の彼は、いつもにこにこと温厚な笑みを浮かべていて、怒ったところなど想像できなかった。皆のことをよく見ていて、困った時にはそっと手を差し伸べてくれる、お父さんのような存在だった。

「昴君、おそーい! 回らないから、早く入って!」

 そう言って急かすのは、ホールスタッフの藤森那由多ふじもりなゆた。いつも元気に動き回っている、二十代半ばくらいの、はっきりした顔立ちの美人だ。彼女にはファンも多いが、しつこく絡んでくる不届きな客も多い。そういった人物には毅然とした態度で撃退する、強い人でもあった。
 客席から「すみませーん」と呼ぶ声がした。那由多はくるりと振り向いて笑顔を作り、「はーい」と返事をしてそちらに向かう。食材がなくなりそうになり、ランチのピークを過ぎた隙に買い出しに出た昴だったが、見ると二十数席ある店内は満席に近くなっている。

「仁さん、イチゴと生クリーム、ここに置いておきますね」
「ああ、サンキュ」

 料理担当の春日井仁かすがいじんは、眉一つ動かさず、黙々とオーダー品を作っている。三十代の彼は、顔は怖いが、怒っているわけではないことを、昴はもう理解していた。彼の手からは、あっという間に芸術品のように見事な盛り付けをされたパスタやケーキが生み出されていく。
 彼らは昴の仕事仲間であると同時に、ここの二階に住む下宿仲間でもあった。
 昴は買ってきたものを仕分けし、冷蔵庫に入れるべきものは入れる。手を洗って腰にサロンを巻くと、ホールに向かった。


 交代で休憩を取りながらディナータイムの営業と閉店作業を終えると、二十一時を回る。少ない人数で回している桜華堂は、他のチェーンの店より営業時間が短いとはいえ、昼から閉店まで働くとくたくただった。
 皆でリビングに集まってお茶とお菓子をつまみながら、テレビを見たり本を読んだり、それぞれ好きなことをしていた。
 仕事終わりにはなんとなくこうして集まって過ごすことが多い。
 オーナーの陽介も含め、昴、那由多、仁もこの洋館の二階に住んでいる。別に住み込みで働くことが条件ではないが、家賃が格安ということもあり、ここで共同生活を送っていた。

「そうそう、今度、新しい子を受け入れることになってね。部屋、那由多ちゃんの隣でいいかな?」

 陽介が、突然そんなことを言い出した。変化がないと思われた環境にも、変化が訪れるようだ。

「あら、そうなんですか? それは構いませんけど、どんな人?」

 那由多は興味津々といった様子で身を乗り出す。しかし「新しい子」という言い方が少し引っ掛かった。

「女の子だよ。四月から中学三年生だって」

 遠縁の子なんだ、と陽介は付け加える。ということは、昴とも親戚ということだろうか。いずれにせよ、同じ建物に住む仲間になるのだ、興味もわく。

「じゃあ、家族で引っ越してくるってこと?」

 那由多が重ねて聞くのを、昴と仁は耳をそばだてて聞いている。
 だが、この建物は部屋数はあるけれど、家族で住むには不向きな気がする。そう思っていると、

「いや、その子一人で来るんだ」
「え? ……もしかして、親を亡くしたとか……?」

 一転して神妙な声を出す那由多に、陽介は笑って首を横に振る。

「そうじゃないよ。仕事で海外を飛び回ってて、あまり一緒にいられないんだって。その子も、あちこち親戚に預けられたりで、落ち着かない生活してるらしいんだ。けど、うちなら部屋もいっぱい空いてるから、来てもらっても問題ないし。仲良くしてあげてほしいな」

 家主がそう言うのなら、店子である昴達がどうこう言うことはない。自分たちはここでの共同生活を上手く送るために努力する。今までもそうしてきたし、新しい住人がやってきてもそうするだけだ。
 了解、と那由多が言い、昴と仁もそれぞれその意を伝える。

「で、いつ来るの、その子?」
「来週かな。四月からこっちの学校に通えるようにする予定だから」
「随分急なのねえ」
「行き場がなくて困ってたみたいだから。知ってたら、もっと早く来てもらったんだけどね……」

 陽介は少し目を伏せる。

「あ、今度の休みに部屋の掃除したいから、手が空いてたら手伝ってもらっていいかな?」
「わかりました」

 中学三年といえば、思春期真っ只中だ。ただでさえ難しい年頃に、そんな事情が加われば、気難しい子なのではないかと要らぬ想像をしてしまう。だが、会う前から勝手な想像をするのも失礼だろうと昴は思い直した。

「その子、名前は何て言うんです?」

 思考を切り替えるために、昴が尋ねる。

和泉晶いずみあきらちゃん。よろしくね」
 

 明るめの栗色の髪を肩の下あたりまで伸ばした少女は、時々立ち止まって辺りをきょろきょろと見回しながら歩いていく。スマートフォンの地図アプリで道を確認しているようだった。
 彼女は手に大きめのスーツケースの取っ手を握り、ガラガラと引っ張りながら歩いている。中身は貴重品や身の回りの品など、すぐに使うものだ。大きい荷物は既に送ってあるが、探さなくてもすぐに使いたいものは、こうして自分で運んでいる。
 何度か角を曲がって、少女は目的の場所に辿り着いた。
 洋画に出てくるような、瀟洒な建物がそこにあった。立派な構えの門の向こうに、「桜華堂」と、建物とは反対のイメージの和風な看板が出ているのが見える。
 ここはカフェだと聞いていた。通りに面したこちら側には大きなガラス窓があり、中の様子が少しうかがえる。昼食時は過ぎたが、店員が忙しそうに動き回っているのが見えた。
 ここではどんな暮らしが待っているのだろう。
 少女の胸にあるのは、期待と不安というような可愛いものではなかった。

(ここにはどれくらいいられるかな……)

 新しい暮らしへの期待など、とっくの昔に置いてきた。親は自分をほったらかしにして好きに生きているし、預けられる親戚の家では、邪険にされたり、腫れ物に触るように扱われたりしてきたのだ。
 憐れみも同情もいらないから、ただ静かに過ごさせてほしかった。けれど、それは難しいことのようだった。自分は親に半ば捨てられた哀れな子どもで、周囲は好奇と同情の視線でそれを見る。そうでなければ、面倒事を押し付けられたと、あからさまに顔をしかめる。

 だから、できるだけ目立たないように、息を潜めて暮らすことを覚えた。それももう少しの辛抱だ。高校生になったら一人暮らしの許可ももらえるだろうし、それが無理だったら寮のある学校にでも入ろう。
 そんなことを考えながら、彼女は門の内側に踏み込んだ。庭には芝生がきれいに敷き詰められ、玄関の横には色とりどりの花を咲かせた植木鉢が置いてある。
 重厚な木のドアには、「OPEN」と書かれた札が下がっている。チェーン店と違って、こういう個人店は中学生には入り辛いが、意を決してドアを開けた。ドアに付けられていたらしいベルが、チリン、と澄んだ音を立てる。

「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」

 すぐに眼鏡をかけた若い男性従業員がやってきて、声をかけてきた。

「あ、えっと……」

 口ごもっていると、奥にいた初老の男性がこちらに気付いて、

「やあ、こんにちは。晶ちゃん、だよね。よく来たね、待ってたよ」

 にこにこと人の好さそうな笑顔を浮かべて、エプロンで手を拭きながらカウンターから出てきた。彼が新しい家主で暫定保護者の、七海陽介氏、だっけ?

「ごめんね、今ちょっと忙しくて。落ち着いたら部屋に案内するから、とりあえず座って。ご飯は食べた?」

 七海氏は目を丸くする晶を窓際の端の席に誘導して座らせながら、矢継ぎ早に言う。晶は首を横に振った。

「じゃあ、何か食べながら待ってて。これメニューね。あ、お金は気にしなくていいよ、店からおごるから!」

 早口でそう言うと、展開についていけない晶を置いて、カウンターに戻ってしまった。

(どうしよう……)

 お金は気にしなくていいと言われたが、それではいそうですか、と言えるような育ちを、晶はしていない。かといって、何も頼まずに席に座っているもの気が引けるし、移動で昼食を食べ損ねていたのも事実だ。ためらいながら、メニューに目を落とす。すると、

「お冷、どうぞ」

 先程の眼鏡の店員が、水の入ったグラスを晶の前に置いた。ここの従業員も一緒に下宿することになるという話だったが、この人も下宿仲間なのだろうか。彼の浮かべている微笑が、ただの営業スマイルなのか、これから一緒に暮らす仲間への親しみを込めたものなのか、晶には判別し難かった。
 これまでの経験からすると、多少なりとも警戒はされているはずだ。こちらもそうなのだから。

「ご注文はお決まりですか?」

 自分の思考に耽っていた晶は、言われて慌ててメニューに目を走らせ、目に留まったきのこの和風パスタを指差す。

「じゃあ……これでお願いします」
「ドリンクはどうしますか?」

 言いながら、その店員はメニューの下の方にある、四角い枠で囲われた部分を示す。どうやら、ドリンクが付くらしかった。

「じゃあ……アイスティー……。ミルクで」
「かしこまりました」

店員は伝票にそれを記入すると、少々お待ちください、と言って去っていった。
 料理が来るまで、晶は店の中を横目で観察する。
 店内は、ブラウンを基調にした、アンティーク調の落ち着いた内装だった。古本とコーヒーの匂いがする。お昼時はやや過ぎているが、空席はあまり目立たない。けれど店内はあまり騒がしい印象はなく、静かに談笑する年配の夫婦や、一人で本を読んでいる人、ノートパソコンを開いている人などがいて、客層は落ち着いた感じのようだった。

 ホールには先程の眼鏡の店員の他にもう一人、二十代くらいに見える女性店員が、笑顔を振りまいて動き回っている。
 カウンターの向こうには、キッチンスペースが見えた。中には、先程の七海氏の他にもう一人、仏頂面でひたすら料理を作っている男がいる。三十代くらいだろうか。女性店員の元気が有り余っている感じなのに比べ、彼は「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も、申し訳程度にしか言っていないように見える。なんだか怖いと、晶は思った。
 一階が店舗で、二階が住居という話だったが、奥の様子は当然ながらここからは見えない。
 そうこうしているうちに、料理が運ばれてきた。

「お待たせしました」

 きのこパスタと小さなサラダの皿を晶の前に置いたのは、女性店員の方だった。アイスティーに添えられたミルクとガムシロップは、小さなポットに入っていておしゃれだった。

「初めまして。あなたが晶ちゃんね? あたしは藤森那由多。あたしもここに下宿させてもらってるの。後でゆっくりお話ししましょ」

 那由多はそう言って、長いまつ毛に縁取られた目で晶にウインクを飛ばすと、ぱたぱたと仕事に戻っていく。晶はその背中を、少し拍子抜けして見送った。
 ここの人たちは、新しい住人をどう思っているのだろう。今までの多くがそうだったように、腫れ物に触るような、あるいはあからさまに邪険にされているような感じはしないけれど。
 とりあえず、晶はアイスティーにミルクとガムシロップを少し入れて、一口すすった。冷たさとすっきりした風味が喉を伝い落ちていく。
 続いて、パスタに手を付ける。香ばしい醤油とバターの香りが、食欲をそそる。パスタの茹で加減も絶妙で、しめじ、舞茸、えのきなどの歯応えに、玉ねぎとベーコンの旨味が加わる。上にトッピングされた海苔も、いいアクセントになっていた。

(美味しい……)

 思えば、ゆっくり味わってご飯を食べたのは、久しぶりな気がする。誰にも気兼ねせずに食事ができる時間なんて、あまりなかったから。
 もぐもぐとパスタとほおばりながら、ふと視線を感じて顔を上げる。厨房の方を見ると、強面の料理人が少し笑った気がした。


 客足が落ち着いてきたタイミングで、晶は陽介に呼ばれ、店の奥から居住スペースへ案内された。
 洋館だが、靴は脱ぐ仕様らしい。スリッパに履き替えて、中に入る。
 そこには、広々としたリビングのような空間になっていた。真ん中にはローテーブルとソファが置かれ、大きなテレビがある。壁際に置かれたチェストには、花や絵が飾られていた。片隅にはカウンターキッチンがあり、冷蔵庫やガスコンロがあるのが見える。普通の家のようだった。

「一階にキッチンとお風呂とトイレがあって、二階が皆の部屋だよ。あ、トイレは二階にもあるから」

 店舗と居住スペースを隔てるドアの他に、こちらから直接外に出られるドアと、店の厨房にも勝手口がある。店と住居をまたがなくても、外に出られるようになっていた。
 窓から見える裏庭には、蕾がほころび始めた桜の木一本、立っていた。
その根元に、何がうごめくものがあった。目を凝らすと、小さな猫が一匹、横切ったのが見えた。一見白っぽいが、よく見ると足や背中に薄いグレーの縞模様がある。野良猫だろうか。
 あの柄の猫を見ると、思い出すことがある。子供の頃、捨てられていたのを連れ帰ったけれど、助けてあげられなかった子猫。
 思い出の世界に浸りかけていると、「こっちだよ」と七海氏に呼ばれ、慌てて追いかけた。


 二階に上がると、左右に廊下が広がり、ドアがいくつも並んでいた。

「君の部屋はここね」

 そう言われ、右手の一番奥に案内される。
 部屋は想像していたよりも広かった。ベッドと机、本棚にクローゼットがある。先に運び込まれていた引っ越し業者のロゴが入った段ボールがいくつか積み上がっていたが、それでも余裕があった。

「リビングとかは好きに使ってね。今日は早めにお店閉めるから、晩ご飯は一緒に食べよう。それまで少し待っててね!」

 そう言い置いて、陽介は店に戻っていった。
 一人になると、静寂に包まれる。
 自分だけの部屋。自分のために用意されたベッドや机。本当に、これらは自分のものなのだろうか?
 何となく夢を見ているような気持ちで、晶はベッドに転がった。
 枕に顔を埋めると、下ろしたての匂いがした。
 しまい込まれていたカビ臭い客用の布団しか与えられないこともあったし、一人部屋なんて夢のまた夢で、部屋の片隅でなるべく気配を消して過ごすしかない時もあったのに。
 少しの間ぼんやりと天井を眺めていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。荷物を整理しないと。
 しかし身体を起こそうとした瞬間、ぼふんと小さなものがぶつかったような衝撃が、お腹に来た。驚いて見ると、どこから入ってきたのか、先程見かけたのに似た猫が、晶のお腹の上にちょこんと座っていた。いつの間に入り込んだのだろう。

「お前、ここの猫なの?」

 言いながら鼻先にそっと手を近づけるが、猫はふいっと顔を背けて飛び降りてしまった。そのまま行方を目で追っていると、閉まっていたはずのドアがすっと少し開いて、猫はするりと外に出て行った。

(え?)

 閉め方が甘かったのだろうか。不思議に思ってドアに近寄り、そっと外に顔を出すと、廊下の先に猫がいた。目が合うと、まるで晶が来るのを待っていたかのように、しっぽを振って階段を下りていく。
 それを追っていくと、猫は裏庭に出るドアの前で、やはり振り返ってこちらを見ている。猫は晶がついて来ているのを確認すると、前を向いて歩き出す。今度はそのドアが猫を通すように開いて、猫は軽やかな足取りで裏庭へ出て行った。晶も導かれるようにその後を追う。
 猫はとことこ歩いて、晶を桜の木の根元まで連れて行き、その陰にさっと飛び込んだ。
 晶は後を追って桜の陰を覗き込んだが、そこに先程までの猫はいなかった。代わりに、同じ柄だが、大分汚れて痩せた小さな猫が、身体を丸めてうずくまっていた。
 猫は晶を見上げて、みゃあ、とか細く鳴いた。


 猫に手を伸ばそうとして、晶は途中で動きを止めた。
 蘇るのは、昔に出会った同じ柄の猫の記憶だ。
 幼い頃、子猫を拾った。冷たい雨が降る夕暮れ時だった。あの時は母と暮らしていたが、母は留守がちで、その日も晶は一人だった。
 一匹で弱々しく泣いていた子猫の姿が自分と重なり、放っておけなくて、抱きかかえて家に連れ帰った。濡れそぼった毛並みをタオルで拭いてやり、どれがいいのかよくわからないまま、小遣いを使って近所のドラッグストアで買ったキャットフードを与えたが、あまり食べてくれなかった。
 元々弱っていたらしい子猫は、時間が経つにつれて動かなくなっていった。当時の晶には、こんなときどうしたらいいかわからなかった。でも、子猫の命の火が消えそうになっていることだけはわかって、不安で泣きそうになりながら、一晩中、子猫を抱いて撫でていた。
 けれど、いつの間にか眠ってしまって、朝になった時、子猫は冷たく動かなくなっていた。


 あの時の子猫と、目の前の子猫が重なる。
 見なかったことにすればいい。きっとそれが一番楽だろう。でも。
 宙に浮いた手に、子猫が頭を擦り付けてきた。ずいぶん人懐こいみたいだ。
 それを見ると、心臓がぎゅっと痛んだ。
 誰にも頼れない。頼らない。
 晶は部屋に戻ると、財布を持って再び外に出た。ここに来る途中に、スーパーもコンビニもあった。キャットフードくらい、どこかで手に入るだろう。



 夕方になると、店先には「本日、都合により早仕舞いさせていただきます」と張り紙が張られた。
 そして、居住スペースのリビングに桜華堂の一同が会し、晶の歓迎会という名目で、夕食会が始まった。
 テーブルの上には、サラダやハンバーグ、ドリアにパスタなどの料理が大皿に盛られて所狭しと並べられ、それぞれの前には飲み物の入ったグラスが置かれていた。

「店のメニューだけど、仁君の料理は美味しいんだよ。遠慮なく食べてね」

 陽介は戸惑う晶の前に置かれたグラスに、オレンジジュースを注ぐ。

「それじゃ、今日も一日お疲れ様」

 陽介が音頭を取って、軽く乾杯が行われた。晶も小さくグラスを掲げる。

「じゃあ、改めて自己紹介しようか。僕はここのマスターで、七海陽介。何かあったら、遠慮なく言ってね」

 そう言って、七海氏は優しく微笑む。そこに、昼間の美人ウエイトレスが割り込んできた。

「はいはーい、さっきも言ったかもだけど、あたしは藤森那由多。女の子が来てくれて嬉しいわ。仲良くしましょうね!」

 彼女のグラスには、おそらく酒が入っている。このテンションが酔った勢いなのか、元々の性格なのかは、晶にはよくわからなかった。

「冷めないうちに食べましょ。嫌いなものはある?」

 別にない、と答えると、那由多は晶の皿にあれもこれもと料理を取り分けていく。

「那由多さん、あんまり馴れ馴れしくしないであげてくださいよ。晶ちゃん、困ってるじゃないですか」

 呆れ顔で言ったのは、眼鏡をかけたもう一人のホールスタッフの方だった。

「昴君は固すぎるのよ」

 唇を尖らせてみせる那由多を無視して、

「俺は森山昴。大学二年。よろしくね。えっと、晶ちゃん、って呼んでいい? それとも和泉さん?」

 那由多にはまた、そういう所が固いのよ、と言われている。
 七海氏には既に「ちゃん」付けで呼ばれているし、どこの家でも大体そうだった。なので、今更別に気にしないのだが、きちんと許可を取ろうとする当たり、真面目というか、やっぱり固いのだろう。
 晶は、名前で呼んでくれて構わない、と答えた。
 那由多がうんうん、と満足そうに頷く。

「で、あっちのコワーイ顔してるのが、春日井仁君。ここのシェフよ。顔はあんなだけど、料理の腕は一流なのよ」
「怖い顔で悪かったな」

 那由多に水を向けられて、ちびちびとグラスを傾けていた仁が顔を上げた。

「まあ、よろしく」

 仁はそう一言だけ言った。やっぱり、あまり喋らない人のようだ。

「さあ、自己紹介も終わったところで、ご飯にしよう」

 七海氏が言うと、それぞれ料理に手を付け始める。
 晶も、那由多に山盛りにされた皿を取った。こんなに食べ切れるだろうかと思いながら、フォークを持つ。
 夕食会は、和やかに進んだ。那由多はあれこれと晶の世話を焼こうとするが、誰も晶の事情を根掘り葉掘り聞いてくるようなことはなかった。あるいは既に七海氏がある程度話しているのかもしれないが、質問攻めにされないのは楽だった。
 料理は昼間食べたパスタと同じく、どれも美味しかった。
自分のために用意してくれたご飯。それは不思議と温かかった。
食べながら、晶はそっと窓の外に目を向ける。
餌は少し置いてきたが、猫は無事だろうか。


 ご飯を食べながら、ここで生活する上でのルールを説明された。
 といっても、そんなに堅苦しい決まりがあるわけではないようだった。
 風呂やリビングなど共用スペースの掃除は当番制。自分のものや部屋は自分できちんと管理すること。人の部屋には勝手に入らないこと。冷蔵庫の中の食材や調味料は基本的に共用だが、自分のものには名前を書いておくこと。などなど。
 基本的にはお互い干渉せず、自由を尊重する、という考えのようだった。

「隣にどんな人が住んでるかわからないアパートとは違うからねえ。お互いの生活には首を突っ込まないけど、必要な時は助け合える、っていうのが理想かな。
もちろん、僕は晶ちゃんの保護者だから、遠慮なく頼ってくれていいからね」

 陽介がそう言うと、

「あたしのことも、お姉さんだと思って頼ってくれていいのよ!」

 那由多が被せてくる。こんなにぐいぐい来る人は、初めてだった。その差し出された手を、思わず取ってしまいそうになる。
 だけど、これまでの生活で身に着けた仮面が、それを邪魔する。
 どこに行っても、社交辞令的に優しくはされるが、実質腫れ物に触るような扱いをされているということがわからないほど、晶は子供ではなかった。あからさまに邪魔者扱いされたことだってあった。
 誰だって、家の中によそ者を入れたくないのは当然なのだ。相手の家族は悪くない。悪いのはどちらかといえば、異分子である自分の方。
 だから、迷惑をかけないように、できるだけ気配を消して、何が起きても適当に笑ってやり過ごす。それが、晶が身に着けてきた処世術だった。
どうせ、どこに行っても長くはいさせてもらいないのだからという諦念と共に、晶は曖昧に微笑んで、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。
 甘えてはいけない。頼ってはいけない。小さな子供ではないのだから、そんなことをしなくても大丈夫だ。
 早く、一人で生きていけるようにならなければ。
 そんな晶の胸の内を知ってか知らずか、陽介と那由多は、やや困ったように一瞬顔を見合わせた。
 そうして、晶の新しい生活は始まった。


 四月に入り、裏庭の桜も見頃を迎えようとしていた。 
 数日間ここで生活してわかってきたのは、本当にお互い干渉しないというか、ある程度の距離を保って生活しているということだった。
 いっそ無関心にも見えるが、あの不愛想に見える仁でさえ皆との仲は悪くなさそうだし、互いにさりげなく気遣い合って暮らしているようだ。これが、家族でもない他人が一緒に暮らすということか。こんな空間があるのかと、晶には驚きだった。
 昼はカフェのメニューを食べさせてもらって、夜は仁か陽介が仕事の合間に作ったまかないが出た。こちらは、店のメニューばかりでは飽きるし、栄養も偏るからという配慮で、毎回違うものが出てきた。もっぱら和食が多い。
 夜のまかないの用意は、晶も手伝うことになった。高校受験もあるのだから、無理しなくていいと七海氏には言われたが、やることがあった方がいい。
 学校が始まるまではまだ少し時間がある。それまでに、皆で花見をしようという話になった。裏庭にある桜は、もう少しすれば見頃になるだろう。
 しかし、晶は正直、あまり気乗りはしなかった。ここの人たちは、晶を邪魔には思っていないのかもしれない。それでも、輪の中に自分から入っていくのは気が引けてしまうのだった。


 荷物を片付けたり、新学期の準備をしたりしながら、晶は子猫への餌やりをこっそり続けていた。ここにいればご飯がもらえると覚えたのか、子猫はいつも、桜の木の下で待っているようになった。晶が近付くと、嬉しそうに喉をごろごろ鳴らして、足元にすり寄ってくる。

「ねえ。あんたはまだここにいるの?」

 答えがあるわけもないのは承知の上で、晶は子猫に語りかける。子猫は晶の出したフードをがつがつとほおばり、食べ終えると満足そうに毛づくろいを始めた。
 その様子を眺めていると、頭上に影が差した。猫が一瞬、びくりと動きを止める。

「あ、やっぱり。何か隠してると思ったら、野良猫?」

 驚いて振り返ると、昴が立っていた。

「……ごめんなさい」

 晶は目を伏せて呟く。

「なんで謝るのさ?」

 昴は晶の横にしゃがみ、猫の鼻先に指を近付ける。猫はくんくんと熱心にそのにおいをかぎ、やがてごろごろと顔をこすりつけ始めた。くすぐったいなあ、と昴は呟く。

「この子、どうするつもり?」
「どうって……」

 とりあえず、飢えているのを見ていられなくて、餌を与えただけだ。それ以上のことは考えていなかったというのが、正直なところだ。

「本当にその子のことを思うなら、中途半端に餌だけあげるのはだめだよ。家の中で飼ってあげないと」
「でも……」

 そんなわがままは言えない。

「ちゃんと話してみよう? みんな、動物嫌いじゃないと思うし」

 話をする。自分の意見は引っ込めて、適当に周りに合わせてきた晶にとって、それはとても難しいことのように思えた。

「現実問題として、うちは飲食店だし、庭が猫の糞まみれになったりしたら、印象が悪いんだよ。それに、その子がその辺の道路で轢かれたりしたら、嫌だろ?」

 そういうことを言われると、何も言えない。子猫はよほど晶に懐いてしまったのか、逃げようともせず、彼女の足元にまとわりついていた。

「だから、ね?」

 昴は優しく微笑む。晶はその目をじっと見つめて、やがてこくりと頷いた。
 

 その日の閉店後、晶は意を決して、庭に猫がいるのだが、どうにか助けてあげたいと、大人たちに相談を持ち掛けた。

「じゃあ、うちで飼えばいいんじゃないかな?」

 何でもないことのように言った陽介は、「どうだろう?」と他のメンバーを振り返る。

「いいんじゃない? あたしは猫、好きよ。飼えるなら一度飼ってみたかったのよね」

 那由多がそう言えば、

「……最近じゃ、猫は室内飼いが推奨らしいぞ」

 スマートフォンを操作しながら、仁がそんなことを言う。どうやら、早速猫の飼い方を調べているようだった。
 そんな彼らの様子に、晶は少し拍子抜けしていた。自分の望みが叶うことなど、全く想定していなかったのだ。

「ほら、大丈夫だったろ?」

 昴が言うと、

「困ったことがあったら何でも言ってって、言ったじゃない」

 陽介は晶に笑いかけ、仁も頷いている。心なしか、ほっとしているようにも見えた。

「頼ってくれて、お姉さん嬉しいわ~」

 那由多は言いながら晶に抱きついてくる。その過剰なスキンシップを鬱陶しいと思う自分と、そのぬくもりが不思議と嫌ではないと思う自分がいるのだった。
 誰にも頼れない。そう思って生きてきたけれど、一歩踏み出してみれば、違う世界があったのかもしれない。
 なんだか目の奥がじわりと熱くなって、晶は慌てて顔を伏せたのだった。


 翌日はちょうど桜華堂の定休日だったので、急いでケージやトイレやベッドなどの猫グッズを買い込み、猫を迎える準備が整えられていった。特に、店舗の方には入れないように、そして外に脱走しないように、柵が設置された。
 そうして準備を万端に整えた後、猫は晶の手によっておとなしく捕獲された。しかし、直後の動物病院に連れて行かれる段階で不穏な気配を感じたのか、若干にゃあにゃあと騒いだ。
 そして、生まれて初めての動物病院で、緊張しながら診察を受け、健康状態には特に問題がないことがわかった。幸いノミが少し付いていただけで、寄生虫も検出されず、駆虫薬をもらって帰路についた。
 しばらくは定期的な通院が必要だが、猫は晴れて桜華堂の住人となった。
 

 猫は普段はリビングに設置したケージで過ごし、少しずつ外に出る時間を増やしていくことになった。ケージから出ている間、猫は晶の部屋に入り浸っていた。那由多も暇を見つけてはやって来て、晶にやや鬱陶しがられつつ、猫に構っていた。

「その子の名前、決めたの?」
「うん。スペランツァ」
「イタリア語だっけ?」
「そう。〝希望〞」

 多少強引なところのある那由多に根負けしたのか、二人は少しずつ打ち解けてきているようだった。今日も閉店後、那由多は晶の部屋にやってきて、お茶を飲みながら猫と遊んでいた。
 スペランツァと名付けられた猫は、那由多に撫でられて満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしている。

「さて、そろそろケージに戻る時間だよ」

 晶はそう言って、猫を抱き上げようとする。
 しかし、いつもは素直に従う猫は、この時は晶の手をすり抜け、ベッドの下に隠れてしまった。

「あー、こら、出ておいで」

 スペランツァは、晶がベッドの下にしまっていたあるものの上に乗って、どこうとしなかった。仕方なく、晶はそれごとスペランツァを引っ張り出す。

「あら、なあに、それ?」

 晶が引っ張り出したのは、細長い台形のような形をした、革張りのケースだった。

「……バイオリン」

 へえ、と那由多は興味津々といった様子で目を輝かせる。

「晶ちゃん、バイオリン弾けるんだ?」
「……ちょっとだけ。母親がやってるから……」
「へえ」

 そこで家族について聞くようなことはせず、那由多は適当に相槌を打つに止める。
 晶はケースを開けて中身を確かめる。傍目に見ても、よく手入れされて、大事にしているのだとわかった。

「えー、聞きたい。弾いてよ」
「……もう夜だし、うるさくない?」
「いいんじゃない? 外までそんなに響かないと思うし」

 那由多はにこにこと期待に満ちた子供のような目を晶に向ける。この人にはなんだか敵わないと、晶は思うのだった。
バイオリンが好きだった。けれど最近は、音が響くことを気にして、満足に弾けないことの方が多かった。隠しておいて、どこかで弾けそうだったらこっそり弾こうと思っていたのに。

「なんで見つけちゃうわけ?」

 スペランツァは晶の言うことが分かっているのかどうか、素知らぬ顔でみゃあと鳴いた。
 晶は観念したように短く息を吐いた。練習もできていないのに、人に聞かせるのは気が引けるが、弾いていいと言われたら気持ちが動いてしまったのは事実だ。

「何かリクエスト、あります?」

 バイオリンの状態を確認して構えると、晶は問うた。しまい込んでいてもメンテナンスは欠かさずしていたから、このまま弾いても大丈夫なはずだ。

「ん-、何でもいいよ」

 そういうのが一番困るのだがと、晶は少し顔をしかめる。
 少し考えて、晶は演奏を開始した。
 瞬間、空気が変わったのを、那由多は感じた。
夜なのでボリュームは抑えているが、それでも滑らかで伸びやかな旋律は、胸の奥を優しく撫で、遠く天に昇っていくようだった。
 最後の音が空気に溶けて消え、晶は満足気に息を吐いて構えを解く。那由多はパチパチと拍手を送った。

「この曲知ってる。『FLY ME TO THE MOON』だっけ?」
「正解」

 アニメのエンディングテーマにも使われて有名になった、ジャズのスタンダードナンバーだ。

「すごいすごい。もっと聞きたい」
「……昼間になら」

 晶は目を逸らしてぼそりと呟く。しかし、その頬が照れるように赤くなっているのを、那由多は見逃さなかった。


 桜の花びらが舞い落ちる中で、晶は桜華堂の面々にバイオリンを披露していた。腕前が大幅に落ちたりはしていなかったので、晶は安堵した。
 春休みが終わる直前、桜華堂はランチタイムだけの短縮営業をし、午後から花見を決行していた。裏庭の桜の木の下にレジャーシートを敷いて集まっていた。スペランツァは家の中で留守番している。
 晶のバイオリンをBGMに、それぞれ飲み物を空けたり、重箱に詰めた弁当をつついたりしていた。重箱の中身は、仕事の合間に作ったとは思えない、立派な弁当だった。おにぎりやサンドウィッチ、卵焼きや唐揚げ、ほうれん草のお浸しやサラダなどが、重箱の中にきれいに詰められている。

「やっぱりお花見はいいわねえ」

 那由多は缶ビールをあおりながら、上機嫌で言う。

「お前は酒が飲めれば何でもいいんだろ」

 仁に冷ややかに言われても、那由多はめげずに昴に絡んでいく。

「昴君も飲もうよ~」
「俺はまだ十九ですから飲めません!」
「えー。十八歳で成人の仲間入りでしょ?」
「飲酒・喫煙が二十歳になってからなのは変わってません!」

 彼らがわいわいやっているのを横目に、晶は二曲ほど演奏を終えると、バイオリンをケースにしまって腰を下ろした。

「上手いねえ。ありがとう」

 陽介に拍手を送られ、晶は少しはにかむ。そこへ、那由多がまたしても、紙皿に料理を色々盛って、晶の手に押し付けてきた。

「来年も、お花見しましょうね。皆で」

 晶は大人たちの会話には加わらず、渡された料理を口に運んでいたが、

「何自分には関係ねえみたいな顔してんだよ。お前も来るんだよ」

 仁に言われて、ちょっと目を見張りながら桜を振り仰ぐ。
 来年。来年も、ここにいていいのか。
 当たり前のようにそう言われて、胸が躍るのを感じた。
 先のことはまだわからないけれど、ここで暮らせたら幸せかもしれない。親元を離れてのここ数年の中で、初めてそう思った。


 第一話『ストレイ・ガール』了
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