短編
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「あと五分で上映だよ」
その日はあいにくの天気だった。光の入りにくいブロンズエリアの街並みが、曇り空で灰色に霞むような日だった。
シアター内にいたのは、バーナビーと彼女だけだった。言葉通り、上映までもう時間がないらしい。少なくとも十数年前に制作されたものであろう、画質の悪いショッピングエリアの宣伝がスクリーンから垂れ流されていた。
バーナビーは特段そうしようという意思もないまま、まだ明るい客席内を進んだ。小さなシアターの後方寄りの列、そのど真ん中に座った。こちらに振り向いて声を掛けてきた彼女からは五列ほど後ろだ。革のジャケットを脱ぎ、座り直したところで、ちょうど映画が始まるところらしかった。
通路に沿って等間隔に並んでいた照明や緑色の非常灯、映し出されていた寂れた宣伝文句も眠りについた。これまた昔から使い回されているような、ピンと来ないミニキャラが上映中のマナーを案内する。それも終わると、箱は巨大な暗闇に包まれた。視界を陣取るスクリーン以外、その世界には何も存在しなかった。
唐突に話しかけてきた彼女も、頭の先すら視界に入らない。胎内のような暗闇の向こう側から、優しい旋律がそっと流れ出した。
「どうだった? 今日の映画」
「……田園風景でのワンシーンがまだ目に焼き付いています。戦争によって引き裂かれてしまう二人が教訓的で」
「うん」
女は肯定も否定もしなかった。明るさを取り戻した劇場で、二人は座ったまま話をしていた。赤いベロアの座席にどっかりと背中を預けたまま、後方のバーナビーには振り向きもせずに女は相槌をうち、時に嘆き、そして笑った。
時計を見ていなかったから、どれほどの時間が経ったのかは定かではなかった。前方の出入り口から、背の曲がった老人が箒とちりとりを手に入ってきた。彼はこの寂れた映画館のオーナーらしい。二人のお喋りはここでお開きだ。
「またね」
女は小さく手を振った。彼女の名前は未だ知らない。
*
ブロンズエリアの小さな劇場は、経営も何もない、採算度外視で運営されている。持ち主である老年の男性が趣味で、好きな作品を上映するためだけの場所なのだという。
「おじいちゃん、センス良いんだよね」
唯一の常連客である女は、そう気安く評価した。確かに、知名度こそないものの、観客に何か爪痕を残す作品が多かった。どれも派手さはなくとも、しっとりと心に迫るものがある。でも、と女は続ける。
「観る側の私たちに、特別なセンスは必要ないんだと思いたいよ。勝手に感動して、勝手に好きになる」
今やシュテルンビルトでバーナビーを知らない者など絶滅危惧種だ。それでも、女もオーナーも、彼をバーナビーと呼ばなかった。バーナビーが自分がそうだと名乗り出ない限り、このままだろうという確信があった。
ファンに囲まれるのも慣れたものだ。アカデミーにいた頃から否応なしに目立ってしまう質だったし、実力の裏付けのようで悪い気はしなかった。派手な振る舞いも、明るい世界も決して嫌いではない。ただ、肩の力を抜きたいときがないわけじゃない。
少女が白兎を追いかけたときのように、バーナビーの足がこの劇場に辿り着いたのは偶然だった。時代に忘れ去られた外観で、彼の目を引いたのは一枚の古いポスター。映っていた洋館が、幼少の頃を過ごした生家に似ていたから。すべて焼け落ちて、今はもう無くなってしまったあの家に。
その映画はサスペンスものだった。一族の財産を巡る駆け引き、登場人物の入り組んだ愛憎、そして最後は悲惨な別れを迎える。
エンドロールが流れ落ち、明るくなった客席内で第三者の高い声がした。
「いやー、酷い話だったね」
前方からだ。両手で背もたれを掴んで、こちらに振り向いている女がいた。「酷い」というのが話の内容なのか作品の出来なのか、それ以外のことを指しているのか分かりかねた。好奇心旺盛な目が細められた。
バーナビーがアリスなら、彼女はチェシャーキャットだろう。その目につられて、バーナビーは自分の口が勝手に動き出すのを感じた。
「全くです」
*
その日もあいにくの天気だった。アポロンメディアを出たときにはかろうじて保っていた天気が、ブロンズエリアに降りた頃には綻び始めていた。傘の雫を払ってから客席に足を踏み入れると、そこは無人だった。バーナビーは片眉を上げた。
いつもなら彼女が前方を陣取っていて、「もうすぐ始まるよ」なんて声をかけてくるのだ。今日はそれがない。時計を見ると、上映まであと十分といったところだ。特段早いわけでもない。
バーナビーが立ち尽くしていると、どたばたと忙しない物音が背後から近付いてきた。
あの人だ。振り返る前から直感していた。その予想は的中していた。しかし、様子までは想像通りではなかった。思わず「うわっ」と声が漏れた。濡れ鼠の彼女は何も言わなかった。
「傘持ってなかったんですか?」
「……」
返事はない。都合良くタオルがあるわけでもなく、バーナビーはせめてもとハンカチを差し出した。今日トレーニングルームに行く予定があったなら、タオルのひとつやふたつの用意があったのに。役に立てない自分がどうしてか口惜しかった。バーナビーに何の責任も義理もないというのに。女はそれを手で辞し、「おじいちゃんに借りてくる」と踵を返した。水を吸ったフレアスカートが本来の軽やかさを失っていた。
暗転した箱にゆっくりと光が差し込んで、程なくして消えた。前方の入り口から女が入ってきたのだった。よれたプルオーバーとスウェット地のパンツは明らかに男物だ。きっとオーナーに借りたのだろう。心なしか覚束ない足取りでいつもの定位置に腰掛けた。それだけでバーナビーはもう、映画の内容に集中できる気がしなかった。
「一体どうしたんです?」
映画が終わって真っ先に、バーナビーは女の背に問いかけた。詮索せずにはいられなかった。彼女は振り返らずに、何も写していないスクリーンに向かって投げかけた。
「『女は美しきおばかさんが一番』って、あなたもそう思う?」
今観たばかりの作品の引用だった。大富豪の主人公が思いを馳せる人妻の台詞だ。バーナビーは素直に自分の見解を口にした。それが一番に思われた。
「古い作品ですから、少し前時代的な表現かと」
「私はそう思うよ。女じゃなくても、誰だって、愛されるおばかさんが一番——」
「一番?」
「楽だと思う。あなたもそう思わない? 余計なことを考えず、感じず、笑ってるだけのそんな人生」
「御免ですね。確かに楽かもしれない。それが元来の性格なら素晴らしいかもしれません。でも、少なくとも僕はそうじゃない」
女は黙って聞いている。バーナビーが半生で得た苦悩も傷跡も彼だけのものだ。
「余計なことを考えて感じて、足掻かずにはいられない」
「……強い人だね」
「ヒーローですから」
口からこぼれ落ちた正体。尤もバーナビーは隠そうともしていなかったが、彼女に公言するのも初めてだった。
女は立ち上がった。サイズの合わないラフな格好の中で、足元の華奢なヒールだけが浮いていた。靴までは借りられなかったらしい。
アイボリーのパンプスがバーナビーが座るのと同じ列に着いたところで止まった。雨に打たれたせいか、ひと回り小さく見えた。
「ねえヒーロー、頑張れって言って。大丈夫だって」
バーナビーはもう、詮索はしなかった。
「あなたは大丈夫ですよ、頑張って」
それから、バーナビーが劇場に通えども通えども、女を見かける日はなかった。一度だけ、オーナーに彼女の所在を尋ねたことがある。しかし彼は悲しげに微笑むだけだった。もう二度と会えないかもしれないな、と腑に落ちた。小さな棘が皮膚に食い込んだようだった。なるほど、中々抜けそうにない。それでもバーナビーの足は勝手に劇場に向かう。
小さなシアターの後方寄りのど真ん中、いつものように定位置に座る。五列ほど前はずっと空いたままだ。
バタン! と振動が床に響いた。前方の扉からだ。両開きのそれに映った影を見て、バーナビーは目を見開いて、思わず立ち上がった。
自分のではない、高い声。バーナビーの記憶と違わないのはそれくらいだった。他はまったく異なっている。
布地をふんだんに使った純白のドレス。花の意匠を施されたベールが彼女の赤らんだ顔を隠している。無粋と知りながらも反射的に左手を見た。薬指は何にも囚われていない。
一番に異質なのは、やはり足元。裸足だった。ここまで走ってきたのか、砂利が付着している。
肩で息をする彼女は、その格好に、この再会に似つかわしくない調子で笑った。
「……間に合った?」
「あと五分で上映ですよ」
バーナビーは女の元に歩み寄った。彼女の足元で片膝を付くと、素足にところどころ傷ができてしまっているのがわかった。
「と、言いたいところですがこれじゃあ映画に集中できそうにないな。ジャケット、お貸ししましょうか?」
「やだ、そんなレベルじゃないでしょ。またおじいちゃんに借りようかな」
「そうしてください。その後、街に出ましょう。どうか靴を贈らせて」
「何も聞かないの?」
「ああ、忘れていました」
バーナビーは跪いたまま、女の丸い目を覗き込んだ。その瞳にくっきりと自分の姿が映っていて、それだけで充分だった。
「お名前を伺っても?」
その日はあいにくの天気だった。光の入りにくいブロンズエリアの街並みが、曇り空で灰色に霞むような日だった。
シアター内にいたのは、バーナビーと彼女だけだった。言葉通り、上映までもう時間がないらしい。少なくとも十数年前に制作されたものであろう、画質の悪いショッピングエリアの宣伝がスクリーンから垂れ流されていた。
バーナビーは特段そうしようという意思もないまま、まだ明るい客席内を進んだ。小さなシアターの後方寄りの列、そのど真ん中に座った。こちらに振り向いて声を掛けてきた彼女からは五列ほど後ろだ。革のジャケットを脱ぎ、座り直したところで、ちょうど映画が始まるところらしかった。
通路に沿って等間隔に並んでいた照明や緑色の非常灯、映し出されていた寂れた宣伝文句も眠りについた。これまた昔から使い回されているような、ピンと来ないミニキャラが上映中のマナーを案内する。それも終わると、箱は巨大な暗闇に包まれた。視界を陣取るスクリーン以外、その世界には何も存在しなかった。
唐突に話しかけてきた彼女も、頭の先すら視界に入らない。胎内のような暗闇の向こう側から、優しい旋律がそっと流れ出した。
「どうだった? 今日の映画」
「……田園風景でのワンシーンがまだ目に焼き付いています。戦争によって引き裂かれてしまう二人が教訓的で」
「うん」
女は肯定も否定もしなかった。明るさを取り戻した劇場で、二人は座ったまま話をしていた。赤いベロアの座席にどっかりと背中を預けたまま、後方のバーナビーには振り向きもせずに女は相槌をうち、時に嘆き、そして笑った。
時計を見ていなかったから、どれほどの時間が経ったのかは定かではなかった。前方の出入り口から、背の曲がった老人が箒とちりとりを手に入ってきた。彼はこの寂れた映画館のオーナーらしい。二人のお喋りはここでお開きだ。
「またね」
女は小さく手を振った。彼女の名前は未だ知らない。
*
ブロンズエリアの小さな劇場は、経営も何もない、採算度外視で運営されている。持ち主である老年の男性が趣味で、好きな作品を上映するためだけの場所なのだという。
「おじいちゃん、センス良いんだよね」
唯一の常連客である女は、そう気安く評価した。確かに、知名度こそないものの、観客に何か爪痕を残す作品が多かった。どれも派手さはなくとも、しっとりと心に迫るものがある。でも、と女は続ける。
「観る側の私たちに、特別なセンスは必要ないんだと思いたいよ。勝手に感動して、勝手に好きになる」
今やシュテルンビルトでバーナビーを知らない者など絶滅危惧種だ。それでも、女もオーナーも、彼をバーナビーと呼ばなかった。バーナビーが自分がそうだと名乗り出ない限り、このままだろうという確信があった。
ファンに囲まれるのも慣れたものだ。アカデミーにいた頃から否応なしに目立ってしまう質だったし、実力の裏付けのようで悪い気はしなかった。派手な振る舞いも、明るい世界も決して嫌いではない。ただ、肩の力を抜きたいときがないわけじゃない。
少女が白兎を追いかけたときのように、バーナビーの足がこの劇場に辿り着いたのは偶然だった。時代に忘れ去られた外観で、彼の目を引いたのは一枚の古いポスター。映っていた洋館が、幼少の頃を過ごした生家に似ていたから。すべて焼け落ちて、今はもう無くなってしまったあの家に。
その映画はサスペンスものだった。一族の財産を巡る駆け引き、登場人物の入り組んだ愛憎、そして最後は悲惨な別れを迎える。
エンドロールが流れ落ち、明るくなった客席内で第三者の高い声がした。
「いやー、酷い話だったね」
前方からだ。両手で背もたれを掴んで、こちらに振り向いている女がいた。「酷い」というのが話の内容なのか作品の出来なのか、それ以外のことを指しているのか分かりかねた。好奇心旺盛な目が細められた。
バーナビーがアリスなら、彼女はチェシャーキャットだろう。その目につられて、バーナビーは自分の口が勝手に動き出すのを感じた。
「全くです」
*
その日もあいにくの天気だった。アポロンメディアを出たときにはかろうじて保っていた天気が、ブロンズエリアに降りた頃には綻び始めていた。傘の雫を払ってから客席に足を踏み入れると、そこは無人だった。バーナビーは片眉を上げた。
いつもなら彼女が前方を陣取っていて、「もうすぐ始まるよ」なんて声をかけてくるのだ。今日はそれがない。時計を見ると、上映まであと十分といったところだ。特段早いわけでもない。
バーナビーが立ち尽くしていると、どたばたと忙しない物音が背後から近付いてきた。
あの人だ。振り返る前から直感していた。その予想は的中していた。しかし、様子までは想像通りではなかった。思わず「うわっ」と声が漏れた。濡れ鼠の彼女は何も言わなかった。
「傘持ってなかったんですか?」
「……」
返事はない。都合良くタオルがあるわけでもなく、バーナビーはせめてもとハンカチを差し出した。今日トレーニングルームに行く予定があったなら、タオルのひとつやふたつの用意があったのに。役に立てない自分がどうしてか口惜しかった。バーナビーに何の責任も義理もないというのに。女はそれを手で辞し、「おじいちゃんに借りてくる」と踵を返した。水を吸ったフレアスカートが本来の軽やかさを失っていた。
暗転した箱にゆっくりと光が差し込んで、程なくして消えた。前方の入り口から女が入ってきたのだった。よれたプルオーバーとスウェット地のパンツは明らかに男物だ。きっとオーナーに借りたのだろう。心なしか覚束ない足取りでいつもの定位置に腰掛けた。それだけでバーナビーはもう、映画の内容に集中できる気がしなかった。
「一体どうしたんです?」
映画が終わって真っ先に、バーナビーは女の背に問いかけた。詮索せずにはいられなかった。彼女は振り返らずに、何も写していないスクリーンに向かって投げかけた。
「『女は美しきおばかさんが一番』って、あなたもそう思う?」
今観たばかりの作品の引用だった。大富豪の主人公が思いを馳せる人妻の台詞だ。バーナビーは素直に自分の見解を口にした。それが一番に思われた。
「古い作品ですから、少し前時代的な表現かと」
「私はそう思うよ。女じゃなくても、誰だって、愛されるおばかさんが一番——」
「一番?」
「楽だと思う。あなたもそう思わない? 余計なことを考えず、感じず、笑ってるだけのそんな人生」
「御免ですね。確かに楽かもしれない。それが元来の性格なら素晴らしいかもしれません。でも、少なくとも僕はそうじゃない」
女は黙って聞いている。バーナビーが半生で得た苦悩も傷跡も彼だけのものだ。
「余計なことを考えて感じて、足掻かずにはいられない」
「……強い人だね」
「ヒーローですから」
口からこぼれ落ちた正体。尤もバーナビーは隠そうともしていなかったが、彼女に公言するのも初めてだった。
女は立ち上がった。サイズの合わないラフな格好の中で、足元の華奢なヒールだけが浮いていた。靴までは借りられなかったらしい。
アイボリーのパンプスがバーナビーが座るのと同じ列に着いたところで止まった。雨に打たれたせいか、ひと回り小さく見えた。
「ねえヒーロー、頑張れって言って。大丈夫だって」
バーナビーはもう、詮索はしなかった。
「あなたは大丈夫ですよ、頑張って」
それから、バーナビーが劇場に通えども通えども、女を見かける日はなかった。一度だけ、オーナーに彼女の所在を尋ねたことがある。しかし彼は悲しげに微笑むだけだった。もう二度と会えないかもしれないな、と腑に落ちた。小さな棘が皮膚に食い込んだようだった。なるほど、中々抜けそうにない。それでもバーナビーの足は勝手に劇場に向かう。
小さなシアターの後方寄りのど真ん中、いつものように定位置に座る。五列ほど前はずっと空いたままだ。
バタン! と振動が床に響いた。前方の扉からだ。両開きのそれに映った影を見て、バーナビーは目を見開いて、思わず立ち上がった。
自分のではない、高い声。バーナビーの記憶と違わないのはそれくらいだった。他はまったく異なっている。
布地をふんだんに使った純白のドレス。花の意匠を施されたベールが彼女の赤らんだ顔を隠している。無粋と知りながらも反射的に左手を見た。薬指は何にも囚われていない。
一番に異質なのは、やはり足元。裸足だった。ここまで走ってきたのか、砂利が付着している。
肩で息をする彼女は、その格好に、この再会に似つかわしくない調子で笑った。
「……間に合った?」
「あと五分で上映ですよ」
バーナビーは女の元に歩み寄った。彼女の足元で片膝を付くと、素足にところどころ傷ができてしまっているのがわかった。
「と、言いたいところですがこれじゃあ映画に集中できそうにないな。ジャケット、お貸ししましょうか?」
「やだ、そんなレベルじゃないでしょ。またおじいちゃんに借りようかな」
「そうしてください。その後、街に出ましょう。どうか靴を贈らせて」
「何も聞かないの?」
「ああ、忘れていました」
バーナビーは跪いたまま、女の丸い目を覗き込んだ。その瞳にくっきりと自分の姿が映っていて、それだけで充分だった。
「お名前を伺っても?」
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