Love me, love my dog.
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事の顛末は全て彼に明け渡された。
この二週間に名前が味わった苦渋のひとつひとつを、実に辿々しい、要領の得ない筋道を。
ヒーロー活動の不調は彼も知るところだったし、実際にアドバイスをくれたり、落ち込む彼女の気を紛らそうとしてくれていた。ミルキーウェイの件だって、関わり出した当初は早い段階でヒーローたちにも協力してもらうつもりだった。たまたまそこにヒーローを見下す警察の上層部やバーナビーのスキャンダルをちらつかせる記者が介入しただけだ。それだけで、少なくともバーナビーに頼るという選択肢は名前の中から消え去っていた。向けられる明確な悪意を恋人にも味合わせるわけがない。
自分が彼の人生を狂わせていたと知ってからは、もうだめだった。どう責任を取ればいいのかわからなかった。二十年越しの復讐を終えたばかりの彼を、別の糸で雁字搦めにした。それは幸運だ。名前にとっての理想、至上の幸福だ。運 という名の呪いだった。
「……もう、ありませんか? 僕に隠していることは」
「ない、と思う……」
名前は赤い鼻を啜った。二人はキッチンからダイニングに移動していた。ダイニングテーブルで向かい合わせに座って、バーナビーの淹れたハーブティーが二人分用意されている。同じ銘柄のものが名前の家にもある。かつて彼が勧めてくれたものだからだ。とてもじゃないが、手をつける気にはなれなかった。
バーナビーがはあ、と息をつく。名前にとっての死刑宣告だった。
「あなたの話が正しければ、その運 とやらはアカデミーの頃からかけられていたんですね。凄まじい力だ、道理でこんなにも焼き付いて離れない」
名前は腫れた両目でぎゅっと瞬きをした。ラインマーと初めて出会ったのは刑務官になったばかりの頃のはずだ。とうにアカデミーを去り、ヒーローの夢を捨てた後の。
バーナビーは軽く身を乗り出し、右手を伸ばした。名前は目を見開き、びくっと身体を震わせる。叩かれる。そう思わせたことにバーナビーは傷ついた。
テーブル越しに伸ばされた手は彼女の頬を叩くことなく、真っ赤に腫れた目元に優しく触れた。彼女の口がはく、と不器用な息をすることにまで切なくなってしまう。
「あーあ、こんなに腫らして」
親指で目の下を触れるか触れないかの力加減で拭えば、剥がれたベースメイクから隈が浮かび上がる。これもまた、バーナビーにしてみれば明かされていない隠し事のひとつだ。
「やさしくしないで……。騙されたって、お前なんかって叱って」
「へえ? そういうのがお好みですか。知らなかったな」
わざと軽い調子で言葉を返す。彼女の誕生日を前に、いっそワガママで振り回してほしいと願ったことがある。こんな形で達成されるとは思わなかった。達成されてほしくなかった。
拭っても拭っても止まらない涙で、そのうち彼女の目は溶けてなくなってしまうんじゃないかと心配になる。未だ整わない呼吸を諦めてしまうんじゃないかと不安になる。一人でなんでも背負い込んで、どこかへ消えてしまうんじゃないかと怖くなる。自分を置いていってしまうんじゃないかと。
バーナビーは立ち上がり、名前の腕を優しく引いた。力の入らない女の身体は抵抗らしい抵抗もなくそれに従う。やはり、その感触は記憶より軽かった。
彼女の手を引きながら、もう片方の手でベッドルームの明かりを付けた。後ろで名前が弱々しく、言葉にならない声を漏らした。
バーナビーはベッドに腰掛け、腕を広げた。名前は未だ光の灯らない虚ろな目のまま、その場から動けない。立ち尽くしたまま、自分のシャツのボタンに指を掛け始めた。能力を発動したときと同じかそれ以上の速さで、バーナビーがその手を制する。
「ちょっと、何を」
「そういうこと、じゃないの?」
名前の舌は震えて、辿々しいままだ。折檻のために寝室まで連れてきたのだと信じているようだった。
言葉足らずで誤解させた自分を叱咤すると共に、バーナビーはまた胸を抉られる思いがした。今までずっと乱暴をするような男だと思われてきたのだろうか。緩くかぶりを振りながら、そっと彼女を抱きしめた。力の加減に全神経を使った。
鎖骨の下あたりにぬるま湯のような体温が伝わる。何が彼女をここまで追い込んでいるのだろう。活躍が自分の本来の実力じゃなかったこと、他人の意のままに操られていたこと——それよりも、バーナビーを巻き込んだことに自責の念が止まらないようだった。
そうだ、先程なんと言っていたか。「もう一度出会わせてしまってごめんなさい」!
「僕に、あなた以外の選択肢があったとでも?」
腕の中ですん、と鼻を啜る音がした。無言は雄弁な肯定だった。彼女の腕は自分の身体に回される気配がない。
「……バーナビーはすごい人で、昔からヒーローだった。肩書きも何もなくても、ヒーローだった」
アカデミー時代の話だとすぐに分かった。ヒーローになる前から、彼女も自分のことを少なからず思っていてくれていたのも、今初めて知ることだった。
「……全然運命じゃなかった。私じゃなかった。わたしじゃなくてよかった……」
「運命?」
これは、再会したあの夜のことだ。彼女にとっては運命だったのだろう。しかしバーナビーにしてみれば断じて違う。ああ、と自嘲に似た笑いが彼の喉に引っかかった。
「今思えば、やけに脇が固いあなたを探し出せたのは幸運だったのかもしれませんね」
司法局資料室や関係者のみ閲覧を許されたデータベースにアクセスしたことまでは言及しなかった。そもそも名前が公務員でなければ、見つけ出すのにもっと苦労していただろう。
「偶然でも運命でもない。僕はあなたにもう一度会いたくて、自分の力で見つけ出したんだ」
「でもそれが! 私にとっての幸運だった……」
「最高じゃないですか。どこに問題があるんです?」
「バーナビー!」
腕の中の名前が大きく身動いだ。伸びてきた彼女の右腕が、バーナビーの胸ぐらを掴む。その勢いで二人はバランスを崩し、ベッドにもたれ込んだ。
バーナビーは自分の上で馬乗りになる名前の目をレンズ越しに覗き込んだ。涙と憤りで真っ赤に染まった瞳を見れば、どっちが兎かわかったものじゃない。女の膝がぐっ、とシーツに沈み込む。代わりに掴まれたままのシャツの胸元が数センチ浮いた。
「これ以上、私を惨めにしないで」
「それはこっちの台詞だ。僕をこれ以上情けない男にしないで」
「私は何も持ってない。あなたに相応しくない。どうしてわかってくれないの」
がっかりされたくないと、失望されることに怯えていたあの日。彼女の望みは本当にそれだけだったのか。睨み付けてくる名前は、剥き出しの心でバーナビーの人生の一部が弄ばれたことに憤っている。それは信仰者の叫びに似ていた。
かつてヒーローの道を諦めた事情は、彼女の父親の正体を知ったときから察しはついていた。タイミングとしても、彼女の中退とビートウルフ失踪の時期はちょうど重なる。その経験があったからか、名前がバーナビーを見つめる瞳にはいつだって愛だの恋だののほかに、憧憬の色があった。
上に乗る名前から、急に力が抜けた。後ろに頭から倒れそうなところを、咄嗟に腕を引いて自分の上に倒れさせる。
名前は胸の上でまた静かに泣いていた。枯れる様子のない涙に、バーナビーは丸い後頭部に手を添えた。
「このまま眠ってしまいましょう。起きたら冷めたチャーハンを温めて、お茶も淹れ直して。これからのことを話しましょう」
がりがりとシーツを掻く指先から、心労の重りで沈みそうな身体を無理に動かそうとしているのだとわかった。ここにいてはいけないのだと、気付くには少し遅い。バーナビーは彼女を今さら手放す気などさらさらなかった。
「理想の恋人じゃなくていい。あなたがヒーローじゃなくても、運命でも愛でも恋でも奇跡でなくても、もう何だっていい。僕はただのあなたがいい」
眼鏡の向こうにグリーンの瞳が透ける。名前は本能的に恐怖した。自分が知らないと、本当は見ないふりをしていた目だった。
この二週間に名前が味わった苦渋のひとつひとつを、実に辿々しい、要領の得ない筋道を。
ヒーロー活動の不調は彼も知るところだったし、実際にアドバイスをくれたり、落ち込む彼女の気を紛らそうとしてくれていた。ミルキーウェイの件だって、関わり出した当初は早い段階でヒーローたちにも協力してもらうつもりだった。たまたまそこにヒーローを見下す警察の上層部やバーナビーのスキャンダルをちらつかせる記者が介入しただけだ。それだけで、少なくともバーナビーに頼るという選択肢は名前の中から消え去っていた。向けられる明確な悪意を恋人にも味合わせるわけがない。
自分が彼の人生を狂わせていたと知ってからは、もうだめだった。どう責任を取ればいいのかわからなかった。二十年越しの復讐を終えたばかりの彼を、別の糸で雁字搦めにした。それは幸運だ。名前にとっての理想、至上の幸福だ。
「……もう、ありませんか? 僕に隠していることは」
「ない、と思う……」
名前は赤い鼻を啜った。二人はキッチンからダイニングに移動していた。ダイニングテーブルで向かい合わせに座って、バーナビーの淹れたハーブティーが二人分用意されている。同じ銘柄のものが名前の家にもある。かつて彼が勧めてくれたものだからだ。とてもじゃないが、手をつける気にはなれなかった。
バーナビーがはあ、と息をつく。名前にとっての死刑宣告だった。
「あなたの話が正しければ、その
名前は腫れた両目でぎゅっと瞬きをした。ラインマーと初めて出会ったのは刑務官になったばかりの頃のはずだ。とうにアカデミーを去り、ヒーローの夢を捨てた後の。
バーナビーは軽く身を乗り出し、右手を伸ばした。名前は目を見開き、びくっと身体を震わせる。叩かれる。そう思わせたことにバーナビーは傷ついた。
テーブル越しに伸ばされた手は彼女の頬を叩くことなく、真っ赤に腫れた目元に優しく触れた。彼女の口がはく、と不器用な息をすることにまで切なくなってしまう。
「あーあ、こんなに腫らして」
親指で目の下を触れるか触れないかの力加減で拭えば、剥がれたベースメイクから隈が浮かび上がる。これもまた、バーナビーにしてみれば明かされていない隠し事のひとつだ。
「やさしくしないで……。騙されたって、お前なんかって叱って」
「へえ? そういうのがお好みですか。知らなかったな」
わざと軽い調子で言葉を返す。彼女の誕生日を前に、いっそワガママで振り回してほしいと願ったことがある。こんな形で達成されるとは思わなかった。達成されてほしくなかった。
拭っても拭っても止まらない涙で、そのうち彼女の目は溶けてなくなってしまうんじゃないかと心配になる。未だ整わない呼吸を諦めてしまうんじゃないかと不安になる。一人でなんでも背負い込んで、どこかへ消えてしまうんじゃないかと怖くなる。自分を置いていってしまうんじゃないかと。
バーナビーは立ち上がり、名前の腕を優しく引いた。力の入らない女の身体は抵抗らしい抵抗もなくそれに従う。やはり、その感触は記憶より軽かった。
彼女の手を引きながら、もう片方の手でベッドルームの明かりを付けた。後ろで名前が弱々しく、言葉にならない声を漏らした。
バーナビーはベッドに腰掛け、腕を広げた。名前は未だ光の灯らない虚ろな目のまま、その場から動けない。立ち尽くしたまま、自分のシャツのボタンに指を掛け始めた。能力を発動したときと同じかそれ以上の速さで、バーナビーがその手を制する。
「ちょっと、何を」
「そういうこと、じゃないの?」
名前の舌は震えて、辿々しいままだ。折檻のために寝室まで連れてきたのだと信じているようだった。
言葉足らずで誤解させた自分を叱咤すると共に、バーナビーはまた胸を抉られる思いがした。今までずっと乱暴をするような男だと思われてきたのだろうか。緩くかぶりを振りながら、そっと彼女を抱きしめた。力の加減に全神経を使った。
鎖骨の下あたりにぬるま湯のような体温が伝わる。何が彼女をここまで追い込んでいるのだろう。活躍が自分の本来の実力じゃなかったこと、他人の意のままに操られていたこと——それよりも、バーナビーを巻き込んだことに自責の念が止まらないようだった。
そうだ、先程なんと言っていたか。「もう一度出会わせてしまってごめんなさい」!
「僕に、あなた以外の選択肢があったとでも?」
腕の中ですん、と鼻を啜る音がした。無言は雄弁な肯定だった。彼女の腕は自分の身体に回される気配がない。
「……バーナビーはすごい人で、昔からヒーローだった。肩書きも何もなくても、ヒーローだった」
アカデミー時代の話だとすぐに分かった。ヒーローになる前から、彼女も自分のことを少なからず思っていてくれていたのも、今初めて知ることだった。
「……全然運命じゃなかった。私じゃなかった。わたしじゃなくてよかった……」
「運命?」
これは、再会したあの夜のことだ。彼女にとっては運命だったのだろう。しかしバーナビーにしてみれば断じて違う。ああ、と自嘲に似た笑いが彼の喉に引っかかった。
「今思えば、やけに脇が固いあなたを探し出せたのは幸運だったのかもしれませんね」
司法局資料室や関係者のみ閲覧を許されたデータベースにアクセスしたことまでは言及しなかった。そもそも名前が公務員でなければ、見つけ出すのにもっと苦労していただろう。
「偶然でも運命でもない。僕はあなたにもう一度会いたくて、自分の力で見つけ出したんだ」
「でもそれが! 私にとっての幸運だった……」
「最高じゃないですか。どこに問題があるんです?」
「バーナビー!」
腕の中の名前が大きく身動いだ。伸びてきた彼女の右腕が、バーナビーの胸ぐらを掴む。その勢いで二人はバランスを崩し、ベッドにもたれ込んだ。
バーナビーは自分の上で馬乗りになる名前の目をレンズ越しに覗き込んだ。涙と憤りで真っ赤に染まった瞳を見れば、どっちが兎かわかったものじゃない。女の膝がぐっ、とシーツに沈み込む。代わりに掴まれたままのシャツの胸元が数センチ浮いた。
「これ以上、私を惨めにしないで」
「それはこっちの台詞だ。僕をこれ以上情けない男にしないで」
「私は何も持ってない。あなたに相応しくない。どうしてわかってくれないの」
がっかりされたくないと、失望されることに怯えていたあの日。彼女の望みは本当にそれだけだったのか。睨み付けてくる名前は、剥き出しの心でバーナビーの人生の一部が弄ばれたことに憤っている。それは信仰者の叫びに似ていた。
かつてヒーローの道を諦めた事情は、彼女の父親の正体を知ったときから察しはついていた。タイミングとしても、彼女の中退とビートウルフ失踪の時期はちょうど重なる。その経験があったからか、名前がバーナビーを見つめる瞳にはいつだって愛だの恋だののほかに、憧憬の色があった。
上に乗る名前から、急に力が抜けた。後ろに頭から倒れそうなところを、咄嗟に腕を引いて自分の上に倒れさせる。
名前は胸の上でまた静かに泣いていた。枯れる様子のない涙に、バーナビーは丸い後頭部に手を添えた。
「このまま眠ってしまいましょう。起きたら冷めたチャーハンを温めて、お茶も淹れ直して。これからのことを話しましょう」
がりがりとシーツを掻く指先から、心労の重りで沈みそうな身体を無理に動かそうとしているのだとわかった。ここにいてはいけないのだと、気付くには少し遅い。バーナビーは彼女を今さら手放す気などさらさらなかった。
「理想の恋人じゃなくていい。あなたがヒーローじゃなくても、運命でも愛でも恋でも奇跡でなくても、もう何だっていい。僕はただのあなたがいい」
眼鏡の向こうにグリーンの瞳が透ける。名前は本能的に恐怖した。自分が知らないと、本当は見ないふりをしていた目だった。