Love me, love my dog.
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
広いキッチンに広い背中。左右対称にカールした毛先が、手元を動かすのに伴って揺れる。名前はその髪の色がいっとう好きだった。
夜のシュテルンビルトに瞬くストリートの街灯。星あかり、シャンパンの泡ひとつひとつ。それから、もう一度出会ってくれたあの夜に飲んでいたカクテルと同じ色。名前の持たない色だ。彼女の髪は照らされる夜の色。宵に溶け込む暗さを持っている。
細身に見えて、触れればヒーローの名に相応しい強靭な肉体であることも知っている。体温が低めなことも、若々しいマリンノートと彼自身の体臭が混ざった背中の匂いのことも。木の幹のような胴に両腕を回して、左右に盛り上がる背筋の窪みに鼻を擦り付けると、こら、と咎める気のない声が飛んでくる。
「危ないでしょう、火を扱っているんですから」
「うん……」
「まったく……」
これもちっとも注意する気のない溜め息だった。バーナビーは回された彼女の手に油が飛ばないように気をつけながら、フライパンを振るった。
バーナビーが作っているのは、目下練習中の虎徹直伝チャーハンだった。家事が特段得意ではないバーナビーだったが、名前に味を見てほしいと自宅に招いた。それは半分くらいただの名目で、自分を喜ばせるためだろうと自惚れではなく理解していた。実際に、彼の手料理なんて初めてで、心に何のわだかまりもなければ飛び上がるほど喜んだはずだ。理解したからこそ、苦しくて仕方なかった。
「…… 名前?」
あとは皿に盛り付けるだけというところで、バーナビーは火を止めた。完成したからではない、後ろから抱きつく彼女の異変に気付いたからだった。
顔を埋められたシャツの背が、ひんやりと湿っていた。換気扇を消せば、すんすんと控えめな音が聞こえてくる。彼女が心を引き摺る音だった。バーナビーを閉じ込めるように回された手が白く、震える。何が彼女の心を乱したのかわからず、バーナビーは動揺するほかなかった。
彼女の手を上から覆って、「名前、名前。どうしたんです」と努めて優しく呼びかける。
「顔を見せて、名前」
「ごめんなさい……」
「えっ……?」
名前は頑なに離そうとしない。バーナビーは顔を見てどうしたのかと話をしたかったが、彼女の腕が離れてしまうことの方が余程恐ろしいことに思えた。
「私、じゃなかった。全部仕組まれてたことだった……」
「何の話ですか」
「巻き込んでごめんなさい、もう一度出会わせてしまって、ごめんなさい……」
底なしの泥濘に沈んでいくような声だった。名前はしきりに「ごめんなさい」を繰り返しては、息を詰まらせていた。記憶よりも不健康に細く、梢のようになった指が痛々しかった。バーナビーは、最後に手を繋いだのはいつだっただろうかと胸に釘を打ち込まれる思いがした。
*
アッバス刑務所所長、ラインマー・ゾルゲの帰還は名前がジャンマルコと接触してから三日後のことだった。ラインマーは黒い中折れ帽子を外しながら、出迎えた部下を見遣った。所長室に招き入れると、彼女はそれに従った。
「ご苦労。ホセ局長に聞いたが、僕のいないうちに色々物騒なことがあったみたいだね」
「ええ、本当に」
思えば、保たれていた天秤が大きく傾いたのは約二週間前からだ。ウォッチドッグの不調、駆り立てられる劣等感、ヒーローと警察の板挟み、違法ドラッグ・ミルキーウェイの爆発的な流行、脅迫に似た取引の申し出……。名前はこの二週間で抱えきれない荷物を背負わされることになった。
しかし一番の不運を、これから背負わなくてはならない。
「所長。私、あなたと仕事ができて結構楽しかったです」
「なんだい、急に。寿退職でもする気かい」
「だから、事実と異なるのなら笑い飛ばしてください。ミルキーウェイを流通させているのはあなたですか?」
コートを脱ぐ衣擦れの音が、ぴたりと止んだ。しかしそれは一瞬のことで、ラインマーは脱いだコートをハンガーラックに掛け、そのまま自分のデスクに腰をかけた。ギイ、と古びた革張りのチェアが音を立てる。ラインマーは聞き返すことも取り乱すこともなく、緩慢な動きで部屋の端を指差した。
「椅子がある。座ったらどうだ」
いつも通りの鉄仮面。蝋燭に喩えられる青白く、細長い体躯。鷲鼻の上に乗っかった丸いレンズの眼鏡。あまりにいつも通りで、自分はちゃんと思った通りの言葉を口にできていたのか疑った。
何を考えているのか全くわからない無表情から、時折軽妙に滑り落ちる冗談が名前は結構好きだった。おそらく、過去形にしなければならない。
示された通り、名前は所長室の隅に乱雑に立て掛けられたパイプ椅子に座った。とてもじゃないが来客用ではない。刑務所の職員が何か相談に来たときのためか、あるいは脚立代わりに足場にしているものだろう。足の高さが合わないのか、がたがたと揺れる始末だったが今は気にするまでもなかった。
何をどう切り出したものか、自分の心臓の音に急かされる名前を意に介さず、ラインマーは重々しい口を開いた。
「幼い頃からの夢だったヒーロー就任、理想の恋人、頼れる同僚たち」
「はっ……」
何の話ですかと問おうとして、すぐ分かった。理解したからこそ、言葉にならない息が漏れた。——私の話だ。
「幸運だ、実に幸運だね。本当に君一人の実力とでも思ったかい」
ラインマーは決まり切った条約を読み上げるかのように淡々と、粛々と言葉を紡いだ。骨と皮でできた指が机を一定のテンポで叩く。時計の秒針、メトロノーム、あるいは彼自身の鼓動のように無機質な調子だった。
「君は普通だ。あまりに凡庸だ。君程度はそこら中にいる。取るに足らない存在だ。その能力を除いては」
「よく自分の能力がヒーロー向きではないとぼやいていたが、それは違う。対NEXT犯罪者という点において、君の力以上に相応しいものはない」
「能力のせいじゃない、君が器じゃないだけだ」
普通、凡庸、平凡、取るに足らない。名前に対するラインマーの口癖だった。
アッバス刑務所に赴任してから、事あるごとに彼は言うのだ。最初はそこまで言わなくたって!と憤ったが、結果それが名前が腐らず能力を磨き続ける原動力にもなった。いつかこの上司も認めるほどに成長できたら、それはきっと一つの到達点だと。
「何が、言いたいんです……?」
「ビギナーズラックは終わりって話だよ。この二週間で、僕が施していた運 はすっかり底をついた。もし君が最近不調だと感じていたのなら、それが本来の君の実力ってことだ」
運のつき。所長が施した——
点と点がまだ繋がらない。ラインマーはなんとか意味を理解しようと言葉を反芻する部下に、色の読めない視線を向けていた。逡巡は四秒ほどだった。普通の人間には為し得ない自供の、たった一つの可能性。恐る恐る開かれた唇からは色が失われていた。
「だって、所長がNEXTだなんて一度も——」
「ミルキーウェイがここまで広まったのも幸運だった。でもやりたくてやったわけじゃあないんだ。資金集めに上が煩くて煩くて」
「うえ」
アッバス刑務所所長の上とは司法機関のことか。それとも警察の上層部か。はたまた別の組織のことか。
「なんで君に気付かれたかね。まあいいんだ、僕はもうすぐ定年退職してシュテルンビルトを去る。飼っている四匹の犬と一緒に、田舎暮らしをする予定だ。そこで提案なんだが、僕の家族にならないか?」
怒涛。それでいて唐突で、しかし口調はあまりにも凪いでいる。名前は目を白黒させた。自分はどうして上司と話をしているのだったか。調べ上げた結果、ドラッグの元締めは所長しかあり得ないと辿り着いて、彼はそれを認める口振りで……。運だのなんだのは置いておくとしても、それがどうしてこんな話になっている? どうしてここまで落ち着いていられる?
「僕は犬を飼っている。四匹。みんなイタリアン・グレイハウンドのオス」
「厳しい躾は苦手でね、トイレトレーニングと噛み癖や無駄吠えの矯正、あとはお手とお座りを教えたくらいだ」
「ただ彼らは賢い。僕が起きる時間になればスリッパと新聞を持ってきてくれるし、家に帰れば玄関に揃って待っていてくれる。可愛い奴らさ」
「言葉が通じる分、今度は楽できそうだ」
ガタン! 名前は耐え切れず立ち上がった。ツカツカとデスクの前に立ち、両手を叩きつける。
「何なんですか、あなた。さっきから何を言っているんですか!? なにを……」
「君は僕から離れられないはずだ。ヒーローとしての栄誉、愛しい恋人、受け入れてくれた仲間たち。その味を知ってなお、自ら手放せるかい」
「運を操るだなんて、そんな力信じられるわけ……!」
「本当に? ムシの良い話だとは思わなかった?」
目は雄弁だ。ラインマーの灰色の目は、どこまでも名前を刺し殺す。
彼の話が本当なら。一度は捨てたヒーローという夢。淡い恋心の続き。共に戦ったヒーローたちとの思い出もすべて、名前が手に入れたものじゃなかった。この男から垂らされた糸によって操られていただけだ。
この二週間で荷物を背負わされたのではなかった。見えない幸運の糸を一本、また一本と断ち切られていただけだ。頭上の糸が全て取り払われたとき、今の名前には何が残る?
ウォッチドッグと呼んでくれた市民の声。時に競い、時に協力し合ったシュテルンビルトのヒーローたち。あのひと。
釣り合わないと思っていた。住む世界が違うと。なんでこんな人が私の隣にいてくれるんだろうと思いながらも、舞い上がっていた。再会の夜が唐突だったことも、今なら頷ける。無理矢理繋げられた、呪いの赤い糸だ。名前の未練がましい恋心がバーナビーを引き寄せてしまった。
「証拠はないんだろう。告発するもしないも君の自由だが、そしてあんまりこういうことを言いたくはないんだが……」
「ウロボロス はそんなに甘くないよ、名前」
名前は逃げるようにその場から去っていた。ように、ではなく逃げたのだ。突きつけられた現実から逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、倒れ込むように自宅に辿り着いた。マーガレットの花はすべて萎れていた。
夜のシュテルンビルトに瞬くストリートの街灯。星あかり、シャンパンの泡ひとつひとつ。それから、もう一度出会ってくれたあの夜に飲んでいたカクテルと同じ色。名前の持たない色だ。彼女の髪は照らされる夜の色。宵に溶け込む暗さを持っている。
細身に見えて、触れればヒーローの名に相応しい強靭な肉体であることも知っている。体温が低めなことも、若々しいマリンノートと彼自身の体臭が混ざった背中の匂いのことも。木の幹のような胴に両腕を回して、左右に盛り上がる背筋の窪みに鼻を擦り付けると、こら、と咎める気のない声が飛んでくる。
「危ないでしょう、火を扱っているんですから」
「うん……」
「まったく……」
これもちっとも注意する気のない溜め息だった。バーナビーは回された彼女の手に油が飛ばないように気をつけながら、フライパンを振るった。
バーナビーが作っているのは、目下練習中の虎徹直伝チャーハンだった。家事が特段得意ではないバーナビーだったが、名前に味を見てほしいと自宅に招いた。それは半分くらいただの名目で、自分を喜ばせるためだろうと自惚れではなく理解していた。実際に、彼の手料理なんて初めてで、心に何のわだかまりもなければ飛び上がるほど喜んだはずだ。理解したからこそ、苦しくて仕方なかった。
「…… 名前?」
あとは皿に盛り付けるだけというところで、バーナビーは火を止めた。完成したからではない、後ろから抱きつく彼女の異変に気付いたからだった。
顔を埋められたシャツの背が、ひんやりと湿っていた。換気扇を消せば、すんすんと控えめな音が聞こえてくる。彼女が心を引き摺る音だった。バーナビーを閉じ込めるように回された手が白く、震える。何が彼女の心を乱したのかわからず、バーナビーは動揺するほかなかった。
彼女の手を上から覆って、「名前、名前。どうしたんです」と努めて優しく呼びかける。
「顔を見せて、名前」
「ごめんなさい……」
「えっ……?」
名前は頑なに離そうとしない。バーナビーは顔を見てどうしたのかと話をしたかったが、彼女の腕が離れてしまうことの方が余程恐ろしいことに思えた。
「私、じゃなかった。全部仕組まれてたことだった……」
「何の話ですか」
「巻き込んでごめんなさい、もう一度出会わせてしまって、ごめんなさい……」
底なしの泥濘に沈んでいくような声だった。名前はしきりに「ごめんなさい」を繰り返しては、息を詰まらせていた。記憶よりも不健康に細く、梢のようになった指が痛々しかった。バーナビーは、最後に手を繋いだのはいつだっただろうかと胸に釘を打ち込まれる思いがした。
*
アッバス刑務所所長、ラインマー・ゾルゲの帰還は名前がジャンマルコと接触してから三日後のことだった。ラインマーは黒い中折れ帽子を外しながら、出迎えた部下を見遣った。所長室に招き入れると、彼女はそれに従った。
「ご苦労。ホセ局長に聞いたが、僕のいないうちに色々物騒なことがあったみたいだね」
「ええ、本当に」
思えば、保たれていた天秤が大きく傾いたのは約二週間前からだ。ウォッチドッグの不調、駆り立てられる劣等感、ヒーローと警察の板挟み、違法ドラッグ・ミルキーウェイの爆発的な流行、脅迫に似た取引の申し出……。名前はこの二週間で抱えきれない荷物を背負わされることになった。
しかし一番の不運を、これから背負わなくてはならない。
「所長。私、あなたと仕事ができて結構楽しかったです」
「なんだい、急に。寿退職でもする気かい」
「だから、事実と異なるのなら笑い飛ばしてください。ミルキーウェイを流通させているのはあなたですか?」
コートを脱ぐ衣擦れの音が、ぴたりと止んだ。しかしそれは一瞬のことで、ラインマーは脱いだコートをハンガーラックに掛け、そのまま自分のデスクに腰をかけた。ギイ、と古びた革張りのチェアが音を立てる。ラインマーは聞き返すことも取り乱すこともなく、緩慢な動きで部屋の端を指差した。
「椅子がある。座ったらどうだ」
いつも通りの鉄仮面。蝋燭に喩えられる青白く、細長い体躯。鷲鼻の上に乗っかった丸いレンズの眼鏡。あまりにいつも通りで、自分はちゃんと思った通りの言葉を口にできていたのか疑った。
何を考えているのか全くわからない無表情から、時折軽妙に滑り落ちる冗談が名前は結構好きだった。おそらく、過去形にしなければならない。
示された通り、名前は所長室の隅に乱雑に立て掛けられたパイプ椅子に座った。とてもじゃないが来客用ではない。刑務所の職員が何か相談に来たときのためか、あるいは脚立代わりに足場にしているものだろう。足の高さが合わないのか、がたがたと揺れる始末だったが今は気にするまでもなかった。
何をどう切り出したものか、自分の心臓の音に急かされる名前を意に介さず、ラインマーは重々しい口を開いた。
「幼い頃からの夢だったヒーロー就任、理想の恋人、頼れる同僚たち」
「はっ……」
何の話ですかと問おうとして、すぐ分かった。理解したからこそ、言葉にならない息が漏れた。——私の話だ。
「幸運だ、実に幸運だね。本当に君一人の実力とでも思ったかい」
ラインマーは決まり切った条約を読み上げるかのように淡々と、粛々と言葉を紡いだ。骨と皮でできた指が机を一定のテンポで叩く。時計の秒針、メトロノーム、あるいは彼自身の鼓動のように無機質な調子だった。
「君は普通だ。あまりに凡庸だ。君程度はそこら中にいる。取るに足らない存在だ。その能力を除いては」
「よく自分の能力がヒーロー向きではないとぼやいていたが、それは違う。対NEXT犯罪者という点において、君の力以上に相応しいものはない」
「能力のせいじゃない、君が器じゃないだけだ」
普通、凡庸、平凡、取るに足らない。名前に対するラインマーの口癖だった。
アッバス刑務所に赴任してから、事あるごとに彼は言うのだ。最初はそこまで言わなくたって!と憤ったが、結果それが名前が腐らず能力を磨き続ける原動力にもなった。いつかこの上司も認めるほどに成長できたら、それはきっと一つの到達点だと。
「何が、言いたいんです……?」
「ビギナーズラックは終わりって話だよ。この二週間で、僕が施していた
運のつき。所長が施した——
点と点がまだ繋がらない。ラインマーはなんとか意味を理解しようと言葉を反芻する部下に、色の読めない視線を向けていた。逡巡は四秒ほどだった。普通の人間には為し得ない自供の、たった一つの可能性。恐る恐る開かれた唇からは色が失われていた。
「だって、所長がNEXTだなんて一度も——」
「ミルキーウェイがここまで広まったのも幸運だった。でもやりたくてやったわけじゃあないんだ。資金集めに上が煩くて煩くて」
「うえ」
アッバス刑務所所長の上とは司法機関のことか。それとも警察の上層部か。はたまた別の組織のことか。
「なんで君に気付かれたかね。まあいいんだ、僕はもうすぐ定年退職してシュテルンビルトを去る。飼っている四匹の犬と一緒に、田舎暮らしをする予定だ。そこで提案なんだが、僕の家族にならないか?」
怒涛。それでいて唐突で、しかし口調はあまりにも凪いでいる。名前は目を白黒させた。自分はどうして上司と話をしているのだったか。調べ上げた結果、ドラッグの元締めは所長しかあり得ないと辿り着いて、彼はそれを認める口振りで……。運だのなんだのは置いておくとしても、それがどうしてこんな話になっている? どうしてここまで落ち着いていられる?
「僕は犬を飼っている。四匹。みんなイタリアン・グレイハウンドのオス」
「厳しい躾は苦手でね、トイレトレーニングと噛み癖や無駄吠えの矯正、あとはお手とお座りを教えたくらいだ」
「ただ彼らは賢い。僕が起きる時間になればスリッパと新聞を持ってきてくれるし、家に帰れば玄関に揃って待っていてくれる。可愛い奴らさ」
「言葉が通じる分、今度は楽できそうだ」
ガタン! 名前は耐え切れず立ち上がった。ツカツカとデスクの前に立ち、両手を叩きつける。
「何なんですか、あなた。さっきから何を言っているんですか!? なにを……」
「君は僕から離れられないはずだ。ヒーローとしての栄誉、愛しい恋人、受け入れてくれた仲間たち。その味を知ってなお、自ら手放せるかい」
「運を操るだなんて、そんな力信じられるわけ……!」
「本当に? ムシの良い話だとは思わなかった?」
目は雄弁だ。ラインマーの灰色の目は、どこまでも名前を刺し殺す。
彼の話が本当なら。一度は捨てたヒーローという夢。淡い恋心の続き。共に戦ったヒーローたちとの思い出もすべて、名前が手に入れたものじゃなかった。この男から垂らされた糸によって操られていただけだ。
この二週間で荷物を背負わされたのではなかった。見えない幸運の糸を一本、また一本と断ち切られていただけだ。頭上の糸が全て取り払われたとき、今の名前には何が残る?
ウォッチドッグと呼んでくれた市民の声。時に競い、時に協力し合ったシュテルンビルトのヒーローたち。あのひと。
釣り合わないと思っていた。住む世界が違うと。なんでこんな人が私の隣にいてくれるんだろうと思いながらも、舞い上がっていた。再会の夜が唐突だったことも、今なら頷ける。無理矢理繋げられた、呪いの赤い糸だ。名前の未練がましい恋心がバーナビーを引き寄せてしまった。
「証拠はないんだろう。告発するもしないも君の自由だが、そしてあんまりこういうことを言いたくはないんだが……」
「
名前は逃げるようにその場から去っていた。ように、ではなく逃げたのだ。突きつけられた現実から逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、倒れ込むように自宅に辿り着いた。マーガレットの花はすべて萎れていた。