Love me, love my dog.
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チャコールブラウンのウォーターポットから花と葉にかからないようにたぱたぱと水を注げば、根元の土がじゅんと色濃くなる。微かな土の匂いは人工的に生み出せない、自然の力を感じさせた。彼に貰ったときは鉢植えいっぱいに満開だったマーガレットの花も、今や咲いているのは数えられるほどだ。開花時期はそろそろ終わる頃で、これから夏越えを迎える。夏の間は成長しないため肥料は与えなくていいらしい。暑さに弱い種類だから、風通しの良い場所で過ごさせてあげるといいみたいですよ、と彼は教えてくれた。その葉に触れる優しい手に、名前は意味もなく泣きそうになってしまったことを覚えている。
名前は今日、有給を取っていた。以前は定期的に消化していたものの、ヒーローになってからは怒涛の毎日でとてもそこまで気が回らなかった。人事部から苦言に似た提案をされたときには思わず乾いた笑いが出たが、誰かが気遣ってくれるというのはそれだけで得難いものだ。
突然降ってきた休みを、さて何をしようかと持て余した。自分は休みでも他のヒーローや友人たちは働いているし、買い物も掃除も洗濯もほどほどに済ませてしまった。こういうとき、例えば虎徹なら娘に会いに里帰りするのだろう。しかし名前には帰るべき実家はない。
バーナビーを部屋に上げた日から伏せたままの写真立ては、変わらず棚の上にあった。見なくても思い出せる、かつての父の姿。名前に母親の記憶はない。元々身体が弱かったことに加えて難産だった。自分を産んだ直後にこの世を去ってしまったらしい。だから名前にとって母とは写真の中の生き物だった。普段は口数の少ない、背中で語る性格の父はこれだけは教えてくれた。母も自分と同じNEXTの能力を、無効化の力を持っていたと。
思えば、それが初めてヒーローを志した記憶かもしれなかった。男手ひとつで自分を育ててくれたヒーローの父。母と同じ能力を受け継いで生まれた自分。もしかしたら自分は、両親から何もかもを奪って生まれてきてしまったのかもしれないと。せめて奪ってしまった分を返したいと。
アカデミーは楽しかった。名前やバーナビーのように本気でヒーローを目指す者もいれば、力との向き合い方に悩んで入学してきた者もいた。たくさんのNEXTに囲まれて過ごすのは安心したし、充実していた。ヒーローになりたいという夢をこれほど肯定的に捉えられた、前向きになれた時間だった。父がオードゥンに負けて、失踪するまでは。
ビートウルフの敗北、引退、そして蒸発。経済的にも社会的にも後ろ盾を失った名前はヒーローアカデミーの退学を余儀なくされた。校長は奨学金や助成金でどうにか学校で残る術を紹介してくれたが、とてもそんな気分にはなれなかった。テレビ、新聞、雑誌、ネット、どれを見ても父への落胆と失望、そして同情に溢れていた。名前のヒーローはいなくなった。
両親の敵討ちを果たしたバーナビーとは違い、名前に仇は存在しない。強いて言うなら自分自身だ。
それからの人生も人に助けられた。警察学校へ入り直し、比較的トントン拍子で縁あって刑務官の枠に収まった。ラインマー所長は入職当初から気にかけてくれていたはずだ。
恵まれた、恵まれている。だから期待に応えなくてはいけないし、失望させるようなことはあってはならない。
名前は受け取った名刺を指先で摘んだ。ブバルディア出版はゴシップ雑誌を主に扱う、小さな会社だった。ジャンマルコ・リッチその人についても調べてみたところ、少なくとも犯罪歴や薄暗い繋がりは見つからなかった。むしろこの会社が小さいながらも定期的に大きなニュースやスクープを引っ張ってこれているのは、彼の存在が大きいようだった。手段は置いておいて、敏腕ジャーナリストといったところか。
名刺を裏返せば、見間違いであってほしかった告発。
"The goddess Hera is close to you!"
ベッドに倒れ込み、窓から差し込む光に透かしてみてもその文字は変わらない。
「一体誰が……」
ミルキーウェイは今や無数の星々が織りなす銀河のように、この街に蔓延っている。容易には追い切れないネットワークも秘匿性も、個人ができる範疇を到底超えている。組織立った計画と考えるべきだ。
名前は上体を起こし、携帯電話を手に取った。
「思ってたより早い連絡で嬉しいよ」
「あんなメッセージを残しておいて」
「鈍感ぶらない女は好きだぜ、俺」
はあ、名前は平べったい目を目の前の男に向けた。待ち合わせに指定されたのは、街角のコーヒーショップだった。シュテルンビルト市内で何十店舗もチェーン展開されている店内は、平日の昼間からスーツ姿の会社員やお喋りなマダムたちで埋め尽くされている。ちょうど窓と壁に挟まれた、奥まったテーブル席に二人はいた。今日も変わらずアロハシャツの男、ジャンマルコの奢りで注文したアイスコーヒーを吸った。
ジャンマルコは左手で顎髭を弄りながら、右手の人差し指と中指を立てた。髭を触るのはどうやら癖らしい。
「早い話、君と取引がしたいんだ。こっちから差し出せるものは二つ。件の大元の正体と、とある大スクープを世に出さない権利だ」
「大スクープ?」
一つ目は言うまでもなくミルキーウェイの元締めのことだ。警察でも捜査が難航しているというのに、どうして彼がその正体を掴んでいるのか、デマではないのかということは置いておいて、二つ目には覚えがなかった。
ジャンマルコは声を潜めて淡々と答える。
「人気ヒーローの熱愛報道」
「!」
「目立つよね、彼。帽子は被らない趣味なんだっけ」
アイスカフェラテを啜りながら、ジャンマルコは一枚の写真を静かに差し出す。そこにはトイレットペーパーや食料品の積まれたカゴを引きながら大型スーパーから出てくる男女が映っていた。ジャンマルコの言う通り、彼は人の目を引く。長身や鍛え上げられた体格、甘いマスクだけではなく、それは名前が常々劣等感を感じていた特別な何か。一言で表すならスター性だ。
名前の誕生日の前日、彼が車を出してくれた日だ。恐れていたことが現実になってしまった。
「暫定の見出しは『人気ヒーロー・バーナビー、一般女性と同棲か!?』なんだけどどう?」
「取引なんでしょう、そちらの要求はなんですか」
ジャンマルコはオッと眉を上げてみせる。早々に釣られたのは予想外だったらしい。
「愛されてるねえ、バーナビージュニア」
「まだ受けるとは言っていません」
「君の仕事仲間を売ってほしくてね」
「は……?」
「というか例の黒幕の話と二つに一つなんだ」
うなじに嫌な汗が伝う。アイスコーヒーのグラスが汗をかいて、テーブルの上に円を描いていた。
「君は仕事中にたまたまよそ見をして、その隙に俺は偶然君の職場に侵入する。偶然ね。そして違法ドラッグの元締めを突撃取材さ」
「待って! そんな、証拠はあるんですか」
「あるよ。ウチは小さい小さい会社でね、世に出す前に揉み消されちまう。でも一本記事が上がって、そいつの顔に泥かけちまえばこっちのもんだ。あとは世間が勝手に疑惑を膨らませる」
名前の脳裏には父が失踪した直後の世間の反応があった。借金疑惑、能力減退説、死亡説……。娘ですら知らない、本当か嘘かわからない噂があっという間に広がる様は気味が悪かった。
「卑怯だって思うかい、お嬢ちゃん。しかしこれが俺なりのやり方で、俺の正義だ」
「その、売ってほしい仕事仲間っていうのは」
「飲むってことでいいんだな? こんなんもっと悪どい奴は聞いちゃくれねえぞ」
名前は一杯分のキャッシュをテーブルに叩きつけて、立ち上がった。
「少し、考えさせてください。また連絡します」
「オウ、そりゃ助かる」
あ、奢りだって言っただろうよ、とジャンマルコが後ろから声を掛ける。名前は振り返ることもなく店を出た。氷が溶けて崩れたアイスコーヒーは、まだ半分も残っている。男は自らの顎髭を撫で回した。
「甘え方も知らねえ青い女は、あんまタイプじゃねえな」
彼女の出した結論は、自分の力でミルキーウェイの元締めを暴き出すことだった。
そうと決まれば悠長にはしていられない。痺れを切らしたジャンマルコが、いつバーナビーの記事を世に出すかわかったものじゃない。
彼はその正体について、名前と同じ職場の仕事仲間だと言っていた。それで大分絞られる。しかし本当に、自分と一緒に働く仲間の誰かにドラッグをばら撒く元凶が——
名前の携帯電話が震える。ジャンマルコかと思い、勢いよく通話に出ると、想像とは違う震える声が聞こえてきた。アッバス刑務所の看守からだった。
「名前さん、お休み中にすみません! でも所長もいないし、俺たちだけじゃどうにも——」
「落ち着いて。どうしたんですか?」
「囚人の一人が能力を暴走させて……! この症状、もしかしたら例のドラッグかもしれません!」
「刑務所にまで……!? すぐに行きます!」
タクシーを捕まえて、手短に「アッバス刑務所まで。なるべく急いで」と伝える。
腐ってもアッバス刑務所はシュテルンビルトが誇る法の鉄檻だ。NEXTの受刑者にも対応した設備と人員で、現にあの凶悪犯ジェイクを持ってしても自力での脱獄は叶わなかった。だからこそ街と全市民を人質に取る強行策に出たわけで——
受刑者がその敷地に足を踏み入れるときには、冗談ではなく靴底から胃の中、尻の穴に至るまで厳重な検査を受ける。正当な許可を得ない限り、紙切れひとつ、針一本持ち込むことは許されない。そんな中で、あんな目立つドラッグを服用するなんて不可能だ。少なくとも、受刑者ひとりの力では。
「……!」
最近、こんな思いをする日続きだ。
自分の無力さ、誰に縋りつきたくなる弱さ、同じような味ばかり舌に馴染む。
こんなものを不幸と呼ぶのなら、始めたのは自分自身だ。断ち切るのも私でなければならない。名前は手帳で日付を確認した。
車窓からは流れる街並み。現在のヒーローランキングの首位はほぼ横並びだ。キングオブヒーローことスカイハイ、そして悲劇の美男子バーナビー。街頭ビジョンに映し出される広告の大半はこの二人が占めていた。HERO TVは夏の終わりと共にシーズンを終える。ランキングの行く末が市民の注目を集めるのは当然だ。
住む世界が違う。街の平和を守る彼。ステージの真ん中でスポットライトを浴びる彼。街を歩けばファンに囲まれる彼。ベッドサイドランプに照らされる彼。困った顔で笑う彼。私を見つけてくれた彼。
あの花が夏を越すのに、栄養は要らないらしい。
名前は今日、有給を取っていた。以前は定期的に消化していたものの、ヒーローになってからは怒涛の毎日でとてもそこまで気が回らなかった。人事部から苦言に似た提案をされたときには思わず乾いた笑いが出たが、誰かが気遣ってくれるというのはそれだけで得難いものだ。
突然降ってきた休みを、さて何をしようかと持て余した。自分は休みでも他のヒーローや友人たちは働いているし、買い物も掃除も洗濯もほどほどに済ませてしまった。こういうとき、例えば虎徹なら娘に会いに里帰りするのだろう。しかし名前には帰るべき実家はない。
バーナビーを部屋に上げた日から伏せたままの写真立ては、変わらず棚の上にあった。見なくても思い出せる、かつての父の姿。名前に母親の記憶はない。元々身体が弱かったことに加えて難産だった。自分を産んだ直後にこの世を去ってしまったらしい。だから名前にとって母とは写真の中の生き物だった。普段は口数の少ない、背中で語る性格の父はこれだけは教えてくれた。母も自分と同じNEXTの能力を、無効化の力を持っていたと。
思えば、それが初めてヒーローを志した記憶かもしれなかった。男手ひとつで自分を育ててくれたヒーローの父。母と同じ能力を受け継いで生まれた自分。もしかしたら自分は、両親から何もかもを奪って生まれてきてしまったのかもしれないと。せめて奪ってしまった分を返したいと。
アカデミーは楽しかった。名前やバーナビーのように本気でヒーローを目指す者もいれば、力との向き合い方に悩んで入学してきた者もいた。たくさんのNEXTに囲まれて過ごすのは安心したし、充実していた。ヒーローになりたいという夢をこれほど肯定的に捉えられた、前向きになれた時間だった。父がオードゥンに負けて、失踪するまでは。
ビートウルフの敗北、引退、そして蒸発。経済的にも社会的にも後ろ盾を失った名前はヒーローアカデミーの退学を余儀なくされた。校長は奨学金や助成金でどうにか学校で残る術を紹介してくれたが、とてもそんな気分にはなれなかった。テレビ、新聞、雑誌、ネット、どれを見ても父への落胆と失望、そして同情に溢れていた。名前のヒーローはいなくなった。
両親の敵討ちを果たしたバーナビーとは違い、名前に仇は存在しない。強いて言うなら自分自身だ。
それからの人生も人に助けられた。警察学校へ入り直し、比較的トントン拍子で縁あって刑務官の枠に収まった。ラインマー所長は入職当初から気にかけてくれていたはずだ。
恵まれた、恵まれている。だから期待に応えなくてはいけないし、失望させるようなことはあってはならない。
名前は受け取った名刺を指先で摘んだ。ブバルディア出版はゴシップ雑誌を主に扱う、小さな会社だった。ジャンマルコ・リッチその人についても調べてみたところ、少なくとも犯罪歴や薄暗い繋がりは見つからなかった。むしろこの会社が小さいながらも定期的に大きなニュースやスクープを引っ張ってこれているのは、彼の存在が大きいようだった。手段は置いておいて、敏腕ジャーナリストといったところか。
名刺を裏返せば、見間違いであってほしかった告発。
"The goddess Hera is close to you!"
ベッドに倒れ込み、窓から差し込む光に透かしてみてもその文字は変わらない。
「一体誰が……」
ミルキーウェイは今や無数の星々が織りなす銀河のように、この街に蔓延っている。容易には追い切れないネットワークも秘匿性も、個人ができる範疇を到底超えている。組織立った計画と考えるべきだ。
名前は上体を起こし、携帯電話を手に取った。
「思ってたより早い連絡で嬉しいよ」
「あんなメッセージを残しておいて」
「鈍感ぶらない女は好きだぜ、俺」
はあ、名前は平べったい目を目の前の男に向けた。待ち合わせに指定されたのは、街角のコーヒーショップだった。シュテルンビルト市内で何十店舗もチェーン展開されている店内は、平日の昼間からスーツ姿の会社員やお喋りなマダムたちで埋め尽くされている。ちょうど窓と壁に挟まれた、奥まったテーブル席に二人はいた。今日も変わらずアロハシャツの男、ジャンマルコの奢りで注文したアイスコーヒーを吸った。
ジャンマルコは左手で顎髭を弄りながら、右手の人差し指と中指を立てた。髭を触るのはどうやら癖らしい。
「早い話、君と取引がしたいんだ。こっちから差し出せるものは二つ。件の大元の正体と、とある大スクープを世に出さない権利だ」
「大スクープ?」
一つ目は言うまでもなくミルキーウェイの元締めのことだ。警察でも捜査が難航しているというのに、どうして彼がその正体を掴んでいるのか、デマではないのかということは置いておいて、二つ目には覚えがなかった。
ジャンマルコは声を潜めて淡々と答える。
「人気ヒーローの熱愛報道」
「!」
「目立つよね、彼。帽子は被らない趣味なんだっけ」
アイスカフェラテを啜りながら、ジャンマルコは一枚の写真を静かに差し出す。そこにはトイレットペーパーや食料品の積まれたカゴを引きながら大型スーパーから出てくる男女が映っていた。ジャンマルコの言う通り、彼は人の目を引く。長身や鍛え上げられた体格、甘いマスクだけではなく、それは名前が常々劣等感を感じていた特別な何か。一言で表すならスター性だ。
名前の誕生日の前日、彼が車を出してくれた日だ。恐れていたことが現実になってしまった。
「暫定の見出しは『人気ヒーロー・バーナビー、一般女性と同棲か!?』なんだけどどう?」
「取引なんでしょう、そちらの要求はなんですか」
ジャンマルコはオッと眉を上げてみせる。早々に釣られたのは予想外だったらしい。
「愛されてるねえ、バーナビージュニア」
「まだ受けるとは言っていません」
「君の仕事仲間を売ってほしくてね」
「は……?」
「というか例の黒幕の話と二つに一つなんだ」
うなじに嫌な汗が伝う。アイスコーヒーのグラスが汗をかいて、テーブルの上に円を描いていた。
「君は仕事中にたまたまよそ見をして、その隙に俺は偶然君の職場に侵入する。偶然ね。そして違法ドラッグの元締めを突撃取材さ」
「待って! そんな、証拠はあるんですか」
「あるよ。ウチは小さい小さい会社でね、世に出す前に揉み消されちまう。でも一本記事が上がって、そいつの顔に泥かけちまえばこっちのもんだ。あとは世間が勝手に疑惑を膨らませる」
名前の脳裏には父が失踪した直後の世間の反応があった。借金疑惑、能力減退説、死亡説……。娘ですら知らない、本当か嘘かわからない噂があっという間に広がる様は気味が悪かった。
「卑怯だって思うかい、お嬢ちゃん。しかしこれが俺なりのやり方で、俺の正義だ」
「その、売ってほしい仕事仲間っていうのは」
「飲むってことでいいんだな? こんなんもっと悪どい奴は聞いちゃくれねえぞ」
名前は一杯分のキャッシュをテーブルに叩きつけて、立ち上がった。
「少し、考えさせてください。また連絡します」
「オウ、そりゃ助かる」
あ、奢りだって言っただろうよ、とジャンマルコが後ろから声を掛ける。名前は振り返ることもなく店を出た。氷が溶けて崩れたアイスコーヒーは、まだ半分も残っている。男は自らの顎髭を撫で回した。
「甘え方も知らねえ青い女は、あんまタイプじゃねえな」
彼女の出した結論は、自分の力でミルキーウェイの元締めを暴き出すことだった。
そうと決まれば悠長にはしていられない。痺れを切らしたジャンマルコが、いつバーナビーの記事を世に出すかわかったものじゃない。
彼はその正体について、名前と同じ職場の仕事仲間だと言っていた。それで大分絞られる。しかし本当に、自分と一緒に働く仲間の誰かにドラッグをばら撒く元凶が——
名前の携帯電話が震える。ジャンマルコかと思い、勢いよく通話に出ると、想像とは違う震える声が聞こえてきた。アッバス刑務所の看守からだった。
「名前さん、お休み中にすみません! でも所長もいないし、俺たちだけじゃどうにも——」
「落ち着いて。どうしたんですか?」
「囚人の一人が能力を暴走させて……! この症状、もしかしたら例のドラッグかもしれません!」
「刑務所にまで……!? すぐに行きます!」
タクシーを捕まえて、手短に「アッバス刑務所まで。なるべく急いで」と伝える。
腐ってもアッバス刑務所はシュテルンビルトが誇る法の鉄檻だ。NEXTの受刑者にも対応した設備と人員で、現にあの凶悪犯ジェイクを持ってしても自力での脱獄は叶わなかった。だからこそ街と全市民を人質に取る強行策に出たわけで——
受刑者がその敷地に足を踏み入れるときには、冗談ではなく靴底から胃の中、尻の穴に至るまで厳重な検査を受ける。正当な許可を得ない限り、紙切れひとつ、針一本持ち込むことは許されない。そんな中で、あんな目立つドラッグを服用するなんて不可能だ。少なくとも、受刑者ひとりの力では。
「……!」
最近、こんな思いをする日続きだ。
自分の無力さ、誰に縋りつきたくなる弱さ、同じような味ばかり舌に馴染む。
こんなものを不幸と呼ぶのなら、始めたのは自分自身だ。断ち切るのも私でなければならない。名前は手帳で日付を確認した。
車窓からは流れる街並み。現在のヒーローランキングの首位はほぼ横並びだ。キングオブヒーローことスカイハイ、そして悲劇の美男子バーナビー。街頭ビジョンに映し出される広告の大半はこの二人が占めていた。HERO TVは夏の終わりと共にシーズンを終える。ランキングの行く末が市民の注目を集めるのは当然だ。
住む世界が違う。街の平和を守る彼。ステージの真ん中でスポットライトを浴びる彼。街を歩けばファンに囲まれる彼。ベッドサイドランプに照らされる彼。困った顔で笑う彼。私を見つけてくれた彼。
あの花が夏を越すのに、栄養は要らないらしい。