Love me, love my dog.
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パーティーは名前が想像していた通りに悪趣味だった。ホテルを貸し切った会場や振る舞われる料理は見渡す限り絢爛豪華で、プライベートで来ていたなら、または周りにいるのが愛しい人や仲間たちだったなら感動するほかなかっただろう。しかし、生憎彼女の視界を占めるのは右から知らないおじさん、偉そうなおじさん、少しだけ見たことのあるおじさん。
せめてバーナビーの父代わりであり、所長も世話になっているというアポロンメディアのマーベリック氏でもお目にかかれたらと淡い期待を抱いたが、ヒーローへの嫌悪感が渦巻くこの空間では招待されていないだろう。引っ張り出してきたネイビーのドレスも壁の花の花弁となって終わりそうだ。
「楽しんでいただけているかな、名前さん」
「ええ、それはもう。お招きありがとうございます」
急に持ち上がった口角がぴくぴくと震える。絞り出したのは最低限の礼儀だった。ヒーローとして最近振るわないこともあり、ただでさえ神経質になっているのだからこれくらい許しいほしいと誰にでもなく思った。
話しかけてきたのは、先程見かけたおじさんの中で一際偉そうだった男だった。偉そうというより、実際に地位や役職が高いのだろう。良いスーツは詳しくない人間でも見ればわかるものなのだと初めて知った。
「アッバスの華とは言い得て妙だね。ゾルゲ君が羨ましいよ」
「お会いできて光栄です、局長」
差し出される手に慌てて応えたところで、ようやくシュテルンビルト市警のテロ対策局長だと思い出した。階級は上から数えた方が断然早い。この街における警察のトップが本部長。その配下に置かれる十二の局のひとつ、テロ対策局のトップと握手を交わしているのだった。
肌に映える真っ白な歯を見せながら、「堅苦しいのはナシだ」と豪快に笑った。スーツで覆われた肉体からも、現場からの叩き上げという印象がする。名前は少しだけ肩の力を抜いた。
「今日の昼過ぎにイーストシルバーであった乱射事件、知ってるかい」
「ええ。犯行集団に前科はなく、元は善良な狩猟愛好家だったとか」
「話が早くて助かるよ。今は検査の結果待ちだが、十中八九流行ってるアレだろうね」
「違法ドラッグ、『ミルキーウェイ』ですか」
局長は大袈裟に溜め息をついた。
ミルキーウェイは堰を切ったように急激に、あっという間に出回り始めたドラッグだった。使用者は疚しいところのない一般市民にまで広がり、「集中力が高まる」「仕事や勉強で良い結果を残せる」との甘言で人々を惑わせている。その代償が突然の錯乱、幻覚、凶暴化。まだ世間には明らかにされていない情報だが、近頃の傷害事件の半数以上にこのドラッグの影がある。
「もう困っちゃうよね。まるで出どころが掴めない上に、こうも簡単に一般市民に流れるようじゃあ」
「やはり末端の売人を捕まえても、大元を叩かなければいけませんね。そろそろヒーロー側にも情報を提供して、応援要請すべきかもしれません」
「ヒーローねえ、ヒーローかあ」
しまった、と名前は自分の失敗に気付いた。自分の立場からすればバーナビーたちの力を借りたいと思わずにはいられないが、警察のお偉いさんがどう思うかは想像に難くない。
しかし返ってきたのは予想外の反応だった。
「そうだね、それもいいかもしれないね」
「えっ……。ああ、いえ、すみません」
「気にしないで。我々としても元締めの犯人像は掴めてきたところなんだ。そろそろ力を借りてもいい頃合いかもしれない」
「ミルキーウェイを流通させている大元の犯人像、ですか?」
「犯人はNEXTに違いない、ってね。蛇の道は蛇って言うだろう?」
全身の毛がそばだった。ヒーローが犯罪者と同類扱いされたのだと反射的に理解した。この言葉を聞くまですっかり忘れていた。ヒーローを毛嫌いする層には、NEXT差別主義者も多く含まれることを。
目の前のこの男は名前がウォッチドッグだと知っているのだろうか? 知ろうと思えばすぐに知ることができる立場にいるだろうが、この調子ではぽっと出のヒーローなんて歯牙にもかけないだろう。眩しいシャンデリアが自分の頭上で揺らいだ気がした。
結局、風に当たってくる、とかなんとか言ってその場から下がった。言い返すまではしなくても、皮肉や意趣返しのひとつやふたつしてやれればよかったのに。こんなところまで来てまで自分の情けなさで、身体の中の臓器から四肢に至るまでぎゅっと小さく押し潰されそうだ。
会場を抜け出して、ホテルの前に用意されたタクシーにふらふら乗り込んだ。いつもなら安全を考慮して、自宅の数キロ手前の駅を指定するのに、今夜ばかりは歩く元気もなくて家の住所をそのまま言い伝えた。丸いシルエットの運転手は低い声で「ハイ、わかりました」とだけ言って車を出した。
窓の外、三層に分かれる都市部の最上エリアから下を覗き込むと、帰って来れなくなりそうだった。擦り切れそうな心が血に乗って指先まで伝わる。携帯電話を握り締めながら、バーナビーの声が聞きたくて堪らなかった。
「……クーラー止めときますね。今日は冷えますから」
「……ありがとうございます」
タクシーの運転手の声で我に返った。初夏らしい陽気になってきたとはいえ、夜はまだ冷える。しかし車内にいれば感じないほどだったが、名前は何も言わなかった。
もう終電も終わった時間だ。彼に迷惑をかけるのはよそう。ただでさえ最近気を遣わせているんだから。そう自分に言い聞かせて、携帯をクラッチバッグに仕舞い込んだ。抱え込んだ気持ちと一緒に。
「これがあなたの犯行の一部始終です」
「そんな……! 本当にその、私がこんなことを!?」
「ええ、つい先日のことです。覚えていらっしゃいませんか?」
「私はただ、あの日は朝から友人たちと狩りに出て、その後は……」
名前は翌日検察庁に赴き、逮捕された狩猟家たちのひとりに接触していた。昨日のHERO TVを見せると、確かに同じ顔の人物がショットガンを乱射している。しかしこうやって青ざめる彼からはどこにも狂気は感じ取れない。罪を軽くするためにわざと覚えていない振りをしているわけでもないだろう。
名前は立て続けに、一枚の写真を取り出した。チューイングガムのような派手な小包が映っている。綴られているのはThe Milky Wayの文字。
「この "お菓子" に見覚えは?」
「ああ! 友人から『集中力が上がるから試してみろ』と勧められました。確かにその日は調子が良かったなあ」
「……わかりました。ご協力感謝します」
いつ、誰から貰ったのかと追求はしなかった。検察庁を出ると、アスファルトに小さな水玉模様がいくつもできていた。名前は仕事用のトートバッグから折り畳み傘を取り出した。
ミルキーウェイの流通経路は今や巨大な蜘蛛の巣のように広がり、巣の主に辿り着くのは容易ではない。それに、捜査は警察の仕事だ。自分の仕事ではない。ヒーローの……。
「嫌な天気……」
自分はドラッグの元締めを捕まえて、あの局長を見返したいのだろうか? 市民や他のヒーローたちに見直したと言ってほしいのだろうか? 彼に、バーナビーに認めてほしいのだろうか?
何のためにヒーローをやっているんだろう。きっかけはいきなり降ってきた。でもヒーローアカデミーを志したのは? 一度諦めたヒーローを引き受けたのは?
俯けば、水溜まりにどこにでもいそうな女の情けない顔が映った。
「アー、名前さん? アッバス刑務所の?」
顔を上げると、にやにやと笑う男が数人立ちはだかっていた。一歩前に出た、リーダー格であろうアロハシャツの男は顎髭を弄りながら舐め回すように名前を見る。とても友好的な市民の態度には見えなかった。仕事の匂いを嗅ぎつけ、脳内のスイッチが勝手にオンに切り替わる。
「失礼、どこかでお会いしたことが?」
「いいや、でもこれから長い付き合いになる。しっかし生憎の天気だ。ちょっとそこでお茶でもどうだい」
「ここで結構。ご用件はなんでしょう」
道路脇にスモークの貼られた黒い車が停めてあるのが見えた。奴らのものに違いないだろう。検察庁からは少し離れてしまった上に、この時間はちょうど人通りの少ないエリアだ。あらかじめ狙って張っていたのか。
「そんなに警戒しないで。得をする話を持ってきたんだ、お互いにね」
顎髭の男は名刺入れを取り出し、差し出してきた。アロハシャツというカジュアルすぎる格好のくせに、その仕草はやけに洗練されていた。恐る恐る受け取ると「ブバルディア出版 編集長 ジャンマルコ・リッチ」の文字と、連絡先や会社の住所が印字されていた。
「出版社の方がどうして」
「こんな騙し打ちみたいな真似して悪いね。こっちも結構綱渡りなんだ。アンタの都合の合うときにでも掛けてくれ」
親指と小指を伸ばして、これ以外を丸め込んだコールのポーズを見せて、あっさりジャンマルコは踵を返した。連れ立った男たちも彼の後に続く。
てっきり自分に恨みのある犯罪者か何かで、今からでも物騒なことになるのかと思っていた名前はすっかり牙を抜かれた。「結構綱渡り」と言っていたように、清廉潔白な会社員というわけではないのだろう。そうでなければ、わざわざ名前を人通りの少ない場所と時間帯を狙って待ち伏せる必要もない。
とりあえず名刺は取っておこう、連絡するかどうかは彼のことを調べ上げてからだ。バッグに仕舞おうと裏返す。そこには急いで殴り書きしたような筆跡でこう残されていた。
"The goddess Hera is close to you!"
そのメッセージは頭の中で、もう見えなくなった髭男のヘラヘラした声で再生された。「女神ヘラはアンタの近くにいる!」
ミルキーウェイ、天の川の由来としてシュテルンビルトで有名なのは古き時代のとある神話だ。女神ヘラの溢した母乳が天へ流れたことで、ミルクの道と呼ばれるようになったという。
彼の「得をする話」が何かなんて、もう言うまでもなかった。
「私の知ってる人に、ミルキーウェイの……」
それも近しい人物ときた。名前の交友範囲なんて知れている。刑務所関係者、警察関係者、そしてヒーロー関係者。
鼓動の音が耳の中で反響した。ドクドクドクドクドク、と血が脳内で煮詰まる感覚。網膜の裏が真っ赤に腫れ上がる感覚。
止まらない冷や汗も拭えず立ち尽くす名前に、左手に嵌められたPDAが通知音と振動で現実を突きつける。
「ブロックス工業地帯で火災発生! 従業員の避難と消火活動をお願い!」
「了解!」と複数の声が被さって聞こえてくる。名前もはっとして、少し遅れて「了解」と応えた。離れた場所にいる恋人が、怪訝そうに腕のPDAを見つめているとは思いもせずに。
せめてバーナビーの父代わりであり、所長も世話になっているというアポロンメディアのマーベリック氏でもお目にかかれたらと淡い期待を抱いたが、ヒーローへの嫌悪感が渦巻くこの空間では招待されていないだろう。引っ張り出してきたネイビーのドレスも壁の花の花弁となって終わりそうだ。
「楽しんでいただけているかな、名前さん」
「ええ、それはもう。お招きありがとうございます」
急に持ち上がった口角がぴくぴくと震える。絞り出したのは最低限の礼儀だった。ヒーローとして最近振るわないこともあり、ただでさえ神経質になっているのだからこれくらい許しいほしいと誰にでもなく思った。
話しかけてきたのは、先程見かけたおじさんの中で一際偉そうだった男だった。偉そうというより、実際に地位や役職が高いのだろう。良いスーツは詳しくない人間でも見ればわかるものなのだと初めて知った。
「アッバスの華とは言い得て妙だね。ゾルゲ君が羨ましいよ」
「お会いできて光栄です、局長」
差し出される手に慌てて応えたところで、ようやくシュテルンビルト市警のテロ対策局長だと思い出した。階級は上から数えた方が断然早い。この街における警察のトップが本部長。その配下に置かれる十二の局のひとつ、テロ対策局のトップと握手を交わしているのだった。
肌に映える真っ白な歯を見せながら、「堅苦しいのはナシだ」と豪快に笑った。スーツで覆われた肉体からも、現場からの叩き上げという印象がする。名前は少しだけ肩の力を抜いた。
「今日の昼過ぎにイーストシルバーであった乱射事件、知ってるかい」
「ええ。犯行集団に前科はなく、元は善良な狩猟愛好家だったとか」
「話が早くて助かるよ。今は検査の結果待ちだが、十中八九流行ってるアレだろうね」
「違法ドラッグ、『ミルキーウェイ』ですか」
局長は大袈裟に溜め息をついた。
ミルキーウェイは堰を切ったように急激に、あっという間に出回り始めたドラッグだった。使用者は疚しいところのない一般市民にまで広がり、「集中力が高まる」「仕事や勉強で良い結果を残せる」との甘言で人々を惑わせている。その代償が突然の錯乱、幻覚、凶暴化。まだ世間には明らかにされていない情報だが、近頃の傷害事件の半数以上にこのドラッグの影がある。
「もう困っちゃうよね。まるで出どころが掴めない上に、こうも簡単に一般市民に流れるようじゃあ」
「やはり末端の売人を捕まえても、大元を叩かなければいけませんね。そろそろヒーロー側にも情報を提供して、応援要請すべきかもしれません」
「ヒーローねえ、ヒーローかあ」
しまった、と名前は自分の失敗に気付いた。自分の立場からすればバーナビーたちの力を借りたいと思わずにはいられないが、警察のお偉いさんがどう思うかは想像に難くない。
しかし返ってきたのは予想外の反応だった。
「そうだね、それもいいかもしれないね」
「えっ……。ああ、いえ、すみません」
「気にしないで。我々としても元締めの犯人像は掴めてきたところなんだ。そろそろ力を借りてもいい頃合いかもしれない」
「ミルキーウェイを流通させている大元の犯人像、ですか?」
「犯人はNEXTに違いない、ってね。蛇の道は蛇って言うだろう?」
全身の毛がそばだった。ヒーローが犯罪者と同類扱いされたのだと反射的に理解した。この言葉を聞くまですっかり忘れていた。ヒーローを毛嫌いする層には、NEXT差別主義者も多く含まれることを。
目の前のこの男は名前がウォッチドッグだと知っているのだろうか? 知ろうと思えばすぐに知ることができる立場にいるだろうが、この調子ではぽっと出のヒーローなんて歯牙にもかけないだろう。眩しいシャンデリアが自分の頭上で揺らいだ気がした。
結局、風に当たってくる、とかなんとか言ってその場から下がった。言い返すまではしなくても、皮肉や意趣返しのひとつやふたつしてやれればよかったのに。こんなところまで来てまで自分の情けなさで、身体の中の臓器から四肢に至るまでぎゅっと小さく押し潰されそうだ。
会場を抜け出して、ホテルの前に用意されたタクシーにふらふら乗り込んだ。いつもなら安全を考慮して、自宅の数キロ手前の駅を指定するのに、今夜ばかりは歩く元気もなくて家の住所をそのまま言い伝えた。丸いシルエットの運転手は低い声で「ハイ、わかりました」とだけ言って車を出した。
窓の外、三層に分かれる都市部の最上エリアから下を覗き込むと、帰って来れなくなりそうだった。擦り切れそうな心が血に乗って指先まで伝わる。携帯電話を握り締めながら、バーナビーの声が聞きたくて堪らなかった。
「……クーラー止めときますね。今日は冷えますから」
「……ありがとうございます」
タクシーの運転手の声で我に返った。初夏らしい陽気になってきたとはいえ、夜はまだ冷える。しかし車内にいれば感じないほどだったが、名前は何も言わなかった。
もう終電も終わった時間だ。彼に迷惑をかけるのはよそう。ただでさえ最近気を遣わせているんだから。そう自分に言い聞かせて、携帯をクラッチバッグに仕舞い込んだ。抱え込んだ気持ちと一緒に。
「これがあなたの犯行の一部始終です」
「そんな……! 本当にその、私がこんなことを!?」
「ええ、つい先日のことです。覚えていらっしゃいませんか?」
「私はただ、あの日は朝から友人たちと狩りに出て、その後は……」
名前は翌日検察庁に赴き、逮捕された狩猟家たちのひとりに接触していた。昨日のHERO TVを見せると、確かに同じ顔の人物がショットガンを乱射している。しかしこうやって青ざめる彼からはどこにも狂気は感じ取れない。罪を軽くするためにわざと覚えていない振りをしているわけでもないだろう。
名前は立て続けに、一枚の写真を取り出した。チューイングガムのような派手な小包が映っている。綴られているのはThe Milky Wayの文字。
「この "お菓子" に見覚えは?」
「ああ! 友人から『集中力が上がるから試してみろ』と勧められました。確かにその日は調子が良かったなあ」
「……わかりました。ご協力感謝します」
いつ、誰から貰ったのかと追求はしなかった。検察庁を出ると、アスファルトに小さな水玉模様がいくつもできていた。名前は仕事用のトートバッグから折り畳み傘を取り出した。
ミルキーウェイの流通経路は今や巨大な蜘蛛の巣のように広がり、巣の主に辿り着くのは容易ではない。それに、捜査は警察の仕事だ。自分の仕事ではない。ヒーローの……。
「嫌な天気……」
自分はドラッグの元締めを捕まえて、あの局長を見返したいのだろうか? 市民や他のヒーローたちに見直したと言ってほしいのだろうか? 彼に、バーナビーに認めてほしいのだろうか?
何のためにヒーローをやっているんだろう。きっかけはいきなり降ってきた。でもヒーローアカデミーを志したのは? 一度諦めたヒーローを引き受けたのは?
俯けば、水溜まりにどこにでもいそうな女の情けない顔が映った。
「アー、名前さん? アッバス刑務所の?」
顔を上げると、にやにやと笑う男が数人立ちはだかっていた。一歩前に出た、リーダー格であろうアロハシャツの男は顎髭を弄りながら舐め回すように名前を見る。とても友好的な市民の態度には見えなかった。仕事の匂いを嗅ぎつけ、脳内のスイッチが勝手にオンに切り替わる。
「失礼、どこかでお会いしたことが?」
「いいや、でもこれから長い付き合いになる。しっかし生憎の天気だ。ちょっとそこでお茶でもどうだい」
「ここで結構。ご用件はなんでしょう」
道路脇にスモークの貼られた黒い車が停めてあるのが見えた。奴らのものに違いないだろう。検察庁からは少し離れてしまった上に、この時間はちょうど人通りの少ないエリアだ。あらかじめ狙って張っていたのか。
「そんなに警戒しないで。得をする話を持ってきたんだ、お互いにね」
顎髭の男は名刺入れを取り出し、差し出してきた。アロハシャツというカジュアルすぎる格好のくせに、その仕草はやけに洗練されていた。恐る恐る受け取ると「ブバルディア出版 編集長 ジャンマルコ・リッチ」の文字と、連絡先や会社の住所が印字されていた。
「出版社の方がどうして」
「こんな騙し打ちみたいな真似して悪いね。こっちも結構綱渡りなんだ。アンタの都合の合うときにでも掛けてくれ」
親指と小指を伸ばして、これ以外を丸め込んだコールのポーズを見せて、あっさりジャンマルコは踵を返した。連れ立った男たちも彼の後に続く。
てっきり自分に恨みのある犯罪者か何かで、今からでも物騒なことになるのかと思っていた名前はすっかり牙を抜かれた。「結構綱渡り」と言っていたように、清廉潔白な会社員というわけではないのだろう。そうでなければ、わざわざ名前を人通りの少ない場所と時間帯を狙って待ち伏せる必要もない。
とりあえず名刺は取っておこう、連絡するかどうかは彼のことを調べ上げてからだ。バッグに仕舞おうと裏返す。そこには急いで殴り書きしたような筆跡でこう残されていた。
"The goddess Hera is close to you!"
そのメッセージは頭の中で、もう見えなくなった髭男のヘラヘラした声で再生された。「女神ヘラはアンタの近くにいる!」
ミルキーウェイ、天の川の由来としてシュテルンビルトで有名なのは古き時代のとある神話だ。女神ヘラの溢した母乳が天へ流れたことで、ミルクの道と呼ばれるようになったという。
彼の「得をする話」が何かなんて、もう言うまでもなかった。
「私の知ってる人に、ミルキーウェイの……」
それも近しい人物ときた。名前の交友範囲なんて知れている。刑務所関係者、警察関係者、そしてヒーロー関係者。
鼓動の音が耳の中で反響した。ドクドクドクドクドク、と血が脳内で煮詰まる感覚。網膜の裏が真っ赤に腫れ上がる感覚。
止まらない冷や汗も拭えず立ち尽くす名前に、左手に嵌められたPDAが通知音と振動で現実を突きつける。
「ブロックス工業地帯で火災発生! 従業員の避難と消火活動をお願い!」
「了解!」と複数の声が被さって聞こえてくる。名前もはっとして、少し遅れて「了解」と応えた。離れた場所にいる恋人が、怪訝そうに腕のPDAを見つめているとは思いもせずに。