ラス・エラルドの背骨
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「昔、好奇心旺盛なクラッカーがいてね。実に興味深い実験を見せてくれた」
「ほう、どのような?」
二つの影があった。影は、テーブルを挟んで向かい合って座っている。話を切り出したのは、ミルククラウンの跳ね返った一滴がヒトの形を取ったと言われても信じてしまいそうな、繊細な造りの男だった。
「公安局をはじめ、厚生省のセキュリティは堅牢だ。では内側からの破壊にどれほど耐性があるのか。彼はわざと公安の目につく事件を起こして、押収品にクラッキングウイルスを仕込んだ。」
「ああ。浮島町の事件ですね。道理で旦那の仕込みにしちゃああっさり片が付いたと」
「小銃の密輸入は本筋じゃなくってね。海外サーバを経由したポリモルフィックコードをはじめとする複合型マルウェアが本命だったんだが……。侵入からものの5分ほどですべて解除されてしまった。偽りの神託を伝える前に、シノーンはトロイア人に殺されたというわけだ」
相槌を打っているもう一人は狐のような笑みをますます深めた。白の男—— 槙島としては目の前の男に心当たりはないだろうかという意味でもこの話をしてみせたわけだが、この反応では空振りらしい。
「チェ・グソン。もし君に出会わなければ彼、ないしは彼女を迎え入れていたかもしれない」
「危ない危ない。こんな楽しい遊びにありつけないところでした。でもまア、面白そうな子なら会ってみたいですがね」
チェ・グソンの指の間でスコーンが砕ける。皿の上にパラパラと欠片が落ちた。それを見た槙島は、いつ王陵璃華子を切り捨てようかと考えていた。
「名字」
宿舎へ向かう廊下は、その密閉性からか声がよく響く。振り向いて顔を見なくても、怒気を含んでいるのは明白だった。
前を歩いていた名前を、長身ゆえの長い脚で追い抜いて行方を塞ぐ黒い男。怒られる心当たりが見当たらず、ただ怒りを向けられることに怒りを感じそうになった。
「何に怒ってるの? 捜査から外されたこと?」
「常守に本を貸したらしいな」
「そうだけど」
「アイツの色相が濁ったらどうする」
「うわっ、もしかして狡噛に化けた宜野座さん?」
「名字」
「怒らないで、怖いってば」
宜野座やかつての「狡噛さん」が言いそうなことだった。いや、監視官時代の狡噛も自分と一緒にシュビラの認可を受けていない書物を読み漁っていた。
新入りで歳下の常守を案じているのだろうか? かつて、狡噛監視官が十代の分析官に目をかけていたように。
目の前の狡噛を追い抜いて、早足で自分の部屋にたどり着く。それでも歩幅が違う分、大した抵抗でもない。あっという間に追いつかれてしまう。見ればわかることなのに嫌に悔しくなってしまって、引き留めようとする腕からするりと逃げた。
「おい、まだ話は」
「入れば? お茶くらい出すけど」
パネルを操作すれば扉が開き、悪趣味と形容された部屋が現れた。
「で、常守さんの話? 言っておくけど、私が本を渡したくらいで彼女の色相は変わらない。むしろ、いつ終わるかわからない同僚のスパーリングに付き合わされてるときの方が少し濁ってたけど」
「だからといって、無闇に規制図書を監視官に与えるな」
「自分は読んでたのに?」
狡噛は黙った。彼らしくもなく熱くなっていたので、余程捜査から外されたのが堪えているのだろうか。志恩さんの話じゃ、被害者が標本事件同様加工されて発見されてるみたいだし。
二人分淹れたのだからとハーブティーを勧める。雑賀先生からの頂き物だよ、と添えるとやっと口を付けた。
常守朱。入局一年目。ハタチ。名前が24、狡噛は28歳になったのだから四歳ずつ年齢差がある。
「……常守さんからだよ、本を貸してくださいってお願いしてきたの。最初は『ティファニーで朝食を』とか貸してたんだけど」
「ああ、村上春樹の邦訳が出回ってるしな。映像作品としても有名だ。オードリー・ヘップバーンが出てる」
「ここに上げたときに気になる本選ばせたら、何を選んだと思う?」
狡噛は眉に皺を刻んだ後、部屋を見渡した。「ここに監視官を上げたのか」とでも言いたげである。心外だ、常守は「植物園のような図書館のような……すごいですね!」と喜んでくれたのに。
第一印象はただの無鉄砲でカワイイ、真面目な新入り。しかし接していく中でそれだけじゃない逸材だという確信が生まれた。
「社会的人材の有能さ、もっと言えば理想の上司に必要なのは高い知能じゃない。人間関係を円滑に保つ力、人を惹きつける力だってようやく定着したのは何十年前かな。現にシュビラは学歴よりもクリアな色相を重視して、適当な就職先をご教示くださる」
「常守の適性判定がオールAだったのも頷ける。で? 監視官は結局どの本を選んだんだ。クイズにしては選択肢が多すぎる」
「これ。狡噛は読んだことないかも」
近くの本棚から抜き取ってきたのはちょうど100年ほど前に出版された本だった。表題をなぞれば『謎のチェス指し人形「ターク」』と記されている。
「あの子と私たちじゃ、読書に求めるものが違うんだよ。私なんかは施設にいたときからこれしかなくて、娯楽であり手紙であり世界でもあった。でも常守さんにとって本は必要であれば読むもの。必要以上に忌避することもなければ重んじることもない。すごくクールでクレバーだと思わない?」
「そういえば前の事件のときに言っていた。そこにあるから使う、ネットは紙やペン、ナイフなんかと同じだと。常守にとって書物も同じ括りってわけだ」
「今どき、読書家なんて見栄っ張りかロマンチストしかいないんだった。忘れそうになる」
「あとアナーキストか。お前はどれなんだ」
「好きなように決めて。そうしたいように」
名前は使いすぎた喉を湿らせた。熱めに淹れたはずのハーブティーはぬるくなっていた。「宜野座さんより出世が早そう」と言えば「確かにな」と笑われる。
背の低い人は高い人に。運動が苦手な人は得意な人に。色相が濁りやすい人はクリアカラーな人に。人は自分にないものを他人に求めるという。なんとなく、17歳の自分を気にかけてくれていた21歳の狡噛さんに会いたくなって、そっと目を閉じた。
「ほう、どのような?」
二つの影があった。影は、テーブルを挟んで向かい合って座っている。話を切り出したのは、ミルククラウンの跳ね返った一滴がヒトの形を取ったと言われても信じてしまいそうな、繊細な造りの男だった。
「公安局をはじめ、厚生省のセキュリティは堅牢だ。では内側からの破壊にどれほど耐性があるのか。彼はわざと公安の目につく事件を起こして、押収品にクラッキングウイルスを仕込んだ。」
「ああ。浮島町の事件ですね。道理で旦那の仕込みにしちゃああっさり片が付いたと」
「小銃の密輸入は本筋じゃなくってね。海外サーバを経由したポリモルフィックコードをはじめとする複合型マルウェアが本命だったんだが……。侵入からものの5分ほどですべて解除されてしまった。偽りの神託を伝える前に、シノーンはトロイア人に殺されたというわけだ」
相槌を打っているもう一人は狐のような笑みをますます深めた。白の男—— 槙島としては目の前の男に心当たりはないだろうかという意味でもこの話をしてみせたわけだが、この反応では空振りらしい。
「チェ・グソン。もし君に出会わなければ彼、ないしは彼女を迎え入れていたかもしれない」
「危ない危ない。こんな楽しい遊びにありつけないところでした。でもまア、面白そうな子なら会ってみたいですがね」
チェ・グソンの指の間でスコーンが砕ける。皿の上にパラパラと欠片が落ちた。それを見た槙島は、いつ王陵璃華子を切り捨てようかと考えていた。
「名字」
宿舎へ向かう廊下は、その密閉性からか声がよく響く。振り向いて顔を見なくても、怒気を含んでいるのは明白だった。
前を歩いていた名前を、長身ゆえの長い脚で追い抜いて行方を塞ぐ黒い男。怒られる心当たりが見当たらず、ただ怒りを向けられることに怒りを感じそうになった。
「何に怒ってるの? 捜査から外されたこと?」
「常守に本を貸したらしいな」
「そうだけど」
「アイツの色相が濁ったらどうする」
「うわっ、もしかして狡噛に化けた宜野座さん?」
「名字」
「怒らないで、怖いってば」
宜野座やかつての「狡噛さん」が言いそうなことだった。いや、監視官時代の狡噛も自分と一緒にシュビラの認可を受けていない書物を読み漁っていた。
新入りで歳下の常守を案じているのだろうか? かつて、狡噛監視官が十代の分析官に目をかけていたように。
目の前の狡噛を追い抜いて、早足で自分の部屋にたどり着く。それでも歩幅が違う分、大した抵抗でもない。あっという間に追いつかれてしまう。見ればわかることなのに嫌に悔しくなってしまって、引き留めようとする腕からするりと逃げた。
「おい、まだ話は」
「入れば? お茶くらい出すけど」
パネルを操作すれば扉が開き、悪趣味と形容された部屋が現れた。
「で、常守さんの話? 言っておくけど、私が本を渡したくらいで彼女の色相は変わらない。むしろ、いつ終わるかわからない同僚のスパーリングに付き合わされてるときの方が少し濁ってたけど」
「だからといって、無闇に規制図書を監視官に与えるな」
「自分は読んでたのに?」
狡噛は黙った。彼らしくもなく熱くなっていたので、余程捜査から外されたのが堪えているのだろうか。志恩さんの話じゃ、被害者が標本事件同様加工されて発見されてるみたいだし。
二人分淹れたのだからとハーブティーを勧める。雑賀先生からの頂き物だよ、と添えるとやっと口を付けた。
常守朱。入局一年目。ハタチ。名前が24、狡噛は28歳になったのだから四歳ずつ年齢差がある。
「……常守さんからだよ、本を貸してくださいってお願いしてきたの。最初は『ティファニーで朝食を』とか貸してたんだけど」
「ああ、村上春樹の邦訳が出回ってるしな。映像作品としても有名だ。オードリー・ヘップバーンが出てる」
「ここに上げたときに気になる本選ばせたら、何を選んだと思う?」
狡噛は眉に皺を刻んだ後、部屋を見渡した。「ここに監視官を上げたのか」とでも言いたげである。心外だ、常守は「植物園のような図書館のような……すごいですね!」と喜んでくれたのに。
第一印象はただの無鉄砲でカワイイ、真面目な新入り。しかし接していく中でそれだけじゃない逸材だという確信が生まれた。
「社会的人材の有能さ、もっと言えば理想の上司に必要なのは高い知能じゃない。人間関係を円滑に保つ力、人を惹きつける力だってようやく定着したのは何十年前かな。現にシュビラは学歴よりもクリアな色相を重視して、適当な就職先をご教示くださる」
「常守の適性判定がオールAだったのも頷ける。で? 監視官は結局どの本を選んだんだ。クイズにしては選択肢が多すぎる」
「これ。狡噛は読んだことないかも」
近くの本棚から抜き取ってきたのはちょうど100年ほど前に出版された本だった。表題をなぞれば『謎のチェス指し人形「ターク」』と記されている。
「あの子と私たちじゃ、読書に求めるものが違うんだよ。私なんかは施設にいたときからこれしかなくて、娯楽であり手紙であり世界でもあった。でも常守さんにとって本は必要であれば読むもの。必要以上に忌避することもなければ重んじることもない。すごくクールでクレバーだと思わない?」
「そういえば前の事件のときに言っていた。そこにあるから使う、ネットは紙やペン、ナイフなんかと同じだと。常守にとって書物も同じ括りってわけだ」
「今どき、読書家なんて見栄っ張りかロマンチストしかいないんだった。忘れそうになる」
「あとアナーキストか。お前はどれなんだ」
「好きなように決めて。そうしたいように」
名前は使いすぎた喉を湿らせた。熱めに淹れたはずのハーブティーはぬるくなっていた。「宜野座さんより出世が早そう」と言えば「確かにな」と笑われる。
背の低い人は高い人に。運動が苦手な人は得意な人に。色相が濁りやすい人はクリアカラーな人に。人は自分にないものを他人に求めるという。なんとなく、17歳の自分を気にかけてくれていた21歳の狡噛さんに会いたくなって、そっと目を閉じた。
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