飛花
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「は?」
ほとんど吐息のような声が小さな浴室にこだました。アズールは尻を打ち付けたままの体勢で、曇った鏡を睨みつけた。衝撃からかメガネがずれて、なんとも間抜けな姿の自分と目が合った。制服のネクタイも弛んでいる。硬い床の手触りがこの奇妙な状況を現実たらしめていた。
ブリッジを押し上げるとピントが合う。立ち上がってみればこのバスルームの小ささがより感じられた。バスタブも脚を伸ばすどころか、元の姿のアズールなら八本の足すら埋まり切らないだろう。
海の魔女の慈愛の精神に基づくオクタヴィネル寮は、全員ではないがやはり人魚の生徒が多く集まる。寮が海中にあるというのもそれを手伝っているかもしれない。しかし人魚とひとくちに言っても海水に適応できる者ばかりではない。
実際に、アズールのクラスメイト兼ルームメイトであるスパイニーイールの人魚は、本来の姿で海水に入ると脱水に似た症状を起こすらしい。スパイニーイール、別名トゲウナギ。ウナギとよく似ているが別種の淡水魚で、比較的人懐っこく観賞用としての需要がある。人魚の彼もあの双子ほどではないが縦に長く、アズールに臆さず話しかけてくる。
要するに割り当てられる自室はたとえ新入生であろうが、バスルームだけは広く、贅沢な作りになっている。それこそ、ウツボの人魚が元の姿になっても不自由しないくらいに。彼らにとってはベッド以上に心身を休める場所なのである。
家主が人魚ではないことを確信しながら周囲を見渡す。小さすぎるバスタブ。年季を感じるタイル張りの壁。蛇のようなシャワーホース。そして鏡。どうやらここから出てきたらしい。
「アズール、アズール! 聞こえますか?」
「一体どこから」
声のする方を辿れば、目の前の鏡から聞こえているらしかった。布越しの手で触れてみれば、やはり何の魔力も感じない普通の鏡である。強いて言えば端に水垢の跡があり、妙な生活感がある。元来綺麗好きというだけでなく、姿も見ぬ人間が生活しているという生々しさに、アズールは思わず顔を顰めた。
鏡の中、正確には鏡の向こうからは変わらず自分を呼ぶ声がする。恐る恐る耳を近づけた。
「ジェイド、僕です。どうなっているんですか」
「残念、オレでぇす」
「そんなことはどうでもいい!」
フロイドも一緒にいるらしい。数秒前まで三人は一緒にいたのだから当然である。どうやらアズールだけ見知らぬ場所に転送されてしまったようだった。
意識して深呼吸をすると、アズールの思考回路はようやくクリアになり始めた。結果が決まりきっている錬金術や数学を好む一方で、突拍子もない出来事には対応が一歩遅れてしまう癖があった。
「確か、担保に『お預かり』した召喚魔法を試していたはずだ。そうですね?」
「イースタン・ワイバーンの召喚はだぁい成功。いまイシダイせんせぇまで出てきてみんなで捕獲作戦中」
「賢者の島では中々手に入らない稀少な生物ですからねえ。生き血を煮詰めることで魔力枯渇後遺症の特効薬になりますし」
「なっ、召喚したのは僕だ。横取りは許しません。絶対に捕らえなさい!」
「はい」「は〜い」
よく耳を澄ませば、確かに向こう側は大変騒々しい。何人分もの足音。ガラスの割れる音。学園長の悲鳴。『捕獲作戦』の様子が手に取るように分かる。
イースタン・ワイバーンは東の国に棲むとされるドラゴンである。厳密にはドラゴンと種を違える生物だが、陸の人間がカレイとヒラメを間違え続けるのと同じことだった。
「つかアズールは何で消えたワケ? 今どこ?」
「それはこっちの台詞です。どうやら小汚い民家に飛ばされたようですが」
「魔法を制御し切れずに『引っ張られた』のでは? 慣れないうちから大規模な召喚をしようとするからですよ。絶対に元を取ってやろうというアズールの欲深さには心底感服致します」
「お前の軽口も今ばかりは恋しいですよ。となるとここは東の国と考えるのが妥当か」
「僕も優秀な支配人が恋しくて堪りません。今日が定休日で助かりました」
「オレに火イ吐くとか良い度胸じゃん」
「では、ワイバーンの血抜きが終わるまでには帰ってきてくださいね」
双子の声が遠ざかっていく。本格的に捕獲に乗り出したらしい。ついに鏡は何も物音も漏らさなくなった。
結局、自力で学園まで帰るハメになってしまった。アズールは誰もいないのを良いことに舌打ちを隠さなかった。暗く小さいバスルームでは、その小さな音すらやけに反響して聞こえた。
何が「血抜きが終わるまで」だ。無理に決まっている。
賢者の島はツイステッドワンダーランドの中でも辺鄙な場所にある。魔法士を育成する環境のためか防犯のためか、立地もさることながらとにかくアクセスが悪いのである。学園の所有する魔法の馬車や鏡なしに帰るなど、いくつの公共の交通機関を乗り継ぐかなんて考えたくもなかった。
こうも物音を立てたのに誰も出て来ないということは、家主は留守にしているのだろうか。ならば都合が良い。とっとと近くの駅にでも向かおう。現在地を確認しようとスマートフォンを取り出すが、あいにく電波は圏外だった。位置情報も当然ロスト。アズールは眉を顰めた。
アズールの所有するそれは魔力起動式の最新型で、自分以外の魔力ではうんともすんとも言わない代わりに、ひとたび魔力を注げば深海だろうが山奥だろうが街中同様に通信ができる優れものだった。魔力を必要としない機種も存在するが、その分どうしてもセキュリティーは甘くなる。何せアズールは人一倍(他の者に言わせれば百倍でも足りないだろう)恨みを買っている自覚がある。個人情報を易々と漏らさないために当然のことだった。
しかしそれがこうも役に立たないとなると、余程の僻地に飛ばされたのか。もしくは故障か。周囲に何の気配もないことを確認して、アズールは半透明の折れ戸に手を掛けた。解除魔法をとマジカルペンを握ったがその必要もなかった。なんて無用心だと、少し拍子抜けだった。
ほとんど吐息のような声が小さな浴室にこだました。アズールは尻を打ち付けたままの体勢で、曇った鏡を睨みつけた。衝撃からかメガネがずれて、なんとも間抜けな姿の自分と目が合った。制服のネクタイも弛んでいる。硬い床の手触りがこの奇妙な状況を現実たらしめていた。
ブリッジを押し上げるとピントが合う。立ち上がってみればこのバスルームの小ささがより感じられた。バスタブも脚を伸ばすどころか、元の姿のアズールなら八本の足すら埋まり切らないだろう。
海の魔女の慈愛の精神に基づくオクタヴィネル寮は、全員ではないがやはり人魚の生徒が多く集まる。寮が海中にあるというのもそれを手伝っているかもしれない。しかし人魚とひとくちに言っても海水に適応できる者ばかりではない。
実際に、アズールのクラスメイト兼ルームメイトであるスパイニーイールの人魚は、本来の姿で海水に入ると脱水に似た症状を起こすらしい。スパイニーイール、別名トゲウナギ。ウナギとよく似ているが別種の淡水魚で、比較的人懐っこく観賞用としての需要がある。人魚の彼もあの双子ほどではないが縦に長く、アズールに臆さず話しかけてくる。
要するに割り当てられる自室はたとえ新入生であろうが、バスルームだけは広く、贅沢な作りになっている。それこそ、ウツボの人魚が元の姿になっても不自由しないくらいに。彼らにとってはベッド以上に心身を休める場所なのである。
家主が人魚ではないことを確信しながら周囲を見渡す。小さすぎるバスタブ。年季を感じるタイル張りの壁。蛇のようなシャワーホース。そして鏡。どうやらここから出てきたらしい。
「アズール、アズール! 聞こえますか?」
「一体どこから」
声のする方を辿れば、目の前の鏡から聞こえているらしかった。布越しの手で触れてみれば、やはり何の魔力も感じない普通の鏡である。強いて言えば端に水垢の跡があり、妙な生活感がある。元来綺麗好きというだけでなく、姿も見ぬ人間が生活しているという生々しさに、アズールは思わず顔を顰めた。
鏡の中、正確には鏡の向こうからは変わらず自分を呼ぶ声がする。恐る恐る耳を近づけた。
「ジェイド、僕です。どうなっているんですか」
「残念、オレでぇす」
「そんなことはどうでもいい!」
フロイドも一緒にいるらしい。数秒前まで三人は一緒にいたのだから当然である。どうやらアズールだけ見知らぬ場所に転送されてしまったようだった。
意識して深呼吸をすると、アズールの思考回路はようやくクリアになり始めた。結果が決まりきっている錬金術や数学を好む一方で、突拍子もない出来事には対応が一歩遅れてしまう癖があった。
「確か、担保に『お預かり』した召喚魔法を試していたはずだ。そうですね?」
「イースタン・ワイバーンの召喚はだぁい成功。いまイシダイせんせぇまで出てきてみんなで捕獲作戦中」
「賢者の島では中々手に入らない稀少な生物ですからねえ。生き血を煮詰めることで魔力枯渇後遺症の特効薬になりますし」
「なっ、召喚したのは僕だ。横取りは許しません。絶対に捕らえなさい!」
「はい」「は〜い」
よく耳を澄ませば、確かに向こう側は大変騒々しい。何人分もの足音。ガラスの割れる音。学園長の悲鳴。『捕獲作戦』の様子が手に取るように分かる。
イースタン・ワイバーンは東の国に棲むとされるドラゴンである。厳密にはドラゴンと種を違える生物だが、陸の人間がカレイとヒラメを間違え続けるのと同じことだった。
「つかアズールは何で消えたワケ? 今どこ?」
「それはこっちの台詞です。どうやら小汚い民家に飛ばされたようですが」
「魔法を制御し切れずに『引っ張られた』のでは? 慣れないうちから大規模な召喚をしようとするからですよ。絶対に元を取ってやろうというアズールの欲深さには心底感服致します」
「お前の軽口も今ばかりは恋しいですよ。となるとここは東の国と考えるのが妥当か」
「僕も優秀な支配人が恋しくて堪りません。今日が定休日で助かりました」
「オレに火イ吐くとか良い度胸じゃん」
「では、ワイバーンの血抜きが終わるまでには帰ってきてくださいね」
双子の声が遠ざかっていく。本格的に捕獲に乗り出したらしい。ついに鏡は何も物音も漏らさなくなった。
結局、自力で学園まで帰るハメになってしまった。アズールは誰もいないのを良いことに舌打ちを隠さなかった。暗く小さいバスルームでは、その小さな音すらやけに反響して聞こえた。
何が「血抜きが終わるまで」だ。無理に決まっている。
賢者の島はツイステッドワンダーランドの中でも辺鄙な場所にある。魔法士を育成する環境のためか防犯のためか、立地もさることながらとにかくアクセスが悪いのである。学園の所有する魔法の馬車や鏡なしに帰るなど、いくつの公共の交通機関を乗り継ぐかなんて考えたくもなかった。
こうも物音を立てたのに誰も出て来ないということは、家主は留守にしているのだろうか。ならば都合が良い。とっとと近くの駅にでも向かおう。現在地を確認しようとスマートフォンを取り出すが、あいにく電波は圏外だった。位置情報も当然ロスト。アズールは眉を顰めた。
アズールの所有するそれは魔力起動式の最新型で、自分以外の魔力ではうんともすんとも言わない代わりに、ひとたび魔力を注げば深海だろうが山奥だろうが街中同様に通信ができる優れものだった。魔力を必要としない機種も存在するが、その分どうしてもセキュリティーは甘くなる。何せアズールは人一倍(他の者に言わせれば百倍でも足りないだろう)恨みを買っている自覚がある。個人情報を易々と漏らさないために当然のことだった。
しかしそれがこうも役に立たないとなると、余程の僻地に飛ばされたのか。もしくは故障か。周囲に何の気配もないことを確認して、アズールは半透明の折れ戸に手を掛けた。解除魔法をとマジカルペンを握ったがその必要もなかった。なんて無用心だと、少し拍子抜けだった。