短編
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*メインストーリー4章直前までのネタバレを含みます。
*監督生主なので名前変換出てきません。
「それ楽しい?」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
騒がしい大食堂でとりわけその一言が監督生の頭をぶん殴った。
海底を這うような声で「小エビちゃんさあ、聞いてんの」と続けられてしまえば誰に向けられた言葉なのかは明白だった。イソギンチャクとしてこき使われた記憶の新しいエースとデュースは内心ガタブルだった。エースは急に実家のベッドが恋しくなり、デュースは母の手料理の味を思い出していた。それを表に出さなかったのはひとえに男子高校生の誇り高く、青臭いプライドだった。ここは名高いナイトレイブンカレッジ。魔法士としての素質とそれに比例した自尊心を持つ青少年たちの見本市である。ちなみにグリムは齧り跡のあるパンにしがみついて震えていた。グリムはモンスターのオスではあるが青少年ではないので。
最初に声を絞り出せたのはエースだった。
「お、おい監督生」
言外に「余計なこと言うなよ」の意味合いを含んでいた。この異邦人は魔力をかけらも持たないくせに、厄介ごとに巻き込まれる天才だった。
監督生は本当に頭部を殴打されたのかと思って、思わずこめかみに手を添えた。常時と変わらぬ手触りにああ、そんなことはなかった、と安堵する。奇妙に見えるこの行動も、監督生が未だ魔法のある生活に馴染んでいないことに由来する。てっきり直接手を下さずとも対象を殴打する魔法でも使われたのかと思ったのだ。実際、そういった魔法は存在するし、この学園に見込まれた生徒なら授業で教わらずとも(使う使わないは別にして)ミドルスクール生の頃には習得しているのだった。
しかしフロイドはそんなチンケな魔法で少しでもブロットを蓄積させるよりも立派な尾びれを振るう方がずっと効果的なことを知っていたし、何より気まぐれで声をかけた弱っちい人間にそこまでする気はなかった。少なくとも今は。
監督生は緩慢な動きで腕を下ろし、摩天楼のごとくそびえ立つ先輩に微笑んでみせた。笑顔はこの世界に来る前からの数少ない特技だった。世間はそれを愛想笑いと定義する。
「みんなとご飯を食べるのは、楽しいですよ」
「アッソ」
フロイドはまったく興味を失ったようで、片割れの背中を追いかけた。フロイドは他寮の生徒に「オクタヴィネルの暴力担当」「ウツボのぱっと見ヤバイ方」などと好き勝手言われているほどの逸材で、正しくこの学園に馴染んでいた。なお彼と対を成すジェイドは「オクタヴィネルの拷問担当」「ウツボの実はヤバイ方」と囁かれていた。この噂はフィクションであり、実在の人魚・団体・事件などには一切関係ありません。
フロイドのありふれた気まぐれは本人の関しない影響を及ぼした。どういうわけか監督生の思考は、顔見知りの先輩のたった一言に支配されてしまった。
彼らと知り合ったのは期末試験の一件。追い詰められていたとはいえアズールの宝物を台無しにしてしまったことを思い出すと、監督生は今でも口に苦いものが広がる思いがする。あれからオクタヴィネル寮の三人と顔を合わせるのは何となく憚られた。話しかけられたら当然返事をするし、必要があれば訪ねることもするだろう。裏を返せば必要がなければ会うこともない、その程度の距離感を持った関係だった。
だから、そう。極端な話、監督生はフロイドの態度一つで心を揺さぶられる必要はなかった。部活が同じエース曰く「あの人は相当な気分屋」だそうだから。なのにどうしてこうも気にかかるのか。「それ」は何を指していたのか。まだ答えは見えそうになかった。
「これって何に使うんですか?」
「お目が高い! それは『踊る雑巾』と言って魔力を注げば部屋中を掃除してくれる優れモノさ!」
「グリムでも使えるかな……」
ビビットピンクに蛍光オレンジ。監督生からすればやけに派手な色合いの雑巾だった。住まいとしているオンボロ寮は最低限暮らせるように整えたといえど、まだその呼び名にふさわしい様相だった。ウィンターホリデーはもう間近に迫っていた。グリムにも協力してもらって年末の大掃除でもしようか、と手元の値札を見れば500マドル。これは無駄遣いに含まれるだろうか。財布の中身と睨めっこしていると陽気な店主が笑った。
「そいつはゴミと家具の区別ができなくてネ、文字通り塵一つ残さないのが玉に瑕」
「や……めておきます」
いくら魔法道具といえど500マドルで都合よく掃除が完了するわけではないという良い教訓でもあった。
結局、グリム用のツナ缶やトイレットペーパーなどの消耗品だけ購入して、監督生はミステリーショップを後にした。店を出れば隙間風が口笛のような音を立てた。
「楽しい、か」
監督生の「楽しい」は決してハードルの高いものではなかった。グリムやゴーストたちと寝起きを共にするのも、エースやデュースと授業を受けるのも、ハーツラビュル寮のお茶会に参加するのも、みんな「楽しい」と思えた。そりゃ最初は戸惑ったけど。元の世界が恋しくて涙したことも、学園長や周りの無茶振りに応えようとしたことも、当たり前のように使われる魔法用語が理解できなかったことも、終わってしまえばそれだけのことだと思えた。
目の前で闇に呑まれてしまった先輩たちの姿はいつでも監督生の脳裏にある。分刻みのスケジュールとか王位継承とか血の滲むような努力だとか、元の世界で平凡に生きてきた監督生にとっては雲の上の話だった。勉強も運動も人付き合いも月並みに頑張った。しかし監督生は誕生日には好きなケーキが食べられたし、生まれを心から呪ったこともなければペンの握りすぎで血豆を作ったこともなかった。
想像できないことは共感もできない。
だから、監督生が目下抱える悩みや苦しみ、憂いはこの世界の誰に言っても仕方ないと思っていた。魔法が当たり前の世界では監督生の当たり前は何ひとつ通用しないから、誰も共感できるわけがない。別に憐んでほしいわけでも、ないんだし。
それは誰に対しても薄情であるのと同時に優しい選択でもあった。
「楽しさ」を問うフロイドの発言は目から鱗だった。だって、誰も自分が今楽しんでるかなんて気にしてないと思ってたから。観葉植物に声をかけながら水をあげるような、河原に落ちている石を拾い上げて形を確かめるような、そんな不思議な感覚に満ちていた。たとえ発言者とは違う方向を向いていたとしても。
その晩、監督生はナイトレイブンカレッジで学園生活を送る夢を見た。夢の中で監督生は自在に魔法を操り、学園長や他寮の生徒に絡まれることもなく、なぜかハーツラビュル寮の4人部屋でエースやデュース、そしてグリムと一緒に寝泊まりしていた。誰の力も借りず、自分が操る箒で風を切るのは涙が出るほど楽しかった。
*
明くる日、いつも通り辞書を片手に授業を受け、特注サイズの箒にまたがるグリムを応援し、部活に向かうエースとデュースの背中を見送った。いつもと違ったのは放課後のミステリーショップでのことだった。
「魔力がなくても使える魔法道具ってありますか……?」
未だ間違いに怯えるように尋ねられて、店主は一瞬ポカンとしたもののすぐにいつもの調子を取り戻した。
「In Stock Now!」
サムは生き生きとした様子で品物を並べてみせた。物体の色を自在に変える『七色の筆』、植物を本来の何倍もの速さで成長させる『巨人樹のジョウロ』、そして身につけると一定時間空中浮遊できる『雲上石のペンダント』。どれも材料や道具自体に魔力が込められているらしく監督生でも扱えるとのことだった。
監督生は昨晩見た夢の中での感覚が焼き付いた手で空色のペンダントを取り、躊躇なく800マドルを支払った。嘲笑うような風の音はもう気にならなかった。
校舎の裏庭は猫一匹いなかった。グリムは赤点を取った件でクルーウェルに呼び出されていたので(二人で一人の生徒扱いといえどテストは別々に受けるのだ)、この場所を支配するのは監督生ひとりだった。場所はオンボロ寮の近くでもよかったのだが、万が一ペンダントを扱いきれなかったらと考えて、そして魔法を使えない自分が飛ぶところを他の生徒にあまり見られたくないという相反する心情がこの場所を選んだ。
監督生は自分用の箒を持っていない。
首にかけたペンダントにそっと触れると青い光が淡くその身体を包んだ。首根っこを摘まれるような浮遊感。足元を見ると、地面と靴底に確かな距離があった。そのまま念じ続ければもっと高く浮上したり前進したり一回転してみたり。思い描いた通り、夢に見た通りに監督生は空を飛ぶことができた。
見上げるばかりだった裏庭の木を見下ろして、監督生は初めて「自分だけ箒を持っていないのが悔しかったのだ」と知った。
空中で泳ぐように遊ぶ監督生の頭上に影がかかった。巨大な雨雲よりも重い存在が、見た目に反する軽い声で話しかけてきた。
「あ〜、ホントに小エビちゃんじゃん。なんで飛べてんの? アズールと契約でもした?」
宿題の内容を聞くような気軽さでとんでもないことを言う人だと思った。イソギンチャク事件を経てアズールと契約したいだなんてよほどのことだ。
些細な会話に限らず、五秒に一回は監督生の「とんでもない」判定に引っかかりそうなフロイド・リーチは、膝を箒の枝に引っ掛け、まるでコウモリのように逆さまにぶら下がって飛んでいた。今日のフロイドは飛びたい気分だったのでこのような芸当も平気な顔でこなしてみせるが、気分が乗らなければ今頃地面と大いなるキスをしていたであろうが、この時の監督生は知る由もないことである。
重力にさえ真っ向から喧嘩を売る先輩に、監督生は「飛べるようになる魔法具を買ったんです」とだけ返事をした。
フロイドは「あっそオ」とだけ返した。大食堂で聞いたよりも柔らかい響きを持っていた。
真冬の乾いた風が雲を晴らす。二人はどこへ向かうでも何をするでもなく、ただ風に流されないようにだけして浮かんでいた。監督生はお礼を言いたくなって、すぐにその考えを改めた。これは自分が決めたこと。自分の意思で決めた「楽しい」こと。もう誰かに流されるのも言い訳にするのも諦めるのも、楽しくないって気づいたから。
「フロイド先輩」
「なーに」
「ちゃんと楽しいですよ」
フロイドは苦虫を噛み潰したように「意味わかんねーし」と返した。
*監督生主なので名前変換出てきません。
「それ楽しい?」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
騒がしい大食堂でとりわけその一言が監督生の頭をぶん殴った。
海底を這うような声で「小エビちゃんさあ、聞いてんの」と続けられてしまえば誰に向けられた言葉なのかは明白だった。イソギンチャクとしてこき使われた記憶の新しいエースとデュースは内心ガタブルだった。エースは急に実家のベッドが恋しくなり、デュースは母の手料理の味を思い出していた。それを表に出さなかったのはひとえに男子高校生の誇り高く、青臭いプライドだった。ここは名高いナイトレイブンカレッジ。魔法士としての素質とそれに比例した自尊心を持つ青少年たちの見本市である。ちなみにグリムは齧り跡のあるパンにしがみついて震えていた。グリムはモンスターのオスではあるが青少年ではないので。
最初に声を絞り出せたのはエースだった。
「お、おい監督生」
言外に「余計なこと言うなよ」の意味合いを含んでいた。この異邦人は魔力をかけらも持たないくせに、厄介ごとに巻き込まれる天才だった。
監督生は本当に頭部を殴打されたのかと思って、思わずこめかみに手を添えた。常時と変わらぬ手触りにああ、そんなことはなかった、と安堵する。奇妙に見えるこの行動も、監督生が未だ魔法のある生活に馴染んでいないことに由来する。てっきり直接手を下さずとも対象を殴打する魔法でも使われたのかと思ったのだ。実際、そういった魔法は存在するし、この学園に見込まれた生徒なら授業で教わらずとも(使う使わないは別にして)ミドルスクール生の頃には習得しているのだった。
しかしフロイドはそんなチンケな魔法で少しでもブロットを蓄積させるよりも立派な尾びれを振るう方がずっと効果的なことを知っていたし、何より気まぐれで声をかけた弱っちい人間にそこまでする気はなかった。少なくとも今は。
監督生は緩慢な動きで腕を下ろし、摩天楼のごとくそびえ立つ先輩に微笑んでみせた。笑顔はこの世界に来る前からの数少ない特技だった。世間はそれを愛想笑いと定義する。
「みんなとご飯を食べるのは、楽しいですよ」
「アッソ」
フロイドはまったく興味を失ったようで、片割れの背中を追いかけた。フロイドは他寮の生徒に「オクタヴィネルの暴力担当」「ウツボのぱっと見ヤバイ方」などと好き勝手言われているほどの逸材で、正しくこの学園に馴染んでいた。なお彼と対を成すジェイドは「オクタヴィネルの拷問担当」「ウツボの実はヤバイ方」と囁かれていた。この噂はフィクションであり、実在の人魚・団体・事件などには一切関係ありません。
フロイドのありふれた気まぐれは本人の関しない影響を及ぼした。どういうわけか監督生の思考は、顔見知りの先輩のたった一言に支配されてしまった。
彼らと知り合ったのは期末試験の一件。追い詰められていたとはいえアズールの宝物を台無しにしてしまったことを思い出すと、監督生は今でも口に苦いものが広がる思いがする。あれからオクタヴィネル寮の三人と顔を合わせるのは何となく憚られた。話しかけられたら当然返事をするし、必要があれば訪ねることもするだろう。裏を返せば必要がなければ会うこともない、その程度の距離感を持った関係だった。
だから、そう。極端な話、監督生はフロイドの態度一つで心を揺さぶられる必要はなかった。部活が同じエース曰く「あの人は相当な気分屋」だそうだから。なのにどうしてこうも気にかかるのか。「それ」は何を指していたのか。まだ答えは見えそうになかった。
「これって何に使うんですか?」
「お目が高い! それは『踊る雑巾』と言って魔力を注げば部屋中を掃除してくれる優れモノさ!」
「グリムでも使えるかな……」
ビビットピンクに蛍光オレンジ。監督生からすればやけに派手な色合いの雑巾だった。住まいとしているオンボロ寮は最低限暮らせるように整えたといえど、まだその呼び名にふさわしい様相だった。ウィンターホリデーはもう間近に迫っていた。グリムにも協力してもらって年末の大掃除でもしようか、と手元の値札を見れば500マドル。これは無駄遣いに含まれるだろうか。財布の中身と睨めっこしていると陽気な店主が笑った。
「そいつはゴミと家具の区別ができなくてネ、文字通り塵一つ残さないのが玉に瑕」
「や……めておきます」
いくら魔法道具といえど500マドルで都合よく掃除が完了するわけではないという良い教訓でもあった。
結局、グリム用のツナ缶やトイレットペーパーなどの消耗品だけ購入して、監督生はミステリーショップを後にした。店を出れば隙間風が口笛のような音を立てた。
「楽しい、か」
監督生の「楽しい」は決してハードルの高いものではなかった。グリムやゴーストたちと寝起きを共にするのも、エースやデュースと授業を受けるのも、ハーツラビュル寮のお茶会に参加するのも、みんな「楽しい」と思えた。そりゃ最初は戸惑ったけど。元の世界が恋しくて涙したことも、学園長や周りの無茶振りに応えようとしたことも、当たり前のように使われる魔法用語が理解できなかったことも、終わってしまえばそれだけのことだと思えた。
目の前で闇に呑まれてしまった先輩たちの姿はいつでも監督生の脳裏にある。分刻みのスケジュールとか王位継承とか血の滲むような努力だとか、元の世界で平凡に生きてきた監督生にとっては雲の上の話だった。勉強も運動も人付き合いも月並みに頑張った。しかし監督生は誕生日には好きなケーキが食べられたし、生まれを心から呪ったこともなければペンの握りすぎで血豆を作ったこともなかった。
想像できないことは共感もできない。
だから、監督生が目下抱える悩みや苦しみ、憂いはこの世界の誰に言っても仕方ないと思っていた。魔法が当たり前の世界では監督生の当たり前は何ひとつ通用しないから、誰も共感できるわけがない。別に憐んでほしいわけでも、ないんだし。
それは誰に対しても薄情であるのと同時に優しい選択でもあった。
「楽しさ」を問うフロイドの発言は目から鱗だった。だって、誰も自分が今楽しんでるかなんて気にしてないと思ってたから。観葉植物に声をかけながら水をあげるような、河原に落ちている石を拾い上げて形を確かめるような、そんな不思議な感覚に満ちていた。たとえ発言者とは違う方向を向いていたとしても。
その晩、監督生はナイトレイブンカレッジで学園生活を送る夢を見た。夢の中で監督生は自在に魔法を操り、学園長や他寮の生徒に絡まれることもなく、なぜかハーツラビュル寮の4人部屋でエースやデュース、そしてグリムと一緒に寝泊まりしていた。誰の力も借りず、自分が操る箒で風を切るのは涙が出るほど楽しかった。
*
明くる日、いつも通り辞書を片手に授業を受け、特注サイズの箒にまたがるグリムを応援し、部活に向かうエースとデュースの背中を見送った。いつもと違ったのは放課後のミステリーショップでのことだった。
「魔力がなくても使える魔法道具ってありますか……?」
未だ間違いに怯えるように尋ねられて、店主は一瞬ポカンとしたもののすぐにいつもの調子を取り戻した。
「In Stock Now!」
サムは生き生きとした様子で品物を並べてみせた。物体の色を自在に変える『七色の筆』、植物を本来の何倍もの速さで成長させる『巨人樹のジョウロ』、そして身につけると一定時間空中浮遊できる『雲上石のペンダント』。どれも材料や道具自体に魔力が込められているらしく監督生でも扱えるとのことだった。
監督生は昨晩見た夢の中での感覚が焼き付いた手で空色のペンダントを取り、躊躇なく800マドルを支払った。嘲笑うような風の音はもう気にならなかった。
校舎の裏庭は猫一匹いなかった。グリムは赤点を取った件でクルーウェルに呼び出されていたので(二人で一人の生徒扱いといえどテストは別々に受けるのだ)、この場所を支配するのは監督生ひとりだった。場所はオンボロ寮の近くでもよかったのだが、万が一ペンダントを扱いきれなかったらと考えて、そして魔法を使えない自分が飛ぶところを他の生徒にあまり見られたくないという相反する心情がこの場所を選んだ。
監督生は自分用の箒を持っていない。
首にかけたペンダントにそっと触れると青い光が淡くその身体を包んだ。首根っこを摘まれるような浮遊感。足元を見ると、地面と靴底に確かな距離があった。そのまま念じ続ければもっと高く浮上したり前進したり一回転してみたり。思い描いた通り、夢に見た通りに監督生は空を飛ぶことができた。
見上げるばかりだった裏庭の木を見下ろして、監督生は初めて「自分だけ箒を持っていないのが悔しかったのだ」と知った。
空中で泳ぐように遊ぶ監督生の頭上に影がかかった。巨大な雨雲よりも重い存在が、見た目に反する軽い声で話しかけてきた。
「あ〜、ホントに小エビちゃんじゃん。なんで飛べてんの? アズールと契約でもした?」
宿題の内容を聞くような気軽さでとんでもないことを言う人だと思った。イソギンチャク事件を経てアズールと契約したいだなんてよほどのことだ。
些細な会話に限らず、五秒に一回は監督生の「とんでもない」判定に引っかかりそうなフロイド・リーチは、膝を箒の枝に引っ掛け、まるでコウモリのように逆さまにぶら下がって飛んでいた。今日のフロイドは飛びたい気分だったのでこのような芸当も平気な顔でこなしてみせるが、気分が乗らなければ今頃地面と大いなるキスをしていたであろうが、この時の監督生は知る由もないことである。
重力にさえ真っ向から喧嘩を売る先輩に、監督生は「飛べるようになる魔法具を買ったんです」とだけ返事をした。
フロイドは「あっそオ」とだけ返した。大食堂で聞いたよりも柔らかい響きを持っていた。
真冬の乾いた風が雲を晴らす。二人はどこへ向かうでも何をするでもなく、ただ風に流されないようにだけして浮かんでいた。監督生はお礼を言いたくなって、すぐにその考えを改めた。これは自分が決めたこと。自分の意思で決めた「楽しい」こと。もう誰かに流されるのも言い訳にするのも諦めるのも、楽しくないって気づいたから。
「フロイド先輩」
「なーに」
「ちゃんと楽しいですよ」
フロイドは苦虫を噛み潰したように「意味わかんねーし」と返した。