ラス・エラルドの背骨
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「すみません、お忙しいのに連れ出したりなんかして」
「そんな。連れてきてくれてありがとうございます、常守さん」
名前が軽く左手を振るとデバイスが垣間見える。執行官たち同様、半永久的に取り外せないGPS付きのそれだった。首輪付きの潜在犯である証。
常守は「あ……」と吐息を漏らした。気まずいです、と顔に書いてある。
「いじわる言ったんじゃないの。素敵なカフェに連れてきてくれてありがとうって。本当だよ」
努めて笑顔で言うと、常守はほっとしたように紅茶に手をつけた。こんなに優しい子が監視官としてやっていけるのか心配になった。
公安局のある霞が関から北へ少し。新御茶ノ水駅直結のニューテラスタワーの地上2階は開放的なカフェスペースになっていた。煉瓦の壁や木製のテーブル席はカントリー調でありながら、大きな窓から差し込む光でその野暮ったさを感じさせない。ガラス張りの入り口付近に観葉植物が設置されていたのも、なんというか、色相に気をつかう中流以上の層にも懐古趣味のある中高年にもウケが良さそうだ。この時代、煉瓦の壁も木製のテーブルも観葉植物も、そのほとんどが内装ホロであることは言うまでもないが、それを一々指摘するほど社会に恨みがあるわけでもない。
鶏のテリーヌを口に運ぶ名前の正面で、常守がごくりと息を呑む。知り合って日が浅い分析官の反応を窺っているようだ。
「うん、美味しい」と漏らせば、「ここ家から近くて、結構気に入ってるんです!」と嬉しそうに自分も手をつける。
個人情報。先程とは別の意味で監視官としての振る舞いを心配した。
「それで、聞きたいことって? オフィスじゃ聞きにくいことなんでしょう」
「名字さんは標本事件ってご存知ですか……?」
「あー……はい、そりゃねえ」
正直思い出したくない事件だった。当時刑事課にいた人間なら忘れられるはずがない。特に名前は、あの事件の初動捜査に関わっておきながら迷宮入りを許してしまった苦い記憶がある。
執行官と監視官を一人ずつ失う羽目になった事件。今やSPINELの煙と共に腫れ物のような扱いを受けている。新任の常守が何故知っているのだろうと考えて、すぐに心当たりが浮かんだ。
「もしかして常守さんが聞きたいのは事件そのものというより、狡噛の経歴について?」
「両方ですかね……」
「端的に言うと、あの事件で狡噛はバディだった佐々山執行官を喪った。事件被害者たちと同じ、惨い殺され方でね」
事件の詳細は狡噛に聞いてね、と彼女には酷であろうパスをする。三年前の時点で一係は唐之杜が、二係と三係は名前が担当する流れが自然とできていたのだから、詳しい状況を説明できるまでに及ばなかった。その上佐々山には明確に嫌われていたから、あまり交流がなかったし。
ため息混じりの名前を気遣ってか単純な興味か、はたまた両方か。常守は話題を切り替えた。
「昔の狡噛さんってどんな人でした?」
「頭でっかち」
「へっ?」
「良く言えば真面目、悪く言えば青くさい。熱血な優等生って感じかな。今じゃ考えられないでしょ」
そう。名前が呼び捨てではなく「狡噛監察官」ないし「狡噛さん」と呼んでいたときの彼。初めて出会ったとき名前は17歳、向こうは21歳だったから監視官と潜在犯という意識が他より希薄だったのだろう、そういった面を見せることは少なかったが、周囲からの評価は常守に言った通りのものだった。
ご自慢の頭脳は捜査に生かされていた。でもそれ以上に執行官との付き合い方、考え方に苦戦していた。標本事件はまさに執行官との関係を、彼なりの答えを掴みかけていたときに起こった。
「今思えば、ちゃんと監視官になれず仕舞いなんだなあ……」
決してあの頃の狡噛さんの出来が悪かったわけじゃない。それでも、彼なりに監察官として歩き出そうとした矢先に、佐々山は……。
「名字さん? 大丈夫ですか?」
「あっ……、ごめんなさい。ちょっとね」
過去へ過去へと沈んでいきそうな思考が、常守の声で呼び戻された。
先日狡噛と仲直りしたからだろうか? 仲違いしていたわけじゃないのに「仲直り」は変だけど。それに、かつてのように接することなんてできない。
狡噛を、狡噛さんの代わりにはできないのに。
名前はチャイのカップに唇を寄せた。淡いピンクに色づいたのが、無性に恥ずかしいことのように思えた。
「名字についてェ? やめてよ朱ちゃん、酒が不味くなる」
「ちょっと縢くん! どうしてそんなこと言うの?」
「ウワ、幼稚園のセンセーみてえ」
顔を真っ赤にしながらも縢はグラスを離さない。弱いなら飲まなきゃいいのに、と常守も自分のグラスを煽る。縢が弱いというよりは常守が強すぎるのだと指摘する者はいなかった。
縢は頭をふらふらと彷徨わせながらも、律儀に常守の質問に答えた。
「朱ちゃんはイイ子ちゃんだからわかんねーと思うけどぉ、オレらにしてみれば宇宙人が潜在犯の皮かぶってように見えんの!」
「そんな……」
ランチを共にした彼女は、身構えていたよりずっと話しやすくて、常守の抱いていた「同性の上司」のイメージの枠を出ない人だった。潜在犯だって言われなきゃわからないくらいに。
狡噛のように何を考えているか、次の瞬間何をし始めるかわからないタイプに比べればずっとありがたいことだった。
「ムカつくんだよ……。自分もこの社会のヒガイシャでーす仲良くしてクダサイってか。それに朱ちゃん!」
「な、なによ」
「あいつ、5年前? は厚生省にいたらしーよ」
「……え?」
分析官とはいえ、潜在犯が厚生省本部に?
成績も色彩もエリートの監察官ですら、現場を十年近く経験しなければ道が見えてこないのに?
どういうことか聞き直そうとしたが、あいにく部屋の主はテーブルに突っ伏していた。本日の営業は終了したらしい。酒瓶や空いた皿を片付けながら、常守は既に存在しないものに思いを馳せた。
監視官の狡噛慎也。厚生省本部に勤める名字名前。
輝かしい肩書きの裏に何があったのか、常守朱はまだ知らないままでいる。
「そんな。連れてきてくれてありがとうございます、常守さん」
名前が軽く左手を振るとデバイスが垣間見える。執行官たち同様、半永久的に取り外せないGPS付きのそれだった。首輪付きの潜在犯である証。
常守は「あ……」と吐息を漏らした。気まずいです、と顔に書いてある。
「いじわる言ったんじゃないの。素敵なカフェに連れてきてくれてありがとうって。本当だよ」
努めて笑顔で言うと、常守はほっとしたように紅茶に手をつけた。こんなに優しい子が監視官としてやっていけるのか心配になった。
公安局のある霞が関から北へ少し。新御茶ノ水駅直結のニューテラスタワーの地上2階は開放的なカフェスペースになっていた。煉瓦の壁や木製のテーブル席はカントリー調でありながら、大きな窓から差し込む光でその野暮ったさを感じさせない。ガラス張りの入り口付近に観葉植物が設置されていたのも、なんというか、色相に気をつかう中流以上の層にも懐古趣味のある中高年にもウケが良さそうだ。この時代、煉瓦の壁も木製のテーブルも観葉植物も、そのほとんどが内装ホロであることは言うまでもないが、それを一々指摘するほど社会に恨みがあるわけでもない。
鶏のテリーヌを口に運ぶ名前の正面で、常守がごくりと息を呑む。知り合って日が浅い分析官の反応を窺っているようだ。
「うん、美味しい」と漏らせば、「ここ家から近くて、結構気に入ってるんです!」と嬉しそうに自分も手をつける。
個人情報。先程とは別の意味で監視官としての振る舞いを心配した。
「それで、聞きたいことって? オフィスじゃ聞きにくいことなんでしょう」
「名字さんは標本事件ってご存知ですか……?」
「あー……はい、そりゃねえ」
正直思い出したくない事件だった。当時刑事課にいた人間なら忘れられるはずがない。特に名前は、あの事件の初動捜査に関わっておきながら迷宮入りを許してしまった苦い記憶がある。
執行官と監視官を一人ずつ失う羽目になった事件。今やSPINELの煙と共に腫れ物のような扱いを受けている。新任の常守が何故知っているのだろうと考えて、すぐに心当たりが浮かんだ。
「もしかして常守さんが聞きたいのは事件そのものというより、狡噛の経歴について?」
「両方ですかね……」
「端的に言うと、あの事件で狡噛はバディだった佐々山執行官を喪った。事件被害者たちと同じ、惨い殺され方でね」
事件の詳細は狡噛に聞いてね、と彼女には酷であろうパスをする。三年前の時点で一係は唐之杜が、二係と三係は名前が担当する流れが自然とできていたのだから、詳しい状況を説明できるまでに及ばなかった。その上佐々山には明確に嫌われていたから、あまり交流がなかったし。
ため息混じりの名前を気遣ってか単純な興味か、はたまた両方か。常守は話題を切り替えた。
「昔の狡噛さんってどんな人でした?」
「頭でっかち」
「へっ?」
「良く言えば真面目、悪く言えば青くさい。熱血な優等生って感じかな。今じゃ考えられないでしょ」
そう。名前が呼び捨てではなく「狡噛監察官」ないし「狡噛さん」と呼んでいたときの彼。初めて出会ったとき名前は17歳、向こうは21歳だったから監視官と潜在犯という意識が他より希薄だったのだろう、そういった面を見せることは少なかったが、周囲からの評価は常守に言った通りのものだった。
ご自慢の頭脳は捜査に生かされていた。でもそれ以上に執行官との付き合い方、考え方に苦戦していた。標本事件はまさに執行官との関係を、彼なりの答えを掴みかけていたときに起こった。
「今思えば、ちゃんと監視官になれず仕舞いなんだなあ……」
決してあの頃の狡噛さんの出来が悪かったわけじゃない。それでも、彼なりに監察官として歩き出そうとした矢先に、佐々山は……。
「名字さん? 大丈夫ですか?」
「あっ……、ごめんなさい。ちょっとね」
過去へ過去へと沈んでいきそうな思考が、常守の声で呼び戻された。
先日狡噛と仲直りしたからだろうか? 仲違いしていたわけじゃないのに「仲直り」は変だけど。それに、かつてのように接することなんてできない。
狡噛を、狡噛さんの代わりにはできないのに。
名前はチャイのカップに唇を寄せた。淡いピンクに色づいたのが、無性に恥ずかしいことのように思えた。
「名字についてェ? やめてよ朱ちゃん、酒が不味くなる」
「ちょっと縢くん! どうしてそんなこと言うの?」
「ウワ、幼稚園のセンセーみてえ」
顔を真っ赤にしながらも縢はグラスを離さない。弱いなら飲まなきゃいいのに、と常守も自分のグラスを煽る。縢が弱いというよりは常守が強すぎるのだと指摘する者はいなかった。
縢は頭をふらふらと彷徨わせながらも、律儀に常守の質問に答えた。
「朱ちゃんはイイ子ちゃんだからわかんねーと思うけどぉ、オレらにしてみれば宇宙人が潜在犯の皮かぶってように見えんの!」
「そんな……」
ランチを共にした彼女は、身構えていたよりずっと話しやすくて、常守の抱いていた「同性の上司」のイメージの枠を出ない人だった。潜在犯だって言われなきゃわからないくらいに。
狡噛のように何を考えているか、次の瞬間何をし始めるかわからないタイプに比べればずっとありがたいことだった。
「ムカつくんだよ……。自分もこの社会のヒガイシャでーす仲良くしてクダサイってか。それに朱ちゃん!」
「な、なによ」
「あいつ、5年前? は厚生省にいたらしーよ」
「……え?」
分析官とはいえ、潜在犯が厚生省本部に?
成績も色彩もエリートの監察官ですら、現場を十年近く経験しなければ道が見えてこないのに?
どういうことか聞き直そうとしたが、あいにく部屋の主はテーブルに突っ伏していた。本日の営業は終了したらしい。酒瓶や空いた皿を片付けながら、常守は既に存在しないものに思いを馳せた。
監視官の狡噛慎也。厚生省本部に勤める名字名前。
輝かしい肩書きの裏に何があったのか、常守朱はまだ知らないままでいる。