ラス・エラルドの背骨
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「狡噛さん、雑賀譲二氏とお知り合いなんですか?」
名前は熱中していた本から顔を上げた。今日狡噛が届けたのはホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』だった。区切りのいいところで意識を外へ移せるのが短編集の良いところだと名前は思った。
「犯罪心理学の特別講義がきっかけでな、今でもお世話になってる。受けなかったのか?」
「受講資格があるのは刑事課の人間だけだったもので」
「悪かったよ。そういえば来週、外出申請出してたよな」
名前にそんな覚えはなかったが、こんな魅力的な提案に乗らない手はなかった。
「そうですね、忘れてました」
潜在犯はハンドルを握れない。とはいえ運転はほとんどAI任せで、運転手のやることといったら音声指示くらいなものだが、狡噛は案外マニュアル操作のドライブが好きな人間だった。大型バイクを手ずから走らせるのもいい。実に爽快で、開放された気分になる。助手席に座る名前を窺った。以前、運転免許以外にも古語検定や速読検定、高校の教員免許を取得している狡噛を「多才」と称したが、そういう彼女はどうなのだろうと思った。
「なあ、あんた非番の日は何してるんだ?」
「読書以外で?」
「読書以外で」
黙ってしまった。
「休みに限った話じゃないですけど、日記は欠かさずつけてますね。たまに読み返したりとか」
「シュビラの悪口が書かれてそうだな」
左であはは、と肩が揺れた。藪蛇でないのを祈ることにした。
霞ヶ関から約二時間、雑賀譲二の邸宅は埼玉県秩父市の山奥にひっそりと位置していた。外装にも内装にもホロをほとんど使っていない家は、名前に無性なまでにノスタルジーを与えた。二つが重なって、懐かしく思う。家主は本物の豆を挽いたコーヒーで二人をもてなした。
「あー……、名字名前分析官?」
「はい」
「あれだな、若いのに中々苦労してきたようだ」
「潜在犯の人生なんて知れてますよ」
「君の祖父は厳格な人だったんだろう」
カップの縁をなぞる名前の指先が止まった。
「特別鍛えているわけじゃないが格闘技の心得がある。柔術、いやサンボあたりか。護身にしちゃあ随分過激だな」
雑賀の指摘通りだった。両親は物心つく前に鬼籍に入り、施設に入る10歳まで祖父に育てられた。彼が名前に授けたものの一つが自衛の術だった。
「あと執行官の適性は出なかった」
「お見通しですね」
「染み付いた癖は嘘をつかないもんだ。狡噛」
話の途中で雑賀は置物と化していた男に声をかけた。
「せっかくだから昼食を振る舞いたいが、材料が足りなくなりそうだ。ちょっと裏の畑を見てきてくれないか」
狡噛は二人の顔を見比べた後、分かりやすく息をついた。何を言っても無駄だと感じたらしかった。
「行ってきます」
「頼んだぞう」
「すみません、こんなことをさせてしまって」
「ここらの自然はホロじゃない本物だ。あいつもいい息抜きになるだろう。さて、いくつか質問させてくれ」
雑賀は眼鏡のブリッジを触った。プロファイリングのプの字も知らない名前でさえ、観察するときや集中したいときの癖なのだと分かった。
「海外渡航歴は?」
「ありません」
「廃棄区画に立ち入ったことは? または親しい知り合いが暮らしている」
「いませんねえ」
「解離性同一症か、或いはそれに準ずる精神病と診断されたことは?」
「……シュビラ社会に所謂多重人格は存在し得ません。主たる要因である過度なストレスは病を引き起こす前に対処されるからです」
「更生プログラムという形でな。一つの器に精神も一つ、サイマティックスキャンの大前提だ。
これではっきりした。名字分析官、お前さんは」
「シュビラの無い世界を知っている」
名前は笑った。
今年最後の夏野菜を収穫した狡噛が戻ると、気付いた雑賀が「おう、ご苦労だったな」と声をかけた。手にはお玉が握られている。匂いからしてハヤシライスをご馳走してくれるらしい。材料が足りないというのはあながち嘘でもなかったらしく、「悪いが洗っといてくれ」と続く。名前はと目だけで部屋を探すと、本棚の前で蔵書に夢中になっていた。
「雑賀先生ー、本当に貰っていいんですか?」
「何度も言わせるな。その棚はもう読まないものばかりだ」
「やったあ」
初めて会ったあの日、読んでいる本を言い当てたときのような年相応の反応だった。
「先生、お邪魔しました」
「ありがとうございました」
「また来なさい。名字も」
「また来ます。すぐにでも」
そう言って狡噛を見上げた。潜在犯は一人では外出できない。「すぐに」と言っても分析官は執行官以上に人員不足だ。次の休みがいつ取れるか分からないことは全員が知るところだったが、誰もそんな野暮なことは言わなかった。
高性能AIの自動運転は都市機能とリンクしているためか、走行音がマニュアル運転よりずっと抑えられていた。
「随分と懐いたもんだな」
引き合わせたのは自分だが、こうも親しくなるとは想定外だった。それだけの発言が、やけに嫌味っぽく聞こえた。狡噛の複雑な心中には、雑賀に締め出されたことが今も渦巻いていた。
趣味が同じだからか、それとも年下の未成年だからか。線引きすべき潜在犯である彼女を妹分のように見ていた自分を自覚して、溜め息をついた。今一度気を引き締めなくてははならない。
そうあるべきなのに考えずにはいられない。底の見えない暗い沼がある。雑賀教授は名前の沼底に、何を見つけたのだろう。
彼女は「色相が濁りますよ」とだけ返した。膝の上で開かれているのは先週狡噛が与えた本。その中でたった数頁の一篇「円鐶の廃墟」だった。
名前は熱中していた本から顔を上げた。今日狡噛が届けたのはホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』だった。区切りのいいところで意識を外へ移せるのが短編集の良いところだと名前は思った。
「犯罪心理学の特別講義がきっかけでな、今でもお世話になってる。受けなかったのか?」
「受講資格があるのは刑事課の人間だけだったもので」
「悪かったよ。そういえば来週、外出申請出してたよな」
名前にそんな覚えはなかったが、こんな魅力的な提案に乗らない手はなかった。
「そうですね、忘れてました」
潜在犯はハンドルを握れない。とはいえ運転はほとんどAI任せで、運転手のやることといったら音声指示くらいなものだが、狡噛は案外マニュアル操作のドライブが好きな人間だった。大型バイクを手ずから走らせるのもいい。実に爽快で、開放された気分になる。助手席に座る名前を窺った。以前、運転免許以外にも古語検定や速読検定、高校の教員免許を取得している狡噛を「多才」と称したが、そういう彼女はどうなのだろうと思った。
「なあ、あんた非番の日は何してるんだ?」
「読書以外で?」
「読書以外で」
黙ってしまった。
「休みに限った話じゃないですけど、日記は欠かさずつけてますね。たまに読み返したりとか」
「シュビラの悪口が書かれてそうだな」
左であはは、と肩が揺れた。藪蛇でないのを祈ることにした。
霞ヶ関から約二時間、雑賀譲二の邸宅は埼玉県秩父市の山奥にひっそりと位置していた。外装にも内装にもホロをほとんど使っていない家は、名前に無性なまでにノスタルジーを与えた。二つが重なって、懐かしく思う。家主は本物の豆を挽いたコーヒーで二人をもてなした。
「あー……、名字名前分析官?」
「はい」
「あれだな、若いのに中々苦労してきたようだ」
「潜在犯の人生なんて知れてますよ」
「君の祖父は厳格な人だったんだろう」
カップの縁をなぞる名前の指先が止まった。
「特別鍛えているわけじゃないが格闘技の心得がある。柔術、いやサンボあたりか。護身にしちゃあ随分過激だな」
雑賀の指摘通りだった。両親は物心つく前に鬼籍に入り、施設に入る10歳まで祖父に育てられた。彼が名前に授けたものの一つが自衛の術だった。
「あと執行官の適性は出なかった」
「お見通しですね」
「染み付いた癖は嘘をつかないもんだ。狡噛」
話の途中で雑賀は置物と化していた男に声をかけた。
「せっかくだから昼食を振る舞いたいが、材料が足りなくなりそうだ。ちょっと裏の畑を見てきてくれないか」
狡噛は二人の顔を見比べた後、分かりやすく息をついた。何を言っても無駄だと感じたらしかった。
「行ってきます」
「頼んだぞう」
「すみません、こんなことをさせてしまって」
「ここらの自然はホロじゃない本物だ。あいつもいい息抜きになるだろう。さて、いくつか質問させてくれ」
雑賀は眼鏡のブリッジを触った。プロファイリングのプの字も知らない名前でさえ、観察するときや集中したいときの癖なのだと分かった。
「海外渡航歴は?」
「ありません」
「廃棄区画に立ち入ったことは? または親しい知り合いが暮らしている」
「いませんねえ」
「解離性同一症か、或いはそれに準ずる精神病と診断されたことは?」
「……シュビラ社会に所謂多重人格は存在し得ません。主たる要因である過度なストレスは病を引き起こす前に対処されるからです」
「更生プログラムという形でな。一つの器に精神も一つ、サイマティックスキャンの大前提だ。
これではっきりした。名字分析官、お前さんは」
「シュビラの無い世界を知っている」
名前は笑った。
今年最後の夏野菜を収穫した狡噛が戻ると、気付いた雑賀が「おう、ご苦労だったな」と声をかけた。手にはお玉が握られている。匂いからしてハヤシライスをご馳走してくれるらしい。材料が足りないというのはあながち嘘でもなかったらしく、「悪いが洗っといてくれ」と続く。名前はと目だけで部屋を探すと、本棚の前で蔵書に夢中になっていた。
「雑賀先生ー、本当に貰っていいんですか?」
「何度も言わせるな。その棚はもう読まないものばかりだ」
「やったあ」
初めて会ったあの日、読んでいる本を言い当てたときのような年相応の反応だった。
「先生、お邪魔しました」
「ありがとうございました」
「また来なさい。名字も」
「また来ます。すぐにでも」
そう言って狡噛を見上げた。潜在犯は一人では外出できない。「すぐに」と言っても分析官は執行官以上に人員不足だ。次の休みがいつ取れるか分からないことは全員が知るところだったが、誰もそんな野暮なことは言わなかった。
高性能AIの自動運転は都市機能とリンクしているためか、走行音がマニュアル運転よりずっと抑えられていた。
「随分と懐いたもんだな」
引き合わせたのは自分だが、こうも親しくなるとは想定外だった。それだけの発言が、やけに嫌味っぽく聞こえた。狡噛の複雑な心中には、雑賀に締め出されたことが今も渦巻いていた。
趣味が同じだからか、それとも年下の未成年だからか。線引きすべき潜在犯である彼女を妹分のように見ていた自分を自覚して、溜め息をついた。今一度気を引き締めなくてははならない。
そうあるべきなのに考えずにはいられない。底の見えない暗い沼がある。雑賀教授は名前の沼底に、何を見つけたのだろう。
彼女は「色相が濁りますよ」とだけ返した。膝の上で開かれているのは先週狡噛が与えた本。その中でたった数頁の一篇「円鐶の廃墟」だった。