ラス・エラルドの背骨
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「真流 さん、頼んでおいた被害者の——」
「真流はいません」
監視官・狡噛慎也は現在三係が追っている事件の資料を分析官・真流賛から貰い受けるため、総合分析室を訪ねていた。ゲーミングチェアを陣取る後ろ姿は予期していたものより二回りも小さい。一瞬呆気に取られたものの、噂で聞いていた存在に狡噛はああ、と納得した。
「ちゃんと話すのは初めてだな。君は確か、鉄壁の」
「その呼び方はやめてください」
来客には目もくれずモニターに構う彼女、名字名前はぴしゃりと突っぱねた。見た目より可愛げがないのも、以前佐々山に聞いていたことだった。ツンケンした、壁を作るようなその態度は一係にいる同期の男を思い出させる。
「被害者の遺族のここ一週間分のサイマティックスキャンデータは既に和久 さんに転送してあります」
名前が口にしたのは、確かに三係が真流に頼んでおいた用件だった。席を外している真流が名前に頼んでおいたのだろう。それを同じく三係の監視官・和久に送ってあるという。狡噛にとって和久は階級こそ同じでも、先輩であり実質上司のようなものなので、とんだ無駄足だった。
無駄足、だったのだが、こうして名高い ——その実態は評判の一人歩きの部分がある—— もう一人の分析官に会えたことが狡噛を気落ちさせなかった。むしろ目の前の知的好奇心に気分は高まっていた。見る人が見れば「必要以上に潜在犯と関わるなんて」「色相が濁ってもいいのか」と顔を顰めそうだった。
「少し見学していっても?」
「いいですけど、特にもてなせませんよ」
「構わない」
狡噛は了承を得てからソファーに腰を下ろした。うら若き分析官はちらと狡噛を一瞥した後、口の中で変な人、と呟いた。
名字名前は分析官である。特筆するとしたら、異例とも言える年齢の若さだった。犯罪係数が規定値を超えたのは10歳の頃。矯正施設へ送られ、色相改善の傾向が見られないままいたずらに歳月だけが過ぎる生活は、ある日を境に一変した。シュビラが公安局分析官の適性を叩き出したのである。余談ではあるが、執行官の適性は出なかった。
狡噛や宜野座、青柳たち新人監視官が入局するほんの2ヶ月に、名前はここ総合分析室に配属された。入局年だけでいえば同期に当たる。名前もまだ新人の部類、しかも未成年であるにも関わらず、既に一定の評判を獲得していた。狡噛が言いかけた「鉄壁事件」(なんて大袈裟なネーミングだと本人は語る)が名前の名を刑事課に、もしかすれば公安局全体に轟かせる決定打になったというのは、また別の話。
狡噛としては、まだ子どもの彼女に然るべき教育を受けさせずこんな場所で働かせるとは、と憤りたくなる気持ちが無いわけではなかったが、隔離施設での潜在犯の生活を知らないほど愚かではなかった。
「施設にいた頃、独学で色々学んでいたのでそこまで困りませんよ」
思考を読まれた、知らずに口に出していたかと咄嗟に視線をやる。
「マトモな人は大体そういうことを言うから、狡噛監視官もそうかなって」
やはり狡噛の方を見ずに答えた。よく見ると彼女の挙動が不可解であることに気付いた。
両手はキーボードの上で絶え間なく踊っているが、視線は膝元に注がれていた。立ち上がって数歩近付けば、今どき珍しいハードカバーの本が広げられていた。文字媒体の主流は言うまでもなく電子データなので、最早アンティークと言っても差し支えない代物である。更に言うならば文学や音楽、美術に芸能といった文化活動はシュビラの審査の元で認可を受けなければ世間での評価は期待できない。実際に、前時代の文学作品は閲覧が規制されているものも多い。若き分析官が片手間に読んでいたのもその一つだった。
「よくそれで作業できるもんだな。漱石の『こゝろ』か」
世話しなく動いていた白魚の指がピタリと止まる。頑なに背中しか見せなかった彼女が、椅子ごと回転させて向き合った。座っていても分かるほど丈の余った白衣が翻った。
「わかりますか?」
アーモンド型の目が初めて狡噛を映した。ひと目見ただけで題を言い当てたこと、そして監視官なんていうエリート中のエリートが規制図書に親しみがあることに興味を持ったらしかった。
目を輝かせる。なるほど、言葉通りだ。年相応の表情を見せる名前に、狡噛は込み上げる笑みを禁じ得なかった。
「100年前はこれが中等教育で必須同然の教材として扱われていたんですよ」
「それが今や規制図書の筆頭だ。まあシュビラの判断はわからんでもない」
「他人の自死が青少年に与える影響力を考慮すれば妥当、ですか? この時代の人間は自分の生死すら選べないのに」
狡噛はその発言に、魚の小骨が喉に突っかかったような思いがしたが、余裕で飲み込める違和感だったために何も言わなかった。
「真流はいません」
監視官・狡噛慎也は現在三係が追っている事件の資料を分析官・真流賛から貰い受けるため、総合分析室を訪ねていた。ゲーミングチェアを陣取る後ろ姿は予期していたものより二回りも小さい。一瞬呆気に取られたものの、噂で聞いていた存在に狡噛はああ、と納得した。
「ちゃんと話すのは初めてだな。君は確か、鉄壁の」
「その呼び方はやめてください」
来客には目もくれずモニターに構う彼女、名字名前はぴしゃりと突っぱねた。見た目より可愛げがないのも、以前佐々山に聞いていたことだった。ツンケンした、壁を作るようなその態度は一係にいる同期の男を思い出させる。
「被害者の遺族のここ一週間分のサイマティックスキャンデータは既に
名前が口にしたのは、確かに三係が真流に頼んでおいた用件だった。席を外している真流が名前に頼んでおいたのだろう。それを同じく三係の監視官・和久に送ってあるという。狡噛にとって和久は階級こそ同じでも、先輩であり実質上司のようなものなので、とんだ無駄足だった。
無駄足、だったのだが、こうして名高い ——その実態は評判の一人歩きの部分がある—— もう一人の分析官に会えたことが狡噛を気落ちさせなかった。むしろ目の前の知的好奇心に気分は高まっていた。見る人が見れば「必要以上に潜在犯と関わるなんて」「色相が濁ってもいいのか」と顔を顰めそうだった。
「少し見学していっても?」
「いいですけど、特にもてなせませんよ」
「構わない」
狡噛は了承を得てからソファーに腰を下ろした。うら若き分析官はちらと狡噛を一瞥した後、口の中で変な人、と呟いた。
名字名前は分析官である。特筆するとしたら、異例とも言える年齢の若さだった。犯罪係数が規定値を超えたのは10歳の頃。矯正施設へ送られ、色相改善の傾向が見られないままいたずらに歳月だけが過ぎる生活は、ある日を境に一変した。シュビラが公安局分析官の適性を叩き出したのである。余談ではあるが、執行官の適性は出なかった。
狡噛や宜野座、青柳たち新人監視官が入局するほんの2ヶ月に、名前はここ総合分析室に配属された。入局年だけでいえば同期に当たる。名前もまだ新人の部類、しかも未成年であるにも関わらず、既に一定の評判を獲得していた。狡噛が言いかけた「鉄壁事件」(なんて大袈裟なネーミングだと本人は語る)が名前の名を刑事課に、もしかすれば公安局全体に轟かせる決定打になったというのは、また別の話。
狡噛としては、まだ子どもの彼女に然るべき教育を受けさせずこんな場所で働かせるとは、と憤りたくなる気持ちが無いわけではなかったが、隔離施設での潜在犯の生活を知らないほど愚かではなかった。
「施設にいた頃、独学で色々学んでいたのでそこまで困りませんよ」
思考を読まれた、知らずに口に出していたかと咄嗟に視線をやる。
「マトモな人は大体そういうことを言うから、狡噛監視官もそうかなって」
やはり狡噛の方を見ずに答えた。よく見ると彼女の挙動が不可解であることに気付いた。
両手はキーボードの上で絶え間なく踊っているが、視線は膝元に注がれていた。立ち上がって数歩近付けば、今どき珍しいハードカバーの本が広げられていた。文字媒体の主流は言うまでもなく電子データなので、最早アンティークと言っても差し支えない代物である。更に言うならば文学や音楽、美術に芸能といった文化活動はシュビラの審査の元で認可を受けなければ世間での評価は期待できない。実際に、前時代の文学作品は閲覧が規制されているものも多い。若き分析官が片手間に読んでいたのもその一つだった。
「よくそれで作業できるもんだな。漱石の『こゝろ』か」
世話しなく動いていた白魚の指がピタリと止まる。頑なに背中しか見せなかった彼女が、椅子ごと回転させて向き合った。座っていても分かるほど丈の余った白衣が翻った。
「わかりますか?」
アーモンド型の目が初めて狡噛を映した。ひと目見ただけで題を言い当てたこと、そして監視官なんていうエリート中のエリートが規制図書に親しみがあることに興味を持ったらしかった。
目を輝かせる。なるほど、言葉通りだ。年相応の表情を見せる名前に、狡噛は込み上げる笑みを禁じ得なかった。
「100年前はこれが中等教育で必須同然の教材として扱われていたんですよ」
「それが今や規制図書の筆頭だ。まあシュビラの判断はわからんでもない」
「他人の自死が青少年に与える影響力を考慮すれば妥当、ですか? この時代の人間は自分の生死すら選べないのに」
狡噛はその発言に、魚の小骨が喉に突っかかったような思いがしたが、余裕で飲み込める違和感だったために何も言わなかった。