ジュブナイル
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
名前は知っていました。王城ホワイトナイツに入る前から、麻黄デビルバッツを結成する前から、アメフトと出会ったその日から。自分とフィールドの間には、大きく、深く。越えられない一線が引かれていることを。いくら察しがよかろうが、アメフトを好きになろうがルールに詳しくなろうが、勝利というものはいつも彼女が立つことのないフィールドの上で生まれていることを。
拭うことも忘れた髪から水滴が落ちました。名前は目を逸らすこともなく、エンドゾーンに飛び込んだアイシールド21を見据えていました。
「……勝った」
信じられない現実を噛み締めるようでした。声の主が身につけているユニフォームの色は鮮やかな赤。
「泥門42対王城40! 残り時間1秒から逆転勝利——!」
観客席からの歓声がスタジアムに木霊します。それがなぜか壁を一枚隔てているように遠く聞こえました。大声で泣き叫ぶ大田原の肩に、高見がそっと手を添えました。熱狂さめやらぬグラウンドでは、両チームの選手たちが健闘を讃え合っています。かたや新進気鋭の弱小チーム、かたや黄金世代が抜けた凋落のチーム。どちらも昔の話です。攻撃最強の泥門と守備最強の王城が戦って、泥門がわずかに上回った。それだけのことです。
名前は大きく肺に息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出しました。遠く向こうから感じる視線が誰かなんて、顔を上げずともわかります。目配せひとつ、まばたきひとつで通じ合う仲だったのですから。そうでしょう?
名前は駆け寄ることはしません。蛭魔もこちらへ来る気配はありません。たった今決着がついたチーム同士が、勝ったキャプテンと負けたマネージャーがそんなことをするはずがありません。勝負にはどこまでも貪欲に、そして同じくらい誠実であるべきだと知っています。あの日二人が見たクリスマスボウルという夢。その夢を背負って蛭魔は一人進んでいくのです。否、一人ではありません。泥門デビルバッツの全員と一緒に。再戦の約束はもうありません。蛭魔たち泥門の二年生はこの秋大会で引退なのですから。
フィールドに立つ蛭魔と、ベンチに立つ名前は見つめ合っていました。どれくらいの時間だったでしょう。おそらく、中学三年生の冬、二人が別々の道を選んでから今日に至るまでの時間くらいだったはずです。そこがきっと二人の永遠だったのです。どちらも涙を流したり身振り手振りで何か伝えようとしたりはしませんでした。試合前にカフェで伝えたことがすべてです。自分はもう大丈夫だと。蛭魔のクリスマスボウルの夢に、自分の思いを託すなんて言いません。自分勝手に背を向けて、自分勝手に後悔したあの日。今はもう後悔なんてひとつもありません。蛭魔の夢は蛭魔が、名前の夢は来年名前が叶えるのです。もっと強くなった王城ホワイトナイツ全員で。名前が決意の眼差しで見つめ返すと、蛭魔は少しだけ、ほんの少しだけ小さく口元を緩めました。いつもの悪魔じみた嘲笑とは違う、静かで穏やかなものでした。長い付き合いの中で、その表情は彼女が初めて見るものでした。
昨日とは打って変わっての晴天が、雲の上まで突き抜けるほど清々しく広がっておりました。いっそ白々しいまでに。江ノ島フットボールフィールドでの決戦から一夜明け、王城高校体育館にはホワイトナイツの面々が揃っていました。攻撃と守備の両面でフル出場した選手さえいるのですから練習らしい練習はありません。おこなわれているのはそう、昨日の試合を以て高校アメフトの一線から退く三年生たちの引退式です。46人の部員たちが見守るなか、前主将の大田原から新主将の進に、荘厳な部旗が手渡されます。
「ばーっはっは! お前になら安心してホワイトナイツを任せられる。頼んだぞ、進」
「はい、大田原さん」
割れるような拍手が二人を包みました。誰もが鼻声で三年生の名前を噛み締め、えずき、その度に名前がティッシュやタオルを配り回りました。猪狩が相変わらず鎖で縛られたまま男泣きするものですから、若菜が側についてあげています。鬼将軍の庄司監督も、この日ばかりは選手たちを怒鳴りつけることはありません。彼らはやりきった。わずかばかりの油断も隙も驕りもなく、誇り高く戦った。それでも負けた。言い訳の余地もありません。アメリカンフットボールにおいて、どんな努力も才能も勝利以外は等しく無価値なのですから。ただ庄司監督の瞳にもあわく光るものを見た気がして、名前は何も言いませんでした。その鈍足で投手は無理だと一度は声をかけた一方、現役時代の自分にはなかった身長という武器で戦い抜いた高見。パワーかつスピード、そして度が過ぎるまでの大らかさという唯一無二の存在で、黄金世代の抜けた無敵城塞をまとめ上げてきた大田原。中学時代から気にかけてきた二人を筆頭に、庄司監督にも言い表せない思いがあることでしょう。一度も涙を見せなかったのは、進と名前の二人だけでした。
「薄情だと思う?」
昨日の泥門戦のビデオを編集しながら、名前は振り向きもせず問いました。激闘の翌日ですから、引退式の後は自由解散となりました。筋肉を酷使した後はしっかり休まないと超回復しないことをみんなよく知っています。トレーニングルームに向かったのは進と、それを追いかけた名前くらいでした。
進はストレッチをしながら、彼女の言葉を繰り返しました。彼は決して舌が回るほうではありませんでしたし、察しがいいというわけでもありません。
「薄情、とは」
「……ごめん、野暮だった」
まるで慰められたかったような自分の言葉に吐き気がしました。因縁深い泥門との激突、そして敗北。あの春の日、神龍寺を倒すなんて大口を叩いた名前を迎え入れてくれた先輩たちの引退。そのどれもに予想以上に心根を揺さぶられていたのです。自分が戦ったわけじゃないのに、フィールドに立ったわけじゃないのに。その言葉はすんでのところで音になる前に引っ込めました。それはチームに対する侮辱に他ならないとわかっていたからです。自分をマネージャーとして、チームの一員として信頼し頼ってくれていた選手や監督への。
進は「そうか」とだけ呟いて、またストレッチを再開しました。律儀で寡黙な男です。名前は小さく笑って、彼女もノートパソコンに向き合いました。やりすぎるなと一々注意する必要もありません。肉体の限界、必要な休息、栄養管理に至るまで進の自己管理は徹底されています。いつもは大柄な選手たちで埋め尽くされているトレーニングルームには、二人分の息遣いと衣擦れ、そしてタイピング音が響いていました。
時計の長針が二周はした頃でしょうか。タオルで汗を拭く進は、背中を丸めてモニターを睨む名前の背中を眺めました。背中越しに窺えるのは、モニターに大きく映されたアイシールド21。泥門の最後のワンプレー、進が突破を許してしまった一人デビルバットダイブです。目線を上下させながら手元のノートになにかをガリガリと殴り書きしているところでした。
「……そうは思わない」
「ん?」
名前は話しかけられたことに気付き、ペンを持ったまま振り返ります。弓矢のように貫かんとする視線とすぐにかち合いました。
「すぐに敗戦と向き合い前を向く、今のお前が薄情だとは思わない」
二時間ほど前の問いかけの答えだと瞬時に名前が察したとき、同時に結ばれていた口元が弛緩しました。堪えきれず声を上げて笑う彼女に、進は「何がおかしい」と追撃をかまし、それがまた名前のツボに入りました。
「ふふ、でもやっぱり進が思ってるよりは薄情かも。司令塔蛭魔にラインの要の栗田、超高校生級キッカーのムサシがいなくなった来年の泥門は攻略しやすいかも、なんて思ったり」
「? 攻略しやすいとは断言できないが、チームの精神的支柱でもあるその三人が抜けた来年は、確かにそこが穴になるだろうな」
「あはは! そうなんだけど、ごめん言ってなかったよね。その三人とは中学が一緒でね——」
泥門デビルバッツが創部10分で練習試合を挑んできたときから、進以外のメンバーはなんとなく名前と三人の因縁を知っていたのですが、どうやら進は本当に初耳だったようです。声に明るさが戻ってきた彼女に、進はいつもの調子で時々相槌を打ちました。
試合後は安静にしているのがいいと知りながらも、居ても立っても居られないとトレーニングルームに立ち寄った長い影がありました。廊下にわずかに漏れ出る少女の声に少し笑って、桜庭は明るい部屋に足を踏み入れました。
拭うことも忘れた髪から水滴が落ちました。名前は目を逸らすこともなく、エンドゾーンに飛び込んだアイシールド21を見据えていました。
「……勝った」
信じられない現実を噛み締めるようでした。声の主が身につけているユニフォームの色は鮮やかな赤。
「泥門42対王城40! 残り時間1秒から逆転勝利——!」
観客席からの歓声がスタジアムに木霊します。それがなぜか壁を一枚隔てているように遠く聞こえました。大声で泣き叫ぶ大田原の肩に、高見がそっと手を添えました。熱狂さめやらぬグラウンドでは、両チームの選手たちが健闘を讃え合っています。かたや新進気鋭の弱小チーム、かたや黄金世代が抜けた凋落のチーム。どちらも昔の話です。攻撃最強の泥門と守備最強の王城が戦って、泥門がわずかに上回った。それだけのことです。
名前は大きく肺に息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出しました。遠く向こうから感じる視線が誰かなんて、顔を上げずともわかります。目配せひとつ、まばたきひとつで通じ合う仲だったのですから。そうでしょう?
名前は駆け寄ることはしません。蛭魔もこちらへ来る気配はありません。たった今決着がついたチーム同士が、勝ったキャプテンと負けたマネージャーがそんなことをするはずがありません。勝負にはどこまでも貪欲に、そして同じくらい誠実であるべきだと知っています。あの日二人が見たクリスマスボウルという夢。その夢を背負って蛭魔は一人進んでいくのです。否、一人ではありません。泥門デビルバッツの全員と一緒に。再戦の約束はもうありません。蛭魔たち泥門の二年生はこの秋大会で引退なのですから。
フィールドに立つ蛭魔と、ベンチに立つ名前は見つめ合っていました。どれくらいの時間だったでしょう。おそらく、中学三年生の冬、二人が別々の道を選んでから今日に至るまでの時間くらいだったはずです。そこがきっと二人の永遠だったのです。どちらも涙を流したり身振り手振りで何か伝えようとしたりはしませんでした。試合前にカフェで伝えたことがすべてです。自分はもう大丈夫だと。蛭魔のクリスマスボウルの夢に、自分の思いを託すなんて言いません。自分勝手に背を向けて、自分勝手に後悔したあの日。今はもう後悔なんてひとつもありません。蛭魔の夢は蛭魔が、名前の夢は来年名前が叶えるのです。もっと強くなった王城ホワイトナイツ全員で。名前が決意の眼差しで見つめ返すと、蛭魔は少しだけ、ほんの少しだけ小さく口元を緩めました。いつもの悪魔じみた嘲笑とは違う、静かで穏やかなものでした。長い付き合いの中で、その表情は彼女が初めて見るものでした。
昨日とは打って変わっての晴天が、雲の上まで突き抜けるほど清々しく広がっておりました。いっそ白々しいまでに。江ノ島フットボールフィールドでの決戦から一夜明け、王城高校体育館にはホワイトナイツの面々が揃っていました。攻撃と守備の両面でフル出場した選手さえいるのですから練習らしい練習はありません。おこなわれているのはそう、昨日の試合を以て高校アメフトの一線から退く三年生たちの引退式です。46人の部員たちが見守るなか、前主将の大田原から新主将の進に、荘厳な部旗が手渡されます。
「ばーっはっは! お前になら安心してホワイトナイツを任せられる。頼んだぞ、進」
「はい、大田原さん」
割れるような拍手が二人を包みました。誰もが鼻声で三年生の名前を噛み締め、えずき、その度に名前がティッシュやタオルを配り回りました。猪狩が相変わらず鎖で縛られたまま男泣きするものですから、若菜が側についてあげています。鬼将軍の庄司監督も、この日ばかりは選手たちを怒鳴りつけることはありません。彼らはやりきった。わずかばかりの油断も隙も驕りもなく、誇り高く戦った。それでも負けた。言い訳の余地もありません。アメリカンフットボールにおいて、どんな努力も才能も勝利以外は等しく無価値なのですから。ただ庄司監督の瞳にもあわく光るものを見た気がして、名前は何も言いませんでした。その鈍足で投手は無理だと一度は声をかけた一方、現役時代の自分にはなかった身長という武器で戦い抜いた高見。パワーかつスピード、そして度が過ぎるまでの大らかさという唯一無二の存在で、黄金世代の抜けた無敵城塞をまとめ上げてきた大田原。中学時代から気にかけてきた二人を筆頭に、庄司監督にも言い表せない思いがあることでしょう。一度も涙を見せなかったのは、進と名前の二人だけでした。
「薄情だと思う?」
昨日の泥門戦のビデオを編集しながら、名前は振り向きもせず問いました。激闘の翌日ですから、引退式の後は自由解散となりました。筋肉を酷使した後はしっかり休まないと超回復しないことをみんなよく知っています。トレーニングルームに向かったのは進と、それを追いかけた名前くらいでした。
進はストレッチをしながら、彼女の言葉を繰り返しました。彼は決して舌が回るほうではありませんでしたし、察しがいいというわけでもありません。
「薄情、とは」
「……ごめん、野暮だった」
まるで慰められたかったような自分の言葉に吐き気がしました。因縁深い泥門との激突、そして敗北。あの春の日、神龍寺を倒すなんて大口を叩いた名前を迎え入れてくれた先輩たちの引退。そのどれもに予想以上に心根を揺さぶられていたのです。自分が戦ったわけじゃないのに、フィールドに立ったわけじゃないのに。その言葉はすんでのところで音になる前に引っ込めました。それはチームに対する侮辱に他ならないとわかっていたからです。自分をマネージャーとして、チームの一員として信頼し頼ってくれていた選手や監督への。
進は「そうか」とだけ呟いて、またストレッチを再開しました。律儀で寡黙な男です。名前は小さく笑って、彼女もノートパソコンに向き合いました。やりすぎるなと一々注意する必要もありません。肉体の限界、必要な休息、栄養管理に至るまで進の自己管理は徹底されています。いつもは大柄な選手たちで埋め尽くされているトレーニングルームには、二人分の息遣いと衣擦れ、そしてタイピング音が響いていました。
時計の長針が二周はした頃でしょうか。タオルで汗を拭く進は、背中を丸めてモニターを睨む名前の背中を眺めました。背中越しに窺えるのは、モニターに大きく映されたアイシールド21。泥門の最後のワンプレー、進が突破を許してしまった一人デビルバットダイブです。目線を上下させながら手元のノートになにかをガリガリと殴り書きしているところでした。
「……そうは思わない」
「ん?」
名前は話しかけられたことに気付き、ペンを持ったまま振り返ります。弓矢のように貫かんとする視線とすぐにかち合いました。
「すぐに敗戦と向き合い前を向く、今のお前が薄情だとは思わない」
二時間ほど前の問いかけの答えだと瞬時に名前が察したとき、同時に結ばれていた口元が弛緩しました。堪えきれず声を上げて笑う彼女に、進は「何がおかしい」と追撃をかまし、それがまた名前のツボに入りました。
「ふふ、でもやっぱり進が思ってるよりは薄情かも。司令塔蛭魔にラインの要の栗田、超高校生級キッカーのムサシがいなくなった来年の泥門は攻略しやすいかも、なんて思ったり」
「? 攻略しやすいとは断言できないが、チームの精神的支柱でもあるその三人が抜けた来年は、確かにそこが穴になるだろうな」
「あはは! そうなんだけど、ごめん言ってなかったよね。その三人とは中学が一緒でね——」
泥門デビルバッツが創部10分で練習試合を挑んできたときから、進以外のメンバーはなんとなく名前と三人の因縁を知っていたのですが、どうやら進は本当に初耳だったようです。声に明るさが戻ってきた彼女に、進はいつもの調子で時々相槌を打ちました。
試合後は安静にしているのがいいと知りながらも、居ても立っても居られないとトレーニングルームに立ち寄った長い影がありました。廊下にわずかに漏れ出る少女の声に少し笑って、桜庭は明るい部屋に足を踏み入れました。