ジュブナイル
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その日はなんてことのない冬のよく晴れた土曜日でした。他の運動部と交替で使っているグラウンドを片付けて、そうだ、練習後には白線を引き直しておいてくれと体育教師に頼まれていたのでした。ムサシは家の大工仕事の手伝いがあるので「悪いな」と言って、ひと足先に帰りました。栗田も夕飯がお鍋だとかで、スーパーで買い物をして帰らないといけないと言っていました。「ごめんねえ」と平謝りしていましたが、名前が返事をする前に大きな腹の虫が鳴り響いたので、「いいよ、早く帰りな」と彼女は思わず笑ってしまいました。残ったのは、名前と蛭魔だけです。
蛭魔が進んで雑用をこなすはずもないのをわかっているので、彼女は特に声もかけずグラウンドの隅にある用具庫へ向かいました。お目当ての、小さなタイヤ付きの赤いライン引きを持ち上げると、見た目より軽く感じました。蓋を開けると石灰がほとんど入っておりません。パウダーの予備はどこにあるんだろうと背後を振り返ったとき、いつのまにか蛭魔が音もなく立っていました。無言で粉の詰まった袋を寄越してくるところから、一応手伝う意識はあったようです。受け取った袋の中身をライン引きにせっせと注ぎ込みます。薄暗い倉庫の中は物音だけが響いていました。名前はきっと今しかない、と思いました。
「本気でクリスマスボウルを目指すんだったら、わたしはもう着いていかれないよ」
行く気なんでしょう、神龍寺。そよぐような声でした。
名前は昔から聡い少女でした。屈んだままの彼女の背を見る蛭魔の目がすっと細くなりました。
「……いつから気付いてた」
「富士山登頂しようってときに、あえて一合目からスタートするほど蛭魔はロマンチストじゃないもんね」
まるで答えになっていませんでしたが、蛭魔にはそれだけで十分理解できました。アメフト部のある、それも設備や指導者に恵まれた、いわゆる強豪校は限られています。例えば王城に太陽、そして神龍寺。お勉強に不安のある栗田でも入れそうな偏差値、もしくは推薦や特待生制度がある高校となれば目星をつけるのは容易なことでしょう。いよいよ蛭魔たちが挑み始めるクリスマスボウルへの険しい山道を前に、名前は立ち止まりました。
立ち上がった彼女は、石灰の詰まったライン引きを押しながら倉庫の外へ出ました。そのままグラウンドに向かおうとしましたが、蛭魔が行く手を阻みました。
「同じ制服を着てなかろうがやることなんざいくらでもある。ベンチに入りたきゃあ、マネージャーだろうが主務だろうがトレーナーだろうが席は用意させる。せいぜい近くの女子校でも受けてろ」
「女人禁制の神龍寺で、関東のトップチームで今まで通りにできるとでも? 麻黄とは違うんだよ、わかってる?」
「わかってねえのはお前だ、この糞早とちり。こぉんな便利で献身的な労働力をわざわざ手放すわけねぇだろうが」
名前は蛭魔の横をすり抜けました。からからとタイヤの揺れる音がします。彼女はわかっていました。わかってしまいました。蛭魔が簡単そうに言うことが、どれほど難しく、非合理的で、彼の手を煩わせ、そして至上なまでに魅力的か。関東からクリスマスボウルへ進むのは決まって神龍寺ナーガです。グラウンドの隅っこじゃない立派なフィールドで、また三人と同じ夢を見続けられるならどれほど良いでしょう! そんな素晴らしい夢だから、だけど、だから。
白線を引き終えた名前は持っていたライン引きをグラウンドの隅に置いて、代わりに自分のカバンを手にしました。辺りはすっかり暗くなっています。陽の沈む時刻は日に日に早くなっていきます。時計の針は前にしか進みません。冷たく頬を撫でる風が、それを突きつけてくるようです。蛭魔はつり上がった目を見開きます。砂埃に髪を遊ばせる名前の目は、億の言葉よりも雄弁でした。言葉にしないことが必ずしも万能な美徳とは限りません。が、この二人の間には確固たる何かを共有していました。時間? 夢? 境遇? ——そのどれも言い表すには適切ではありません。ただ、まるで同じ川のせせらぎに足を浸けているような感覚があるのみです。
自分のやってきたことは、誰にでもできることだった。名前はそう振り返ります。頭脳も、パワーも、キック力もありません。スピードもキャッチ力もスタミナもテクニックもガッツもカリスマ性も知識も経験も器用さも度胸も愛嬌も。
ただ名前のしたことといえば、あの日クラスメイトの背中を、同じ夕焼けを見ていただけでした。それがあんまりに綺麗だったから、つい勘違いしてここまで来てしまった。今はすっかり作りもののように染められている金色に、彼女はぼんやりとあの日の夕焼けを重ねました。眩しくて――
「さようなら、蛭魔くん」
それは決別の言葉でした。名前はわかっていました。わかっていました。一度蛭魔のところから去るとなれば、彼は追ってこないだろうと。もう二度と戻ることもないだろうと。許されることも。わかっているから、思いっきり走り出しました。頭の片隅、どこか冷静な部分の自分が冷ややかに憐れんでいます。学校を飛び出して家まで走る道のり、その視界に映るすべてに彼との記憶がありました。四人でランニングした川沿いの桜並木。練習帰りにアイスを買ったコンビニ。助っ人だらけの練習試合でぼこぼこにされた日に使っていたバス停。ルールブックや指南書を勧めあった本屋。奥歯を噛み締めるあまり、歯に当たって口内の粘膜も痛みはじめました。眼球と眼窩のあいだから熱い泉が湧き出すような感覚がしてきます。骨の髄の奥から溢れたものはまぶたの裏をぐるりと伝って、しまいには名前の頬を濡らしました。
この五年間、アメフトと蛭魔と出会ったあの日からこの街は本当に輝いていました。一人で小さな好奇心を満たしていた寂しい少女の手を引いて、新しい世界に引っ張り上げたのはあの出会いでした。クラスでおしゃべりするのともたった一人のお母さんとも違う存在。蛭魔は、栗田やムサシは、溝六だって、名前の新しい居場所でした。友達とは少し違います。気恥ずかしくも「仲間」と呼べる得難い大切な存在でした。大事で大切で夢を叶えてほしくて、名前は何だって協力してきました。だからそう、最後には邪魔になった自分を切り捨てた。それだけの話です。こもる熱でぼうっとする視界に、四人でいた頃のまばろしが揺れて消えました。名前がいつもの癖でななめ上を見上げても、そこには誰もいませんでした。
蛭魔が進んで雑用をこなすはずもないのをわかっているので、彼女は特に声もかけずグラウンドの隅にある用具庫へ向かいました。お目当ての、小さなタイヤ付きの赤いライン引きを持ち上げると、見た目より軽く感じました。蓋を開けると石灰がほとんど入っておりません。パウダーの予備はどこにあるんだろうと背後を振り返ったとき、いつのまにか蛭魔が音もなく立っていました。無言で粉の詰まった袋を寄越してくるところから、一応手伝う意識はあったようです。受け取った袋の中身をライン引きにせっせと注ぎ込みます。薄暗い倉庫の中は物音だけが響いていました。名前はきっと今しかない、と思いました。
「本気でクリスマスボウルを目指すんだったら、わたしはもう着いていかれないよ」
行く気なんでしょう、神龍寺。そよぐような声でした。
名前は昔から聡い少女でした。屈んだままの彼女の背を見る蛭魔の目がすっと細くなりました。
「……いつから気付いてた」
「富士山登頂しようってときに、あえて一合目からスタートするほど蛭魔はロマンチストじゃないもんね」
まるで答えになっていませんでしたが、蛭魔にはそれだけで十分理解できました。アメフト部のある、それも設備や指導者に恵まれた、いわゆる強豪校は限られています。例えば王城に太陽、そして神龍寺。お勉強に不安のある栗田でも入れそうな偏差値、もしくは推薦や特待生制度がある高校となれば目星をつけるのは容易なことでしょう。いよいよ蛭魔たちが挑み始めるクリスマスボウルへの険しい山道を前に、名前は立ち止まりました。
立ち上がった彼女は、石灰の詰まったライン引きを押しながら倉庫の外へ出ました。そのままグラウンドに向かおうとしましたが、蛭魔が行く手を阻みました。
「同じ制服を着てなかろうがやることなんざいくらでもある。ベンチに入りたきゃあ、マネージャーだろうが主務だろうがトレーナーだろうが席は用意させる。せいぜい近くの女子校でも受けてろ」
「女人禁制の神龍寺で、関東のトップチームで今まで通りにできるとでも? 麻黄とは違うんだよ、わかってる?」
「わかってねえのはお前だ、この糞早とちり。こぉんな便利で献身的な労働力をわざわざ手放すわけねぇだろうが」
名前は蛭魔の横をすり抜けました。からからとタイヤの揺れる音がします。彼女はわかっていました。わかってしまいました。蛭魔が簡単そうに言うことが、どれほど難しく、非合理的で、彼の手を煩わせ、そして至上なまでに魅力的か。関東からクリスマスボウルへ進むのは決まって神龍寺ナーガです。グラウンドの隅っこじゃない立派なフィールドで、また三人と同じ夢を見続けられるならどれほど良いでしょう! そんな素晴らしい夢だから、だけど、だから。
白線を引き終えた名前は持っていたライン引きをグラウンドの隅に置いて、代わりに自分のカバンを手にしました。辺りはすっかり暗くなっています。陽の沈む時刻は日に日に早くなっていきます。時計の針は前にしか進みません。冷たく頬を撫でる風が、それを突きつけてくるようです。蛭魔はつり上がった目を見開きます。砂埃に髪を遊ばせる名前の目は、億の言葉よりも雄弁でした。言葉にしないことが必ずしも万能な美徳とは限りません。が、この二人の間には確固たる何かを共有していました。時間? 夢? 境遇? ——そのどれも言い表すには適切ではありません。ただ、まるで同じ川のせせらぎに足を浸けているような感覚があるのみです。
自分のやってきたことは、誰にでもできることだった。名前はそう振り返ります。頭脳も、パワーも、キック力もありません。スピードもキャッチ力もスタミナもテクニックもガッツもカリスマ性も知識も経験も器用さも度胸も愛嬌も。
ただ名前のしたことといえば、あの日クラスメイトの背中を、同じ夕焼けを見ていただけでした。それがあんまりに綺麗だったから、つい勘違いしてここまで来てしまった。今はすっかり作りもののように染められている金色に、彼女はぼんやりとあの日の夕焼けを重ねました。眩しくて――
「さようなら、蛭魔くん」
それは決別の言葉でした。名前はわかっていました。わかっていました。一度蛭魔のところから去るとなれば、彼は追ってこないだろうと。もう二度と戻ることもないだろうと。許されることも。わかっているから、思いっきり走り出しました。頭の片隅、どこか冷静な部分の自分が冷ややかに憐れんでいます。学校を飛び出して家まで走る道のり、その視界に映るすべてに彼との記憶がありました。四人でランニングした川沿いの桜並木。練習帰りにアイスを買ったコンビニ。助っ人だらけの練習試合でぼこぼこにされた日に使っていたバス停。ルールブックや指南書を勧めあった本屋。奥歯を噛み締めるあまり、歯に当たって口内の粘膜も痛みはじめました。眼球と眼窩のあいだから熱い泉が湧き出すような感覚がしてきます。骨の髄の奥から溢れたものはまぶたの裏をぐるりと伝って、しまいには名前の頬を濡らしました。
この五年間、アメフトと蛭魔と出会ったあの日からこの街は本当に輝いていました。一人で小さな好奇心を満たしていた寂しい少女の手を引いて、新しい世界に引っ張り上げたのはあの出会いでした。クラスでおしゃべりするのともたった一人のお母さんとも違う存在。蛭魔は、栗田やムサシは、溝六だって、名前の新しい居場所でした。友達とは少し違います。気恥ずかしくも「仲間」と呼べる得難い大切な存在でした。大事で大切で夢を叶えてほしくて、名前は何だって協力してきました。だからそう、最後には邪魔になった自分を切り捨てた。それだけの話です。こもる熱でぼうっとする視界に、四人でいた頃のまばろしが揺れて消えました。名前がいつもの癖でななめ上を見上げても、そこには誰もいませんでした。