ピグマリオン
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フィレンツェのアルノ川を超えた先、サント・スピリト広場周辺は下町情緒の残る街並みが広がっていた。点在する飲食店のうちのひとつ、工場をリメイクしたというバールは地元の人間で程よく賑わっている。名前は馴染みのバリスタからコニャックのカフェ・コレットを受け取った。エスプレッソを立ち飲みしたらすぐ出ていくスタイルのよくあるバールと違って、ゆっくり寛げるのが彼女のお気に入りだった。
観光客の多くない地域で東洋系の名前は初めこそ浮いていたが、何度も通ううちに店員も常連客も慣れていった。職業柄彼女が違和感のないイタリア語を使うというのもそれを手伝っただろう。今や英語で話しかけられていた頃が懐かしい。
今夜、そんな名前よりも際立って目立つ存在が、奥のテーブル席を陣取っている。給仕係に「彼、ボーイフレンド?」と苦笑いで話しかけられると「ビジネスの相手」とだけ返した。
名前が席に近づくと、いささか存在感を放ちすぎているビジネスの相手、S・スクアーロは「遅えぞぉ」と唸った。以前も感じていたが、この人に暗殺とか隠密とかできるのだろうかと名前は少しおかしくなりながら、手前の椅子に腰を下ろした。
「お前の処遇は聞いた。どうして今すぐウチに来ねぇ。ボスさんに惚れたんじゃなかったのかぁ」
「初めてのルーヴルは14の頃だった。パリに住みたいと思うくらいには心を動かされたけど、モナ・リザと結婚したいとは思わなかった。違う?」
「言い得て妙だが、あれが額縁の中で微笑んでるような男に見えるかぁ?」
「例えに決まってる」
名前はくすくす笑った。スクアーロは顔に出さず、少しばかり驚愕した。初めて会ったばかりの顰めっ面が嘘のようだ。おそらく学院から解放されたから――ではない。運良くボンゴレに拾われたからでも、スクアーロに心を許したからでもない。彼女を変えたのはきっとアイツか、アイツだ。すべてを奪い去った憤怒の大男か、すべてを包み込む純朴な子どもか。他の六属性と比べて段違いに希少性の高い大空の素質は、それだけで特別な何かを持っていると思わされる。
スクアーロの心境を知りもせず、名前はカフェ・コレットを啜った。これを飲むと一日の終わりを感じられる。
「助けられたとは思ってないよ。むしろ学院に乗り込んできたときは、これ以上負傷者を出さないように動いてる私の努力を無駄にする気かと正気を疑った」
「悪かったなぁ!」
「でも、うーん。なんだろう」
名前はカップを両手で覆った。じんわりと指先に熱が伝わる感覚は、彼女の名状しがたい気持ちに似ていた。以前もそうだった。戦況を正確に察る冴えた思考回路も、この男を前にすると迷走することがある。
この現象に、感情につけるべき名前を名前はいまだ探している。犬種の名称を知らなければ、一匹一匹を見分けることは難しいだろう。植物の名前を知らなければ、草原に広がるのはみな雑草になってしまう。ただ今回、強いて言えることがあるとするならば。
「そう、学院長室の扉を壊してくれたのがスクアーロでよかった」
「……扉だぁ?」
張本人はいまいちピンときていないようだったが、反対に名前はすっきりしていた。これでいいのだとも思う。勝手に奪われて、勝手に救われて、勝手に感謝を感じていれば。少々不服そうなスクアーロを前にして、自分も勝手に誰かを助けられるようになりたいと彼女は思った。任務でも依頼でもなく、何かをしたいと感じたのは久しぶりだったが、これも次第に慣れるだろうという直感があった。カーテンコールは終わった。幕を閉じた以上、彼女はひとりで歩き出さなくてはならないのだ。生活は続く。
観光客の多くない地域で東洋系の名前は初めこそ浮いていたが、何度も通ううちに店員も常連客も慣れていった。職業柄彼女が違和感のないイタリア語を使うというのもそれを手伝っただろう。今や英語で話しかけられていた頃が懐かしい。
今夜、そんな名前よりも際立って目立つ存在が、奥のテーブル席を陣取っている。給仕係に「彼、ボーイフレンド?」と苦笑いで話しかけられると「ビジネスの相手」とだけ返した。
名前が席に近づくと、いささか存在感を放ちすぎているビジネスの相手、S・スクアーロは「遅えぞぉ」と唸った。以前も感じていたが、この人に暗殺とか隠密とかできるのだろうかと名前は少しおかしくなりながら、手前の椅子に腰を下ろした。
「お前の処遇は聞いた。どうして今すぐウチに来ねぇ。ボスさんに惚れたんじゃなかったのかぁ」
「初めてのルーヴルは14の頃だった。パリに住みたいと思うくらいには心を動かされたけど、モナ・リザと結婚したいとは思わなかった。違う?」
「言い得て妙だが、あれが額縁の中で微笑んでるような男に見えるかぁ?」
「例えに決まってる」
名前はくすくす笑った。スクアーロは顔に出さず、少しばかり驚愕した。初めて会ったばかりの顰めっ面が嘘のようだ。おそらく学院から解放されたから――ではない。運良くボンゴレに拾われたからでも、スクアーロに心を許したからでもない。彼女を変えたのはきっとアイツか、アイツだ。すべてを奪い去った憤怒の大男か、すべてを包み込む純朴な子どもか。他の六属性と比べて段違いに希少性の高い大空の素質は、それだけで特別な何かを持っていると思わされる。
スクアーロの心境を知りもせず、名前はカフェ・コレットを啜った。これを飲むと一日の終わりを感じられる。
「助けられたとは思ってないよ。むしろ学院に乗り込んできたときは、これ以上負傷者を出さないように動いてる私の努力を無駄にする気かと正気を疑った」
「悪かったなぁ!」
「でも、うーん。なんだろう」
名前はカップを両手で覆った。じんわりと指先に熱が伝わる感覚は、彼女の名状しがたい気持ちに似ていた。以前もそうだった。戦況を正確に察る冴えた思考回路も、この男を前にすると迷走することがある。
この現象に、感情につけるべき名前を名前はいまだ探している。犬種の名称を知らなければ、一匹一匹を見分けることは難しいだろう。植物の名前を知らなければ、草原に広がるのはみな雑草になってしまう。ただ今回、強いて言えることがあるとするならば。
「そう、学院長室の扉を壊してくれたのがスクアーロでよかった」
「……扉だぁ?」
張本人はいまいちピンときていないようだったが、反対に名前はすっきりしていた。これでいいのだとも思う。勝手に奪われて、勝手に救われて、勝手に感謝を感じていれば。少々不服そうなスクアーロを前にして、自分も勝手に誰かを助けられるようになりたいと彼女は思った。任務でも依頼でもなく、何かをしたいと感じたのは久しぶりだったが、これも次第に慣れるだろうという直感があった。カーテンコールは終わった。幕を閉じた以上、彼女はひとりで歩き出さなくてはならないのだ。生活は続く。
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