短編
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依頼を終えた帰り道、20時半。名前さんのアパートを思い出したのは、貰った合鍵を使いたかったからだ。ありきたりな鉄の凹凸を意識するたび、手のひらがむず痒くなると同時に、もっとしっかりしたとこ住んでくれたら俺も安心なんだけどな、と思う。
このご時世、女ならきっと立地もセキュリティも設備も、もっと良いとこを選べる。なのに彼女はイケブクロ駅から徒歩15分ほどの、築が浅くないアパートに住み続けている。いつから住んでいるのかはよく知らない。
『今から家行っていいすか』
そうメッセージを送った後に、なんか有無を言わせない感じになってしまったと反省した。
しかしそれは杞憂だったようで、十数分後にスマホが光った。ゆるいタッチの芝犬がお手をしているスタンプだった。
胸を撫で下ろして弟たちに帰りが遅くなる旨を連絡した。
*
「お邪魔しまーす……」
俺の緊張を裏切るように、鍵はあっさり回った。そりゃ当然なんだけど。スリリングに見えたジェットコースターに乗ってみたら実際は大したことなかったみたいな、そんな感じ。
ドアを開けて最初に思ったのは「すげー匂い」だった。依頼終わって軽く食べたはずなのに胃袋が急激に主張を始めた。
なんだっけな、ちょっと独特な鶏の匂い。……あーあれだ。「すぐおいしい、すごくおいしい」でお馴染みの即席ラーメン。頭の中をヒヨコが駆け抜けていった。
俺のスニーカーに並んだ、ふた回りも小さい紺のヒールがへたってるように見えた。気のせいかもしれない。
大して広くない部屋の中心に置かれたローテーブル。くすんだ水色のクッション。
目当ての人の定位置は空いていた。代わりとでも言うように、プラスティック製のどんぶりがテーブルに置き去りにされていた。卵が落とされた細麺。手をつけた様子はない。
「名前さん」
家の主は角で体育座りをしていた。後ろと右の壁に身体を預けて。埋めるように。埋まるように。フローリングに転がったスマホには、俺とのトーク画面が表示されていた。どきっとした。
名前さんが口の動きだけで「いちろう」と言ったのが分かった。
俺はこぶしひとつ分空けて、彼女の横に腰を下ろした。
「小さい頃ね、母が即席ラーメンを作ってくれたの。そ、ヒヨコのやつ。わたし嬉しくって、お盆に乗せてテーブルまで運んでたんだけどね、手が滑ってひっくり返しちゃったの。わざとじゃないよ。本当に嬉しくて、いい匂いで、たまごがつやつやして美味しそうで…………。本当に、ほんとうに食べたかったの。でもダメにしちゃった。
母は怒らなかったよ。一緒に床を掃除した。そんで一人分のラーメンを分け合いっこしたの。それだけ。でも、それ以来母があのラーメンを買ってくることはなかった。それっきり今になるまで食べたことなくて、だから、つまりちゃんと食べたことはないってことなのね。
わたし、あのときよりは大人になって、こんなことほとんど忘れてたの。そういえばそんなことあったな、って。食べてみたいなって。…………だめだった。食べられなかった。
変だよね。嫌な思い出ってわけでもないのに、いや、嫌と言えば嫌なのかもしれないけど、そんな、大したことない。たいしたことないのにね…………」
そこまでぽつぽつと吐き出して、名前さんは黙った。
最初はかすれ気味だった声が段々湿り気を増していくのを、やはりこぶしひとつ分向こうで聞いていた。名前さんがもたれかかるのは変わらずありきたりな薄い壁だった。
狭い部屋を見渡した。缶や瓶は見当たらない。アルコールの匂いもしない。それは、もしかしたらラーメンの匂いに負けてしまったのかもしれないけど。
こういうときこそ酒を言い訳にすればいいのに、と思う。わかってる。言い訳できないから苦しんでいる。
合鍵を渡すのはなんでもないような顔でやってのけたクセに、隣の男に体重を預けることができないんだ。このひとは。
「…………夕飯食べた?」
「依頼終わりに軽く食べました」
「……そっか。ごめんね、こんな、どうでもいい話して」
「名前さんがメシ食べられなくなるような話が、どうでもいいわけねえだろ」
「うそ。しょうもない女だって思ってる。こんなことでうじうじして、甘ったれだって」
「思ってねえって」
「わたしは思ってる。い、一郎も、急に来るのがわるいんだからね。もっと前からわかってたらわたしだって、もっとちゃんと……」
「名前さん」
まどろっこしいのは結局どうも苦手で、名前さんの両肩を掴んで半ば無理やりに顔を合わせた。触れた肩が薄すぎてすぐに力が抜けたのは格好つかない話だった。
「そりゃ外でヒール履いてキメてさ、頑張ってるあんたも好きだけど……この部屋の、こういう名前さんも見たかったよ。俺」
だから合鍵くれたんじゃねえの。
そう付け足した。俺の方こそ、彼女を言い訳にしている気がする。歳上というのを差し引いてもこの人の前じゃボロが出る。
ぱちくりと擬音がつきそうなほど丸い目をもっと丸くして、名前さんは色が乗っていない唇を開いた。
「一郎って、なんていうか……」
「……なんすか」
「もっとこわいひとだと思ってた」
「え゛ッ! マジか」
「怖いっていうか……バチバチみたいな……?」
自分の振る舞いを振り返ったが、「怖い」「バチバチ」がラップバトルを指しているのならまだ安心だ。この人の前でそういう荒事や喧嘩を思わせるそぶりをしていないのであれば。
それでも、彼女が自分でも消化しきれない内側を吐き出してくれたくらいで、それに怒ったり叱ったり幻滅したり、そういう風に見られていたのだろうか。
きっと足りないのは歳や経験値だけじゃない。もっとこの人のことが知りたいと思った。
とりあえずこの後は二人で伸び切ってるであろうラーメンを分け合って。それから、ブクロには何年くらい住んでるのかとか、いつも履いてるヒールそろそろ限界なんじゃねえかとか、いつかこの部屋を出る気はないかとか、そういうことを聞きたいと思う。
このご時世、女ならきっと立地もセキュリティも設備も、もっと良いとこを選べる。なのに彼女はイケブクロ駅から徒歩15分ほどの、築が浅くないアパートに住み続けている。いつから住んでいるのかはよく知らない。
『今から家行っていいすか』
そうメッセージを送った後に、なんか有無を言わせない感じになってしまったと反省した。
しかしそれは杞憂だったようで、十数分後にスマホが光った。ゆるいタッチの芝犬がお手をしているスタンプだった。
胸を撫で下ろして弟たちに帰りが遅くなる旨を連絡した。
*
「お邪魔しまーす……」
俺の緊張を裏切るように、鍵はあっさり回った。そりゃ当然なんだけど。スリリングに見えたジェットコースターに乗ってみたら実際は大したことなかったみたいな、そんな感じ。
ドアを開けて最初に思ったのは「すげー匂い」だった。依頼終わって軽く食べたはずなのに胃袋が急激に主張を始めた。
なんだっけな、ちょっと独特な鶏の匂い。……あーあれだ。「すぐおいしい、すごくおいしい」でお馴染みの即席ラーメン。頭の中をヒヨコが駆け抜けていった。
俺のスニーカーに並んだ、ふた回りも小さい紺のヒールがへたってるように見えた。気のせいかもしれない。
大して広くない部屋の中心に置かれたローテーブル。くすんだ水色のクッション。
目当ての人の定位置は空いていた。代わりとでも言うように、プラスティック製のどんぶりがテーブルに置き去りにされていた。卵が落とされた細麺。手をつけた様子はない。
「名前さん」
家の主は角で体育座りをしていた。後ろと右の壁に身体を預けて。埋めるように。埋まるように。フローリングに転がったスマホには、俺とのトーク画面が表示されていた。どきっとした。
名前さんが口の動きだけで「いちろう」と言ったのが分かった。
俺はこぶしひとつ分空けて、彼女の横に腰を下ろした。
「小さい頃ね、母が即席ラーメンを作ってくれたの。そ、ヒヨコのやつ。わたし嬉しくって、お盆に乗せてテーブルまで運んでたんだけどね、手が滑ってひっくり返しちゃったの。わざとじゃないよ。本当に嬉しくて、いい匂いで、たまごがつやつやして美味しそうで…………。本当に、ほんとうに食べたかったの。でもダメにしちゃった。
母は怒らなかったよ。一緒に床を掃除した。そんで一人分のラーメンを分け合いっこしたの。それだけ。でも、それ以来母があのラーメンを買ってくることはなかった。それっきり今になるまで食べたことなくて、だから、つまりちゃんと食べたことはないってことなのね。
わたし、あのときよりは大人になって、こんなことほとんど忘れてたの。そういえばそんなことあったな、って。食べてみたいなって。…………だめだった。食べられなかった。
変だよね。嫌な思い出ってわけでもないのに、いや、嫌と言えば嫌なのかもしれないけど、そんな、大したことない。たいしたことないのにね…………」
そこまでぽつぽつと吐き出して、名前さんは黙った。
最初はかすれ気味だった声が段々湿り気を増していくのを、やはりこぶしひとつ分向こうで聞いていた。名前さんがもたれかかるのは変わらずありきたりな薄い壁だった。
狭い部屋を見渡した。缶や瓶は見当たらない。アルコールの匂いもしない。それは、もしかしたらラーメンの匂いに負けてしまったのかもしれないけど。
こういうときこそ酒を言い訳にすればいいのに、と思う。わかってる。言い訳できないから苦しんでいる。
合鍵を渡すのはなんでもないような顔でやってのけたクセに、隣の男に体重を預けることができないんだ。このひとは。
「…………夕飯食べた?」
「依頼終わりに軽く食べました」
「……そっか。ごめんね、こんな、どうでもいい話して」
「名前さんがメシ食べられなくなるような話が、どうでもいいわけねえだろ」
「うそ。しょうもない女だって思ってる。こんなことでうじうじして、甘ったれだって」
「思ってねえって」
「わたしは思ってる。い、一郎も、急に来るのがわるいんだからね。もっと前からわかってたらわたしだって、もっとちゃんと……」
「名前さん」
まどろっこしいのは結局どうも苦手で、名前さんの両肩を掴んで半ば無理やりに顔を合わせた。触れた肩が薄すぎてすぐに力が抜けたのは格好つかない話だった。
「そりゃ外でヒール履いてキメてさ、頑張ってるあんたも好きだけど……この部屋の、こういう名前さんも見たかったよ。俺」
だから合鍵くれたんじゃねえの。
そう付け足した。俺の方こそ、彼女を言い訳にしている気がする。歳上というのを差し引いてもこの人の前じゃボロが出る。
ぱちくりと擬音がつきそうなほど丸い目をもっと丸くして、名前さんは色が乗っていない唇を開いた。
「一郎って、なんていうか……」
「……なんすか」
「もっとこわいひとだと思ってた」
「え゛ッ! マジか」
「怖いっていうか……バチバチみたいな……?」
自分の振る舞いを振り返ったが、「怖い」「バチバチ」がラップバトルを指しているのならまだ安心だ。この人の前でそういう荒事や喧嘩を思わせるそぶりをしていないのであれば。
それでも、彼女が自分でも消化しきれない内側を吐き出してくれたくらいで、それに怒ったり叱ったり幻滅したり、そういう風に見られていたのだろうか。
きっと足りないのは歳や経験値だけじゃない。もっとこの人のことが知りたいと思った。
とりあえずこの後は二人で伸び切ってるであろうラーメンを分け合って。それから、ブクロには何年くらい住んでるのかとか、いつも履いてるヒールそろそろ限界なんじゃねえかとか、いつかこの部屋を出る気はないかとか、そういうことを聞きたいと思う。
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