最初の子守唄
* * * * *
「…………あれ?……なんか変…?」
ここ数日、仙洞宮の辺りをずっと探し回っていた鬼姫は一度遠くから観察する為に高い屋根に身軽に駆け上がった。
楼閣が建ち並ぶ見事な庭院を眺めながら仙洞宮の敷地内をじっくりとみやった。回廊に人の往来があるのは当然だ。今は昼間で多くの官吏が朝廷で働いている。庭院の建ち並ぶ楼閣は侍女や下官が毎日清掃をしている。中央の大きな楼閣は建国されてから祭られている大事な物があるらしい。扉が開いたところを見たことは一度もないが。鬼姫が不思議に思ったのはまさに庭院の楼閣だった。いつものように掃除を行っていく侍女や下官が一つの楼閣には一切手を付けずに仕事を終えたというように帰ってしまった。
割と統率の取れている仙洞宮で珍しい光景だった。
誰も居なくなった庭院先に降りて、近づこうとしたが何となく様子を見ようと塀の上に上がった。
……ここら辺は縹家の縄張りだけど……、まさか、瑤璇は縹家の関係者に想いを寄せてたりする?
それなら、頑なに口を割らない理由がわかる。つい先日、強い異能の力を持つ薔薇姫を暗殺するという作戦を失敗していた。
ふと鬼姫はあの時のことを思い出した。あの時、暗殺対象だった薔薇姫にあの子を助けてと、ここから連れ出して欲しいと乞われた。
そんな情報はなかったし誰のことを言っていたのかわからないが、もしそれが本当ならばあの縹家が二人も仙人を囲っていてなにもしないとは考えにくい。ならば、もう一人はつい最近捕まえたということにならないだろうか。
「……まあ、それは羽羽様の調査待ちだし…。今は重要な任務中っと……ん?」
そんなことを考えていれば、鬼姫は楼閣のてっぺんの窓が空いているのに気がついた。
一方、その頃王の執務室では――――。
サラサラと料紙の上を筆が走る音だけが響いていた。霄は珍しいこともあるものだなと感心するよりも、その後なにかトンデモないことを言い出すのではないかといくつか思いつきそうなことを考えながら仕事をしていた。
「―――私はこの書類を届けに行ってまいります」
「ああ。――霄よ。まとめておけと頼んでおいた物はどこだ」
「…………こちらに、ありますが」
「寄越せ。目を通す」
宋は羽林軍の方に呼ばれて顔を出している。茶は今しがた工部に重要書類を届けに出て行った。いつもたらたらと文句ばかり言うあの主上が素直に仕事をしている。
よくよく考えて見ればこの状況はおかしい。いや、おかしい。
書翰に目を落としながら宙に留まる掌が仕事を催促するようにヒラヒラと舞う。
「…………ん?……おい、まだか」
戩華が顔を上げれば怪しむように見ている霄と視線がかち合った。
「なにか言いたげだな」
「…………主上、なにか拾い食いでもしましたか?」
「あ?お前は俺のことをなんだと思ってるんだ」
「……あまりにも真面目に仕事をされているので……」
「…………俺はいつも真面目に仕事しているだろうが」
霄はそう言った戩華をじっと観察した。真面目に仕事してくれるのは有難いことだ。だが、突拍子もないことを突然言い出し困らせてくれる王は現在進行形でなにか企んでいるに違いがなかった。
ずっと疑いの目を向けてくる霄に呆れたように息を吐いて宙に浮いた手を下ろした。
「………………」
未だに疑う霄はふと室内の気配に気がつく。戩華と二人だけの室内に風の狼に招集をかけるように手を上げるとどこらともなく黒装飾を纏った人がゾロりと揃った。しかし、一人居ない。
「―――まさかっ!?」
血相を変えて執務室を飛び出す霄を舌打ちをしながら戩華も追いかけた。
鬼姫は窓の空いてる楼閣に入って行った。静かに階段を上がり一番上まで来れば、窓の空いていた室だ。鬼姫はそのまま上がり切らず手摺りの隙間から室内を伺った。
室には寝台と簡易な卓しかなかったが、開け放たれた窓から外を呆然と眺める薄い桃色の髪を靡かせる幼女が居ただけだった。
鬼姫は警戒されないように黒い覆面を取った。
「……こんにちは」
意識して柔らかく声をかければ、その幼女は振り返る。
生気のない瞳が鬼姫を見つめた。その様相には覚えがあった。縹家の殺人人形だ。しかし、その幼女からは殺意や敵意は感じられなかった。それよりも、もっと近い雰囲気を知っている気がする。
「……ねぇ、キミのお名前は?」
「…………」
「…どこから来たの?」
「…………」
「ねぇ、もしかして薔薇姫と一緒に居た?」
薔薇姫という名前に幼女の身体が少し反応した。
「…………キミの母親は、薔薇姫?」
「………………は…は………」
小さく声を零して虚ろな目から涙が溢れ落ちた。
突然泣き出した殺人人形の幼女に慌てた鬼姫はどうしようかとわたわたと迷った挙句そっと抱き寄せて優しく宥めた。柔らかな髪を撫でながらありきたりな子守唄を口にしていた。
「……………………。―――♫♪〜」
すると、幼女も歌い出した。これ以上ないと思えるほどの綺麗な歌声に包まれて行く。幼子の顔を見ようと覗くと、虚ろな吸い込まれそうな瞳と目が合った。
瞬間――ぞくりと背筋が寒気立つ。
――これはダメだ。本能的にそう思った。これはここで始末しないとダメな気がする。そう思うと腰にさしてある短剣に手を伸ばせば、バタンっと扉が開く音が聞こえれば下からけたたましく階段を駆け上がる音が大きくなる。
「――止めてくださいっ!」
突然入って来た霄の声と同時に幼女は気を失うように倒れた。
咄嗟に鬼姫がその小さな身体を支えると駆け寄ってきた霄が鬼姫の腕から幼女を取り上げた。すぐに幼女の顔を覗いた。
……眠った……か…。少し安堵の息を漏らすと泣いたであろう目元をあまりハリのない指先で優しく拭った。
心配そうに気を失った幼女を見つめる霄を有り得ないものを見てしまったように鬼姫は固まっていた。
後からついて来た戩華も衝撃を受けたが、異常な光景の説明を求めた。
「…………どうしたんだ、それは」
「…………………………拾ったんです……」
「縹家の者か」
「断じて、違います」
「なら、薔薇姫の子?」
「違う」
「いつ拾ったんだ?」
「…………」
「言え」
「……………………わ、私の孫娘です……」
紛うことなき嘘。
疑う余地のない苦しすぎる主張に鬼姫も戩華も呆れたように息を吐いた。
「…………いや、キミさ。いろいろ飛ばし過ぎじゃない?」
「結婚もしてなければ、子供も居ないだろうが」
「この世には不思議なこともあります!なら、突然孫娘が出来ることもありましょう!」
「ないよっ!」
「無理だろ。阿呆か」
「いちいち、人の言ったことにケチ付けないでくださいっ!」
わちゃわちゃと話していると気を失ったはずの幼女がムクリと起きた。
騒いでいる三人を見渡し抱き上げている霄に目を止めると、ギュッと抱きついてくる幼女に霄は心臓を掴まれた。
「…………お前、まさか」
「……流石に、その趣味は犯罪だと思うよ。瑤璇…」
「――主上!私、今日は早退します!」
鬼姫と戩華からなんとか逃げて、場所を禁苑の楼閣に移した。
人払いの結界を張りひとまず息を抜いた。
見つかってしまった。もうここには隠しておけないからな……どこか適当な場所に邸でも用意するか……。
そんなことを考えながら自分の足にしがみつく幼女を抱き上げた。指を鳴らして椅子をどこからともなく出現させるとそこに座らせた。深い夜を切り取ったような瞳がただ霄を瞳に捉えていた。
「……西華の君…、先ほどはびっくりしましたか?怖かったですか?」
「………………」
泣いたというなら少しは感情が戻って来たかと思ったが、幼女はなにも答えなかった。
自然と感情を戻るようにしたかったが、なにかが引っかかっているのは明白だった。
その原因を取り除けば…。
じっと見上げてくる幼女の頭にハリのある若々しい手を置いた。
「……西華の君。申し訳ございません、少し目を閉じていただけますか?」
そう言うと、素直に瞼を閉じた。
小さな温もりからほわりと淡く光ると静かな時間が二人を包んだ。
「……………………」
……だから、あんな願いを言ったのか。
よくもまあ、嗅ぎ付けたもんだ。怒りを顕にする霄の空気を察してか手の中にある小さな頭が震えた。
霄はなるべく優しく小さな頭を撫でた。
目を瞑ったままの潤月にそっと告げる。
「…………私が代わりに覚えていましょう。今のあなたには、重すぎる記憶です。あなたの母君はあなたが健やかにこの生涯を過ごすことを願っております。寝て起きたら、たくさんお話をしましょう」
「…………」
「……少し、失礼します」
* * * * *
目を開けた幼女がモゾリと起き上がった。
「――おはようございます」
「…………?」
ぱちくりと星空を切り取ったような瞳を瞬かせて皺々な人物を見つめた。
「……ぉ、はうま、す……………?」
上手く喋れなかったが、自分の真似をして喋ったことに霄は感動を覚えて身悶えた。
「………………………可愛い……」
「……?……かぁ、い……?」
それから霄はおしゃべりをしながらたくさんのことを幼女に教えた。
そして、一番大事なことも。
「――貴女の名前は潤月です。性は………楊、でしょうな」
「あ―たたの、まえはじゅき?」
「違います。な、ま、え。潤月はあなたです。私は……じ、爺とでも呼んてください」
小首を傾げたあと口の中をもごもごとさせながら確かめるように繰り返し自分と霄を交互に指さした。
「…………じゅき?」
「ええ、そうですよ」
「……じいじ?」
「……はい」
「―じいじ!」
「…はい、なんでしょう?潤月様」
「――あい!」
まだ歳相応の言語能力はないが日増しに元気になる潤月に安堵を覚え、このまま無邪気に生涯を終えることを願った。
悲しみなんぞ、知らなくても良い。
恐怖なんぞ、知らなくても良い。
嫌悪なんぞ、知らなくても良い。
そんな醜い感情は貴女には要らない。純粋で純真無垢だからこその西華なのだから――。
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