最初の子守唄
幼女を縹家から連れ出してから、霄は執務室の仮眠室に幼女を寝かせ誰も来れないように人払いの結界を張った。
天界と連絡を取りたかったが、行くには肉体を持っては行けない。魂のみの生身でなければ天界へ通じる扉は開かないのだ。この肉体から生身になれば、使っているこの肉体はすぐに腐敗が始まって使い物にならなくなるだろう。
暫く思案を巡らせ、霄は規則正しく寝息を立てる幼女をみやった。
「…………………そもそも、この子を天界に連れて行けるのか?…」
西王母から生まれた西華は例外なく天界に居る。こんなところに居るとまた狙われてしまう可能性がある為、もちろんこの世の秩序とこの子の安全を考えるなら天界へ送り届けるのが一番だ。しかし、どう見てもこの幼女は生きている。生気を帯びる鼓動が肉体が動いていることを知らせているのに溢れている仙の力が神域を作り上げている。結界を貼らなければ、どこまでもこの子の力が伸びてしまうだろう。おかげで、老人の姿に戻ることが出来ないでいた。
そんなことを考えてふと思いついた。
「……何はともあれ試してみなければ。あの御方にも一言言わねばならん」
独り言を零して先ほど使った水鏡に近寄った。
暫くして、深いため息が執務室に落ちた。
結果からいえば、天界と交信は出来た。天界と変わらない神域と化している状況で水鏡で問いかけてみたのだ。成功はした。……したのだが…。
……ここ最近は大人しかったから、安心しきっていたな……。
「……………そなたに任せたって……私にどうしろと…」
寝台に眠る幼子をみやってあまり他人には見せない困惑した顔を浮かべていた。
それからというもの、霄は急遽休みを戩華からもぎ取って暫く幼女の世話をした。幼女を仙洞宮の楼閣の一角に匿っていた。仙洞宮の管轄である楼閣だが、滅多に人が近寄らない為人払いの結界を張っていても不審には思われない。
あのまま執務室で匿っていれば、疑問に思う者が現れるかもしれない。そうなるといろいろと面倒くさいことになるのは目に見えている。
アイツらもまさか、こんなところに隠れているとは思うまい。
それに、楼閣の建ち並ぶ中央には初代彩雲国国王が魑魅魍魎を薙ぎ払うのに仙女からいただいた神剣があった。悪しき物を封印すると共に、西王母を祭るために大切に飾られていた。
それとは別で、幼女には早く自我を取り戻し力の制御をしてもらわねばならない。垂れ流している力が、人に紛れて居る仙を暴いてしまう。
しかし、自我を取り戻さないのは何故か。かけられた暗示も薬物も、もうすでに解いてある。
このまま力を垂れ流していては、魔に転じてしまう可能性が出てきてしまう。
人であって人ではない。
仙であって仙でもない。
この幼女はそういう存在だった。
……それに、私もこのままこの方のお世話だけをしているわけにもいかない。
眠りに着いている時は人払いの効力も通常通りだ。だが、起きてしまうと結界の調整をせねば、割れてしまう。日中に寝ててもらえれば仕事にも戻れる。
いや、そもそもなんで私だけがこんな苦労せねばならんのだ。
「……………………」
誰か適任な者に任せるか?そう考えて彼は知り得る限りで他の仙人達の状況を思い出してみた。
しかし、彼は放浪癖がありどこに居るのかわからない。
「…………待て……まともなの私だけか……?」
そんなことを考えて、寝台の上に座る幼女をみやった。感情もないそんな瞳で虚無を見つめている。様子を見ているとぐぅーと小さな腹の虫が声を上げた。短く息をつき食事の用意をして、幼女に食べさせる。
……本当はなにを好むのだろうか。
* * * * *
休み明け、仕事に復帰した霄は王の執務室に溜まっていた書翰や書類を猛然と処理していった。そんな中、ふと筆を止めて同僚であり、悪友の一人に声をかけた。
「……鴛洵」
「なんだ?私はもう手がいっぱいだぞ」
「そうじゃない。……お前なら、知ってるかと思って聞くんだが………」
少しだけ口篭りながらなにか話そうとする友人に鴛洵と呼ばれた男、茶鴛洵は訝しげに霄をみやった。
「なんだ、気持ち悪い。はっきり言わんか」
「……ち、近頃の女人が好きそうな食べ物とはなんだ」
聞いていたもうひとりの悪友であり主上付き武官の宋隼凱も彼の主君である戩華もその発言に思考を停止させた。
「………………急に、どうした?」
「……聞いてみただけだ。別に深い意味はない」
女子供に優しいコイツなら知っているだろうと思って霄は何気なく聞いてみたのだ。感情を取り戻せば、付随して自我も戻るだろうと判断してのことだった。
しかし、一番に食いついて来たのはもう一人のやかましい悪友の方だった。
「――なんだお前、ついに好きな女人でも出来たか!!誰だ!紹介しろよ!」
「やかましいっ!違うと言っておろうが!この筋肉達磨がっ」
「やめろ隼凱。こやつも人間だったってことだ。そうだな……最近は白玉の餡蜜というのが人気らしいぞ。見た目も涼やかで美しい、味はもちろん美味なようだぞ?」
「…そうか」
気のない返事をしながら頭の隅には白玉の餡蜜と言葉を刻んで仕事を進めていた。そんな側近をみやって室の上座の席に座る戩華はスっと目を細めた。
「いつだ?」
「……なにがですか?」
「今度いつ密会するかと聞いている。王命だ。吐け」
なんとも易い王命が下った。
「王命をそんなくだらないことに使わないでください。品格が問われますよ。仮にそんな人が居たとしても絶対に主上やお前らに言いません。――暇そうなので、こちらの書類の確認もお願いいたします」
そう言って霄は大量の書類を戩華の前に置き、黙々と仕事を再開したのだった。
仕事も終わり、城下に出向き白玉の餡蜜を手に入れた霄は急いで幼女のもとに帰った。目の前に餡蜜を置けばただそれを見つめていた。
「……どうぞ。食べてください」
そう言うと小匙を手に取り白玉を小さな口に運んだ。口の中に甘さが広がったからなのか微かに表情が動いた気がする。
「……美味しいですか?西華の君」
「…………」
返答はない。でも、他の食事よりも食べている気がする。
* * * * *
それから数日、戩華は残業も、酒にも付き合わない霄をある人物に調べさせていた。
夜中、一人っきりの執務室で動かしていた筆を止めた。
「……どうだ?」
そう室の中に声を掛けると灯りの届かない影の中からスっと音も立てずに人が現れた。頭から足の先まで全身真っ黒の装いの人物は頭巾を脱いで戩華の前に立った。一本にまとめた髪の毛の尻尾が背中に流れ落ちる。
「全然ダメ。いっつも見失っちゃうから、誰に会ってるのかもわからない。風の狼として自信無くしそう……」
「…………お前でも、わからないって……アイツどんな手を使ってるんだ………」
風の狼。戩華に仕える暗殺集団である。彼女らは紫戩華とその側近である霄瑤璇、そして頭領の彼女、黒狼の命令しか聞かない。
そんな彼女に今回下した命は霄の想いを寄せる女人の捜査だった。
戩華はふむと顎を触るとなにか思いついたように顔を上げた。
「少し探り方を変えてみるか」
「……探り方を変える?」
「まぁ、任せろ」
ある日、戩華は就業時間が迫り空が紅くなろうとしている中、おもむろに口を開いた。
「疲れた。酒が呑みたい」
嫌な予感がした。
「――お!いいですね!呑みましょー!」
「良いですね。でも、もう少しなのですから頑張ってください。終われば美味しい酒が呑めますよ、主上」
そんな会話を繰り広げる王と側近二人の傍でもう一人の側近はなるべく影を薄くして仕事を終わらせようとしていた。
早く――早く終わらせて、この空間から出なければ――!
しかし、猛然と走らせていた筆は空振りに終わった。
「―おい、霄。お前も今日は来るだろう」
「…………申し訳ございません、主上。この後用事がありまして…」
「なんだよ。最近付き合い悪いぞー霄の。そんなにそっちの方がいいのかよ」
「黙れ筋肉達磨。当然、貴様なんかより百億倍かわ…………」
言いけた言葉を飲み込み咳払いで誤魔化す霄をにちょにちょしながら三人は見ていた。
「――とにかくっ!用事があるのでこれが終わったら帰らせていただきます」
「いや、帰さぬ。別に想い人がどんな奴かは知らんが、お前のことだ。自分が宰相であること、余が花を送ったことも全てわかっているだろうしな。下手なことはしないだろうとは思っている」
「……主上」
「だから、一杯くらい付き合え。これは王命だ」
これは逆らえない方の王命だった。否とは反論出来ない眼差しが霄を見ていた。
少し感動しそうになったことを心の中で後悔しつつ、霄は渋々と頷いたのだった。どうせ絡まれるんだ…。
仕事が終わり、空が赤から藍色に変わろうという頃、戩華達はいつもの禁宛の一角の楼閣のてっぺんで盃を酌み交わしていた。そうすれば案の定、丸太のような腕に霄は絡まれていた。
「おいー、瑤璇ー!いい加減教えろよー!」
「何故そんなに口を閉ざすんだ、霄よ」
「…………」
「まあまあ。いつか教えてくれる時が祝い酒が呑める時と思って待ちましょう」
……帰りたい。というかそんな時が来ることはない。流石に幼女に手を出す趣味はないというか、手を出したら消されるかもしれない。……いや、消される。確実に。
そろそろあの子が起きてしまう。結界も貼り直さなければならない。表情には出さずにちらりと幼女が居る方を気にした。
グイッと盃を飲み干すと、盃を床に置く。が、すかさずどこからか香り立つ透明な水が盃に注がれる。
「――ほら次だ!」
「――いい加減にしろ!この脳筋が!」
「なんだ、霄よ。我らと共に過ごすより、今入れ込んでいる謎の女人と過ごす方が良いのか?ん?」
「…………ふん、あたり前だろう。こんなむさ苦しい酌より美女に酌してもらった方が何億倍もいいわ」
少し間があったがもっともなことを言った悪友に、他の二人は当然のように深く同意した。
「だよな。俺もこんな干からび前のクソジジイに注いでるのおかしいと思ってた」
「確かにな」
「――なら、もう止めろ!!」
やいのやいのとジジイ達が戯れる。その後も同じような件を何回か繰り返した後、頑なに口を割もせず月が登り切る前には解散となったのだった。
王の執務室に戻った戩華がゆったりと椅子に腰を下ろせば、音もなく目の前には鬼姫が佇んでいた。
「――全然喋らなかったね」
「口を割らないのはわかっていたさ。まぁ、俄然やる気が出て来たな」
面白いと愉しげに口角が上がった。
これを王の側近の3人が聞いていれば、違うことにやる気を出してほしいと口を揃えるだろう。
「ね。あれだけウザ絡みされても、口を割らないなんてどんな女の人なんだろ?」
「どうだろうな。人間かどうかもわからんぞ?狐かもしれない」
「いや、ただの狐なら逆に騙し返すくらいはするよ。こっちは性格も悪い妖怪だもん」
それもそうか、と戩華は納得した。
金と権力に腐った官吏がまだそこら中に蔓延っている中、数年前から発令した国試により浄化はして来ている。官吏が育つようにと要望を出して、王でさえも介入は出来ないように練られた国試法は一切の隙を許さなかった。
そんな法案を作れる宰相であり、それが霄瑤璇という男だった。
「仙洞宮の近くにあそこの管轄の楼閣があっただろう。密会をするなら人気のないところだろうしな。その辺りを調べてみろ。アイツがしきりに気にしている方角はその辺だった」
「了解。わかったよ」
口には出さないが人間という物を嫌っているアイツが好いた女は一体どんな女なのか。目的はなにか……。先ずはそれを知らねばならない。