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花は紫宮に咲く


「――――ッ?!こ、コレは罠だっ!わ、私を落し入れる為の策略だっ!!」
「……あんたも頭の中が忙しいわね」
「落し入れる為の穴を掘るほうが大変だろう。ちなみに言うと――」

潤月は剣を持ち直し柄を押した。カチン、と金属音がした次の瞬間――ハラハラと桂も残った髪も綺麗に削げ落とされていた。剣先には指輪が器用にぶら下がっている。
その剣筋を捉えられたのは潤月の剣を知っている宋太傅とほんの数名だけだった。
それを見て劉輝たちはぎょっとした。 あ、あんなところに隠していたのか!
蔡尚書はつるつるになった自分の頭を触り、床に切り刻まれた鬘と自身の髪をかき集めるように床に崩れ落ちた。

「あ、ああ……私の髪が……」
「お前のことだ。完成した出来の良い指輪は肌身離さず持っているだろうと思った。コレを持って、茶家に助けを求めても無駄だ」

それは茶家当主を証す指輪の贋物だった。見つけてすぐになくした“本物”のかわりにと、つくらせていた偽の指輪だが、石や台座は本物の貴石でできている。
何よりこれで茶本家を騙せば、一生安楽に暮らせる謝礼が入ってくるはずだった。身ぐるみ剥がされた今の蔡尚書にとって、文字通りその指輪は最後の命綱だった。けれどそれさえもあっさりと奪われた蔡尚書は今にも倒れそうなほど顔面蒼白となった。

「すでに手は回してある」
「ええ、茶家からは、あなたとはなんの関係もないというお返事をもらいました。これが贋物ということも報せてあります」
「そんな!」
「知らないんですか?あなた同様、あの一族は非常に選民意識が高いので、紅藍両家には扱いやすくてね。 ふふ、この私が、退路を一つでも残すとお思いですか?」

冷酷なる氷の微笑で、黎深は冷たく最後通牒を放り投げ、潤月はゴミでも捨てるように半面を投げた。
ふいっと剣の指輪を宙に飛ばし、華麗に掴むと良く出来た偽物を懐にしまった。

「……この私が……お、女に……女のくせに……」

ぶつくさと呟く蔡尚書に涼佳が呆れた溜息を着いた。

「………ていうか、だいたいアンタは女になにを求めてるのよ。母性?愛嬌?」
「…………お前だって…お前だってもてはやされようと着飾っているだろうが!!チャラチャラしおって!」
「安い挑発ね。買う気にもなれないわ。女を装飾品かなにかと勘違いしてるのかしら?女であっても一人の人間。それがわからないのなら、赤ちゃんからやり直しなさい」
「――ふざけるなっ!!私がこんなことをしたのは女なんかが入って来たからだっ!私がこんなことになったのは女のせいだっ!!お前達さえ―――」

最早理由にもならない言葉を並べる蔡尚書の前に捨てられた半面を目掛けて剣が突き刺さった。大堂の空気が数度下がる。

「――もう、黙れ」

普段陽気で優しい目をしているのに、今の彼女の形相は無慈悲な鬼のようだった。目線が同じようになるように潤月は屈んだ。

「――――ひっ――」
「……そんなに“女”に拘るなら、いいだろう。私が願いを叶えてやる。痛みも感じないよう一瞬で足の間の物を削いでやってもいいぞ?……どうする?」
「……あ、…………あ……………………」

潤月に睨まれて、息の仕方も忘れたのかだんだんと青ざめていった蔡尚書は口から泡を吹いて倒れてしまった。
あんな気迫で恐ろしいことを自分が言われているわけでもないのに股の間がヒュっと縮こまってしまった男性達は雀の涙程度の同情を蔡尚書に心の中で投げた。

「………最後まで情けない男ね」
「おやま。……倒れちゃった。どうしよう?」
「ほっときなさい。そんなの」

聞いたはいいがなにもしてやる気はなかったので、涼佳の言葉にうん、と一つ頷いて潤月は立ち上がりながら剣を抜くと一振りしてから鞘に納めた。

「―――こんな奴でも、素晴らしいと賛辞を送れることが一つあったのに」

突然、妙なことを言った涼佳に大堂は不思議そうにどよめいた。
その中で一人、潤月は涼佳の言ったことに大きく頷いた。

「動物の感ってやつなのかな?」
「その線は薄そうだけど……どこで聞いたか、はたまた偶然か……」
「そのまま、ちゃんと調べたら願いが叶ったかもしれないのに」

わけのわからない会話をする二人に劉輝は言い知れぬ不安を覚えた。

「…………なんの話なのだ?」
「今回の私達にかけられた謀反の真偽、経緯は間違いだが表は合っているんです」

ざわりと大堂がどよめいた。

「――なっ?!」
「…………嘘だ……」

二人を信じていた者達が、衝撃の発言に動揺を隠せずにいた。
トン、と潤月が鞘の先で床を打った。

「――静まれ。今から述べるは先王・紫戩華の遺言だ」
「―私達は彼が崩御したあと、残された国の行く末を見定めるよう仰せつかった。審判者です」

がらりと雰囲気の変わった二人に堂の中はしん、と静まり返った。その雰囲気は背筋が氷付く覇王のものと酷似していた。袷から古びた未開封の文を取り出し、涼佳は下吏に渡した。
文の袷に先王・紫戩華の御璽が押されていた。

「そこのあなた。その文をそのまま読み上げていただけるかしら」

下吏は急激に渇いた喉を潤すように唾を飲み込み、震える手を必死に堪えながら、文を開いた。

「……新たに王座に着きし新王に私からそなたに遺産を遺す。………た…ただし、王位に王が就きし時、国の未来が見えぬようなら余の代わりに……く、国崩しを行うよう命じた。もし、王が選ばれたその時――必要だと思うならどちらかを拾え。要らぬなら、両方捨てろ。…………こ、この文が読まれている時、私は新しい王の前に審判者の二人が居ることを願う……。彩雲国国王・紫戩華…………。……先王の王印が……ちゃんとあり、ます……こ、これは…本物です…………」

震える声で、短い遺言状を読み上げた下吏は青ざめた顔で劉輝に文を献上した。それを受け取り御璽と内容をもう一度読み返した。劉輝はゆっくりと顔をあげた。

「…………なるほど、こういう命だったのか……」
「はい。以前、この『羽』をいただいた時に仰っていたことは概ね合っておりました」

見定められていたのは私の方だったのか。
劉輝は静かに訊いた。

「……答えを、聞こう……。花は要らぬと言ったそなたらに代わりになるものを余は渡した。あの時言ったことに嘘はない」

そう言い切った劉輝に同時に微笑した。

「ふふっ、知っています」
「わかっていますよ」

二人は優美に膝を折った。そして、懐からそれを取り出した。
それがなんなのか、誰もがわかった。『花』だ。臣下から王に渡す『花』。

「これが、答えです」
「――忠誠を受け取ってくださいますか?」

王に花を渡す。『献上の花』
家臣から王へ花を渡すことは、生涯の忠誠の証。なにを置いても、王を優先するという誓い。これを王が受け取れば、その命尽きるまでその身を捧げるという、王に取って最大の宝玉。

「……………本当に、余で、良いのか?」
「――私は貴方が作るこの国の未来を貴方の隣りで見てみたいのです」
「――貴方が良いのです。まだ何色にも染まらぬ優しき王よ。ただし、残るのは私か、彼女か――」
「どちらかだけです」

劉輝は王座から立ち上がると二人の下まで降りた。その様子を周囲は固唾を飲んで見守った。
それもそのはずだ。献上した花を受け取られなければ、そのままの意味で官吏としてはもうやっていけないからだ。お前など要らぬと言われたも同然。しかも、遺言ではどちらか一方だけと書かれている。残るのはどちらなのか。
劉輝は装飾品の中に見事に描かれた絵を見た。
潤月は“桃花”。邪気を祓うとされている花であらゆる災いを彼女が祓うという意思を感じた。
涼佳は紫が混じった白い“牡丹一華”。貴方に希望を抱き、信じて待っていた。王として期待している、と言われているようだった。
一度、劉輝は深く瞼を閉じた。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。

「………………選ばぬ」

頭を下げていた二人は俯きながら静かにその言葉を飲み込んだ。
顔をゆっくり上げようとしたその時―――強い力で、引き上げられた。
突然のことに涼佳はよろめきながらも立ち上がり、潤月は咄嗟に劉輝の手を掴み返して立ち上がった。

「――余は二人を選ぶ」
「………………二人?」
「………私達、二人?」
「そうだ。余は先王のことは良くわからぬ。子供の頃数度しか会わなかった。話に聞いた先王しか知らぬ。だから、余がどちらか一方を選べば間違いなくどちらかは国崩しの責任を負って自害……などと考えておらんか?」

ただ目をぱちくりと瞬かせている二人に劉輝はしたり顔をした。正にその通りだった。選ばないと言われた時は二人共に死。二人が王を認めなかった場合は、国崩しという大罪を成して二人まとめて死ぬつもりだった。

「如何にもそなたら二人の考えそうなことだ。それくらいなら余にもわかる。ただ、余にも人生で一度くらい反抗期があっても良いと思うのだ」
「………………ふ、ふふふ」
「………呆れた。どうしようもない欲張りですね」
「そうだ。余は欲張りなのだ。――よって、この遺言状は破棄する。今の王は私だ。先王が死してなお忠義を尽くした……そなたら二人が余は欲しい」

ビリビリと破り捨てた劉輝は両手を出した。

「せっかく二人が花をくれたのだ。これは余が貰う。だが、翼を授けたそなたらを縛るつもりはない」

二人はその手に花を渡し、柔和に笑う。

「両手に花の気分はいかがですか?」
「うむ。悪くない」
「あははは、前代未聞ですよ?」
「そうかもしれぬ。改めて、言おう。余と共に歩いてくれるか?」

二人は一枚の絵画のように跪拝した。
そして、潤月と涼佳は正式に辞令を受け取った。二人には正二品が与えられ、涼佳は中書令となり、王の秘書。潤月は大尉となり、“兵馬の権”を預けられるという異例の事態だったが、さほどの反対の意見は出なかった。収まるべきところに収まった、と誰もがそう思った。


最上治は真なる剣が王に治められた、と語り継がれた。



* * * * *



妨害工作で査問会に出させないようにされていた秀麗だったが、駆けつけた燕青によって無事に出席することが出来た。秀麗の査問会も無事に終わり、その夜、燕青は劉輝に呼ばれて執務室にいた。
他にも劉輝以下、 三師及び潤月と涼佳、絳攸に楸瑛、そして黄尚書と紅尚書がいた。

「うわーすげぇ良くできたニセモノ」
「ね。これはすごい良く出来てる」

開口一番贋物と断じた指輪であるが、それでも燕青の目には感心した色があった。

「こっちの、あのカツラじーちゃんが慌ててつくってカツラの下 に隠してたってやつ?これはかなりひでぇ出来だけど、これ、こっちはものすごい出来だなぁ。やばかったな。 これ、茶本家に渡ってたら誰もが信じこんだぞ」

燕青の前には、三つの指輪が置いてあった。一見して見た目は似ているように見えなくもないが、よく見れば二つはかなり粗雑なつくりの粗悪品だ。 粗悪な方が、蔡尚書が浅知恵でつくらせたニセの指輪で、カツラの下から黎深に容赦なくむしり取られた涙を誘うだけの贋物だが、もう一方はきわめて精巧につくられていた。 間近で見たことのある燕青に「ものすごい出来」と言わしめるほどに。これこそが蔡尚書が「どこぞで偶然手に入れたけど、なくした」という、もともとの指輪だ。影月が手下の懐から奪って玖琅に渡し、邵可の手を経て巡り巡って劉輝のもとにやってきたものだ。 蔡尚書はこの指輪が、消えた茶家当主指輪だと今でも信じている。実を言えば劉輝も、茶太保がはめていたのと同じものに見える。まじまじ見たことのない者にとっては、風格 を感じるずっしりした色合いや文様といい、年代物の台座といい、本物にしか見えない。
だが燕青と潤月は――話によれば紅玖琅も――ニセモノだと斬って捨てた。

「……やはり、 ニセモノなのか」
「ということは、茶太保の指から消えた本物の当主印は、いまだ行方不明ということですね」
「まあ、そういうことです。……にしても、バカだなぁーカツラのじーちゃん。顔を知らなかったとはいえ、潜入した潤月に自分で指輪を贈って、しかも、つくりかけの指輪を娘にガメられて気づきもせず、荷姿まで描かせて李侍郎さんに縁談をもってくんだもんなー。自分で黒幕でーすって言ってるようなもんだよな」

燕青は蔡尚書の悪事の証拠品のひとつである絵巻物を取り上げた。広げると、父親似のふくよかで、控えめに言っても突っ立ってるだけで金のかかりそうな女性が、全身をてかてか飾り立てて笑っている。そして葡萄のようにゴロゴロはめている指輪の一つは。 蔡尚書がいくつかつくらせていたニセ指輪の一つ(しかもつくりかけ)であった。

「後世に語り継がれるようなお笑を家族一丸となって取ろうしてたのなら、作戦は成功ね。そう思うと、天才だと思うわ」
「ははー、それだったら確かに天才だわ」

あまりに、無理矢理な前向きな解釈だった。
劉輝はちらりと霄太師を見たが、霄太師はいかにも飄々としていた。――読めない。

「……………燕青、茶州は、いまどうなってる?」

燕青は居住まいを正した。もとが武官のような風貌と体つきなので、そうすると楸瑛にも負けないくらい見栄えがよくなる。

「数ヶ月前から悠舜が…………鄭補佐が監禁状態に置かれてます。また故鴛洵さまの奥方、縹英姫様も、お邸の奥で見張りがつけられ、自由がままなりません。鴛洵様のたった一人のご孫娘である春姫様は、英姫様の機転で辛くも難を逃れ、現在某所にて匿われています」

一年前よりさらに厳しくなった状況に、劉輝の眉が寄った。

「何があった」

燕青が夏をやや過ぎて茶州へ戻った時には、まださほど情勢は変化していなかった思った通り勝手に茶州州牧を解任されてはいたが、行く前とさほど変わってはいなかった。
そのあとも、帰還した燕青と師匠が州城に出没して睨みをきかせていたせいもある。だが事態が一変したのは、新年を迎えて少したった頃からだった。

「茶一族は春の人事に思い至ったんです。中央から新州牧が派遣されてくる。茶州にも、陛下の周りを固めつつある能吏たちの噂は届いています。俺が夏に貴陽にたどりついたことも耳に入っていますし。能吏が来る前に、なんとか先手を打ちたかったんでしょうね」
「悠舜殿はともかく、茶太保の奥方と孫娘にまで手を伸ばしたのか?理由は?」

劉輝の疑問に燕青ではなく、涼佳が答えた。

「それは茶太保の影響力が絶大だったってことでしょう。…確か、ご子息夫婦は何年も前に他界されてますわね?」
「そうです。ですが、英姫様とご孫娘はご存命です。英姫ばーちゃ、大奥様は、……えーと、なんていいますか、まったくお見事なかたで」

縹英姫を知っている霄太師と宋太傅が、ぞくっとしたように目を見交わした。 潤月もふいっと視線を背けた。

「鴛洵様亡き後、大奥様は一切茶家内部に関わろうとしませんでした。が、あのかたが本気になったら、茶家をとりまとめる力は、まだ充分あります」
「縹英姫殿が?」
「ええ。鴛洵様が太保として紫州にいる間、茶州で茶家当主名代として、ノコノコ出てくる杭を片っ端から打ちまくって見事お役目を果たされていたのが誰あろう英姫様で」

燕青の微妙な歯切れの悪さに、霄太師と宋太傅は遠い目をした。目に浮かぶようだ。

「……ですが、鴛洵様が亡くなられたあと、もうどうでもよいとおっしゃって、すべてから手を引いたんです。結果、ノコノコとまた杭が出てきまして。ですが彼らも、大奥様の政事手腕にはかなわないということは、この数十年でよくわかってます。つまり、鴛洵様に向けていた畏怖と同じものを、彼らはいま英姫様に向けているんです。 それで新州牧がきて、大奥様とつなぎをとることを警戒した」
「だから閉じこめたと?」
「はい。大奥様はどうでもいいって感じでしたけど。くわしいことは命がけで窮状にきた、英姫様づきのあの娘に聞いてください。嘆願書も、ここに」

懐から書状を取り出す燕青に、劉輝は渋い顔をした。

「しかし鄭補佐まで監禁されるとは。そなたがいながら、なぜ」

腑に落ちない表情の劉輝に、燕青は頭をかいた。 よほどきまりが悪いのか、王を前にしておきながら急に砕けた口調になる。

「それが悠舜のやつ、自分から監禁場所つくって入っちまったんです。 自分は足が悪いか逃げてもたかがしれてるし、最初から監禁されてればこれ以上悪いこともないし、だいたい配下の官吏を放って逃げるわけにもいかないから、牢で仕事しますっつって……あとから鼻息荒く州府にきた茶家の子飼い連中も、あれーすることねーなー、みたいな」

今度は鄭悠舜と同期にあたる紅黎深と黄奇人が、王の後ろで黙って顔を見合わせた。
いかにも悠舜がやりそうなことだった。

「まあ、もともと茶州の官吏はこれ以上悪くなりようがない場所で文字通り命懸けて官吏やってましたから、今さら逃げる官吏もいません。悠舜が最終決裁の補佐印もって、自分で色々もちこんで居心地良くつくった〝監禁室" にこもったあげく、鍵を火にくべて溶かしちまったんで、俺が塔の壁這いのぼって窓から仕事届ける毎日で、もう鍛えられまくりです。 ……………あの室に入ってから、準試の勉強見てもらうにも一苦労だったなぁ……………はっきりいってあれ登れるの俺か師匠くらいなんで、茶一族もいまだに補佐印に手が出せません。なんせ最凶悪犯用牢屋なんで格子も壊せないし」

劉輝はさすがに唖然とした。…………最凶悪犯用牢屋?
それらを黙って聞いていた涼佳が深くため息を吐いた。

「牢屋ね……懐かしいわ。仕事場にするなら最適なのよね。息抜きにおしゃべりも隣人と出来るし、夏は涼しいし、冬は火鉢を炊けばすぐに暖かくなるから。……いいなぁ」

羨ましそうに呟く涼佳に潤月は軽い手刀を無言で落とした。
気を取り直すように劉輝は小さく咳払いをこぼし、話を続けた。

「……………確か、鄭補佐は、落ち着いて物静かで達観したかただと聞いていたが」
「ええ。そうですよ。でもそれだけの男なら、茶州に志願しませんよ。ただの物好きなら半日で逃げ出してます。あれで根性あるし、やるときはむちゃくちゃやる男なんです」

黎深と奇人は思わず横を向いて吹きだすのをこらえた。的を射ている。

「なんで茶州府の権限は、まだ悠舜及び茶州官たちが握ってます。 俺の師匠が城内うろちょろしてくれてるんで、今のところ身の危険はありません。問題は、茶家当主に誰かが就いた場合です。 茶太保の指から消えた茶家当主の指輪を、誰もが血眼になって捜していました。鴛洵様亡きこの貴陽がいちばん怪しいんですが………一年、見つからなかった。ここへきて見つかったとなれば、茶本家が大金ばらまいても飛びつくのは当たり前です」

ただ、と燕青は視線を落とした。

「もうすぐ、鴛洵様が亡くなられて一年です。 まる一年を経過しても当主印が見つからなかった場合、仮の当主を立て、新たな当主印をつくることが許されてます。あれは当主を示す以上に、最終決裁印も兼ねてますから。あれがないと茶家独自で展開している様々な事業の最終決裁もままなりません。そうなると、茶家とは関係のない民にとばっちりが行きます。仮とはいえ、いつまでも本物が見つからなければ、仮の当主や指輪も正統として認められます。変な奴に当主の座につかれでもしたら、厄介この上ない。その新しい当主印で好き放題にやられたら茶州での茶一族の権限は絶対ですから、悠舜の奴も押し切られかねない。対抗できるとしたら、主上の意を受けた正統な州牧だけです」
「わかってる」

そうして、劉輝の推薦する人物達の承認を受けた。




「――秀麗さんっ!」

進士式の直後よりも随分と様変わりした働き易い環境の中、府庫で書類整理をしていた秀麗は変わらず元気に自分に任された仕事を行っていた。一番の変化は、嫌がらせで持ち込まれた仕事がなくなり、一日に一度、邸に帰れるようになったことだった。
あとは片付けをするだけと、府庫に戻れば影月が慌てたように秀麗に駆け寄った。

「え、なに?どうしたの、影月君」
「――菫中書令から呼び戻しです!――」

秀麗は早足に回廊を歩いて、一つの簡素な造りの扉の前に立った。
……まさか、わたし、とんでもない失敗をしたのかしら…。影月君と珀に片付けを全部任せて来てしまった。わたしが遅くなるようなら、先に帰って静蘭に伝えてもらうように影月君には言ってあるし、……ああー、やっぱりなにか失敗したのかしら。
緊張で様々な感情に駆られながらも、高鳴る心臓を抑えて深呼吸をした。

「――進士・紅秀麗です」
『どうぞ、入ってきて――』

扉に声をかければ、返って来た声にゴクリと唾を飲み込んだ。僅かに震える手を一度堅く握り締め、そっと扉を押し開いた。

「急に呼び立てて、申し訳ないわ。自分の仕事のほうは問題ないのかしら?」
「――いえっはい……、今日の業務は滞りなく終わり、片付けて帰るところでした」

第一声が上ずってしまったが、礼を取っていてよかったと心底思った。――今、絶対私すごく顔赤いわっ!――

「そう。それは慌てさせてしまったわね。紅進士、あなたに訊きたいことがあって呼んだの」
「……なんでしょうか」
「顔をあげて。あなたの意見も聞いておこうと思って呼んだのよ」

ゆったりと話す涼佳に落ち着くのに充分な時間をもらい小さく深呼吸をした後に、秀麗は顔をあげた。すると、室には官吏というよりも職人に近いような年配の男性が二人いた。

「こちらのお二方は朝廷お抱えのはり師です。今、今後の女性の官服について話していたところなの。なにか、希望はあるかしら」
「……希望、ですか?」
「ええ。予算は抑えめで作るから煌びやかな物は作れないと思って。女性らしさを強調すると浮いてしまうと思うの」
「―しかし、せっかくですので――」
「どんな物でも作ってみせますぞ!」

職人達が鼻息荒く言うのを見て涼佳は額を抑えた。

「あなた方の腕が良いのはよくわかっていますが、ここは朝廷です。それに見合った物が良いと私は申し上げています」

決めていただいても大丈夫、と口から出そうになって秀麗はその言葉を丸ごと飲み込んだ。きっとそういうことではないのだ。それならば、伝言で確認だけで済む話だ。彼女はわざわざ呼んだのだ。
秀麗は涼佳を真っ直ぐに見た。

「……では……予算は抑えめ、と仰っていましたので今ある形に少し手を加えて、女性物に変えることは可能でしょうか。それなら、一から作るよりも安価で済みますし、既存の官服と調和も取れると思います」

頭の中で計算しているのか、涼佳は腕を組んだ姿勢で顎を触った。

「……既存の物なら、誰が見ても官吏だと分かるわね……。……その場合、どのように作りますか?」
「…………それだったら、既存の物を少し裁断して手直しすれば……」
「……すぐに出来ますな……」
「なら、余った布で靴は作れるかしら?」
「靴……ですか?」
「ああ!靴は新しくほしいですね!……革靴は、少し合わないので」
「そうなの。男性が履くこと前提で作られているから仕方ないのだけれど。足の形だけは生まれもってしまったものだから替えようがないのよね」

そう言われた職人達は目から鱗だった。それは、当然だ。女性と男性では体格も違ければ、骨格だって、肉の付き方だって違う。
ずっと目に見える部分だけを変えることに囚われていた。

「ただ、一つ。私の意見を聞いてくださるなら、踵部分を厚くして爪先にかけて浅くなっていくような物が良いわ」
「…………ん?なんでですか?」

首を傾げた秀麗に涼佳は職人達と囲んでいた卓子を離れて、適当な本を二冊手に取った。それを手に秀麗に近づくと背後に回り込んだ。

「横を向いて。踵を上げてくださる?」
「え、あ……はい」

言われた通りに踵を上げると、涼佳は手に持った本をその間に差し込んだ。

「―胸を張って、背筋は伸ばして。肩は楽に……いいわ、顎を引いて。―そう。そのまま」

姿勢を正しすと涼佳は職人達を見やった。

「今のままでも靴をこうして変えるだけで、随分と変わると思いませんか?」
「――紅進士殿!そのままッ!」
「――そのまま少しお待ちくだされ!!」

職人達は料紙と筆を取ると猛然と構図を書き殴った。
頭に浮かんだ発想を逃がすまいと、職人達は猛然と嵐のように室を出て行った。
同じ姿勢のままの秀麗に手を差し出した。

「もう良いわよ。紅進士」
「あ、はい」

秀麗は本から踵を退かし、本を拾い付いた土埃を叩いて落としてから涼佳に渡した。

「ありがとう、紅進士。おかげで良い物が出来そうだわ」
「……いえ。あの、訊いても良いですか?」
「ええ。なにかしら」
「……違っていたら、わたしの思い違いなので流していただきたいんですが……もしかして、元から靴だけを作ってもらうつもりでしたか?」

そう言った秀麗に涼佳はにっこりと笑みを浮かべた。

「ええ。その通りよ。踵を上げることで姿勢が良くなり、見栄えが良くなるのよ。以前、花街に行った時にあの子で研究してたのよね。…だけど、彼らは官服ばかりに囚われていて話しが進まなかったの」

……なるほど。秀麗は新しい物を作り上げたいという職人達の勢いのある双眸を思い出し、納得した。

「あなたを呼んで正解だったわ。想定よりも大幅に予算が抑えられそうよ。感謝するわ」
「そんなっ、……わたしなんかの意見が役に立てたなら、それだけで嬉しいです…。あ、それでは用がお済みのようなので、わたしはこれで失礼します」

礼を取った秀麗に涼佳は声をかけた。

「――査問会、見事だったわ。それと、不正告発の調書も良く汲み上げられていたと思う。私についての調書は……気持ち悪いくらいに調べてあったわ。あなた、官吏として素質があるわよ」
「――――――っ。お手前、お先に失礼します――」

礼を取って室をあとにした秀麗は誰にも合わないように足早に府庫に行くと、影月と珀明がおしゃべりしながら待ってくれていた。

「あ、秀麗さん……ってどうしたんですか?」
「……まさか、ここにきて怒らるような失敗でも……」

秀麗の涙を堪えるようなくしゃくしゃになった表情に影月も珀明も心配そうに側に寄った。

「ち、違うの…………どうしよ……ここじゃ、泣けないのに、嬉しくて、わたし……涙出そう……」

そう言った秀麗に影月は微笑し、珀明は呆れたように心配したことを後悔した。

「……なんだ、褒めらたのか…。――って自慢かっ!」
「そう〜!褒められたのっ!涼佳様に、涼佳様についての調書、気持ち悪いくらいに良く出来てたって……褒められた……」

秀麗に手巾を渡しながら、影月は固まった。

「……あの、秀麗さん?」
「…………それ、本当に褒められのか……?」
「褒められたんだよ〜〜〜っ」

もう頭の中が嬉しさでいっぱいで、どうしようもなく言葉が足りない秀麗だった。
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