花は紫宮に咲く
一人で思考に耽っているとガタリと動いた卓に気づいて魯官吏に目を向けた。どうやら魯官吏を礼部尚書にと口説いているようだった。
思わず腰を浮かせた初老の官吏を、黎深はむりやり引きずり戻した。にっこりと笑う。
「私達と一緒に、これから朝議に出て下さるのでしょう?」
「………わ、私は今の地位で充分満足……」
「あなたが行かなければ、私も行きません。まあ私は構いませんが、もしそれで今度城下全機能停止になったら、あなたのことだから良心がうずくのではありませんか?」
「…………」
助けを求めるように魯官吏は潤月をみやった。
だが、にっこりと柔和な笑みが返ってくるだけだった。
「………きょ、脅迫するおつもりですか」
「脅迫?人事の長としてより良き人材配置のため、当然の措置をとるだけです。あなたがあの名家至上主義つるっぱげデブかつ腹黒にも満たない腹灰色尚書の下で顎でこき使われるのを見るたび、常々むかっ腹が立ってましてね」
「そもそも能吏が不足してるのに、余計なところに割く余裕なんてないですのよ」
「…………し、新進士育成は別に余計なことでは。それにこの現状はきっと、霄太師殿からの罰だと思っております。…私は、黙って承服するだけです」
「―そんなことないですよ?」
潤月が魯官吏の言葉を否定した。
「私の養い親は、仕事には厳しい人です。私情は挟みません」
「……じゃあ、なんであんな奴が尚書なんかに就いた…」
「そうよね。それだけが私も不可解だったの」
「…………そ、それは、魯官吏を礼部尚書にしたら“隙”がなくなっちゃうだろう。あの頃は新王が誰になるかはまだわからなかったから」
そう言った潤月にふーん、とだけ返事をした。一応、筋は通る話を打ち切った。
「………さて、魯官吏。いかがなさいますか?」
「ああ、そうだ。もう一つの選択として、我が家へきて家令になるということもできますよ?あなたならあの生意気な弟の頭を叩いて性格矯正してくれそうです。楊将軍も私の息子に嫁入りするので、ちょうどいい」
「―ッッ?!」
「断ったはずだが?」
少しだけ揺れ動いた気持ちが颯爽と去っていった。
即座に否定する潤月を黎深が睨み付ける。
冗談ではない!魯官吏は凍りついた。 こ、この紅尚書の家令になるくらいなら――。
「一緒に参ります......」
こちらも即座に折れた魯官吏に、黎深は本気でチッと舌打ちせんばかりの残念そうな顔をした。
その日の朝議は、正午前にひらかれた。秀麗の件より先に片づけるべき案件があったからだ。査問会や噂のみの国試不正疑惑の審議などより、いきなり停止した城下、城内の機能回復のほうがはっきりいってはるかに重大かつ深刻だった。 開始早々、案件である城下の収拾策について朝議は紛糾した。
「前代未聞ですぞ」
「いくら紅一族とはいえ、やっていいことと悪いことがある!」
「どうなさるおつもりか。万一このままの事態が続いたら―」
「藍家に収拾を頼めば」
王の傍に控える楸瑛に一瞬視線が集まるが、すぐに別の官吏によって却下された。
「馬鹿な!これ以上藍家の力を増大させるわけにはいかない」 「しかし他家にはこれをおさえる力はありませんぞ!」
「いや、そもそも原因はなんなのか――主上!」
向けられた視線に、劉輝は落ち着き払って答えた。
「少し考えれば原因などすぐわかるのではないか?聞き知っておろうが、紅吏部尚書、菫少師、羽林軍所属楊将軍がこのたび証拠もないのに言いがかりをつけられて拘束された。余もあずかり知らぬところで十六衛下部兵士を誰かが動かしてな。即刻とりなしたが、何を言っても紅尚書自身が出てこぬ。この騒ぎはそのせいだ。無理もないとは思わぬか?藍家と並ぶ名門中の名門、 紅家当主を不当に拘束などすれば、紅尚書は勿論、誇り高い紅一族が怒るのも道理」
しん、と水を打ったような沈黙がその場に落ちた。
「紅尚書が………………紅家当主………?」
誰かが潰れた声でうめいた。こぼれおちたのはそのひとつきりだったが、まったく同じことを心の中で呟いていた者は多かった。
その中で一人、滝のような汗を流す人物がいた。とっとと貴陽を出奔しようとしたのに、なぜか邸を凶悪な面構えの男どもに囲まれ、どの門から出ようとしても因縁をつけられて家にひっこむのを繰り返すこと十数回。ついに夜逃げに挫折してこの場にくるしかなくなったこの男は、失神寸前の蒼白な顔色で、ことのなりゆきを見守っていた。
「......ふむ、意外に高官の中でも知らぬ者のほうが多かったのだな」
高官たちの反応に劉輝はやや驚いたように呟くと、傍らの絳攸を振り返った。
「李侍郎は当然として、他に知っている者もあろう。どうか、黄戸部尚書」
水を向けられ、仮面の尚書は黙って頷いた。
「藍家直系に連なる者として、藍将軍も知っているのではないか?」
「ええ。黎深殿に代替わりした際の話は兄たちから聞いております」
「どうだ、霄太師?」
「そうですな、かれこれ十四、五年ほど前、でしたかな。彼が跡目を継いだのは」
白い顎鬚をしごきながら、飄々と霄太師が応じる。それらの返答に室内の空気が徐々に冷たくなり始めた。ようやく、なぜこんな事態になったのか、彼らは心底理解した。
劉輝は視線をすべらせて、居並ぶ臣らの一角でじっと縮こまる人物に声をかけた。
「礼部の………………蔡尚書は、どうだ?」
蔡礼部尚書は、ふっくらとした顔に無数の脂汗を浮かべていた。
「ん?ずいぶんと震えているようだが?気分でも悪いのか?」
「…………い、いえ…………その、あまりの事態に、驚いて」
「ということは、尚書のそなたも知らなかったのだな。紅黎深が紅家当主だと」
蔡尚書はひっきりなしに絹の手巾で汗をぬぐった。
「は、はあ、まさか…………と、とんと存じませんで…………」
「――そうだろう。でなければとてもこんな愚かな真似はできまい」
不意に鞭のように鋭くなった王の声音に驚いて、その場の誰もが蔡尚書を見た。
「とっ、突然何をおっしゃいます。わたくしは別に何も――」
「別にそなたのこととはいっていないが」
蔡尚書は絶句した。
絳攸はこめかみをもんだ。 あまりにも呆気なくボロを出した蔡尚書に情けなくなる。
「それとも何か身に覚えがあるのか?」
「い、いえそんなことは決して」
「そうか?そういえばそなたは当初から、女性官吏登用に猛反対していたな」
「ほとんどの者が反対していたではありませんか!だいたいそれをいうなら、あやしいのはむしろ魯官吏ではありませんか!」
この場に魯官吏はいなかった。高位ではあるがたいした職にいない魯官吏は、この朝議に出るほどの地位にはいない。それをいいことに蔡尚書はまくし立てた。
「いつだって彼は紅進士や杜進士にひどく当たっていたではありませんか!菫少師の時もそうでした!目の敵のように――きっと後見の紅尚書にも何か恨みがあって」
劉輝は落ち着き払って答えた。
「魯官吏?彼は別に女人官吏に反対などしていなかったが。それに紅尚書に恨みがあるどころか、彼は珍しくも紅尚書のお気に入りだ。涼佳姉上にいたっては季節の折の文を交わす程の仲だ」
「は――――――?」
「それにそなたは新進士の一部が不当に酷使されていたことを知っていたのに、配下を止めなかったのか。彩七家出身の碧進士のおりはいち早く庇ったと聞いているが」
「そ、それは、いつものことだと聞いております!」
その返事が何一つ理由になっていないことにも、もはや蔡尚書は気づかぬようだった。
「そうだな、いつものことだ。魯官吏が将来有望な者に特に目をかけるのは」
劉輝は支配者の顔で笑った。
「この場を見渡してみるがいい。彼にしごきぬかれた者たちは、今どの席に座っている?」
思考する暇も与えず、劉輝はたたみかけていた。
思わぬ成り行きに驚いていた景侍郎は、はっと黄尚書を見た。そういえば、そうだ。 紅黎深は吏部尚書に、黄奇人は戸部尚書に、菫涼佳は少師に、李絳攸と藍楸瑛は年若くして高位高官、そして王の側近におさまっている。
そうして、次々に自ら墓穴を掘っていく蔡尚書は追い込まれながらも、いまだ窮地を脱そうと必死にあがいた。翻弄されるままに突きつけられた証拠に追い詰められた蔡尚書が出した逃げの一手は鳳珠の仮面を脱げというものだった。
結果、大堂は阿鼻叫喚と化し鳳珠の素顔を見た蔡尚書はただの首振り人形と化した。
真面目な景侍郎は気の毒そうに首振り人形に視線をやりながら、上司にもの申した。
「鳳珠これって詐欺では…………」
「全部真実だ。泥団子事件の馬鹿どもからも証言をとった。何が詐欺だ」
「そ、そうなんですが、なんだか詐欺のような気が」
「いいや、最初からこうすれば良かったと思うよ、景侍郎」
不意に別の声が響いた。
朝議が終わるまではひらかれることはないはずの扉の重い開音に、誰もがそろそろと振り返った。そこに立っていたのは紅黎深と魯官吏、潤月と涼佳だった。
「……おい、あれは」
「……あの方は……もしや……」
潤月を見てところどころで小さくざわめきが起きていた。
「まったく、ここまで馬鹿とは思わなかったわ……」
「本当に。どうしようもない馬鹿さ加減だ」
ゆったりとした足どりで堂々と入ってきた三人は、蔡尚書に侮蔑の目を向けた。
「まさか仮面を外せと言い出すとはな。鳳珠が仮面をかぶって許されているのは、誰一人かわりなんかできるはずがないことを知っているからだ。第一、鳳珠に素顔のままそこらを歩かれてみろ。朝廷は即日全機能停止だ。玖琅なんか目じゃない。誰も仕事に手なんかつかなくなる。古参官吏は十年かかってようやく鳳珠の顔を思い出さないで仕事できるようになったというのに」
うしろに控えていた魯官吏も、この成り行きにさすがに天を仰いだ。
「………なんで、みんな鳳珠の顔に驚くのかな?綺麗だと思うのに。ね?」
「綺麗過ぎるのは目に毒ってことよ」
まっすぐに蔡尚書のもとへ足を運ぶ黎深達に、誰もが慌てて道を譲った。波がひくようにできた道を至極当然と歩く黎深には、たとえ紅家当主でなくともそれだけの力があった。
黎深は大堂を突っ切ると、半分白目を剥いている蔡尚書の前に立った。
「この まま茫然自失じゃつまらんな………」
黎深はパン、と相手の顔の前で手を叩いた。ハッと蔡尚書の目に正気の光が戻る。
「い、今何かが――な、何かが」
「なんですか、蔡尚書」
蔡尚書は目の前に忽然と現れた(ように見える) 黎深を見て、みるみる青くなった。
「こ、紅尚書」
黎深はにっこりと笑った。
「さて、あなたは非常に面白いことをしてくださった。今回の捨て身の戦法には、まったく感嘆します。私も同じだけの熱意でお返しいたしましょう」
「い、いや、わ、私は、私がしたんではなくて・・・」
「百万が一そうでも、私はあなたがしたことと思っているので、事実は関係ありません」
無茶苦茶な理論である。
「この私をはめようとした度胸と頭の足りなさは認めます。 数年前の一件だけで終わっていたなら、鬘を引っぺがす程度で我慢してあげたのですがね。性懲りもなくあなたはまた私の大事な者の誇りを汚そうとした。私は二度同じ人物を許すほど寛容ではありません」
「ひ―」
いとも優雅な仕草で、黎深は書状の束をとりだした。
「あなたの家産一切合切、すべて紅家が差しおさえました。替えの鬘ひとつ残っていませんこの書状はご家族、ご親族、及び親しいご友人からの縁切り状です。事情を話したら、どなたも快く、我先にと書いてくださいました。どうぞ大切になさってください。また今後、紅家ゆかりの場所には近寄らないのが無難でしょう。手配書を回しましたからね。見つかったら最後、近くの川に重しつけてドボンです」
この国で紅家の息のかからない場所などない。それを承知の上での脅しだった。
「うちの一族は私同様怒ると手がつけられない上、非常に執念深いので、百年経ってもあなたの名と顔は忘れませんよ」
おそろしい言葉を吐いて、黎深はにっこりと笑った。こわい。
自分のことでもないのに、きき耳をたてていた諸官たちの背筋がうそ寒くなった。 蔡尚書はがくがくと震えだした。まろぶように跪くともはや外聞もなく土下座した。
「も、もうこんなことは」
「あいにく私は、嫌いな相手はとことん追い落とす主義なんです」
「あなたが紅家の当主様と知っていたら――」
「そうですか。 別に私が紅家当主でなくてもまったく同じことをしましたよ。まあもうすべては後の祭りなので、関係ないですね」
黎深の微笑はちらとも揺らがなかった。そして絳攸に聞こえないようにひんやりと囁く。
「数年前、絳攸を捨て子と馬鹿にしたくせに、官位があがった途端今度はさんざんまつわりついて婿にと縁談をしつこくせまるとは、まったくあなたの面の皮の厚さをはかってみたいものです。あげく、あれに私がいちばん見たくない顔をさせるとは。何を言ったか知りませんが、あのときから私はあなたを許すつもりはさらさらなかった」
蔡尚書は黄尚書が有無を言わせぬ手段でおさえた自白(?)もあり、即刻縄についた。 彼に荷担した者も次々と暴露されて運行されていったが、それで捕り物は終わりではなかった。蔡尚書だけはいまだ縄目を受けたまま、余罪を追求する為にその場に残された。
「さて蔡尚書、そなたには余罪があったな。 紅進士と杜進士に害を及ぼそうとした。証拠はいくらでもある。 最初の集合時、書状の時刻を故意に変えられたのは、最後の確認印を押す尚書のそなただけだ。また毎日の昼食で、礼部から出される仕出しの折詰、その箸の部分から軽微な毒が検出された。杜進士が毎日何食わぬ顔をして箸をぬぐい、念のためと解毒の薬茶を淹れてくれてな。また、皮膚から徐々に体を侵していく類のものもあるそうだな。府庫での膨大な量の書翰、あの一部からその類の薬が検出された。 どうでもいい雑用なら、真ん中に押しこめておけば二人以外に触れる機会はない。これも、杜進士選別して処理してくれた。 杜進士は育ての堂主が医者で、本人も医者になりたかったそうでな、薬物に強いのだそうだ。鼻もよく利く。杜進士は余に現物の証拠を提出してくれている。『一部の書翰』がどこの部署で、誰の最終印が押されているかも調べ済みだ」
劉輝は手元の書翰を取り上げた。
「さきほどの黄尚書が用いた横領の証拠書翰、作成したのは、紅進士と、杜進士だ」
ざわり、と声があがる。
「 ......あの、細かい数値を、ですか?だいたいなぜそんなことを」
「書翰の整理や、予算確認の検算でおかしいと思ったそうだ。魯官吏からの自由課題を、その指摘にしようと二人で証拠をそろえていたらしい。国試の不正疑惑に関して朝議が開かれると知って、何かの一助になればと、仕上げて黄尚書に提出した。 そして、もう一つ」
そう言って劉輝は別の資料を皆に回させた。
「菫少師が官吏になってから、成した功績を記した調書だ。これは紅進士が一人で調べてまとめた物だ。ただ、楊将軍に関しては情報が少なく、まとめられなかったそうで残念がっていたらしい」
「わ、細かい。しかも、正確。あの子良くここまで調べたね」
「…………うわー…」
「うわ、とはなんだっ!喜べっ!いや、喜ぶなっ!」
「……あんた、それどっちよ」
「……お前らな……」
相変わらずな黎深に劉輝は小さく咳払いをして、劉輝は話を続けた。
「二人は誰が不正をしているか、ちゃんと気づいていたわけだ、蔡尚書」
蔡尚書は肩を震わせた。
「…………が悪いんだ」
「は?」
「女など入ってくるから悪いのだ!そうだ、すべてはお前が悪いんだ!官吏面でノコノコと入ってきた時から、全部狂いだしたんだ」
蔡尚書は狂ったようにわめきだした。
「確かに不正の噂も謀反の噂も私が流した!だがおかしいとは思わないのか?!!先王が強行した女人登用!一度は罪人で牢に入ったのになんのお咎めもなく再び出て来て主上の周りを彷徨く!そして今回の降って沸いたような女人受験!!」
「…………」
「十七の小娘が探花及第だと?!?国試はそんなに甘くない!才子といわれる者たちが毎年ボロボロ落ちてくのが国試だ。不正などしていないと思うほうが無理だろう!それに後見は紅黎深だ。紅家当主となればどんな道理もひっこむだろうが!」
誰もが蔡尚書を見限りつつあったが、この言葉は多くの官吏の胸に響いた。それは確かに、誰もが心の奥に秘めていた思いだったからだ。
「王と側近も、女人受験制を強行に推進した。それだっておかしいだろうが!主上はこの女達にそそのかされているんです!武官に女が居るのもおかしい!!大体、何故女如きが将軍職に就けるっ!その美貌で王の剣を腑抜けにしているに決まっている!!お前らのような阿婆擦れ共はここに相応しくない!主上付きになっても“花”も貰えぬのはそういうことだろう!?!家で大人しくしているのが女の務めだろうが!!」
一人の官吏が頷いた。
「……主上、私も、そう思います。正直なところをお聞かせ願いたい。実力でなければ、認められません。それこそが先王陛下が国試を導入したいちばんの理由であったはずです」
そうだ、と口々に声が上がる。
「そうだな、実力主義が国試だだから先王は王でさえ介入不可能な国試制度をつくった」
劉輝の静かな声に、ハッと誰もが口をつぐんだ。
「それは、国試を突破してきた者がいちばんよくわかっているのではないか?どれほど国試の公平性が厳しく、どんな不正も許さないか。身をもって体験してきたはずだ。それに国試を司る礼部尚書が、ここまで女人官吏を嫌い、追い落とそうとしていたのに、かなわなかったのはなぜか?――できなかったからだ。そう、国試は甘くない。それは国武試も同じだ。むしろ、国武試のほうが、己の腕っ節でしかその実力を示せぬ分、小細工の手段はなにもないがな」
「――だが、しかし――」
顔を真っ赤に声を荒らげる蔡尚書に潤月ははぁ、と息を吐いて剣を手に蔡尚書に近づいた。
「……私は、自分のことを大猿だとか、行き遅れだとか言われてもどうでも良いが、仲間を侮辱されるのはどうにも腹が立つ」
「ていうか、先ず疑問に思うべきことが多いのに何一つ疑わないのね」
呆れ果てた涼佳が言った言葉に蔡尚書は疑問符を頭に浮かべた。
「……呆れた。しょうがないから、先に答えを言うわ。先ず、一つ、噂の霄太師の娘と女人武官は同一人物である」
そう言った涼佳に合わせて潤月は養い親に手を振ると見たこともないニヤけ顔で懸命に胸を張るクソたぬきじじいがいた。
ゾッとざわめく空気を代弁するように涼佳が吐き捨てた。
「……うわ。キモ」
「…聞こえておるぞ」
「コホン、失礼。――二つ、何故、先王が女人登用を強行したのか。かつて、第二公子の許嫁として後宮入りしたあたしが、先王と賭けをして、見事勝ち取ったから。死刑宣告を免れるには国試状元及第のみであった。これに付随する疑問、何故私が許嫁に選ばれたかってことだけど、まぁ単純に美少女だからってだけじゃないのよね。菫家は元紫門四家。あたしの中に流れるのは王家の血筋である」
「うむ。涼佳姉上は余の遠い親戚にあたるぞ。紫門を抜ける際、先王と菫家当主の取り決めで、今後一切の政事の関与はしないとしていたが、涼佳姉上が個人的に持ちかけたとして、先王はその賭けを受け入れたという。そうだな、霄太師」
「ええ、その通りですじゃ」
「元王族の菫家と言えば、全商連を立ち上げた当主の一族よ。さて、ここまで言ったら流石のあなたでも、わかるわよね…?」
「………………」
涼佳はお得意様に優美に頭を下げた。
「全商連統括組合が一席・菫家名代を務めます。菫涼佳と申し上げます。去年の夏、我が家の経営するお宿にご宿泊いただきまして誠にありがとうございました。ご家族……いや、愛人でしたかね。楽しい時間をお過ごしいただけたようで、なによりにございます」
そういうと急にわなわなと蔡尚書は震え出した。
「――う、嘘だ!!」
「本当に、嘘みたいな話よねー。大変だったあの猛暑に見舞われた夏の中、あなたが仮病を使ってあまつさえ愛人と温泉旅行に行っていたなんて。約1ヶ月。金五十と飛んで銀三十二枚。この費用を経費として申請してるなんて、そんなバカな話あるわけないわよねー?」
わざとらしい言い方だったが、鳳珠が用意した資料の中に涼佳が言った金額の項目があった。名目上は『雑費』。
あの苦労した夏を、死に物狂いで乗り切った面々から、非難するような視線が集まる。
「――ち、違う!これは」
「極めつけの疑問は……言わなくてもいいわよね」
「まさに捨て身の戦法だな」
もう青ざめて口を開閉することしか出来ない蔡尚書に潤月は一度剣を下ろした。
「まぁ、お前が尚書に就いてしまった責任は私にもあるので……今までは黙って話を聞いてやっていたが」
そんな潤月に劉輝が口を挟んだ。
「……潤月、蔡尚書が礼部尚書に就いた責任があるというのはどういうことだ?」
「戩華おじさんの下で私は幼い頃から間者として朝廷で働いていました。なにぶん見た目に頓着がないので、良く男の子に間違われるのを利用してたんです」
「うむ。幼い頃、余も始めのうちは男の子だと思っていたくらいだ」
「ふふ、私の休憩中に良くこっそり遊びましたよね」
そう言った潤月に大堂はざわめいた。
高老官の誰かがふと思い出した。色素の薄い桃色の短い髪をした元気な少年が昔、てこてこと朝廷を駆け回っていたことを。
「身体の成長に伴い、誤魔化しきれなくなる前に朝廷を辞し、見聞を広げる為、全国を見て廻る旅に養い親である霄太師と二年ほど出ました。朝廷に帰ったら、戩華おじさんとした約束を果たす為に」
「……約束?」
「両親もなにも持たない私に力と居場所をくれると、戩華おじさんは言ってくれた。代わりに私は彼を王様扱いをしない。膝も折らない。友人として、彼を助けるという約束をした。その間に準備していた女人受験……だけど、帰ってきて朝廷の様子ががらりと変わっていた。…まあ、彼女が戩華おじさんと命をかけた賭けをしたことを聞いた時は流石に驚きましたが、暫く様子を観察して、彼女が文官として入るならば、私が文官になる必要はないと判断しました」
ちらりと涼佳を視線だけで見ればフイっと外方を向いた友人に小さく微笑をたたえた。
「……だが、そなたは文官の資格を持っているな?
「ええ。正解です。私は七歳で国試を受けました。間者でしたので、資格を持っているのと持って居ないのとでは大きな違いがありますから」
そんな話は知らなかった涼佳も密かに驚きに目を瞠った。
七歳。影月の最年少記録を優に超える年齢で受験し、しかも状元及第していた。
「それで、間者として最後の仕事が朝廷の若返りでした。新人武官として働きつつ、有能な人材を見極める」
「………………そうか。そなたが新しい風を運んだか。しかし、それがなぜ自分に責任があるというのだ?」
「…………………………もしや、私の有能さに気づいて、進言」
なんともおめでたい頭で前向きなことを口にした蔡尚書に潤月ははぁ、と溜息を吐いた。
「……すまない。それはない。――ある日、戩華おじさんに突然呼ばれて執務室に行ったんです。穴の空いた木箱を差し出されて『くじ引きだから一枚引け』と言われて、ワクワクしながら引いたんです……。なにが貰えるのかと思って紙を広げたら人の名前でした…………」
そして、そのまま礼部尚書の欄に名前が書かれた。
あれほど理解が追いつかない出来事はなかった。
「…………あの後、偉い剣幕で喧嘩してたんだよな。俺達三人で止めに入って…」
「あの方は相手が子供だろうが、潤月様だろうが食ってかかる者は容赦なく殴り返すからのう……」
潤月の性格を知る者はその時の光景を想像して呆れ、先王の威光を知る者はなんと命知らずなと恐ろしさを覚えた。
「だから、身の丈以上の地位に置かれているのは私がお前の名前をくじで引いてしまったからなんだ……。だが、官吏になるくらいだからと少しは期待してはいたんだ。まともに成長するかもしれないと…官吏としての自覚を持つかもしれないと…。最後のお手伝いがこんな形で終わるのは残念でしかないな」
「…………やっぱり……。今回やけに素直に言うこと聞くと思ってたわ」
「……とんでもないな」
責められて潤月はいたたまれなくなった。
「………うっ……。私だって安易に引いたの良くないことはわかってるよ……。奥さんの愚痴だったり、女に対する価値観だったり……あ、はっきり答えたことがなかったがお前の側室になる気も息子に嫁ぐ気もこれっぽっちもない。諦めてくれ」
そう言った潤月に蔡尚書は不可解そうに顔を歪めた。
わかっていない様子を察して涼佳が猫耳の付いた半面を懐から取り出して潤月に渡した。
素直に受け取った潤月は顔に当てて蔡尚書の顔を除き込んだ。
「……素敵な指輪をいただきありがとうございました、お大尽様」