花は紫宮に咲く
「最初の茶番など予想するまでもないわ」
きっと議題に出されたら小物ゆえに勝手にボロを出しそうだ。
「…まぁ、いいんじゃない?それよりも…大丈夫かしら、絳攸。あの娘との婚姻を条件とかに出されてたりしないかしら?」
「…フン、関係ないな。もし仮にそうなら握り潰してやる」
「…………アンタも、人の事言えないじゃない」
親というものは皆少なからず同じなのかと涼佳は呆れたように息を吐いて話題をおもむろに変えた。
「アレはどっちに行くと思う?」
手に持った反物を潤月に当てながら、涼佳は潤月に訊いた。
彼女がアレと称して、どっちと言った。潤月の頭に浮かんだ人物は彼しかいなかった。
「当然、右羽でしょ。静蘭の性格からして、楸瑛の下は嫌だと思う」
「あたし的には左羽に入って精神的に屈辱を受けてほしいわ。そして、それを見て笑いたい」
そう口にする長い付き合いの友人に息をついた。
いったいいつからそんなに仲が悪くなったというのか。
「………本当に嫌いなんだな。最近やっとわかったよ」
「……兄上のところの家人か…。文官という道もあっただろうに。…惜しいな」
その言葉に二人は否定した。
「性格ひねくれてるけど、天才肌だからな。そういうのはわかる」
「文官で朝廷に入ったが最後、王位争いの二の舞ね」
彼らが望んでなくても、周りはそうは思わない。勝手に権力争いの道具にされるのが目に見えてる。
「だろうな。………それに、劉輝は静蘭を文官にするぐらいなら王にしたいっていうと思う」
「言いそうね。――でも、仮にそうなったら、あたしは大手を振って退官してやるわ」
「……そうなったら、そうだなぁ…。私は言われたら協力ぐらいはしてやるって感じだな〜」
涼佳も黎深も考えたことは同じだった。協力以前にとっ捕まって後宮入りになるだろう。
そんな話をしていると黎深はわからんとい言いたげに眉根を寄せた。
「………お前達は、何故あの鼻たれ小僧に固執する」
「それは貴方にだけ先に教えることは出来ないわ」
「種明かしは最後に取っておくものだぞ?」
「―遅い!!」
そろりそろりと執務室の扉を開けると、開口一番、劉輝は絳攸の罵声に迎えられた。
「う………す、すまぬ」
「とっとと扉を閉める!」
「はい!」
思わず力一杯閉めるとその余波で山積みの書翰が雪崩れ落ちて、劉輝は埋まった。
楸瑛の手を借りて這い出ると絳攸に急かされながらも文字通り泳ぐように机案に辿り着くとどうにかこうにか椅子を発掘して座わると現状の報告を受けた。
「黎深殿が捕らえられたことで一刻と立たないうちに貴陽の機能の半分以上が停止。涼佳殿の文のおかげで貴陽全商連は問題はないですが、紅家の余波は食らっているようです。こっちは本当に時間の問題でしょう。羽林軍は両大将軍が居ますし、潤月が止めたので不満はあれど、正常に機能して抗議に押し寄せた紫州軍を止めています。ですが、裏を返せば疑念が羽林軍でも生まれているということです」
「………あと、一番厄介なのが、霄太師がご乱心でデタラメな指示書を制作してはばら蒔いています。そちらはすぐにでも収まるかと。従わぬよう回覧を回しておきました」
「…………………クソジジイめ……嫌がらせか…」
「……でしょうね」
紅黎深が拘束されてから城下は大騒ぎになった。貴陽の紅一族がことごとくが仕事を停止したのである。
職を問わずあらゆる分野で絶大な権力と影響力を誇る紅一族の仕事が止まると、城下の半分の機能があっというまに停止した。取引相手が非難をすると、口をそろえて「文句は城へ」というものだから、わずかもしないうちにこの執務室には泳げるほどの量の嘆願書がつみあがった。今も届けられる嘆願書は着々と増えつづけており、はみ出した書翰が氾濫した河のように廊下を占拠している。
霄太師のせいもあり、城内もすっかり大混乱の様相を呈していた。
劉輝は、文字通り書翰に埋もれている執務室をざっと眺めた。
「一応訊くが、これはすべて嘆願書か」
「そうです」
「……う、うーむ……まさか、ここまでやってくれるとは……」
劉輝は机案に突っ伏したかったが、突っ伏すところがなかった。
積みあげられた嘆願書を前に、さすがの楸瑛もどことなく笑い声が棒読みである。
「いやー、でも本当に豪快だねぇ、君の上司も。菫家は涼佳殿の文のおかげで通常通りですが、あれがなかったらと考えると恐ろしいですね」
「……というか、これは玖琅様の仕業だ。あの人は紅一族大事の人だから。……これでも玖琅様にしては手加減している。塩と鉄と米には制限を加えてないからな。範囲も貴陽だけに抑えているし、紅姓の官吏に辞表提出もさせてない」
「これで紅家ゆかりの官吏にそろって仕事を放棄されちゃ、冗談でなく国が倒れるよ」
「………これが、紅家の力か」
溜息をつきつつ、劉輝は嘆願書の山を見回した。
「なるほどな。余もいい勉強になった。これほどの力を持っているのに、よくも余みたいな若造に国を任せているものだ」
「国を頂点で支配したいなどと思っていたら、紅藍両家はここまで強大になりません。王など苦労ばかりで割に合わない仕事だと知っていますからね」
その通り、現在割に合わない仕事をするハメになっている劉輝は、自分を不幸だと思いつつ、いちばん訊きたくないことを訊いた。
「……………で、 その…………… 紅尚書達は、いまどうしてる」
「離宮の一つを丸ごと占拠して、自発的軟禁状態に入ってます」
楸瑛がわざとらしく目を丸くして見せた。
「え、あれって軟禁なのかい?美女二人も侍らせて主上より優雅な生活を送ってるように見えるけど」
「なぜまだ解放されてない?下っ端兵なんぞにあの三人を捕まえる権限はないはずだ」
「…………不当な汚名が晴れるまでは、“軟禁”される覚悟だそうです。当然嫌がらせです。…潤月は、あの二人に付き合わされているだけかと」
迷惑だ、と劉輝は心底思った。楸瑛は、今頃着せ替え人形になってるだろう同僚を思いご愁傷様と心の中で手を合わせた。
そうしている間にも扉からせっせと新たな嘆願書が流しこまれ、すでに絳攸の腰まで増水してきている。崩れてきた嘆願書の山を横に流しながら、しみじみと楸瑛は呟いた。
「それにしても、ここまで堂々かつ無茶苦茶な圧力をかけられると、もう圧力じゃないような気がしてくるから不思議だよねぇ…紅家が正義に見えるっていうか」
さしもの呑気な劉輝も、頭痛がした。新米王なのだからもう少し手加減してくれ。
「――楸瑛。もう半分の機能は藍家の支配下だ。今の状況でどれくらい保つ?」
楸瑛はくすくすと笑った。
「これが他家のやったことなら、この機にすべての地盤を吸収合併し、城下の機能を正常に戻すのに一日もかかりません。ですが、いかんせん玖琅殿が相手ではそうもいかないでしょう。 彼にしてもおそらく単なる揺さぶりのつもりでしょうし。保たせろと言われればおそらくこの混乱は、藍家が出るまでもなく一日でおさまると思います。逆に言えば、玖琅殿からの無言の要求ですね。一日で片を付けろという」
「わかった。こうなったらとっとと片づけるぞ。これ以上馬鹿を野放しにすると、とばっちりを食って朝廷が先に沈む。まったく、権力に弱い小物のくせして、なにをとち狂って絳攸でなく三人に手を出したんだあの男は。とんだ迷惑だ。潤月のことはまだしも、涼佳姉上は全商連の半分の権限を持つ菫家の姫君で元紫門四家だし、紅尚書が紅家当主だとも知らないわけじゃないだろうに」
憤慨する劉輝に、楸瑛がふと思いついたように言う。
「もしかして彼は、黎深殿が紅家当主ってコトも涼佳殿のコトも知らなかったんじゃないですか。私たちは付きあい上、知ってますけど、考えてみれば黎深殿が公の場でご自分の立場を明かしたことはありませんし、そもそも七家当主が宮仕えしてるなんて、普通は考えません。菫家が紫門菫家だった頃はまだ、先王の全盛期。霄太師が来たことで名宰相と謳われていた菫家の当主は身を引いて商家へと転じ一代を築いたと言われています」
紫門菫家。王族の血筋はあれど、王位継承順位など下から数えた方が早いほどの遠い遠い親戚。それゆえに他の紫門家系よりも王座への興味がなく、代々王家に仕えることを誇りにしてきた一族だった。戩華に惚れ込んで側に仕えた菫家当主は霄太師の朝廷入りで、ならば自分は邪魔なだけといって、一族が今後一切政治への関与をしないことと紫門を抜けるという条件を覇王からもぎ取り、黄州に渡った。全商連の最初の枠組を黄家と共に作り紅藍両家に赴き、提携・協定を取り付け一代を築きあげた。
にも関わらず、涼佳が清苑公子の許嫁として宮入したのは当時婿入りした父方の外戚の叔父が他の紫門四家にそそのかされ権力に目が眩んだからだった。半ば誘拐のように連れて来られた後宮。『必ず迎えに行く』と文が届く度にそれを胸に後宮での日々を過ごしていたのだった。
当時、清苑兄上と口喧嘩をする度に口癖のように「―すぐにこんな所出て行ってやるから!」と言っていたのを劉輝はふと思い出した。
…………そう言えば、いつからか言わなくなったが…………いつからだっただろうか。
「……………だが、有名な話だろう?」
「でも、主上。涼佳殿から公の場では姉上と呼ばないように注意されていたでしょう?」
しーん、と劉輝と絳攸は押し黙った。そうかもしれない、と二人は思った。
「......それは盲点だった」
「そこまで小物だとは思わなかったからな。なら、潤月に関してもそうなんだろう。霄太師の娘だと言うことも、まして羽林軍将軍なのも知らないだろ」
「そうだね。彼女に関しては徹底して伏せられてたから。最近になって霄太師に娘が居ることが明るみになったぐらいだし」
「……………」
呆れ果てて言葉が出ないとはこのことだろう。
「さてここで一つ朗報が」
にや、と楸瑛は笑った。
「燕青から報告がありました。どうやら同伴の少女が急かしたらしく、ずいぶん早い到着になるようで。明日夕刻までには到着してくれるようですよ」
劉輝は即座に机案から墨と筆の発掘にかかった。
「――夕刻だと?遅い。正午までに到着せよとの勅書を出す。大至急届けてくれ」
「おそれながら、すでに出しております。査問会の根回しもすんでいます。あと、こちらの小箱、邵可様から届きました。ものすごい証明書つきで」
小箱を開け、中の指輪をあらためた劉輝はあんぐりと口を開けた。
なぜ、これが。
「…………………な、なんで、邵可がこれを?誰が持ってた!」
「ひょんなご縁で、玖琅様がもってたそうですよ。いやー、そりゃいくら探したって、誰も見つけられるわけないですよねぇ」
あっはっは、と楸瑛はヤケッパチのように笑ったのであった。
* * * * *
翌日、出仕早々に魯官吏は占拠された離宮に来ていた。
離宮の一角で、黎深はいかにも優雅に茶を飲んでいた。くすり、と目の前の人物を見る。
「あなたは、私が相手でもまったく容赦がなかった。鼻っ柱を叩き折られましたよ」
てんてこまいの城下・城内の騒動に、官吏があちこち血相を変えて駆けずり回っていることなど知らぬげに――しかもその原因は彼である ――のうのうと瀟洒な椅子で王族以上にくつろいでいる黎深に、魯官吏は滅多に変えない顔に眉間の皺を刻んだ。
「………折れるほどもろい鼻っ柱ではありますまい―――」
ふと、居るはずの二人が居ないことに気づいた。
「………菫少師と楊将軍はどちらに?」
「ああ、それなら―」
黎深が答えようとすると、隣の室からドッタンバッタンと大きな音が聞こえた。
『―こんなの着ないっ!出席を求められてるのは楊将軍なんだっ!』
『―愛娘としてのお披露目でもあるんだから、姫の格好してもいいじゃないッ!』
『―良くないっ!!朝議だろっ!』
漏れ聞こえてくる会話を聞いて愉快そうに黎深は視線を魯官吏に戻した。
「変わり者が頑固者の支度をしている最中です。少しお待ちを」
「………そうですか。では、待ちます」
その室の中では色とりどりの豪華絢爛な衣が散乱していた。
「―その手を離しなさいっ!」
「―いーやーだっ!コレで充分なの!!」
「何度言えば分かるの!時と場所と場合を考えたら、着飾るのは当たり前でしょ!!」
「あぁ、お、お二方共…」
「お怪我をされてしまいます…」
相当な剣幕にオロオロと手伝いに入っていた宮女達が狼狽えていた。
それをチラリと横目に見て潤月は頑として武官服を着させまいと掴んだ手を離さない、涼佳に言う。
「―ほら見て!皆が困ってるよ!」
「アンタが折れたら良いのよ!そんな男物じゃ不格好だわ!」
「不格好じゃないから。コレが支給されたやつだから合ってるんだよ!……わかった。じゃあ、こうしよう。もし、花を受け取ってもらえて正装の話になったら、涼佳が決めていいよ。その代わり、今回はコレ着てく。……どう?」
「…………………………化粧も、もちろんありよね?」
「それは無し」
「じゃあ、交渉決裂ね。―そこのあなた、この子の腕掴んで!」
「え、………え、でも……」
「大丈夫よ。その子、か弱そうな人には乱暴しないから」
潤月の弱点であるか弱そうな宮女にそう言った涼佳にギョッとする。
「―だァァァッ!わかった!!わかったよ………全部は嫌だけど、口紅だけなら」
「………………………………………………わかったわ。今回はそれで、手を打ちましょう」
お互いに折り合いを付けると、二人は着替える為に別々の衝立の中に消えて行った。収まった喧嘩に胸を撫で下ろした宮女達はすぐに自分の仕事に取り掛かる。
少し皺が出来た武官服を宮女達は受け取り、大急ぎで皺を伸ばした。
慣れたもので早々に着替えを終えた涼佳は用意された鏡の前に座ると化粧道具を手に素早く顔に色をさして行く。
「―髪は結いますか?」
「ありがとう。だけど、私のことはいいわ。もう一人の彼女の方をお願いします。あの男物で申し訳ないけど、なんとか見栄えるようにしてあげてください。ここに用意した物ならなんでも使っていいので」
鏡越しに申し訳なさそうにお願いすると、声をかけてきた宮女は丁寧に礼を取り潤月の方に向かった。
まだ、衝立から聞こえる騒がしい声を聞きながら、自分の顔と睨めっこし終えた頃、潤月が疲れたように出てきた。
男物ではあったが、太めの束帯で女性らしい身体付きが強調されているものの、髪色に合わせたような配色の準正装の武官服は思ったよりも様になっていた。
振り向き、じっくりと涼佳は上から下までよく吟味した。
「―上々だわ」
涼佳の言葉に宮女達は達成感に満ちた顔で頭を下げた。
潤月は促されるまま、鏡の前に座り色素の薄い桃色の髪をすかれている。
「これなら、頭の後ろくらいで一つに結って、流してくださる?飾りは派手じゃなく簡素な物でまとめましょう。ちゃんと化粧をしないので紅はほんのり色付く程度でいいわ。色が濃いと口だけ際立って口裂け妖怪になりかねないから」
「―ふっ………かしこまりました」
思わずといったように笑ってしまった宮女は小さく咳払いをすると言われた通りに髪を結って行く。渋々といった様子で支度をされていた潤月は鏡台に置かれた小箱をみて手を伸ばした。
潤月の支度が完全に終わると、涼佳は宮女達を下がらせた。
紐を解いて中身を確認する。
繊細な枠の細工におさまる美しい白い桃の花は硝子の中に閉じ込めたように描かかれたようだった。見事というに充分有り余る。
「流石よね。こんなに綺麗な物見たことない」
「……ああ、あの子に頼んでよかった」
この時がついに来た。
先王・戩華に言い渡された審判の時―――。
掌におさまるそれを握り込んだ。
ふと、潤月は涼佳に聞かないといけないことを聞く。
「―なぁ、ところでさ」
言いたいことがわかった涼佳は肩を小さく上下させると頭を振った。
「さぁ。全くの偶然よね。そこだけ見ると賢いのか、馬鹿なのか、わからなくなるわよね」
「………………まぁ、さしたる問題はないから、別に、か…」
潤月は考えることをやめて立ち上がった。
支度を終えた潤月と涼佳は黎深が待つ室に入ると立って待っていた魯官吏に気づいて挨拶をした。
「―あ、お久しぶりです。魯教官」
「おはようございます、菫少師。楊将軍も、お久しぶりでございます。今年も会試予備宿舎の監督官を引き受けてくださり、心から感謝申し上げます」
丁寧に頭を下げる魯官吏に潤月は慌てて頭をあげさせた。
「―今回、そんな頭を下げられるほどの問題児は居ませんでしたし。――コイツらの時の方がよっぽど大変でした――まぁ、そのおかげもあって要領は掴めていたので、比較的落ち着いて責務を全う出来たと思っていますが、どうでしょうか?」
「ええ、貴女に任せて正解でした」
その言葉に潤月はにっこりと柔和に笑った。
「よかったです。これであの時の失態が返上できます」
「……………そんなことは言わないでください。……失態というなら、私は貴女を女性と知らずに手を上げてしまった……。それこそが、失態です。本当に、申し訳ございませんでした…」
なにを言ってもずっと頭を下げる魯官吏に、黎深が口を挟んだ。
「―あの時は本当に、驚きました。この私でさえも、この男、鬼畜なんじゃないのかと心底思いましたね」
「…………ぐっ……………………………」
「―確かに。傷心した鳳珠を元気付ける為とはいえ、なにも言わずに抜け出して危うく人質事件になりかけて――。私達にも落ち度はあったかもしれないけれど、救助に来てくれた潤月をボッコボコにしたのはドン引きしましたね」
「……………………………………ほ、本当に……申し訳ありませんでした…。女武官と聞いてたんですが、髪も短髪で見た目の判断が付かず………普通の武官だとばかり…………」
「おや、魯官吏とあろう者が言い訳ですか?珍しい」
「貴方でも、そんなことをいうのですね」
報告を受けて、無事に戻ってきた彼らを見て先王の推薦で仕事を頼んだ“彼”に感謝した。だが、このままでは今後も問題ばかり起こしそうだと判断した魯官吏は、戻ってきた涼佳達の前で“彼”を責めて体罰を行ったのだった。
短髪で武官。見た目も眉目秀麗だった。話に聞いていた女人武官は監督官の任を引き受けなかったのかもしれないとそう、思った。
事後の報告に先王に会いに行って、“彼”がその女人武官だと知ってすぐさま辞表と遺書を書いた。しかし、それは先王と彼女によって阻止された。
過去の行いに押しつぶされるように土下座をしそうな魯官吏の肩に潤月は手を置いた。
「……アレは私の監督不足で、危うく能吏の可能性を秘めた者達を失うところだったんです。当然の罰でした。それにもう、過ぎたこと。なので、それ以上謝罪を口にするなら、次回からの監督官は引き受けませんよ?」
「…………すい、………わかりました…。……貴女は優し過ぎます。あの時、あのまま首を吊らせていただいた方がよっぽどよかった…」
「それこそ、私が先王に怒られて切られます。――それよりも――」
キッと潤月は悠然と、お茶を楽しむ問題児筆頭二人を睨み付けた。
「――貴様ら、もしかして……反省してないとか、言わないよな?」
低くなる声音。本気で怒り出しそうな潤月にビクッと肩を震わせる。少し調子に乗りすぎた。
「……………反省、してます……」
「………………二度は言わん……」
二人の様子を見て、潤月は、はぁ、と息を吐き出した。
「―なら、よし!」
…………この二人を操れるのはこの方だけだろうな…。
見事に手懐けて居る潤月に、武官であることを魯官吏は内心で惜しんだ。
潤月は、開け放たれた窓の外をみやって、口を開いた。
「そろそろ、朝議が始まりますよね」
「はい。お二方の支度も整われたようですし、参りましょう」
「―待って。まだ少し時間があるわ。少しお話しながらお茶しましょう?」
そう言った涼佳を見て、ふむと納得すると、潤月は二人分の茶器を用意するよう近くに居た宮女に頼んだ。
そのやり取りを見て一人、立ち尽くす魯官吏はまだ行かないことに愕然とした。
……というか、楊将軍……そっち側にいかないでください…。
そんなことを思ったが、潤月は優しさから椅子に座るようにすすめてきた。
「どうぞ、座ってください魯教官。お茶を一杯飲む余裕はありますよね?」
「……まだ、余裕はありますけど……………一応、確認しますが…朝議には行くんですよね?」
何故そんなことを聞くのだろうかと潤月は不思議そうに小首を傾げた。
「……それは、当然行きますよ?必ず来るよう招集受けてるので」
「ええ。ちゃんと行きますよ。当然です」
「もちろんですよ」
潤月の背後に立つ二人の笑顔に、魯官吏は眉をピクリと動かした。
「―お茶、どうぞ。急いだ方がいいのは存じてますが、一杯だけ」
お茶を用意してくれた宮女に短くお礼を言うと、潤月は優しい口調で魯官吏に語りかけた。
にこやかに微笑む潤月に負けて、魯官吏はため息をついた。
「……貴女がそういうのなら…」
「―はい、ありがとうございます」
「しかし、使いから私と一緒ならば行くとおっしゃったと聞いたのでここへ来たんです。今城下城内がどうなっているか――」
泰然と宮女たちから給仕を受ける黎深は、ナニサマかと思うくらい偉そうである。
「どうなろうが知ったことではありませんね。私はこの二人と違って国にも王にも関心はない。大体、玉座に座ってるあの洟垂れ小僧はもっと世の中の苦労というものを知ったほうがいいんです」
「…………あなたにだけはいわれたくないと思いますけどね」
いまだかつて「間違った・悪かった・反省」の三語を使ったことがないという紅黎深こそ、少しは気苦労というものを知ってほしいと心底魯官吏は思った。 特に今。
「とはいえ、私はつまらない嘘はつきません。あなたと一緒なら朝議に参りましょう」
「ならお早く」
「いいじゃないですか。頑固で生真面目なあなたとこんな風に過ごせる時はそうないのです」
「そうです。行く前にゆっくりお茶をしましょう。昔話もしたいものです」
さすがの魯官吏もぷるぷると震えた。しかしそこは年の功。彼はひとつ溜息をつく。この傲岸不遜唯我独尊な紅家当主を、その手腕を惜しみなく発揮して朝廷内の状況を瞬時に把握し巣食う狐狸妖怪を一掃した菫涼佳を、朝議に引きずっていきたいなら彼らのいうとおりにしたほうがいちばん早道だとわかっていた。
黎深も涼佳も満足そうに目を細め、香り高い茶をすすめた。
「毒など入っておりませんので、ご心配なく。まああなたが私に厩番を命じた時は、もう頭にきて頭にきて何度抹殺しようかと思いましたが」
「私も朝廷内の庭院の草むしりを命じられた時は正気を疑ったわ」
「............そうでしょうな。私も何度殺気を感じたことか」
がぶりとあっさり茶を飲んだ魯官吏に、黎深は滅多に見せない本当の微笑を浮かべ、涼佳も仕事向きの笑みなどではない嬉しそうな笑みを浮かべた。
「しなくてよかった。 あなたの真意は、あとでわかる。官吏になったそのときに」
「本当に」
潤月は三人の会話を聞きながら、彼の変わらぬ表情を密かに伺った。
昔から魯官吏が将来有望な者に対して、特に目をかけるのはいつものことだった。
若くて優秀な者にほど、朝廷にのみこまれやすい。大貴族の後押しがある者なら、それを笠に着て堕落しやすい。後押しのないものは派閥に取りこまれて傀儡となりやすい。あちこち飛ばされれば、嫌でも各省庁が顔と名を覚えてくれる。 進士たちもてっとりばやく各部署に顔を売れるし、雰囲気や人間関係もある程度感じることができる。魯官吏の厳しい指導は、自分への自信と、朝廷勢力への抵抗力をつけるため、そして新進士の優秀さを見せつけて、上になめられないようにしてくれる。
だから、一見無茶で理不尽なことも行う。
傍から見て屈辱的な仕事場も、官吏や朝廷の真実を見聞きするのに最適な場所。ぽろっと気がゆるむからだ。あらゆる情報を得やすい。
そして、今回。影月はあまりに若く、なんの後ろ盾もない状元。 秀麗は若い上に女。そして、邪険にされていたが涼佳という例があった。否が応でも比べられる。
どちらも最初からなめられ、つぶしにかかられるのは目に見えていた。
だから魯官吏は公衆の面前で大量の仕事を任せ、それを見事処理していく様を見せつけた。人前で手ひどく叱責することで、それでも食いついてくる彼らの姿を見せつけた。 すべては、彼らを頭から侮る官吏たちに認めさせるために。
……もしついてこられなかったり、賄賂を渡したりする進士には早々に見切りをつけて仕事の分配を減らす。
厳しいが、選り分けて叩き上げるには確かなやり方だよね。本当に素晴らしい手腕だ。