花は紫宮に咲く
止めろ。口が勝手に動く。
なにを言ってるんだ、俺は……。
出会ってからそうだった。やっと自覚したのは去年の夏の終わり。彼女を前にすると息苦しいのも、言葉が詰まるのも、変な見栄を張ろうとするのも、占い師に言われた一言で片付けられた。
『――あなた、恋をしていますね――』
お気に入りの髪紐を壊してしまったと聞いて、なにか変わりの物を探してやろうと思って楸瑛と出かけた時だった。
自覚した途端、手の中にある贈り物が打算だらけの品に見えて自己嫌悪のすえ未だに渡せてはいない。
どんなに自分が気づいてないとしても、誰にも壁を作らず、対等であるかのように接する。それは彼女の魅力の一つだ。誰にでも出来ることではない。だが、自分が彼女の中で特別なのかもしれないと錯覚してしまう危うさがあった。
他の人に同じようにしないでほしいと思うまでに感情が侵食される。こんな醜い感情が恋だというなら、知らないままがよかった。しかし……。
自分の気持ちに気づいて、それからもう一つ気づいたことがある。ずっと無意識に目で追いかけていたから、わかっている。
「何故?うーん。なぜって、ただ単純に友人で、顔を合わせたら話したいじゃん。せっかくまた会えたのに、話せないのは寂しいし……驚くようなことされても私が大切な友人だと思ってることにかわりないから」
「……それは、残酷だと思う」
「…………………………絳攸?」
ガタリと立ち上がった絳攸を振り返って、潤月は近寄ってくる絳攸に一歩、二歩と後退ると本棚に背中がぶつかった。
退路を立つように両手を潤月の顔の横に付けると絳攸は真剣な眼差しで困惑する潤月を見つめた。
「…………もし、今。俺が潤月に口付けたら、同じことを思うのか?俺は武官でもないし、力は潤月よりも劣る。抵抗すれば簡単に逃げ出せるぞ」
そう言って、頬に優しく触れた絳攸の手にビクッと、身体が反応した。抱えた書籍と共にギュッと目を瞑った瞬間、潤月は持っていた書籍で自分の顔を覆っていた。
「え――?―嫌―――ちょっ!?ちょっと待ってっ!」
嫌、としっかり拒絶を示した潤月に絳攸は真剣な顔のまま少し離れた。
「友人同士でこんなことはしないし、それが普通の反応だ。俺でもわかる。お前はアイツのことが特別の好きなんだ」
「…………」
「嫌じゃないなら友人としてではなく、男としてみてやれ。見ていてアイツが可哀想だ。……驚くようなことをして、悪かったな」
「…………う、うん……。………………ごめん、私、ちょっと顔洗ってくる」
「わかった。それは俺が片付けておく」
差し出された手に持っていた書籍を渡して、小さく、ありがとう、と零した潤月は執務室をかけて出ていった。
廊下を走り去る足音が聞こえなくなり、一人執務室に取り残された絳攸は息と共にしゃがみ込んだ。クシャクシャに前髪をかき乱して誰に言うでもなく、吐き捨てた。
少し、怯えたような……まるで裏切られたような困惑した表情を思い出し、胸がチクリと傷んだ。
「…………クッソっ。なにやってんだ、俺はっ」
……あんな顔をさせたいわけじゃないのに……。
それを少し前から戻って来ていた主上付き仲間二人と執務室の主が窓の外から見ていたとは知るよしもなかった。
時は少し前に遡る。
大事な書籍や書類を吏部に届けに行き、執務室への帰り。楸瑛と涼佳は他愛ない雑談をしながら歩いていた。
「涼佳殿は誰か好意を寄せる人は居ないのかい?」
「……突然ね。居たとしても、あなたには喋らないわよ。あたし」
「えー、酷いな。いつも匿名でくる恋のお悩み文の相談にのっては毎度回す回覧板に挟んで律儀に答えているじゃないか」
楽しそうに訊いてくる楸瑛に涼佳は疲れたように息をついた。
「……答えないと、永遠とくるのよ。大事な連絡の文もあるのに混ざって大変なんだから。全く、誰がそんな噂を流したのか……。最早、嫌がらせなんじゃないかと思えるわ」
「この時期は特にねー。私はてっきり、たくさんの恋をしてきたかしているのかと思って」
「恋愛小説は読むけど、そういうのはもういいのよ。答えてる類もあの娘さんに贈り物がしたいけど……、とか言うものばかりなのよ」
そう言った涼佳に楸瑛はハッと気がついた。
「……まさか…。ここにいながら市場を動かしているのかい?」
「お財布の紐を緩めたいなら先ずは女性の心を掴めって割りと常識よ」
にっこり笑う涼佳に楸瑛は感服した。
商品を手っ取り早く売り込みたいなら実際に手に取って使ってもらうのが一番だ。それで気に入って女性が使ったら、もうこっちのものだ。人伝に噂が広まり物が売れる。売れれば、これが流行っているのかと男性が買いまた商品が売れる。
「…………その商魂魂は恐れ入るよ。流石は菫家と言ったところだね。……なら、あの噂はどう受け取っているんだい?」
朝廷には今、女人官吏に対して妙な噂が乱立している。
「どれも憶測の域を出ないけど……行き着いた思考回路の経緯は予想がつくわね」
「まあ、それは私にもだいたい予想がつくよ。だいぶ急いだからね、今回」
「まあ、放っておきましょ。私は気にしていないわ。――話を戻すけれど、恋というならあなたのお友達はどうなのよ。よく世話を焼いているみたいだけど、あまり進歩してるようには見えないわよ」
「……あ〜…。去年の夏の終わりに自覚はしたみたいでね。あとは彼次第かなって…。それよりも、彼女はどうなんだい?私にもいまいち読めないんだよね」
「なに言ってるの?あの子の考えなんて、「お腹空いたー」と「ご飯美味しー」と「剣ブンブンー」しか頭にないわよ。だから、あんなに間抜けなの。胡蝶さんにも協力してもらったけど、ダメね。クソたぬきじじいの教育が根強くて修正不可だわ」
「………霄太師がどう育てたら、潤月みたいな子が育つんだろうね…」
「本当に」
そんな話をしながら、執務室へ帰っていると何故か自分の室に入らずに扉にへばりついている主を見つけた。
「………………主上?」
「…………そんなところで、なにやって――」
「しぃーーーっ!!」
楸瑛と涼佳に気づいた劉輝は人差し指を口に付けながら、二人の下に駆け寄ると押しやるように庭院に連れ出した。
慌てながらも小声で楸瑛と涼佳に状況を簡単に言った。
「――静かにするのだ!今執務室が大変なことになっているのだっ!」
「…………大変ってどういうこと?」
「……執務室には、絳攸と潤月しかいないはずだけど…………」
そう口にして、二人はそろそろと窓から執務室の中を覗いた。
これほど、この言葉が合う場面もないだろう。絶句した。
「…………」
「…………」
絳攸が……。あの恋愛観が幼児で止まっていた絳攸が想い人 を押しやっている。……ように見える。
涼佳はハッと我に返って劉輝をみやって小声のまま説明を求めた。
「……ちょっと、これはどういう状況なの?」
「――ど、どうしたんです?!絳攸は!?な、なにか変なものを食べて」
「お、落ち着くのだ、楸瑛。……余もさっき戻ったばかりで、入ろうとしたのだが、なにやら込み入ったような話をしていたので、入りそこねてしまったのだ。……それで、室から妙な物音が聞こえて……ちょっと覗いたらこんなことになっていたのだ……」
覗きながら、劉輝が説明すると涼佳と楸瑛も再び言葉を失った。
「………襲ってる……感じではないわよね…、あれは」
「……そうだね……。口付けようと思ってたら、頭の角度が足りないかな……」
「……だが、絳攸だぞ?……そういうのわからないと思うのだが……」
「あ、離れたわ。……逃げて行くわね」
「……いや、逃げて行くというより」
「…………逃がしてもらったって感じだね……」
うずくまった絳攸の背中を見て、三人は窓から離れその場に屈み込むと顔を付き合わせた。
「……どうなのかしら。とりあえず、大人の階段を登ったってこと?」
「…ついに、絳攸が……。今日は赤飯だね」
「……うっ、余はどっちを応援したら……兄上にも幸せになってほしいが……絳攸にも…………難しい選択なのだぁ!」
頭を抱える劉輝に涼佳はばっさりと切って捨てた。
「なに言ってんの?応援するなら、絳攸を応援しなさいよ」
「おや、涼佳殿は絳攸派なのかい?」
「当たり前でしょ。あの男がフラれて精神的に地獄に落ちる様を見物したいわ。…ふむ、美味しいご飯が食べられそうね」
「………露骨に兄上に対して、嫌悪感が増していると思うのだが…」
「そう?まあ、どうでもいいけども職場環境を悪くするのだけは勘弁してほしいわ」
「それはそうと、主上は潤月をどう思います?」
「……うーむ、結局はそこなのだ。…………あ、前に読んだ小説で女主人が二人の旦那を愛するっていうものがあったぞ!仲良く暮らせるならそういうのもありかもしれぬ!」
「……もしかして、今巷で流行ってる男女逆転の恋愛活劇作のことですか?」
「あの話、愛憎渦巻くドロドロの話になるんだけど、大丈夫そ?」
「――なにっ?!そんなことになるのか!?まだ一巻しか読んでないから………そんな……あんなにほのぼと始まって、胸がキュンキュンしたのに…」
「ていうか、主上。いつそんなの読んだんですか?」
「…………え、いや……ちょっと夜寝れない時に……」
朝議でやたら眠そうな時があった。……あの日か。
「そんなの読んだら、余計寝れないでしょ。次の日の仕事に響くんだから夜更かしはやめなさい」
「……そうなのだ……気づいたら朝だったのだ……」
そんなくだらない話をしていると上から声が降って来た。
「………………なにしてるんです?」
ビク――ッと同時に肩を震わせた。慌てて立ち上がった二人と素早く機転をきかせて耳飾りをサッと取った涼佳が何事もなかったように説明した。
「ちょっと、耳飾りが取れて飛んで行ってしまったの。主上も楸瑛様も、探すのを手伝ってもらっていたのよ」
耳飾りが着いていないほうを見せた涼佳に、楸瑛と劉輝は感心した。
……流石すぎる。
――良い機転なのだ!
「そ、そうなのだ。余もちょうど通りがかって、二人がなにか一生懸命に探していて……。あ!決してサボってたわけではないのだ!」
「……そうなんですか。見つかりました?」
「ここまで探したけど、見つからないわ。もう無理ね」
「……えっと、良いのか…?」
「もし、よかったら私が新しい物を送っても良いかい?」
「それは申し訳ないわ。物はいつか壊れるし、きっと寿命だったのよ。気にしないで。一緒に探してくれてありがとうございました。絳攸も待たせてしまってごめんなさいね」
さ、仕事に戻りましょ、と言った涼佳は劉輝の背中を押しやって回廊に戻り執務室へと三人は入って行った。
職務が終わり、開店準備中の花街に誰にも見つからないように裏道から入ると人目につかないように姮娥楼の裏口の扉を開けて出勤した。
姮娥楼の待機室で一曲だけ歌い、椅子に片膝を抱え窓枠にもたれかかり、半面をクルクルと回し呆然としている潤月に胡蝶は不思議そうに声をかけた。
「…………潤月様、今日はなんだか色っぽいねぇ」
「あ、胡蝶。……色っぽい?化粧してるからでしょ?」
頭を起こしてそう言った潤月に胡蝶は頭をふった。
「いやいや、違うね。今自分がどれだけ恋焦がれている乙女の顔してるのか、鏡を持って来て見せてやりたいよ」
「………………コッ…………って…そ、そんなことないよっ!勘違いだってば!」
顔を真っ赤にして、否定する潤月に胡蝶は持って来たお茶を卓上に置き、潤月の向かいに腰掛けた。
「この時間に来なければ、あのおデブ大尽様は来ないから女同士の会話を楽しもうとしようじゃないか。自慢じゃないけど、この胡蝶、ありとあらゆる相談を受けてきて一切外に漏らしたことのないのさ。口が固いことでここら辺じゃ有名だよ?」
たわわな胸をドヤンと張る胡蝶をみて、潤月は椅子に両膝を抱えてぽつりと話しだした。
「………………今日ね、同じ職場の友人に…私がとある友人を特別に好きなんだって、言われたの」
「………ほう?潤月様は好きなのかい?その友人のこと」
「……好きは好きなんだけど………………………ずっと前にね、小さい頃から付き合いがあって、友人だと思ってる人に突然口付けされて、……好きだって言われたの…。気まずくて、極力合わないようにしてたんだけど……顔を見て喋ったり出来ないのは寂しくて、仕事に私情は持ち込んじゃいけないから、頑張って普通にしてた。そしたらその人は、今はまだ友人でいいって……だけど、突然抱きしめられるし、口付けもしてくるし……友人以上恋人未満だって、よくわからないことも言われるけど、おしゃべりが出来るからいいかなって思ってたんだけどね………」
「だけど?」
「……今日、同じ職場の友人に注意されたんだ。友人同士で口付けはしないし、普通は嫌なものなんだって教えられた。男として見られてないせ―――……その人が可哀想だって……」
話を聞きながら胡蝶はお茶を飲んで考えていた。
……それは、随分と良い男が居たもんじゃないか。
同じ職場の友人と言った潤月の交友関係を思い当たるだけでも思い出してみた。
先ず、初めに胡蝶の中で藍楸瑛は除外された。彼なら、そんな直接的なことはせず、自分の経験と知識で言って聞かせられるだろう。残るは二人。王様は言動は幼そうだったが、女の扱いをわかっているようだった。もしかしたら、無きにしも非ずだが考えずらい。
…………残るは……。
「――男としてって言われても、友達だしぃーっ!」
身体と膝の間に顔を埋めた潤月に一つ確認した。
「潤月様は恋って知っているかい?」
「…………知ってるよ。いつも女官達から恋バナ聞くし」
「なら、それを聞いてどう思う?」
「嬉しそうだったり、楽しそうだったり、可愛いなって思う」
聞き方を間違えたか……?
「……そうではなくてね、他の人の恋の話を聞いて自分もそういう恋をしたいとか思わないかい?他人のことじゃなくて、自分のことだよ」
「……自分が……恋をしたいか?」
「そう、誰かを好きだとか愛おしいとか思うだろう?」
「――それなら、みんなにそうだよ?私は、みんな好き。大切な友人。これから、出会う人々も今まで出会って来た人達も大事。この国の全てが愛おしいと思う。でも、愚かな人は居るから、そういう人達にはちゃんと反省してもらわなきゃいけない。幸せになる為に、人は生まれてくるのだから」
本当に心からそう思っているような見惚れるほどの微笑みを浮かべる潤月に胡蝶は息をのんだ。
気味の悪さを感じるほど、彼女言葉には、当然のように慈愛という意思があった。
「…………そう、じゃない、んだ。そうじゃない」
「???」
小首を傾げた潤月に胡蝶は背筋に何故か悪寒を感じた。
胡蝶は、ふと目の前の女性が歪なものに思えて来た。
清廉潔白。純真無垢。純白すぎて歪んでいる。
穢されず、穢れを知らず、この世の全ての綺麗なものを詰め込んだような彼女にこれ以上、人が幸せにも、醜くくにも、なれることを教えていいのだろうか。
――それは開けてはいけない扉に触れる行いではないだろうか。
いや、もしかしたら、今しかないのかもしれない。胡蝶はふとそんなことを思ってしまった。
彼女を思いやった友人がきっかけを教えた、今しかない。
「……潤月様、いいかい?良くお聞き。恋とか、愛っていうのは全員に向けるものじゃないんだよ。誰か特別な一人に向けるものだ」
「…………」
「そう言うと、家族が思い浮かぶかもしれないけど、家族を愛おしいと思うのは当たり前さ。親が子を愛おしいと思うように、子も親に愛情を向ける。これは人間だけの話じゃない、犬猫や他の動物だって同じ。だけど、動物と人間の違いがある。それは恋することが出来る。愛することが出来る。想いを伝えることが出来る。それらは全て、心 が決めるんだ」
自分の胸を指さした胡蝶につられて、潤月は潤月の胸に手を当てた。
「その注意してくれた友人に迫られた時は嫌だったんだろう?」
「……うん。でも、好きな友人の一人なのに…ちょっと、怖かった……」
「平気っていう友人はどうなんだい?」
「…………びっくりはするけど、嫌じゃ、ない……」
「一緒に居て、どうだい?」
「………………楽しい。もっとずっと話を聞いていたいし、喋っていたい……」
「その友人に好きだと想いを言われた時、どんな気持ちだった?」
「……………恥ずかしかったし、……驚いた……」
「じゃあ、質問をかえよう。想像してごらん?もし、その友人が他の女性と仲良さそうにしていたり、抱き合っていたら?」
「……………………」
静蘭が見知らぬ女性と抱きしめ会っているところを想像すると胸の内がモヤッとした。
なんだか変な気持ちが湧いてくる。
しかめっ面になっていく彼女に胡蝶はふと笑みを零した。
「……潤月様、今まで聞いた恋の話を思い出して、その友人を思い浮かべながら今の自分の気持ちと答え合わせしてみな」
言われて、潤月は女官達に聞かされた恋の話を思い出しながら、静蘭の姿を思い浮かべる。
静蘭が元気そうだと嬉しい。笑って話が出来たら楽しい。目が合うと先に柔らかく笑ってくれるのが―――――。
ギュッと締め付けられるような感覚に急に熱くなる頬に驚き目を見開く。ばっと両手で頬を挟み込んだ。
「――っ?!は、へ……?!えっ!?」
そんな初心な反応に胡蝶はクスクスと笑みを零すと、そっと立ち上がって潤月の唇に白く細長い自身の指を押し当てた。
「――潤月様。ようやく気づいたようだね?でも、その想いは先ずは隠しておかなきゃならない」
「…………そう、なの?」
「それが本当に、恋なのか、はたまた勘違いなのか……。自分の中で確認しなきゃいけないのさ」
「…………勘違いってあるの…?」
「ああ、あるよ。これが恋する人のめんどくさいところでね。好意と愛情は違う。好意を恋と勘違いすることもあるんだよ。尊敬とか憧れが、それに当たるんだろうね。そういう場合から始まる恋もあるけれど、だからこそ、今気づいた気持ちが本当に恋なのか。本当に惹かれているのか。これは潤月様が一人で確かめるべきことだよ。だから、今は自分の中に潜めて育むんだ」
「………………」
「それが、確かに愛情として花開くまでね」
潤月はギュっと口を結んだ。そして、ふと絳攸が頭の隅を掠めた。
「…………彼は…なんでこんなこと言ったんだろう?私より、私の気持ちに気づいてたってこと?」
そう呟いた彼女に胡蝶はなんと言おうか迷った。
「…………あ〜〜〜……、それは、そうだね……。……きっと良く見ていたんだろうね。下手したら、喧嘩になって嫌われそうなことだよ」
「………………そっか……」
朝方帰宅した潤月は静かに玄関を開けて、邸に入って行った。
お風呂に向かうとついさっき入れたばかりかというほど、お湯が温かかった。
そのまま、衣服を脱いで身体を先に洗い湯船に浸かる。
冷えきった手足の先からじんわりと身体が温まって行くのを感じると、脱衣所のほうから声が聞こえた。
「――姫様、おかえりなさいませ。お着替えはこちらに置いて起きます」
「――あ、ありがとう、鈴華。…起こしちゃったね。あとはいいから」
「かしこまりました。食事のご用意をしておりますね」
去って行く気配を湯船から見送って、手足をグッと伸ばした。
…………恋……か……。
気づかなかった。言われて初めて気づいた。女官達が口々に話すことをただ聞いていた。あまりにも楽しそうに話す姿は幸せそうで、楽しそうで、こっちまで嬉しくなる。
幸せそうなところを見ると嬉しい。よかった、と安心する。
「…………私って、恋、とか……していいのか……」
そう一人呟いて、潤月は湯船の縁に頭を預けて、瞼を閉じた。誰にもするなとか、しちゃいけないとか言われたことはない。だが、ただなんとなく、しちゃいけない気になっていた。
(どうして…?)
そうだ、霄じいとか優しい友人達が居たからだ。それだけで私は幸せだった。
(……本当に?)
本当だ。記憶がなくて、自分が誰かもわからなかった。けど、そんなの気にならないくらいにみんなが、霄じいが一緒に居てくれた。
楽しかった。……けど、茶おじさんが亡くなった時、自分の中のナニカが崩れた気がした。
(…………わたし、はサビシイ……。)
サビシイ?私が……?
(……サビシイ……、ワたしを、ミテ……。)
グッと喉が閉まる思いに目を見開いた。
身体を起こそうと足を踏ん張ると、湯船の底が滑ってお湯の中に沈んだ。
潤月が帰って来たのを察して目が覚めると、霄太師は欠伸をしながら起き上がった。本来ならば、寝る必要などないが潤月を預かって一緒にと暮らすようになってから、習慣化されて癖になってしまった。
…………潤月様は…………風呂か……。
今日も無事に帰って来たことに安堵する。人の子のように扱わねばならない為、あの年頃で迎えなど行ってはいけないらしい。なんとも、短い尺度だ。私からしてみれば、まだ三十年も生きてないのに。赤子も同然だ。
霄太師は寝巻きを着替える為に腰紐に手をかけて、止まった。
霄太師は自分の手を凝視した。
老人であるはずの皺だらけの手がハリのある若々しい手になっている。周りを見渡して鏡を見つけると、齧り付くように自分の姿を確かめた。長髪で黒髪のわかわかしい青年の姿が映っていた。
青年は慌てて指を鳴らすと、寝巻きのまま潤月が居る風呂場へと駆け出す。
部外者と見間違われても仕方ない姿にも関わらず、廊下ですれ違った家人達は青年に見向きもしなかった。
乱暴に風呂場の扉を開けば、そこには薄い桃色だった髪が煌めく金糸のように美しい濡れた髪を気だるげにかきあげ、呆然と立ち尽くす、潤月の姿があった。
「―――ッ、潤月……様……」
「…………」
名前を呼べば、程よく引き締まった肉体美を隠すこともせず、霄に向き直った。かち合ったその瞳は星のない夜空のように、どこまでも深い闇夜だった。
絳攸は書類や書翰が積み上がる執務室で一人、終わらない仕事を処理していた。処理しても処理しても高さが変わらない仕事量に床から湧いているのかと疑いたくなった。
突然、テカテカに飾りたてたあまりにふくよかな女人が毒々しいまでの厚化粧の顔をにこやかな笑顔でお茶を持って現れた。
「お仕事お疲れ様でございまする。旦那様」
「……………………………………………………………………誰だ」
いや、一度見た事がある。あの男が寄越した娘の姿絵の女人だ。
「いやですわ。私と旦那様は夫婦ではありませぬか」
「………………………………………………………………………………は?」
「うふふ、お忘れになったので?ついこの前、結納も済ませたではありませんか。美味しい天津のお店をだそうと行って一緒に修行に出たではありませんか」
知らない。いや、知らない。なんだそれは……。
困惑してると、後ろを振り返れば養い親である黎深が冷たい視線を投げ、その隣ではその妻の百合さんが目元を抑えて泣いていた。
「――黎深様っ!これは――」
「……………………好きにすればいい……」
「――――待っ―――っっっ?!」
踵を返して去って行く黎深に絳攸は必死に手を伸ばすと女人とは思えない力で引き止め、もとい羽交い締めにされた。強烈に漂う白粉の匂いにウッと口を覆った。
「――は、離れろッ!!貴様と結婚なんか出来るかっ!!」
「もうしてしまったのですわ。今更取り消すことなど出来ませぬ」
「――――だっ、誰か―――助け――」
そういうと、グイッと身体が引っ張られたかと思えば、潤月が自分を横抱きにしていた。どういう状況なんだ。
「…………彼は、私の――だ。困らせることはしないでいただきたい」
「………………潤月……」
ドキドキと、高鳴る胸を抑えるようにギュッと袷を握った。地面に下ろされると、潤月と向き合った。しかし、彼女の表情は不機嫌そうだった。
「……………………潤月……?」
「……絳攸、私……絳攸のこと、友人だと思ってたのに…………結婚したことも教えてくれないんだね…………」
「―――違うっ!!これはなにかの間違いだっ!!俺が好きなのは……俺が好きだと思っているのは、潤月だっ!」
そう口走ってしまえば、潤月は驚いたように目を丸くして、星空のような瞳を瞬かせて柔和に笑った。
「……本当?……嬉しい………。――じゃあ、婿入りに来てくれる?」
「…………はい……?」
「絳攸は二人目になっちゃうから、順番的に側室になるけど仕方ないよね」
「………は?……二人目?側室……?」
彼女の言ってる意味がわからない絳攸は困惑するしかなかった。
「正室は彼だから。二人とも仲良くね」
「――改めて、よろしくお願いいたします。絳攸殿。お互い、妻を支える為に手を取り合って頑張りましょう」
「…………………あ、………ああ…」
にっこりと笑顔の背後に見える黒い物が獰猛な虎と化して威嚇している。
一応、なけなしの矜恃で同じように威嚇を試みるが自分の背後に召喚されたのは兎だった。無理だ。適うわけがない。
近づく、虎から兎を抱き寄せ庇うとそのまま後退する。ズルりと身体が浮遊感に包まれたかと思えば、背中に強い衝撃を受けた。
なにを言ってるんだ、俺は……。
出会ってからそうだった。やっと自覚したのは去年の夏の終わり。彼女を前にすると息苦しいのも、言葉が詰まるのも、変な見栄を張ろうとするのも、占い師に言われた一言で片付けられた。
『――あなた、恋をしていますね――』
お気に入りの髪紐を壊してしまったと聞いて、なにか変わりの物を探してやろうと思って楸瑛と出かけた時だった。
自覚した途端、手の中にある贈り物が打算だらけの品に見えて自己嫌悪のすえ未だに渡せてはいない。
どんなに自分が気づいてないとしても、誰にも壁を作らず、対等であるかのように接する。それは彼女の魅力の一つだ。誰にでも出来ることではない。だが、自分が彼女の中で特別なのかもしれないと錯覚してしまう危うさがあった。
他の人に同じようにしないでほしいと思うまでに感情が侵食される。こんな醜い感情が恋だというなら、知らないままがよかった。しかし……。
自分の気持ちに気づいて、それからもう一つ気づいたことがある。ずっと無意識に目で追いかけていたから、わかっている。
「何故?うーん。なぜって、ただ単純に友人で、顔を合わせたら話したいじゃん。せっかくまた会えたのに、話せないのは寂しいし……驚くようなことされても私が大切な友人だと思ってることにかわりないから」
「……それは、残酷だと思う」
「…………………………絳攸?」
ガタリと立ち上がった絳攸を振り返って、潤月は近寄ってくる絳攸に一歩、二歩と後退ると本棚に背中がぶつかった。
退路を立つように両手を潤月の顔の横に付けると絳攸は真剣な眼差しで困惑する潤月を見つめた。
「…………もし、今。俺が潤月に口付けたら、同じことを思うのか?俺は武官でもないし、力は潤月よりも劣る。抵抗すれば簡単に逃げ出せるぞ」
そう言って、頬に優しく触れた絳攸の手にビクッと、身体が反応した。抱えた書籍と共にギュッと目を瞑った瞬間、潤月は持っていた書籍で自分の顔を覆っていた。
「え――?―嫌―――ちょっ!?ちょっと待ってっ!」
嫌、としっかり拒絶を示した潤月に絳攸は真剣な顔のまま少し離れた。
「友人同士でこんなことはしないし、それが普通の反応だ。俺でもわかる。お前はアイツのことが特別の好きなんだ」
「…………」
「嫌じゃないなら友人としてではなく、男としてみてやれ。見ていてアイツが可哀想だ。……驚くようなことをして、悪かったな」
「…………う、うん……。………………ごめん、私、ちょっと顔洗ってくる」
「わかった。それは俺が片付けておく」
差し出された手に持っていた書籍を渡して、小さく、ありがとう、と零した潤月は執務室をかけて出ていった。
廊下を走り去る足音が聞こえなくなり、一人執務室に取り残された絳攸は息と共にしゃがみ込んだ。クシャクシャに前髪をかき乱して誰に言うでもなく、吐き捨てた。
少し、怯えたような……まるで裏切られたような困惑した表情を思い出し、胸がチクリと傷んだ。
「…………クッソっ。なにやってんだ、俺はっ」
……あんな顔をさせたいわけじゃないのに……。
それを少し前から戻って来ていた主上付き仲間二人と執務室の主が窓の外から見ていたとは知るよしもなかった。
時は少し前に遡る。
大事な書籍や書類を吏部に届けに行き、執務室への帰り。楸瑛と涼佳は他愛ない雑談をしながら歩いていた。
「涼佳殿は誰か好意を寄せる人は居ないのかい?」
「……突然ね。居たとしても、あなたには喋らないわよ。あたし」
「えー、酷いな。いつも匿名でくる恋のお悩み文の相談にのっては毎度回す回覧板に挟んで律儀に答えているじゃないか」
楽しそうに訊いてくる楸瑛に涼佳は疲れたように息をついた。
「……答えないと、永遠とくるのよ。大事な連絡の文もあるのに混ざって大変なんだから。全く、誰がそんな噂を流したのか……。最早、嫌がらせなんじゃないかと思えるわ」
「この時期は特にねー。私はてっきり、たくさんの恋をしてきたかしているのかと思って」
「恋愛小説は読むけど、そういうのはもういいのよ。答えてる類もあの娘さんに贈り物がしたいけど……、とか言うものばかりなのよ」
そう言った涼佳に楸瑛はハッと気がついた。
「……まさか…。ここにいながら市場を動かしているのかい?」
「お財布の紐を緩めたいなら先ずは女性の心を掴めって割りと常識よ」
にっこり笑う涼佳に楸瑛は感服した。
商品を手っ取り早く売り込みたいなら実際に手に取って使ってもらうのが一番だ。それで気に入って女性が使ったら、もうこっちのものだ。人伝に噂が広まり物が売れる。売れれば、これが流行っているのかと男性が買いまた商品が売れる。
「…………その商魂魂は恐れ入るよ。流石は菫家と言ったところだね。……なら、あの噂はどう受け取っているんだい?」
朝廷には今、女人官吏に対して妙な噂が乱立している。
「どれも憶測の域を出ないけど……行き着いた思考回路の経緯は予想がつくわね」
「まあ、それは私にもだいたい予想がつくよ。だいぶ急いだからね、今回」
「まあ、放っておきましょ。私は気にしていないわ。――話を戻すけれど、恋というならあなたのお友達はどうなのよ。よく世話を焼いているみたいだけど、あまり進歩してるようには見えないわよ」
「……あ〜…。去年の夏の終わりに自覚はしたみたいでね。あとは彼次第かなって…。それよりも、彼女はどうなんだい?私にもいまいち読めないんだよね」
「なに言ってるの?あの子の考えなんて、「お腹空いたー」と「ご飯美味しー」と「剣ブンブンー」しか頭にないわよ。だから、あんなに間抜けなの。胡蝶さんにも協力してもらったけど、ダメね。クソたぬきじじいの教育が根強くて修正不可だわ」
「………霄太師がどう育てたら、潤月みたいな子が育つんだろうね…」
「本当に」
そんな話をしながら、執務室へ帰っていると何故か自分の室に入らずに扉にへばりついている主を見つけた。
「………………主上?」
「…………そんなところで、なにやって――」
「しぃーーーっ!!」
楸瑛と涼佳に気づいた劉輝は人差し指を口に付けながら、二人の下に駆け寄ると押しやるように庭院に連れ出した。
慌てながらも小声で楸瑛と涼佳に状況を簡単に言った。
「――静かにするのだ!今執務室が大変なことになっているのだっ!」
「…………大変ってどういうこと?」
「……執務室には、絳攸と潤月しかいないはずだけど…………」
そう口にして、二人はそろそろと窓から執務室の中を覗いた。
これほど、この言葉が合う場面もないだろう。絶句した。
「…………」
「…………」
絳攸が……。あの恋愛観が幼児で止まっていた絳攸が
涼佳はハッと我に返って劉輝をみやって小声のまま説明を求めた。
「……ちょっと、これはどういう状況なの?」
「――ど、どうしたんです?!絳攸は!?な、なにか変なものを食べて」
「お、落ち着くのだ、楸瑛。……余もさっき戻ったばかりで、入ろうとしたのだが、なにやら込み入ったような話をしていたので、入りそこねてしまったのだ。……それで、室から妙な物音が聞こえて……ちょっと覗いたらこんなことになっていたのだ……」
覗きながら、劉輝が説明すると涼佳と楸瑛も再び言葉を失った。
「………襲ってる……感じではないわよね…、あれは」
「……そうだね……。口付けようと思ってたら、頭の角度が足りないかな……」
「……だが、絳攸だぞ?……そういうのわからないと思うのだが……」
「あ、離れたわ。……逃げて行くわね」
「……いや、逃げて行くというより」
「…………逃がしてもらったって感じだね……」
うずくまった絳攸の背中を見て、三人は窓から離れその場に屈み込むと顔を付き合わせた。
「……どうなのかしら。とりあえず、大人の階段を登ったってこと?」
「…ついに、絳攸が……。今日は赤飯だね」
「……うっ、余はどっちを応援したら……兄上にも幸せになってほしいが……絳攸にも…………難しい選択なのだぁ!」
頭を抱える劉輝に涼佳はばっさりと切って捨てた。
「なに言ってんの?応援するなら、絳攸を応援しなさいよ」
「おや、涼佳殿は絳攸派なのかい?」
「当たり前でしょ。あの男がフラれて精神的に地獄に落ちる様を見物したいわ。…ふむ、美味しいご飯が食べられそうね」
「………露骨に兄上に対して、嫌悪感が増していると思うのだが…」
「そう?まあ、どうでもいいけども職場環境を悪くするのだけは勘弁してほしいわ」
「それはそうと、主上は潤月をどう思います?」
「……うーむ、結局はそこなのだ。…………あ、前に読んだ小説で女主人が二人の旦那を愛するっていうものがあったぞ!仲良く暮らせるならそういうのもありかもしれぬ!」
「……もしかして、今巷で流行ってる男女逆転の恋愛活劇作のことですか?」
「あの話、愛憎渦巻くドロドロの話になるんだけど、大丈夫そ?」
「――なにっ?!そんなことになるのか!?まだ一巻しか読んでないから………そんな……あんなにほのぼと始まって、胸がキュンキュンしたのに…」
「ていうか、主上。いつそんなの読んだんですか?」
「…………え、いや……ちょっと夜寝れない時に……」
朝議でやたら眠そうな時があった。……あの日か。
「そんなの読んだら、余計寝れないでしょ。次の日の仕事に響くんだから夜更かしはやめなさい」
「……そうなのだ……気づいたら朝だったのだ……」
そんなくだらない話をしていると上から声が降って来た。
「………………なにしてるんです?」
ビク――ッと同時に肩を震わせた。慌てて立ち上がった二人と素早く機転をきかせて耳飾りをサッと取った涼佳が何事もなかったように説明した。
「ちょっと、耳飾りが取れて飛んで行ってしまったの。主上も楸瑛様も、探すのを手伝ってもらっていたのよ」
耳飾りが着いていないほうを見せた涼佳に、楸瑛と劉輝は感心した。
……流石すぎる。
――良い機転なのだ!
「そ、そうなのだ。余もちょうど通りがかって、二人がなにか一生懸命に探していて……。あ!決してサボってたわけではないのだ!」
「……そうなんですか。見つかりました?」
「ここまで探したけど、見つからないわ。もう無理ね」
「……えっと、良いのか…?」
「もし、よかったら私が新しい物を送っても良いかい?」
「それは申し訳ないわ。物はいつか壊れるし、きっと寿命だったのよ。気にしないで。一緒に探してくれてありがとうございました。絳攸も待たせてしまってごめんなさいね」
さ、仕事に戻りましょ、と言った涼佳は劉輝の背中を押しやって回廊に戻り執務室へと三人は入って行った。
職務が終わり、開店準備中の花街に誰にも見つからないように裏道から入ると人目につかないように姮娥楼の裏口の扉を開けて出勤した。
姮娥楼の待機室で一曲だけ歌い、椅子に片膝を抱え窓枠にもたれかかり、半面をクルクルと回し呆然としている潤月に胡蝶は不思議そうに声をかけた。
「…………潤月様、今日はなんだか色っぽいねぇ」
「あ、胡蝶。……色っぽい?化粧してるからでしょ?」
頭を起こしてそう言った潤月に胡蝶は頭をふった。
「いやいや、違うね。今自分がどれだけ恋焦がれている乙女の顔してるのか、鏡を持って来て見せてやりたいよ」
「………………コッ…………って…そ、そんなことないよっ!勘違いだってば!」
顔を真っ赤にして、否定する潤月に胡蝶は持って来たお茶を卓上に置き、潤月の向かいに腰掛けた。
「この時間に来なければ、あのおデブ大尽様は来ないから女同士の会話を楽しもうとしようじゃないか。自慢じゃないけど、この胡蝶、ありとあらゆる相談を受けてきて一切外に漏らしたことのないのさ。口が固いことでここら辺じゃ有名だよ?」
たわわな胸をドヤンと張る胡蝶をみて、潤月は椅子に両膝を抱えてぽつりと話しだした。
「………………今日ね、同じ職場の友人に…私がとある友人を特別に好きなんだって、言われたの」
「………ほう?潤月様は好きなのかい?その友人のこと」
「……好きは好きなんだけど………………………ずっと前にね、小さい頃から付き合いがあって、友人だと思ってる人に突然口付けされて、……好きだって言われたの…。気まずくて、極力合わないようにしてたんだけど……顔を見て喋ったり出来ないのは寂しくて、仕事に私情は持ち込んじゃいけないから、頑張って普通にしてた。そしたらその人は、今はまだ友人でいいって……だけど、突然抱きしめられるし、口付けもしてくるし……友人以上恋人未満だって、よくわからないことも言われるけど、おしゃべりが出来るからいいかなって思ってたんだけどね………」
「だけど?」
「……今日、同じ職場の友人に注意されたんだ。友人同士で口付けはしないし、普通は嫌なものなんだって教えられた。男として見られてないせ―――……その人が可哀想だって……」
話を聞きながら胡蝶はお茶を飲んで考えていた。
……それは、随分と良い男が居たもんじゃないか。
同じ職場の友人と言った潤月の交友関係を思い当たるだけでも思い出してみた。
先ず、初めに胡蝶の中で藍楸瑛は除外された。彼なら、そんな直接的なことはせず、自分の経験と知識で言って聞かせられるだろう。残るは二人。王様は言動は幼そうだったが、女の扱いをわかっているようだった。もしかしたら、無きにしも非ずだが考えずらい。
…………残るは……。
「――男としてって言われても、友達だしぃーっ!」
身体と膝の間に顔を埋めた潤月に一つ確認した。
「潤月様は恋って知っているかい?」
「…………知ってるよ。いつも女官達から恋バナ聞くし」
「なら、それを聞いてどう思う?」
「嬉しそうだったり、楽しそうだったり、可愛いなって思う」
聞き方を間違えたか……?
「……そうではなくてね、他の人の恋の話を聞いて自分もそういう恋をしたいとか思わないかい?他人のことじゃなくて、自分のことだよ」
「……自分が……恋をしたいか?」
「そう、誰かを好きだとか愛おしいとか思うだろう?」
「――それなら、みんなにそうだよ?私は、みんな好き。大切な友人。これから、出会う人々も今まで出会って来た人達も大事。この国の全てが愛おしいと思う。でも、愚かな人は居るから、そういう人達にはちゃんと反省してもらわなきゃいけない。幸せになる為に、人は生まれてくるのだから」
本当に心からそう思っているような見惚れるほどの微笑みを浮かべる潤月に胡蝶は息をのんだ。
気味の悪さを感じるほど、彼女言葉には、当然のように慈愛という意思があった。
「…………そう、じゃない、んだ。そうじゃない」
「???」
小首を傾げた潤月に胡蝶は背筋に何故か悪寒を感じた。
胡蝶は、ふと目の前の女性が歪なものに思えて来た。
清廉潔白。純真無垢。純白すぎて歪んでいる。
穢されず、穢れを知らず、この世の全ての綺麗なものを詰め込んだような彼女にこれ以上、人が幸せにも、醜くくにも、なれることを教えていいのだろうか。
――それは開けてはいけない扉に触れる行いではないだろうか。
いや、もしかしたら、今しかないのかもしれない。胡蝶はふとそんなことを思ってしまった。
彼女を思いやった友人がきっかけを教えた、今しかない。
「……潤月様、いいかい?良くお聞き。恋とか、愛っていうのは全員に向けるものじゃないんだよ。誰か特別な一人に向けるものだ」
「…………」
「そう言うと、家族が思い浮かぶかもしれないけど、家族を愛おしいと思うのは当たり前さ。親が子を愛おしいと思うように、子も親に愛情を向ける。これは人間だけの話じゃない、犬猫や他の動物だって同じ。だけど、動物と人間の違いがある。それは恋することが出来る。愛することが出来る。想いを伝えることが出来る。それらは全て、
自分の胸を指さした胡蝶につられて、潤月は潤月の胸に手を当てた。
「その注意してくれた友人に迫られた時は嫌だったんだろう?」
「……うん。でも、好きな友人の一人なのに…ちょっと、怖かった……」
「平気っていう友人はどうなんだい?」
「…………びっくりはするけど、嫌じゃ、ない……」
「一緒に居て、どうだい?」
「………………楽しい。もっとずっと話を聞いていたいし、喋っていたい……」
「その友人に好きだと想いを言われた時、どんな気持ちだった?」
「……………恥ずかしかったし、……驚いた……」
「じゃあ、質問をかえよう。想像してごらん?もし、その友人が他の女性と仲良さそうにしていたり、抱き合っていたら?」
「……………………」
静蘭が見知らぬ女性と抱きしめ会っているところを想像すると胸の内がモヤッとした。
なんだか変な気持ちが湧いてくる。
しかめっ面になっていく彼女に胡蝶はふと笑みを零した。
「……潤月様、今まで聞いた恋の話を思い出して、その友人を思い浮かべながら今の自分の気持ちと答え合わせしてみな」
言われて、潤月は女官達に聞かされた恋の話を思い出しながら、静蘭の姿を思い浮かべる。
静蘭が元気そうだと嬉しい。笑って話が出来たら楽しい。目が合うと先に柔らかく笑ってくれるのが―――――。
ギュッと締め付けられるような感覚に急に熱くなる頬に驚き目を見開く。ばっと両手で頬を挟み込んだ。
「――っ?!は、へ……?!えっ!?」
そんな初心な反応に胡蝶はクスクスと笑みを零すと、そっと立ち上がって潤月の唇に白く細長い自身の指を押し当てた。
「――潤月様。ようやく気づいたようだね?でも、その想いは先ずは隠しておかなきゃならない」
「…………そう、なの?」
「それが本当に、恋なのか、はたまた勘違いなのか……。自分の中で確認しなきゃいけないのさ」
「…………勘違いってあるの…?」
「ああ、あるよ。これが恋する人のめんどくさいところでね。好意と愛情は違う。好意を恋と勘違いすることもあるんだよ。尊敬とか憧れが、それに当たるんだろうね。そういう場合から始まる恋もあるけれど、だからこそ、今気づいた気持ちが本当に恋なのか。本当に惹かれているのか。これは潤月様が一人で確かめるべきことだよ。だから、今は自分の中に潜めて育むんだ」
「………………」
「それが、確かに愛情として花開くまでね」
潤月はギュっと口を結んだ。そして、ふと絳攸が頭の隅を掠めた。
「…………彼は…なんでこんなこと言ったんだろう?私より、私の気持ちに気づいてたってこと?」
そう呟いた彼女に胡蝶はなんと言おうか迷った。
「…………あ〜〜〜……、それは、そうだね……。……きっと良く見ていたんだろうね。下手したら、喧嘩になって嫌われそうなことだよ」
「………………そっか……」
朝方帰宅した潤月は静かに玄関を開けて、邸に入って行った。
お風呂に向かうとついさっき入れたばかりかというほど、お湯が温かかった。
そのまま、衣服を脱いで身体を先に洗い湯船に浸かる。
冷えきった手足の先からじんわりと身体が温まって行くのを感じると、脱衣所のほうから声が聞こえた。
「――姫様、おかえりなさいませ。お着替えはこちらに置いて起きます」
「――あ、ありがとう、鈴華。…起こしちゃったね。あとはいいから」
「かしこまりました。食事のご用意をしておりますね」
去って行く気配を湯船から見送って、手足をグッと伸ばした。
…………恋……か……。
気づかなかった。言われて初めて気づいた。女官達が口々に話すことをただ聞いていた。あまりにも楽しそうに話す姿は幸せそうで、楽しそうで、こっちまで嬉しくなる。
幸せそうなところを見ると嬉しい。よかった、と安心する。
「…………私って、恋、とか……していいのか……」
そう一人呟いて、潤月は湯船の縁に頭を預けて、瞼を閉じた。誰にもするなとか、しちゃいけないとか言われたことはない。だが、ただなんとなく、しちゃいけない気になっていた。
(どうして…?)
そうだ、霄じいとか優しい友人達が居たからだ。それだけで私は幸せだった。
(……本当に?)
本当だ。記憶がなくて、自分が誰かもわからなかった。けど、そんなの気にならないくらいにみんなが、霄じいが一緒に居てくれた。
楽しかった。……けど、茶おじさんが亡くなった時、自分の中のナニカが崩れた気がした。
(…………わたし、はサビシイ……。)
サビシイ?私が……?
(……サビシイ……、ワたしを、ミテ……。)
グッと喉が閉まる思いに目を見開いた。
身体を起こそうと足を踏ん張ると、湯船の底が滑ってお湯の中に沈んだ。
潤月が帰って来たのを察して目が覚めると、霄太師は欠伸をしながら起き上がった。本来ならば、寝る必要などないが潤月を預かって一緒にと暮らすようになってから、習慣化されて癖になってしまった。
…………潤月様は…………風呂か……。
今日も無事に帰って来たことに安堵する。人の子のように扱わねばならない為、あの年頃で迎えなど行ってはいけないらしい。なんとも、短い尺度だ。私からしてみれば、まだ三十年も生きてないのに。赤子も同然だ。
霄太師は寝巻きを着替える為に腰紐に手をかけて、止まった。
霄太師は自分の手を凝視した。
老人であるはずの皺だらけの手がハリのある若々しい手になっている。周りを見渡して鏡を見つけると、齧り付くように自分の姿を確かめた。長髪で黒髪のわかわかしい青年の姿が映っていた。
青年は慌てて指を鳴らすと、寝巻きのまま潤月が居る風呂場へと駆け出す。
部外者と見間違われても仕方ない姿にも関わらず、廊下ですれ違った家人達は青年に見向きもしなかった。
乱暴に風呂場の扉を開けば、そこには薄い桃色だった髪が煌めく金糸のように美しい濡れた髪を気だるげにかきあげ、呆然と立ち尽くす、潤月の姿があった。
「―――ッ、潤月……様……」
「…………」
名前を呼べば、程よく引き締まった肉体美を隠すこともせず、霄に向き直った。かち合ったその瞳は星のない夜空のように、どこまでも深い闇夜だった。
絳攸は書類や書翰が積み上がる執務室で一人、終わらない仕事を処理していた。処理しても処理しても高さが変わらない仕事量に床から湧いているのかと疑いたくなった。
突然、テカテカに飾りたてたあまりにふくよかな女人が毒々しいまでの厚化粧の顔をにこやかな笑顔でお茶を持って現れた。
「お仕事お疲れ様でございまする。旦那様」
「……………………………………………………………………誰だ」
いや、一度見た事がある。あの男が寄越した娘の姿絵の女人だ。
「いやですわ。私と旦那様は夫婦ではありませぬか」
「………………………………………………………………………………は?」
「うふふ、お忘れになったので?ついこの前、結納も済ませたではありませんか。美味しい天津のお店をだそうと行って一緒に修行に出たではありませんか」
知らない。いや、知らない。なんだそれは……。
困惑してると、後ろを振り返れば養い親である黎深が冷たい視線を投げ、その隣ではその妻の百合さんが目元を抑えて泣いていた。
「――黎深様っ!これは――」
「……………………好きにすればいい……」
「――――待っ―――っっっ?!」
踵を返して去って行く黎深に絳攸は必死に手を伸ばすと女人とは思えない力で引き止め、もとい羽交い締めにされた。強烈に漂う白粉の匂いにウッと口を覆った。
「――は、離れろッ!!貴様と結婚なんか出来るかっ!!」
「もうしてしまったのですわ。今更取り消すことなど出来ませぬ」
「――――だっ、誰か―――助け――」
そういうと、グイッと身体が引っ張られたかと思えば、潤月が自分を横抱きにしていた。どういう状況なんだ。
「…………彼は、私の――だ。困らせることはしないでいただきたい」
「………………潤月……」
ドキドキと、高鳴る胸を抑えるようにギュッと袷を握った。地面に下ろされると、潤月と向き合った。しかし、彼女の表情は不機嫌そうだった。
「……………………潤月……?」
「……絳攸、私……絳攸のこと、友人だと思ってたのに…………結婚したことも教えてくれないんだね…………」
「―――違うっ!!これはなにかの間違いだっ!!俺が好きなのは……俺が好きだと思っているのは、潤月だっ!」
そう口走ってしまえば、潤月は驚いたように目を丸くして、星空のような瞳を瞬かせて柔和に笑った。
「……本当?……嬉しい………。――じゃあ、婿入りに来てくれる?」
「…………はい……?」
「絳攸は二人目になっちゃうから、順番的に側室になるけど仕方ないよね」
「………は?……二人目?側室……?」
彼女の言ってる意味がわからない絳攸は困惑するしかなかった。
「正室は彼だから。二人とも仲良くね」
「――改めて、よろしくお願いいたします。絳攸殿。お互い、妻を支える為に手を取り合って頑張りましょう」
「…………………あ、………ああ…」
にっこりと笑顔の背後に見える黒い物が獰猛な虎と化して威嚇している。
一応、なけなしの矜恃で同じように威嚇を試みるが自分の背後に召喚されたのは兎だった。無理だ。適うわけがない。
近づく、虎から兎を抱き寄せ庇うとそのまま後退する。ズルりと身体が浮遊感に包まれたかと思えば、背中に強い衝撃を受けた。