花は紫宮に咲く
小気味良い音とお米の炊きあがる匂いで飛び起きる。
………旦那様?いや…爆発音がないから、違う。
まだ公休日じゃないし、お嬢様なわけもない。第一、今余計な仕事も押し付けられて休日さえも仕事に励んでいる。
――じゃあ一体誰だ。
剣を握ると、静蘭は気配を消して音のする方に向かった。
台所をそっと覗いて、薄い桃色の後ろ姿に目を見開いた。
「―――潤月?!」
「あ、おはよう。もしかして、起こしちゃった?」
起き抜けの頭が混乱している。何故彼女は居るんだ。
……夢か?
俯いていると、顔を覗き込まれて思わず身を引いた。
「―なっ!?」
「……うむ、なるほど。心配されるわけだね。―ほら、寝直さないなら、顔洗っておいで。あとまだ朝は寒いから着替えるかなにか羽織って来な」
「―は?ま、待てまだ話は―――」
「話はあとで!行った行った!」
そういって潤月は静蘭を台所から追いやった。
顔を洗ってさっぱりすると幾分か落ち着いた。間抜けな行為と知りつつ少し、頬をつねってみたりしたが生じた痛みに夢ではないことが判明してしまった。
だが、潤月がここで朝ご飯を作っている理由がわからなかった。
………どういう状況なんだ…。
夜着を着替えて、きちんと支度を整えると静蘭は再び台所に向かう。
戻って来た静蘭に気づいて振り返った潤月が清々しいほどの笑みが返ってきた。
「―お、来たね。どうする?ご飯作ったけど居間に持ってく?」
「……いや、片付けるのが面倒だ。ここでいい。居間から椅子を持って来る」
「わかった。ありがとう、お願いね」
三人分の卵焼きに焼き魚、野菜料理にご飯に汁物、漬物がいくつか並んでいた。
「あまり凝った物じゃないけど。一緒に食べよ。あ、邵可は着替えに一回戻ってくるっていうから汁物は温め直して出してあげてね」
「………ああ、わかった」
まだ理解できない状況の中、静蘭は持ってきた椅子に座り潤月も席に着くと、箸を手に取り食事を囲んだ。
もぐもぐと食べながら、どれもこれも自分好みの味がする。
「―うん、お魚パリパリに焼けてる。あ、この白いタレに野菜付けて食べてみて」
「……美味、なんだこのタレは」
「黄卵と塩と酢を混ぜて作ったんだ〜。黄身酢ってところかな?」
にこにこと食べる潤月に吊られて、静蘭も食べ進める。
潤月の口の端に残っている赤い紅の跡をみやった。
「………また姮娥楼に居たのか?今度はなにしてるんだ」
「え?なんで?」
「口の端に紅が残っているし、詰め物。外してないだろ」
自分の胸を指した静蘭に潤月は口元を拭いながら胸元を手を広げ覆う。
「……別に、詰め物なんかしてないよ……自前だわ。サラシ巻いてないだけだもん。無駄に大きいの気にしてるから、あまり言うな」
自前、と聞いて口に運ぼうとした料理が箸の間から零れ落ちた。
「……………」
一人気まずくなっていたが、潤月はさらりと流して拭っていた唇を見せてきた。
「紅は落ちた?」
「……あぁ、取れた」
「いろいろあって……ちょっと胡蝶に協力してもらってるの」
それ以上なにも言わない潤月に静蘭は気を落とした。王の、劉輝の為に動いていることはわかる。がそれ以上は憶測の域を出なかった。
……私には言えないのは当たり前か。
いや、今聞くべきはそうじゃない。
「…じゃあ、お前がこの邸で朝食を作っている理由は?」
「ん?ああ、うんとね。秀麗ちゃんからは、この広い邸で一人ぼっちは寂しいだろうからって言われて、邵可からはお悩み相談に乗ってあげてって。私も今少し忙しくて朝しか時間作れなかったから、ついでに朝食を一緒に食べようと思って。…ていうか、邵可から私が来ること聞いてない?」
静蘭は昨日の夕方届いた文を思い出した。
………旦那様から、文が届いてた気がする。今日も残業するとの内容だと思ってちゃんと読んで居なかった。
「…………たぶん、来ていたんだと思う。…確認不足だ…」
「ふふ、静蘭ってば昔から悩み込むとちょっとポンコツになるよね」
「………………………常時抜けっ放しのお前にだけは言われたくない…」
「ひどっ!私結構しっかりしてるもん!」
「自称だな」
「………そんなひどいことばかり言うと食後のお茶菓子あげないんだからね!」
「……………悪かった…」
素直に謝罪した静蘭に潤月はにっこりと笑って許した。
食事を終えて、片付けを済ませるとお茶と茶菓子を持って庭先に出る。
特に聞くことはせず、二人で黙って座り茶を啜る。
「………聞かないのか?」
「ん〜?お悩み相談は受付てるけど、本人が言いたくもないことを無理に聞き出すことはしないよ。静蘭が一人じゃ抱えられないなら私も聞く。ただそれだけ」
そういってポンポンと優しく頭を撫でた。
ざわついていた心が絆されていくようだった。
「……お前が会いに来てくれねば、お前ともこうして気軽に話せないのだな、私は…」
…………アイツが言ったように、本当に、情けない。
温かな茶器を手で包み、静蘭はポツリと零した。
「………私は、これからもお嬢様と旦那様をお守りしていきたい」
「守ってるじゃないか。この邸を。ここが彼らの帰る場所だ」
「…違う。そうじゃない……私は、役に立ちたいんだ…一生をかけてご恩をお返しをすると誓った。……だが…………」
「秀麗ちゃんは、どんどん前に進んで行くもんね」
「……ああ、誇らしいと心から思っている。だが、…私だけが、置いてかれる…」
静蘭が黙ったのを見て潤月はため息を吐く。
隣に座る静蘭の背後に手を伸ばすと思いっきり叩いた。
突然のことに静蘭は驚きに目を見開き、零れたお茶で少し濡れた手を払ってヒリヒリと痛む背中を触った。
「―っ?!〜〜〜っ!!」
「―秀麗ちゃんは、自分で道を決めた。それは静蘭も同じ」
潤月は立ち上がって静蘭の前に立った。
「今のキミは道を自由に選べるんだよ。邵可もきっと静蘭が自分で決めて選んだことなら反対なんかしないよ」
「………」
「ただ、一つ言えることは今のキミはキミらしくない。欲しい物がある。どうすれば良いかもわかってる。…前に踏み出す一歩目は怖いけど、自分で踏み出さなきゃ」
……………私らしくない、か…。
ストンと言葉が心に落ち着いていく。
「ただ、踏み出す勇気がないだけなら私が手を貸そうか?それとも燕青連れてくる?」
手を差し出して、冗談を言う潤月の手を取った。少しだけ晴れやかになった顔で潤月を見る。
「……アイツだけはやめろ」
クスクスと笑い声が聞こえた。
「なんで?秀麗ちゃんを任せられるくらいには信頼してるでしょ?」
「んなことあるか。あの時はたまたま、都合が良かったんだ。…それにあいつがどんな奴か知ってるしな。気色悪いことを言うな」
「もう、素直じゃないな〜」
「うるさい。…でも、いいのか?私が私らしく居たら困るのはお前だと思うが?」
握った手を引き寄せて細い腰に腕を回す。手馴れたように顎を持ち上げると、二人の唇は重なっていた。
「―こういうことが頻繁に起こるかもしれないということだ」
「〜〜〜ッ!!ゆ、友人なんだろ!友人同士でこういうことしないんだぞ!!」
「正確には私達の関係は友達以上恋人未満ってやつだろ?なら、口付けもアリだ」
「恋人未満って言ってるからナシだ!」
「じゃあ、お前に隙があるのが悪い」
「じゃあってなんだよっ!」
顔を真っ赤にしているとただいま、と声が玄関の方から聞こえる。
邵可が帰って来たことを察した静蘭の一瞬の隙をついて腕の中から抜け出る。
そのまま走り去ろうとして、潤月はハッと足を止めて振り返った。
「―ちゃんと、汁物温め直して出してやれよ!あとその茶器片しといて!じゃあ、寂しん坊静蘭、またな!」
あっかんべぇ、と舌を出して帰って行く潤月を見送り、ため息を吐き出す。
「………私になめた口をきいて逃げ切れる奴は居なかったのを忘れているんだろうか」
幾分か軽くなった気持ちにふと、口元を緩める。
「……私らしい、か…」
呟いて、静蘭は邵可の出迎えに向かう。
一方、その頃。
潤月がもらった指輪を囲んで劉輝達は吟味していた。
「ふむ。この指輪か」
劉輝は政務を中断し、掌にのせた指輪を眺めまわした。
「……不完全だ。余が知っているのとは違う」
あっさり言ってのけた主に、楸瑛は会心の笑みをうかべた。
「ええ。おそらくは、茶家から送られてきた特徴の覚え書きと、自分が見て記憶しているものをつなぎあわせて、宝飾職人に依頼したからだと思います。なくした 『本物』のかわりにしようといくつかつくらせて、出来は良いが見破られるものを贈り物にしたってところですね。他にも不出来な物がいくつか闇市に流れていました」
「……なんで、コレを贈ろうと思ったのだ?」
「女人が知るわけないと思ったんじゃないですか?」
「贈った相手が、茶家のご息女とかだったらどうするつもりだったのかしら」
かつて茶太保がはめていたそれは、遺体となった彼の指から忽然と消えていた。この一 年、茶本家はもちろん劉輝達も血眼になって消えた当主印を捜していたのだが――。
劉輝が掌で適当な扱いをしているそれは、茶家当主を示す伝来の指輪の、不出来な贋作だった。台座を回すとそのまま茶家の当主印となるというこの指輪なくしては、何人も茶家当主を名乗ることはできない。
「…………小物だな。 配下一人御することもできないのか」
「茶太保と比べていらっしゃってるのなら、そもそも比べることが間違っていますわ」
「で、あの馬鹿が見つけてあっさりなくしたという『本物』は、本当に『本物』だったのか?大体、一年捜しつづけても見つからなかったのに、今さらなんでひょっこり見つかるんだ。しかもよりにもよってあの男が。 あまりにも時機が良すぎる。気味が悪い」
絳攸はぶつぶつ呟いた。紅家の力でも見つからなかったのに。まるで誰かが舞台の後ろで操り糸をたぐっているかのような、不可思議な偶然の重なり。楸瑛も涼佳も頷いた。
「燕青の情報によれば、茶家本邸にはないことは確からしい。まあ、そうでなければ今頃とっくに誰かが当主の座についてるだろうからね。逆に言えば本物がないせいで、いまだに茶家はごたごたして、茶州政事にまで干渉できなかったともいえるけど。こうなってみると指輪が行方不明で助かった。それさえも茶太保は見越していたような気がするね」
「……まだまだ及ばぬ、か」
一年前に本物の茶家の指輪を持っていたのは、間違いなく当主である茶太保だった。
それが彼の死と前後して姿を消し、いまこの時期に狙いすましたように再び現れる。どう考えても偶然とは思えない。そしてあざやかに裏でこんな真似をしてのけるのは、自分たちより遥かに長い経験と実績をもつあの困った老師たちしか考えられない。いまだに劉輝はあのしわくちゃの掌上でまんまと踊らされている気がしてならない。 そして、もう一つ。
「……………春の除目か」
劉輝は苛立たしげに墨壺に筆をつっこんだ。
初めて宮中人事に手を出すことで、彼にもようやく気づいたことがあった。
「楸瑛、お前の兄たちは九年前の乱について何か言ったことはなかったか」
「…………朝廷が若返ったと、ひと言呟いたのは耳にしましたね」
「さすがだな。とても藍州に隠居した身とは思えぬ。余は今ごろ気づいたのに」
九年前の公子争いは、当時の高位高官のほとんどを巻きこむという、国の根底を揺るがす内乱だった。朝廷に巣くっていた古狸どもは、乱の終息と同時に残らず霄太師によって粛清された。そのときあまりに大量の官吏がいなくなったため、空位の官はいまだ多い。だが、そのお陰で紅尚書や黄尚書を筆頭に、要職に能力ある若手官吏の起用が実現した。ただの一人を除いて……。
「涼佳、あの乱で宮中に巣くう狐狸妖怪どもを徹底的に粛清し、新風を吹きこみ、朝廷全体を若返らせた。絳攸のあまりに若すぎる侍郎の就任もそれか?一手に取り仕切ったのは、·····霄太師だったな」
絳攸の思慮深い顔は、彼も一度はその可能性を考えたことがあることを示していた。側に控えていた涼佳はそっと目を伏せた。
「そして、そこで生じた混乱をその身に引き受けてそなたが投獄された」
「…………ええ。ですが、少し違います。私は引き継いだのです。『誰か』がしていた物をあの老人から引き継いだだけ。あの老人は国の為でもなく、民の為でもなく、己が決めた王の為にしか動きません。そこで生じた小さな火種には興味がないのです」
「………狐狸妖怪の尻尾までも、一匹残らず刈り取る為に、霄太師は拡大する一方のあの乱を、ただ黙って見守っていたと?」
劉輝は長く心にわだかまっていた疑問をあえて口にした。
「……余は、こうも思っていたことがある。... 父上の病は、本当であったのかと」
絳攸と楸瑛は息を呑んだ。
「父上が真実、重い病でみまかられたことは余が一番よく知っている。最後、床から起き上がることもできなかったのも確かだ。だが初期の数年は…………お会いしておらぬ」
先王が患い、息を引き取るまで八年の歳月がかかった。 八年だ。
王位争いが起こるほどの深刻な病が、いくら最高の治療を受けていたからといってそこまで保つものだろうか?若いころ、数多の戦乱をくぐりぬけ、彩雲国の王位についた先王。
その手腕をもって膿んだ患部を切り落とし新たな時代を築いたと称えられる名君。
劉輝が父と会ったことは数えるほどだ。もともと多忙で、息子に会いにくるような父でも、間柄でもなかったし、記憶にもとんとない。 劉輝自身、いまだに父だという認識が薄い。
だが兄公子が残らず粛清され、ひっぱられるように父の寝室に連行されたとき、王になれと言った。宰相ではなく、自分に。強い意志のこもった声で。 かつて国を造りかえたその気概が、いささかも衰えてはいなかったとしたら?
しかし、その考えを涼佳が制した。
「先王は確かに患っていました。茶太保も最後の最後で霄太師の上に立つという願望に手を伸ばした。……もし、事の真相を知る第三者がいるとするのならきっとこの国で、ただの一人です」
国の為でも、民の為でも、王の為でもない。友人の為に、助けを求める者の為に迷いなく走り出せるあの子だけ――。
「……聞けば、教えてくれるだろうか?彼がなにを考えていたか、どんな思いだったかを」
「わかりません。…あの子は“約束”は絶対守りますので」
「……………後悔しておいでですか」
「してない。余のとった措置に間違いはなかった。けれど、きちんと話をすればよかった思う。茶太保の罪を問う前に、本当は何を考えていたのか、聞きたかった」
追っ手をかけたとき、生け捕りにできればそれも可能だったろうが、発見された時はすでに亡骸だった。静蘭の口から語られた話で真相を知った気でいたが、本当にそれだけだったのだろうか。茶太保もまた、かつて霄太師とともに国造りを行った名大官だったのだ。
劉輝は溜息をついた。今さらどうしようもないことはわかっているのに。
「………未練だな。このところ茶州のほうにばかり気を向けているから」
自嘲めいたつぶやきに、涼佳はほんの少し微笑んだ。
「良いことですわ、主上」
一年前に比べて、ずいぶんと王らしくなった。 統治する者の目で朝廷を、国を見るようなってきた。だからこそ今まで見えなかった部分が目についてきたのだ。
兵部に今日の報告書を渡しに行って、姮娥楼に向かう為足早に武官舎に向かう途中、潤月は懐かしい香りに気づき足を止めた。
もうすぐ日が落ちるという逢魔が時――。辺りは真っ赤に染まっていた。
振り返って辺りを見渡したが、人影など一切なかった。
「………………」
急がないと胡蝶との約束の時間に間に合わない。
しかし、潤月の足はその懐かしい香りを辿って行った。
庭院を抜け茂みを歩いて行くと、禁苑にたどり着き一つの楼閣を見上げた。
扉を押し開き、中の階段を上がって行く。
開け放たれた窓から城下を眺める人影に潤月は一度、開きかけた口を閉じた。
「………………茶、おじさん…?」
ゆっくりと振り返ったその青年は潤月を目に留めて、困ったように微笑んだ。神経質そうな面差しの中に隠れる人柄がその表情に滲んでいた。
『……ついに、見つかってしまったな。潤月』
若返ったとしても、変わらない。記憶の中に居る厳しくも優しい歳の離れた友人となにも変わらない。
潤月は込み上げるものを隠すように両手で顔を覆った。
「………………茶おじさん……。……なん、で…?」
『……泣かないでおくれ、潤月。お前に泣かれると一番困るんだ……』
半透明の姿で茶太保・茶鴛洵はわたわたと慌てた。
彼が亡くなって、夏頃茶州の現状を潤月はだいたい把握した。文を寄越した悠舜の様子からもごたごたしていることがわかった。
そんな茶家を放って、茶鴛洵は権力を求めたのか。――否。
その真意は茶家の弾圧。茶家当主であった茶鴛洵の死という一石で茶家を抑えることが出来れば、誰もが王の素質を認める。
謀反という形を取ったのも、茶家の現状を暗示したものだった。
「………………なんで、頼ってくれなかったの……?私、じゃ…頼りなかった…?」
『……そんなことはない。潤月には助けられてばかりだったよ。私が、そなたのことを巻き込みたくなかったのだ。まだ、自分の未来を定めておらんかったそなたの笑顔を、私は守りたいと思ったんだ……』
「…………茶おじさん…」
薄く透けているハリのある手が頬を伝う涙を拭おうとして、床に落ちていった。
『………そなたは、そなたの心のままに生きろ。霄の奴がうるさいことを言ったら、私が祟りに行くと伝えておけ』
「……ふふっ、霄じいが困っちゃうよ、それ」
『困らせておけば良い、あんな奴。どちらが大事かもわからん方が悪い』
「……私が心配になっちゃうな。実際、去年の夏は心配したし……」
『…………潤月は、本当に優しいな』
触れている感覚はないのに心地よい温もりが頬を包んでいた。
そう言った茶鴛洵に潤月は、少し考えた。去年の夏、養い親は家出をしていた。私が居ない昼間に何回か帰って来たこともあるらしいのだが、とある噂を流されて朝廷中を駆け回っていたらしい。三師の室、執務室、禁苑のこの楼閣など、そこにいたるまでの回廊……それらの出没場所を考えると一つの仮説が浮かんでいた。なにかしらの術なんじゃないかと。
そして、答えは今、目の前にいた。
「…………なんで、霄じいがこんなことしたかは私にはわからないけど……たぶん、私がそばに居たら……」
『――潤月』
続きの言葉は強い口調で名を呼ばれたことで、かき消された。
『潤月、そなたは人間だ。誰よりも優しく慈愛に満ちた人だ。私の自慢の友人だ』
「…………」
『大丈夫だ。心のままに生きろ』
「………………ありがとう、茶おじさん」
潤月が、去ったあとそろそろと出て来た老人を茶太保は睨みつけた。
『…………この阿呆めが。親が子に心配をかけてどうする』
「………フ、フン……」
鼻を鳴らして外方を向いたが、その横顔は口元がニヤケないようにもごもごと動いていた。
『……聞いているのか。この親バカめ。気持ち悪い顔をせず、もっと反省しろっ』
「――なっ!?気持ち悪いとはなんじゃっ!それが苦労して魂を留めてやった友人への言葉か!」
論点をずらして噛み付いてきた悪友にため息が漏れた。ついで、茶鴛洵の表情が真剣なものになる。
『…………あの子に、言ってはやらんのか』
「…………言わずとも、わかっておるさ。あの子は聡い子じゃ。本能でこの国の全てが愛おしいと思っているんだよ。穢れを知らないんだ。……だが、あの子はそれでいい。そうでなくてはならん」
『…………………………お前は。……なんでもない。霄の、あの子から爪の垢でももらって煎じて飲め。少しは人の心がわかるようになるかもしれないぞ』
「……………………」
『…………冗談だからな?』
* * * * *
「―処理した物届けて来るわ」
「はい。お気をつけて」
処理した書翰や書籍を避け、机案の上を整理しながら涼佳は告げた。
「ああ、待って。私もお供するよ」
「ありがとう、楸瑛様。助かるわ」
「いえいえ、お安いご用だよ」
「―いってらっしゃ〜い」
二人を見送り、潤月は執務室の片付けをして業務を手伝っていた。サラサラと筆が紙の上を滑る音とカタ、コト、という整理整頓されて行く本や書翰の音だけが執務室の中に落ちて行く。
そんな中、絳攸が突然咳払いを零した。
「……潤月、聞きたいことがあるんだが…」
「ん?なに?」
「………その、潤月も霄太師に拾われただろう?どうなんだろうと思って…養い親との、関係というか…」
訊かれたことに首を傾げつつも、潤月は少し考えた。
「私と霄じいは仲は悪くないと思う。私も育ててくれた霄じいのこと大好きだし、大切にされてると思ってる。……我儘いっぱい言ってるけどね」
「……潤月がか?…」
「そうだよ。私結構、我儘なんだよ?私が、生きたいように生きてられるのも霄じいがちゃんと帰る場所をくれてるから、私は安心して我儘でいられる。黎深は少しわかりずらいところがあるけど、絳攸も同じでしょ?」
「…………俺は……わからない。黎深様が考えていることが潤月のように少しでも、わかればそんな風に思えるんだろうか……」
そう言った少し暗い絳攸の顔を振り返って見て微苦笑する。
絳攸は愛されているのに、なにをそんなに悩むことがあるのだろうか。……名前がそれを物語っているのに。
「……すまない。変なことを訊いた」
「いいよ。―あ、こっちは片付けていい?」
「ああ、頼む」
机案の端に積まれた書翰を手に取って潤月は棚の前に移動していった。そんな背中に絳攸の口からぽつりと言葉が零れていた。
「…………ところで、霄太師のことは、“大好き”なんだな」
「ん?」
「……いや、前に好きに区別はつけられないと言っていたから。だけど、それは区別ではないのか、と思って」
「……………………あー……、確かに。霄じいは特別かも」
絳攸に指摘されて、潤月は自分の中の気持ちの区分に気づいた。
そんな潤月をみやって、絳攸は気になっていることを訊いた。訊いてしまった。
「…今も普通に接してはいるが、……以前、その…静蘭に無理やり……く、ちづけをされた時は、本当に嫌じゃなかったのか?」
「うーん、正直びっくりしただけで、嫌じゃなかったかな?……まあ、慣れちゃってるし、どっかの誰かさんのせいで。この前も隙があるのが悪いとか意味わかんない理屈言われたし、理解不能だよ。どこで育て方間違えちゃったのかしら?」
冗談めかして笑う潤月に絳攸は静かにギュッと筆を持つ手に力を込めた。
「……それは、何故だ?普通なら、そんなことされれば嫌いになってもおかしくない。俺なら、嫌だ。秒で嫌って排除する自信がある」