花は紫宮に咲く
進士式も無事に終わって少し経った頃、執務室では今後の話し合いが行われていた。
今年度の新進士上位二十名に関しては吏部試を執り行わず、朝廷に留めて様子を見ることになった。
涼佳や黎深の時や、絳攸の時もどこへ振り分けるか迷う人材が上位を占めるとき、こういう手段がとられていた。
「――進士式も、打ち合わせも無事に終わった。差し当って、涼佳」
「はい」
「進士服はもう着ないように」
劉輝にそう言われ、涼佳は残念そうに肩を落とした。
「それはそうですね。……楽だったんですが、仕方ありません。次はどうしましょう?あ、死装束とかどうです?ちょうど命狙われてますし、どこかでぽっくり倒れてたらそのまま葬儀できますよ?」
「……涼佳様」
「…全く、お前は……」
「流石にそれはやり過ぎじゃないかい?」
「なによ。冗談よ、冗談」
「…………涼佳姉上…冗談に聞こえません。普通に官服を着てください…。それと、あまり一人で出歩かないように。楸瑛、出来る範囲でいいから付いてやってくれるか」
「ええ、お易い御用ですよ」
「……あなた、いつからそんなに過保護になったのかしら?」
「…………あなたが無茶ばかりするからです、涼佳姉上……」
憂悶に肩を落とす劉輝にクスクスと一通り笑った後、涼佳は劉輝に申し出た。
「―申し訳ありませんが、今回潤月が護衛を務めることは出来ません。春の除目に向けて私の調査に付き合っていただいているので」
「……あ、そうだったな…。となると………」
ふむ、と思案した劉輝がなにかを思いついたようにパッと顔を明るくさせた。しかし、涼佳と絳攸の顔色を伺って縮こまってしまった。
なにか思いついたけど怒られることなんだろうな、と楸瑛も潤月も思ったが黙って見守った。
「……あの、少し思いついたのだが…」
「…なんです?」
「なにか良い案でも思いつきましたか?」
「……秀麗と杜影月の護衛についてなのだが、潤月が護衛に付けないとなると、それで妥当なのは静蘭だが……彼は十六衛で護衛に付ける資格はない。…だから、余が護衛に付いたら……ダメだろうか……?他の臣下の様子も直接みれたり、ついでに秀麗の傍に居られるから余としては一石二鳥、だと思ってたり……」
「…………」
「…………」
バカ正直に私情まで吐露する劉輝に見守っていた楸瑛は内心で吹き出し、潤月は少し苦笑したような笑みが口元に漏れた。
「…それで、その間、執務の方を……も、もちろん!余がしなければならぬ仕事はきっちりやるぞ!約束する!」
どうだろうか、と伺ってくる劉輝に絳攸は涼佳に視線を移した。
「……どうしますか?」
「………護衛のことに関しては、いまいち分からないの。ねぇ、どうなの?」
「大丈夫じゃないかな?良い案ではあると思うよ」
「うん。妥当だね」
劉輝の護衛案を武に長けた二人が肯定すると、絳攸も涼佳も同時にため息をこぼした。
「……私は別のことでお願いした手前反対はできません。ですが、必ず朝議には出てくださいね。任された春の除目の選定について資料の作成は行っておきますので、随時ご確認を」
「他の最低限の仕事も洗い出しておくから、必ずやること。いいですね?」
「――わかったのだ!」
ウッキウキと目に見えて嬉しそうにする劉輝に二人は微苦笑をこぼし、二人は息を小さくついた。
新進士が朝廷で働き始めて数日が経った。
初日に秀麗と影月にちょっとした手違いが起きたらしく、魯官吏の判断で秀麗には厠掃除、影月には沓磨きという「官吏」という仕事に全く関係ないような仕事が割り当てられた。
だが、二人は文句をいうことなく、官吏達からいびられながらも懸命に任された仕事をしているという。
そんな中お昼時は唯一、二人が気の休める時間だった。
今日も今日とて飄々と影月とやってきた劉輝に、秀麗はぷるぷると震えた。
「…………またきたわけ」
「そうだ。 護衛するといったではないか。四六時中二人に取り憑いているつもりだ。呼べばどこからともなく現れる」
「呪いよりタチが悪いわね。ていうかあんた呼んでなくてもくるじゃないの」
「間違った。張りついているつもりだ。糊代のようにな。これで何が起こっても安心だ」
「あんたのしてることがまさしく不安なのよっ!」
人のこない池のほとりで弁当を食べるのが秀麗と影月の日課になっていたので、秀麗は遠慮なく怒鳴った。
「ったく、あんた自分をダレだと思ってんの?」
「心配するな。余の顔を知っているのは重臣くらいのものだ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
影月がいつものようにはらはらしながら二人を見守っている。
「だいたい、護衛ってんなら前みたいに潤月様でもいいじゃない。静蘭もいるのよ」
「ダメだ」
「なんでよ」
「潤月は別の任務で動いてくれている。それに静蘭はただの門番だ。 十六衛でも中位の武官で、入殿にもかなりの制限がある。もとより誰かの護衛が任務となる役職にない」
「だから、あんたが」
言いかけ、秀麗は口をつぐんだ。恥じるようにうつむく。
「…………なんでもないわ」
「そなたら二人は、今がいちばん危ない。官位も役職もさしたる後ろ盾もなく、突然姿が消えても誰も頓着しない。余も公然と捜索ができぬし、罪も問えぬ」
秀麗は真顔になった。今まで半分以上、劉輝の気まぐれでこんなバカな真似をしてると思っていたが、どうもそうでもなさそうだ。 嫌がらせ程度だと思っていたが ―――。
「……………なにそれ。命の危険があるっていうこと?」
「最悪の場合は、そうだ。気に入らぬというだけで、簡単に排除する輩など、普通にそこを闊歩している。先王の威光で一度登用はされたが、もともと、女人官吏登用は猛反発をくらっていたし、今でもそれは変わっていない。追い出すという一線を簡単に踏み越える者は居る。実際に涼佳姉上は今も変わらず命を狙われ続けているしな」
やりとりを聞いていた影月もさすがにぎょっとしたのか、用意していた三人分の箸を取り落とした。慌てて拾い上げて手巾でぬぐう影月の隣で、秀麗は注意深く聞き返した。
劉輝は自分だけでなく、二人にくっついているつもりだ、といった。
「影月くんも、ってこと?」
「そうだな。秀麗のほうが危険だとは思うが。影月も、貴族たちが進士のためにあちこち開いていた酒宴で、ことごとく縁談話を蹴ったろう。あと酒も」
「ああ、かなりきっぱりと断ってたわね」
「断り方がまずかったな。酒は呑めなくても呑んだふりをすればよかったのだ。ああした席で真正面から盃を断ると、高慢な貴族どもは馬鹿にされてるとしか思わない。縁談話もうやむやにしといてあとでこっそり断るのが地位の高い者のたしなみで、公衆の面前で袖にすると『お前と縁続き?ふはははは。顔を洗って出直して参れ』ということになる」
霄太師からまたヘンな本をもらったらしい、と秀麗は思った。ひそかにこのごろの王の偏った読書傾向を危惧している秀麗である。
「え?だ、だって僕まだ十三ですし、それにお酒呑めないんですってば」
しかしそんな“たしなみ”などまったく知らなかった影月は叫んで飛び上がった。
「ええ?!?!?!そ、そーなんですかぁ??僕ぜんぜんそんなつもりは……」
「貴族からすれば、無位無冠の平民を我が家の婿に迎えようというのになんだその態度は、と激怒するわけだ。朝廷では権力争いのためならなんでもネタにする。『聞いたかどこぞお大尽、無位無冠の平民上がりに縁談を断られたらしい』という噂ひとつでめちゃめちゃ馬鹿にされて貶められたりする。そうなると相手は杜影月のせいだと逆恨みするのだ。というか既にされている。これも結構危ない。面子に異常にこだわる者なら特にな」
「……………………。………………えーと、秀麗さん、冷めないうちにお茶どうぞー」
あからさまな現実逃避をした影月に、秀麗は同情しつつ黙ってお茶を受けとった。そして、飲んだ覚えのあるような味に秀麗ははて?、と首を傾げた。
「でも、大丈夫だ。 そなたらは自分のすべきことをしていればいい」
劉輝は視線をあさってのほうに向けた。木陰に気配を隠して誰がいるのか、劉輝は知っている。誰より心配していながら、今の彼は姿を現すことはできない。
涼佳は届ける本を抱え、楸瑛と歩いていた。
その光景を見た官吏達は遠巻きにざわめいている様子を視界の端に入れながら、ため息と共にポツリと呟いた。
「……はぁ、本当にくだらない人達。全員処分候補に入れようかしら……」
「私は可憐な涼佳殿と噂が流れるくらいどうってことありませんからね。むしろ、光栄です」
普通の女性ならポッと頬を赤らめる笑みも涼佳には意味がなかった。ちらりとだけみやって別のため息を吐き出す。
……どうして、直接言わないのかしら。珠翠の気を引きたくていろんな女性に手を出したり、噂を立てたり……。子どもが母親の気を引きたい、ソレにしか見えないわね…。
後宮の備品申請や人員手配の最終承認は涼佳が行っていた。なので、筆頭女官である珠翠とはよく会うのだ。最後に困ったことがあるか、と聞いた時にいつも出てくるのは楸瑛の名前だった。ただ、護衛の申請は出来るが、武に詳しくはない為人を選ぶことは出来ない。そこら辺は兵部や両大将軍にお任せしていた。
再三、お願いされた時には流石に、申し出たがどうやら勝手に行き来しているようで、泣き寝入りした形となった。
藍家だろうが、どうやって“おとしまえ”をつけさせようかと考えたこともあったが、こうして接するようになって涼佳は理解した。全てが想い人に振り向いたほしいだけの行動だった。
珠翠には申し訳ないと思いつつも、黙って静観している。
…………男ってなんで、こうトンチンカンなのかしら……。
そんなことを考えながら、違う方向を見て涼佳は足を止めた。
木にへばりついてどこかを見ているその背中に彩られた双眸を細める。迷いもなく目的地への通路を外れ庭先に足を踏み出した涼佳に気づいて楸瑛も遅れて後を追うと、向かう先にいた人物に気づき、身を潜めた。
「―――そこの貴方。そんなところでなにをしているの?」
「……………っ……菫少師…」
凛と張った声音に振り返った静蘭の見ていた先に涼佳は視線を投げた。ついで、再び静蘭を見据えたそれはあまりにも冷たい視線。
「……道に迷っているのならそこの回廊を向こうよ。道なりに進んで、突き当たりを右に曲がれば貴方の持ち場よ。茈武官」
「…………」
「どうしたの。早く行きなさい。ここは貴方の身分でフラついていい場所ではないのよ」
「………………わかっています。ですが、自由時間に行ける場所の確認を」
「米倉門番にそれは必要なのかしら」
「……………………いえ。私の、興味本位です……」
「なら、早く持ち場に戻りなさい。二度は言いません」
「……………はい。…申し訳ございません……」
長い前髪で顔を隠すように静蘭は俯き動き出すが、その足取りは離れ難いのからなのかトリモチにでも引っかかっているようだった。そんな様子に涼佳はすれ違いざまにポツリと吐き捨てた。
「…………ハ、情けない…。貴方はまた、そうやって大切なものも、あの子の隣も………失うのね―――」
「…………」
ギリっと奥歯を噛み締めて去っていた。
ふん、と鼻を鳴らして戻って来た涼佳を良くみて楸瑛は訊いた。
「……涼佳殿は彼が嫌いと言うわりに焚きつけるんだね。なんでだい?」
「ちょっかいではないわ。鬱陶しいから追い払っただけよ。楸瑛様だってハエが視界をうろちょろ飛んでたら払うでしょ?」
………ああ、そういう。
もしかして、嫌い嫌いと言いつつ好意があったりするのではないかと興味本位で訊いてみたが、その言葉の端にすら淡い期待は微塵も隠れてはなかった。
以前、何故そんなに嫌うのか理由を訊いたことがあるがたとえ子どもだったとしても、楸瑛は間違いなく静蘭が悪いと思っていた。
あ、と涼佳は今の会話の流れなど気にも止めず別の話題を出した。
「――あ、そうそう。楸瑛様、花街でたまには噂の歌姫を買って下さらない?胡蝶さんに玩具にされているようで、心労が耐えないようなの。花街一有名なあなたが歌姫に興味を示さないのは不自然なので」
花街で突如として現れた噂の歌姫。涼佳が行っている調査と時期が被っているからもしかしてとは思っていた。一度、合わせておくれと胡蝶に言った時に「後悔するから、やめ時な」と断られた。それだけでなく、妓女達が仕事について根掘り葉掘りと聞いてくるのだ。
……おかしいとは思っていた。
「…………本当に、彼女だったんだね……」
「ふふっ。情報を持った人達が集まる場所も貴陽一なので」
「………………まあ、ね……」
最早、涼佳の息がかかっていない場所を探す方が難しいかもしれない。自分で胡蝶と涼佳を繋げたとはいえ、楸瑛は少し後悔していた。こんなに仲良くなるとは思っていなかったし、合わせてはいけない二人を合わせてしまった気がする。
ふと、楸瑛はなにか思いついたように楽しそうに頷いた。
「わかった。胡蝶に言って顔を出してみるよ」
「えぇ、よろしくお願いするわ」
* * * * *
「――ご清聴ありがとうございました」
静々と入った妓女は猫を模した半面をつけて、いつものように間切りの奥で歌を披露していた。
「―おお、歌姫よ。今日もそなたの歌は美しい。見目も麗しいのに顔を隠すなど、もったいない」
「あら、私が居るのに、他の女を褒めるなんて……いただけないですわ」
艶やかにそれでいて甘えるように胡蝶は男の酒杯に酒を注ぎながら言った。
「はははっ、そうヤキモチ妬くではない、胡蝶。安心しろ。私は皆平等に愛でることを忘れない男だ」
………………コイツは、淀んでるな……。
黙っていたが口元に感情が出ていたのか、小さな咳払いに慌てて口角を上げた。
気分がいい男は気づかずに半面の妓女を手招いた。
「歌姫よ。こちらに来て話をしよう。歌い疲れただろう、好きな酒でも呑め」
胡蝶がさり気なく視線を送ってきたが、それを目を伏せて大丈夫と、制した。
「お気遣いありがとうございます。お優しいのですね、お大尽様」
半面の妓女は新しく注がれた酒杯を受け取った。
「はははっ、当然のことだ。女はそうやって、男を楽しませておれば良い。……女官吏だ、女武官だと、男の領分に足を踏み入れるものじゃない。女武官と言えば、見た目がたいそう不細工らしいぞ。胡蝶よ。ココに連れて来たら、見違えるか試してみるか?」
「ふふふ、会ってみないとわかりませんね。妓女としてなら、仕込み方はたくさんありますから」
ペロリと舐めるだけにしてコトリと卓上に空の酒杯を置くと、クスクスと楽しげに胡蝶と共に男も笑っていた。
「はははっ!そうだな。女だからな。…それにしたって、そんな女が将軍に就いているとは、王の剣も地に落ちたものよなっ!」
半面の妓女の口元は笑みをたたえていたが、僅かに引きつっていた。
「――お大臣様、申し訳ございません。この子は次のお客様がお待ちですので、そろそろ下がらせてもよろしいでしょうか?お大臣様のおかげで、人前で歌うことに慣れてきたようですので……それに、そろそろ……二人きりで過ごしたいですわ」
胡蝶は甘えたように言えば、男の顔は溶けるように贅肉の頬が垂れ下がった。
「そうか、そうか。歌い疲れたら、また来るといい。――そうだ。今日は歌姫に贈り物がある」
「…………私に、贈り物ですか?」
そう言って男は懐から、小さな小箱を取り出した。
差し出された小箱を恐る恐ると受け取った。
先ほどまでいた座敷を出た潤月は違う室の前に案内された。
一人で座敷に上がることはないと言っていたのになんでなんだろう。扉の前で入っていいものかどうか迷っていると、中から声が聞こえた。
『――そんなに警戒してないで、入っておいでよ』
「…………」
聞き知った声に潤月はそろそろと扉を開けて室の中に居た人物達に安心したように息を付いて、半面を取った。
「楸瑛、絳攸も。来てたんだ」
顔見知りに会えたことに潤月は靴を脱いで畳みが敷き詰められたお座敷に上がった。
「どうしたの?なにかあった?」
「涼佳殿に頼まれてね。普段着慣れない服を着てるから心労が溜まってるだろうって」
「…………そっか…。ありがとう。ちょうど顔面の筋肉がちぎれるところだった」
ドカッと胡座をかいた潤月に微苦笑を浮かべた。着ている華やかな衣に似つかわしくない座り方をした潤月に新しい杯を渡し、酒を注いだ。
「綺麗に着飾ってるのに、そんな男らしい仕草は合わないよ。ねぇ、絳攸」
「……………別に……いいんじゃないか。それが潤月なんだ」
潤月の方も見ずに酒を呑み続けている絳攸に楸瑛はまだ連れて来るのは早かったかな〜と思いながら苦笑した。潤月も楸瑛と同じように微苦笑を浮かべていたが、その意味合いは違かった。
「……女性苦手なのに、無理して来てくれてありがとうね」
「………………別に、友人として……普通だ……」
「そこは、綺麗だよ、とか言ってあげないと。まだまだダメだな〜、絳攸」
「上等な絹だもん。誰だって綺麗になるだろ」
「……キミ、実は自分の見た目がとても良いの自覚してない?」
「自分の見た目?普通だろ?」
酒杯を煽って、卓上に並ぶ料理を見て食べていいかと聞いた潤月にどうぞ、と楸瑛は手広げた。
果物を摘んで食べる潤月を絳攸はチラリ、と盗み見みるように見やった。
「………そ、そんなことはない…。潤月はそんなに化粧をしなくても元からき、綺麗……だと思う」
顔を真っ赤にして褒めてくれる絳攸に潤月は微苦笑を浮かべた。
「お世辞でも嬉しいよ、ありがとう。絳攸」
「……別に、思ったことを言っただけだ」
「…………うーん、もうちょっとだけど、キミにしてはよく言えたほうかなー」
「――うるさいっ!この常春頭っ!」
いつもの調子を取り戻した様子の絳攸にクスクスと笑みをたたえた。
あ、と潤月はなにか思い出したように懐から先ほどもらった小箱を取り出した。急いでいるのでと適当にお礼だけ言って向こうの座敷を抜けて来たが、中身はなんだろうか。妓楼には小指を送り合うなんていう恐ろしい風習があるから小指だけは絶対にもらってはいけないと養い親から注意を受けていた。
「……なんだい?贈り物かい?」
「うん。さっきもらったんだ………………って……いや、まじか……」
手に収まる小箱を開けて潤月は絶句した。そんな潤月の手元を横から覗くと、指輪だろうとふんでいた楸瑛はその『指輪』を見て潤月と同じような反応をみせた。
「…………………なんだろ。本物の馬鹿なんじゃないかと思えて来たね」
「……なんだ、なにが入ってたんだ?」
潤月から小箱を受け取った楸瑛は蓋を開けたまま絳攸にも見せる。絳攸も中の『指輪』を見て同僚の意見を肯定した。
潤月はあまりのことに先ほどから卓上に肘を付き両手で顔を覆いっている。
「………本物の馬鹿だな」
絳攸の肯定した言葉を聞いて潤月はぐるぐると頭の中で整理した。酒の席で自慢していたという話から、女人官吏反対派の中でも職権乱用の疑いがある彼は現在、要調査対象としている。
……だが、今この時なら現行犯でアイツだけはしょっぴける……というかむしろ、もうアイツに時間を使うのをやめたい……無駄が過ぎる……………………ていうか、ここまで愚かだったとは………。
だが、ここで彼を捕縛すると、他が隠れて捕まえられなくなるかもしれない。
「――よし」
腹でも括ったように顔をあげた潤月は二人を見やった。
「とりあえず、この贋作は二人に預ける。あと報告もよろしく」
「なら、私が預かっておくよ。絳攸は実務で手一杯だろうからね。こっちでいろいろ調べてみるよ」
「わかった」
「頼むよ」
潤月はひと息に身体中の空気を抜いた。すると今、とても深く願ってることが口から漏れた。
「…………酒が呑みたい……」
「………………付き合うよ」
「……ああ、俺も付き合うぞ」
潤月の心情を察して、三人は酒を酌み交わした。
それから数日。日が天辺に上がった頃。主の居ない執務室の扉が開いた。
「……ふぁ〜…おはよ〜〜」
欠伸をしながら入って来た潤月に楸瑛は柔らかい笑みを送って出迎えた。
「よく眠れたかい?」
「よく眠れたけど、まだ眠い……。涼佳、これ今日の分の報告書」
「ありがとう。そこに置いておいてくれる?これが終わったら目を通すわ」
「なら、お茶でも飲んで目を覚ましたらいいよ」
「飲む〜。ありがとう、楸瑛」
目を擦りながら、畳の縁に片膝を折って腰掛けた。
差し出されたお茶を手に取り、啜る潤月に卓を挟んで座り訊いた。
「―ところで、そっちの様子はどうだい?」
「ん?ああ、変わらず愚か。アイツ…本当にどうしようもないな。女人はどうとかこうあるべきだとか散々愚痴っておいて、是非側室にって言われてる。…………いつ殴ってしまうか、本当にハラハラしてる」
それは本当にハラハラする。
「我慢してよね」
「わかってる………。その証拠に今もちゃんと生きて出仕してるだろー」
そう言いながら、潤月は彼が尚書になった理由が自分にあると思うと、方々に申し訳なくなる。指輪を渡されたあの日、心底後悔した。
………でも、クジ引きだもんな……。
戩華に突然呼ばれた執務室で、「一枚引け」と言われて、クジ引きと聞いただけでワクワクしながら引いた紙には名前が書いてあった。「―わかった」と言って名前を礼部尚書の欄に書いた時には流石にギョッとしたものだ。
そこまで考えて内心で頭を振り後ろめたさを追い払った。
「第一、アイツが来ない時の方が盛り上がる」
「………盛り上がる?」
潤月、にこにこと思い出しながら話し出した。
「胡蝶と、もし今手を出していいなら、どうヤるかって話してるんだ」
なんともまあ物騒で楽しそうな話題。
「……ちなみに、胡蝶はどうしたいって?」
「胡蝶はね、粗末な逸物切って犬の餌にでもして、女の子を擬似体験させてやりたいって。でも、見た目がどうしようもないから客に大金払っても叶わないかもしれないって」
恐ろしい。っていうか、悍ましい。
聞いただけで肝が縮こまりそうになる。
「…潤月は?」
「根性捻じ曲がってるからそこから叩き直したらいいと思う。とりあえず丸刈りにして出家させて、修行僧になればいいんだ。働けることの有り難み、それに対しての俸禄が出ることの幸せをきちんと理解するべき!」
潤月が優しくてよかったと男性二人の心は和んだのだった。
「キミはああいうのは嫌いかい?」
「…………好きな奴は居ないだろ」
「まあ、好かないな。あんな体格してるのに言葉に料紙一枚分の重みもない奴は初めてだ。だいたい、武官のこと舐めすぎ!女が居るから羽林軍なんかたいしたことないだって!!女だってきちんと稽古つけて技を学んで鍛錬すれば男にだって勝てるし、羽林軍にたいしたことない奴なんか居ないしっ!もう本当に腹立つっ!!」
ぷりぷりと怒る潤月に楸瑛は微苦笑を零した。
自分のことではあまり怒らない彼女は周囲を馬鹿にされることがなにより腹立たしいようだ。
「―そういえば、キミ等は縁談の方は?アレは性懲りも無く、娘を妻にって絳攸に絵姿を送り付けてきてたよ」
「…フン、あれだけ、黎深様に痛い目に合わされて置いてな。神経の図太い奴だ」
「……うわ。懲りないわね。私はそこ等中からいただいてるわ」
「………………結婚する気あるんですか?」
「馬鹿言わないで、変な男に引っかかるつもりはないわよ。情報収集なら家が経営してる店でも出来るしね」
「……もしかして、仕事のあと、店に?」
「一応、菫家が経営してる紫州店は私の管轄なので。任せられる人材が揃っているし、さほど大したことはしてないわ」
そういう涼佳に絳攸、楸瑛は据え恐ろしいものを感じた。
「……私には来てないんじゃないかな?霄じいはなにも言って来ないし」
潤月の言葉に三人は霄太師が握り潰しているのだと察した。
* * * * *
夜は姮娥楼、昼過ぎからは朝廷と忙しく動き回っている中、潤月は邵可から文を受け取り、府庫に呼ばれた。
府庫では、秀麗達が仕事をしていると聞いたので差し入れを手に出仕後、一番に府庫に向かった。
「―――お疲れ様。皆、頑張ってる?」
「―あ、潤月様!じゃなくて、楊将軍!」
「―あ、こんにちは!」
「―楊監督っ!?こ、こんにちわ…」
慌てたように礼を取る面々に潤月は微笑みをたずさえて頭を上げさせた。
「ごめんね、急に声かけちゃって」
「いえ…、どうかしたんですか?」
「邵可に用事があるからって呼ばれて来たんだ。それでこの時間は府庫で皆が仕事してるって聞いたから、ついでに差し入れ持って来たの」
持っていた籠の蓋を開ければふっくらと色付く美味しそうな桃饅頭が見えた。
「―――桃饅頭!良いんですか!?」
「うん。疲れている時には甘い物を食べるのが一番いいんだよ」
「ありがとうございますっ!」
「わぁ!美味しそうです!」
嬉しそうに籠を受け取った秀麗は口元を隠し、こっそりと潤月に耳打ちした。
「…………あの、忙しいって聞いてるんですけど……潤月様にこんなことお願いするのもおかしいかもなのですが……静蘭のこと少し気にかけてあげてくださいませんか?」
「………静蘭がどうかしたの?」
「私はこの通り邸にも帰れないし、父様もなんだかんだで残業することが多いので…あの無駄に広い邸で一人は寂しいと思うんです」
「ふふ、それくらいなら引き受けるよ。今度声をかけてみるね」
「―ありがとうございます!」
「それじゃ、頑張ってね」
そう言い残して、潤月は小さな折詰を持って府庫の奥に消えて行った。
府庫の奥にある執務室の扉を軽く叩き、返事も待たずに扉を開けた。
「―邵可、入るよ?」
「やぁ、潤月。忙しい時に悪いね」
「ううん、こっちこそ仕事中なのにお邪魔してごめんね」
手に持っていた折詰を邵可にも渡して、向かいの椅子に腰掛けた。
「おや、私にくれるのかい?ありがとう」
「邵可も今日は泊まり込みなんだろう?それで、用事ってなに?」
「キミに頼み事があってね。忙しいのは知っているんだけど、静蘭がなにか悩みあぐねているようでね。時間がある時で良いから彼の相談に乗ってあげてくれないだろうか?」
申し訳なさそうに言う邵可に潤月は数回目を瞬かせると、ついでクスクスと笑みを零した。急に笑い出した潤月に邵可は不思議そうに小首を傾げた。
「ごめんね、急に笑ったりして。ついさっき、秀麗にも同じこと言われたんだよ。…静蘭は本当に愛されてるね、嬉しいな」
優美に微笑みを浮かべる、潤月に邵可も吊られて口元が和らいだ。
にしても、と潤月は少し考えた。彼のことだから、秀麗が進士になった頃合いで羽林軍に申し出て来ると思っていた。余計な心配はあれど、それを一蹴出来る能力はある。
……やっぱり、躊躇っているんだろうか。
「うーん……明後日の朝、邵可の邸に伺ってもいい?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、ついでに台所借りるね。どうする?邵可の分の朝食も作っておく?」
「ありがとう。着替えに帰る時にいただくよ。すまないね、こんなことをお願いして」
「大事な家族でしょ?私にとっては大事な友人だもん。それくらいかまわないよ」
…友人か………。まだまだ先は長いね…。